
「い……ったッ!」
無理矢理連れてきた宿の部屋に、小さく縮こまる彼女を押し込む。
歩いていた時にエドワードは何度か声を張り上げていた記憶はある。他の雑音は聞こえなかった。妙に冴えていた頭では、エドワードの声だけが鮮明に耳に響いていた。それでも、言葉を返すことはしなかった。
返せなかった。
エドワードを見つけることができたのは、輝くような金髪が目にはいったからだ。
そして、声をかけようとした時に、エドワードの直ぐ傍に人がいることに気が付いた。
―――昨日の少年だ。
ウェーブのかかった茶色の短めの髪に、目尻のつり上がったこげ茶色の大きな瞳の少年。背はそこまで高くもないが、低くもない。成長期の途中というところだろうか、エドワードよりはもちろん高い。
遠すぎて、声は聞こえない。そんな少年が、エドワードの腕を掴んでいる。とても近い距離だ。昨日カフェで見かけた時よりもはるかに。ごく自然な動作で、エドワードの髪に触れる。マスタングが切って短くなってしまった髪を一房。エドワードは拒まない。むしろ、自分から寄っているような気さえする。
そして少年は身体をかがめ、さらにエドワードに顔を近づけ、そして。
ここからでは、エドワードの後ろ姿しか見えない。それでも、二人は、二人の影は、確かに重なったように見えた。
考えるより先に身体が動く。二人の間に割り込み。エドワードを奪うように抱きとめた。
案の定、エドワードは暴れた。あの少年には、抱きしめられるほど近くによられて抵抗もしなかったのに。
離したくなくて、少年に捕まれていた腕を掴み上げる。これは嫉妬だ。わかっている。自分以外の人間がエドワードに触れるなど、名を呼ぶなど、許せなかった。
よほど痛かったのか、エドワードが小さな悲鳴を上げた。
その身を切るような声にはっと思考を取り戻して、慌てて離す。
目を見開くエドワード。その目は赤く腫れ上がっている。それを目に入れた瞬間、切り裂かれるような痛みに襲われた。きっと、ずっと泣いていたのだろう。その頬に、短くなった髪に触れたくて手を伸ばす。しかし、エドワードは怯えたように身体を震わせ後ずさった。
心に、冷たいものが積み上げられていく。それでも、これは当たり前のことだ。今までマスタングがエドワードにしてきたことを思えば当たり前のことだ。
好きな相手を自分のせいで苦しめている、怯えさせている。それがどうしようもなくつらかったが、これはマスタングのエゴだ。ましてや、自分の前でも笑ってほしいと、願うことなんてなおさら。
重い自責の念に駆られながら、胸ポケットにしまっていたものを取り出す。
そして、今度こそ、そっとエドワードの手のひらにそれを置いた。
どうして君は、これをずっと身に着けていてくれたんだ。そう問うつもりだった。
しかし、先程の少年との光景を見るに、エドワードが自分をそういう意味で好いていてくれたという考えは脆くも砕け散った。愚かな期待だった、いや、期待すること自体おこがましいことだったのだ。
何も言えずエドワードを見下ろすしかない。これはなんだと問われても、どんな女性の前でもすらすらと睦言を奏でていた唇が、今は訛のように重く、動かなかった。
エドワードの前では、エドワードの前だけでは、今までのちっぽけな経験など無に等しい。
生まれて初めて、心から底から、飢えた獣のように渇望した女性なのに。
『―――いい加減にしろよっ』
『なんなんだよこんなもん持ってきて!泣いたオレがそんなにおかしいかよ、嘲笑いに来たのかよ!』
『なんなんだよ、アンタはオレのこと嫌いなんだろ!だからあんなこと……ずっと』
『アンタにしゃべるなって言われたからしゃべんなかっただろ、目障りだって言われたから極力顔見せないようにしただろ、笑うなって言われたからアンタの前では笑わなかっただろ!?髪だって……っ』
エドワードの痛みが、突き刺さる。今までエドワードがここまで取り乱したことはなかった。こんな、幼い子供のように、爆発してしまうほどに追い込んでしまったことが、哀しい。
腕を伸ばして抱きしめることもできない。言葉が出ない。からからに乾いた口では、必死に彼女の二つ銘を呼ぶことしか。
『これ以上、オレは何を殺せばいいんだよ!なんだよ、そんなもの!』
エドワードの、悲痛な叫びが木霊する。耐えられないというように、掻き毟った短い金色が揺れる。
ざっくばらんに切られたそれは、エドワードの心を表しているようにも見えた。
『なんだよ……いらねえよ……!もう、もう、結べやしないのに……ッ』
思わず伸ばした手は振り払われた。鋼の力で叩き落された手はじんじんと痛んだ。でもそれよりも、エドワードの今にも泣きだしそうに歪められた顔が、痛い。
『虫唾が走るんだよ、アンタに触られると、気持ちわりぃんだよッ』
気持ち悪い。
自分でも顔が固まったのがわかった。エドワードは他人にそんな言葉を吐く様な人間ではない。
エドワードの顔を見る。憎しみと怒りがそのまま言葉になったような、身を切るような叫び声にふさわしい表情の子供が、そこにいた。
嫌われている。エドワードに、心の底から。どうしようもないくらいに。
やめてくれ。もう、言わないでくれ。身勝手な思いが、溢れ出す。
『アンタの声も、もう聞きたくない、顔も、何もかも!』
痛む。心が。エドワードの言葉が身体の隅々まで突き刺さる。
目の前が、濁る。立っているはずなのにしゃがみこんでいる感覚だ。ふらつきさえ覚える。
言葉、たった数個の言葉の羅列だけで、人はここまで痛みを覚えるものなのか。
それが、存在そのものが愛しいと思う相手からのものならばなおさら。
愛情が憎しみに変わるという論理が、今なら少しだけわかる気がした。
『全部全部もう見たくもないんだよ!アンタの存在が目障りなんだよ!気付けよ!』
もうエドワードの声すら遠い気がする。耳鳴りがして、視界がぼやける。
やめてくれ。聞きたくない。聞いてはいけない。
それ以上の言葉を聞いてしまったら。私は。
『アンタなんて、アンタなんて、―――大嫌いだ!』
耳鳴りの中、エドワードのその言葉だけが耳朶に響いた。目の前が、真っ白になる。
大きな、固い鈍器で頭部を打ち砕かれた感覚に、眩暈を覚えたのは一瞬で。
気がつけば、エドワードを引きずるように連れ去っていた。
あれだけ動くことが大変だった脚は軽やかだ。
罪悪感も贖罪の念も後悔の念も、身体を侵食している。だが、それだけだ。
まるで自分の感情ではないように、遠い。
哀しみとも怒りとも違う、この身体の奥底が急激に凍りつくような、この感情は一体。
大嫌い。そうだ、嫌われている。こんなに焦がれて焦がれてやまない相手に、嫌われている。
存在すらいらないと、捨てられた。それは自分のせいだということはわかっているけれども、エドワードの世界から放り投げられた。
じわじわと、暗闇に侵食される。真っ白だった世界が、今は真っ暗だ。
彼女は、もう私を見てくれることはない。こんなにも簡単に、私はエドワードの視界から消しさられる。
そして、エドワードは飛び立ってゆく。私を置いて。
私には目もくれずに、アルフォンスと、そしてきっとあの少年と一緒に。
腕に力がこもった。エドワードが上げる痛みの声も、足を突き動かす材料にしかならなかった。
今、考えるていることはただ一つ。自分の身体を突き動かすものはただ一つだけだ。
どうあがいても、自分のものにならないのならば。
それならば、いっそ。
―――後悔することになりますよ。
部下の言葉が、浮かんでは消えた。
「大佐っ」
悲鳴のように声をあらげたのにも関わらず、エドワードは勢いのままベッドに投げだされた。あまり柔らかくもないそこに放り投げられ、さらには顔からシーツにダイブさせられたのだ。衝撃に目が霞む。
「……ぅ」
頭をふって視界をなんとか正常にしようとしたが、急に背後から押さえつけられ再びベッドに沈む。首筋にかかる熱い吐息。マスタングの大きな体に後ろからのし掛かられて、みっともなく上擦った声が出た。
「はっ、はなせよ!」
なんとか体から這い出ようと腕を振るうも、強い力でねじりあげられそれも叶わなくなる。それどころか、肩を痛いほどに捕まれ振り向かされ、両手首を押さえられた状態で押し倒された。
目の前に広がったマスタングは、先程と変わらない表情をしていた。口元には、人を小馬鹿にしたようなシニカルな笑みすらない。
先程ピットに見せた癇癪じみた怒りの顔とも、エドワードの溜めこんでいた罵詈雑言の反撃に、硬直した顔とも違う。
感情を全て削ぎ落した、人形のような顔だ。整っている顔立ちなために、なおさらそれが顕著だ。
冷静になろうと頭の中で思考を巡らしてはいるが、本能的な恐怖に身体が強張るのは止められなかった。
「なん、だよ。こんな所に連れてきて」
マスタングはひどい大人だが、エドワードに物理的な暴力を加えることはしなかった。初めてこの男に身体を奪われた時も、強引で容赦はされなかったが、抵抗するエドワードを殴ったりはしなかった。
そのかわり言葉の暴力で散々心をぐちゃぐちゃにされたので、だからいいというわけでもないけれども。
怖い、と思った。今のマスタングは何をするか、何をされるのかわからない。もしかしたら、このまま容赦なく手を振り上げられるかもしれない。そんな不安に苛まれる。
「いい加減にしろよ、なんなんだよアンタはッ」
怯えていることを悟られたくなくて声を張り上げ睨み付けるも、押さえられた手首から伝わる僅かな震えに、マスタングは気がついていたらしい。マスタングの唇が、ようやく笑みのようなものを浮かべた。それでも、黒い瞳は相変わらず昏い深淵を讃えている。
「鋼の」
静かに落とされた声はとても静かで、色がない。
背筋が冷える。ずぶずぶと、ベッドに沈んでいく感覚。まるで底なし沼だ。身体が動かない。
「あの少年は、君の恋人か」
「……」
声を失った。あの少年というのは、もちろんピットのことだろう。問題はその次だ。恋人?
「んなわけ、ねぇだろ……」
絞り出すように答える。喉がからからに乾いてしょうがなかった。抑えられた手首も、ぎりぎりと痛む。
「髪を触られても顔を寄せられても、抵抗しなかったのに?」
抵抗。それは、長馴染みだからだ。小さな頃は殴り合いの喧嘩もした。そんな相手に触れられて今更拒むもなにもない。そう言おうと思ったのに、声を出すのがはばかられた。マスタングはエドワードから目を逸らさない。いつもは目に入れたくもないとばかりに直ぐに逸らされる瞳が。
飲み込まれそうな黒に、縛られる。叫びだしたくなるほどの、緊張感だ。
「体の関係はあるのかな」
「ねえ、よ」
力なく言い切ったエドワードを、マスタングは依然として何を考えているか分からない様子でじっと見下ろしてくる。
この会話は、先程もした。あの時と違うのは、エドワードがマスタングに抱かれていないということだ。
それでも、マスタングの紙のように白い顔が見える今のほうが恐ろしいと感じるのは、おかしなことだろうか。
どうしても肌がぴりぴりと痛くなる。張りつめた空気が、針のむしろのようで。
「どうせ」
本当に突然という風に開かれた口に、エドワードは釘づけになった。
「慰めて貰う予定だったのだろう。切られた髪を見せつけて、哀れな女を装って」
明日の天気を尋ねるような、感情の乗らない淡々とした声音に。
エドワードは溜まらず、脚を蹴りあげた。
「痛いじゃないか」
「アンタが!」
しかし体重を乗せられている身体では思うように動かせず、それはマスタングの脇腹をひざで軽く掠める程度だった。
「アンタが、切ったんじゃないか……!」
悔しい。大人の前で、子供はこんなにも無力で、惨めだ。
エドワードはいつも強い人間でありたいのに、マスタングの前では簡単に崩される。
こんな風に四の五の言う暇もなく強制的に連れてこられて。あっという間にベッドに押し倒されて。
なんのためらいもなくエドワードの髪を切った男にいたぶられ続ける。
こんなこと、いつまで続ければいいのだ。
「そうだな」
あっさり素直に頷くマスタングに、一瞬喉が詰まってしまったのは気のせいではない。
「で?」
マスタングの乾いた唇が、弧を描く。
「彼には、慰めて貰えたかのかな?」
落ち着きはらった声。なんの躊躇もなくよどみなく放たれるそれに、エドワードは目を瞑った。
耐えられない。もう。目の前の男を視界に入れたくなかった。
「……どうでも、いいだろそんなこと」
冷静に責めてやりたいのに、声がどうしても震える。
初めて、マスタングに犯された時のことを思い出してしまったせいだ。
等価交換だと言った男は、壮絶な冷笑を浮かべエドワードを押し倒した。未知の恐怖に怯え抵抗したエドワードは、錬金術を使ってでも抵抗しようとした。それでも、弟の名前を出されてしまえば力は抜けた。
無遠慮に、押し入ってくる不快感。熱した杭で身体を串刺しにされる程の、痛み。
当たり前だ。あの時エドワードはまだ子供で、相手は大人だったのだ。体格差など言うまでもない。
声だけは上げまいと食いしばっていた唇も、あまりの激痛に解けた。
嫌な記憶だ。エドワードは頭を振る代わりに手のひらを握りしめた。
「例え、オレがピットとどんな関係だったとしても、アンタには関係ないことだ」
「関係ない」
オウム返しのように繰り返す男を、見る。
眼前に広がるマスタングの顔は、本当に能面のようだった。
かかる冷たい吐息。そういえば男に正面から押し倒されるのは初めての時以来だ。
それまではずっと、あの執務室の机の上に這いつくばるように命令され、後ろから押し入られていたから。
君の顔を見ながらしたくないと、そう罵られたこともついこの間のことのようだ。
見たくないなら今すぐこんな馬鹿な行為を止めろと言えば、穴は黙っていろと冷たく一蹴されたことも。
「そうだな、関係ないな」
だが、と呟いた男が、笑みを消した。
「―――関係なくとも、構わない」
ぎらりと不穏に輝いた瞳が、間近に迫る。近い、そう思った時には。
「ん……ッ」
唇を塞がれていた。
―――なんで。
初めての感触に、戸惑う。
かさかさに乾いたマスタングの唇が、エドワードの唇を押し上げる。その薄い唇の冷たさに、ひくりと喉が跳ねた。
「ん、んん、ふっ……う!」
歯列を割り裂き、侵入してこようとする舌の熱さに翻弄される。必死で歯を食いしばれば、イラだったように唇に噛み付かれた。
「ぁ゛ッ……!」
痛みの声を上げた口内に、すかさず大きな舌がねじ込まれる。優しい動きとは程遠い、激しいそれ。手足を必死にばたつかせるもビクともしない。何度も角度を変えながら押し込まれる鬼気迫るような口づけに、視界が揺れる。
男の全体重の負担を一心に背負った手首が、ぎしぎしを音をたてて軋む。痛い、痛い。
「やっ……!」
息継ぎのために離れた隙を見計らい、顔を背ける。口の端から零れ落ちた唾液が気持ち悪い。
それでも追ってくる執拗な唇から逃れるように何度も首を振る。
いや、いやだ、こんな、温度のない、冷たいキスは。
「なぜ、嫌がる」
咽るエドワードを見下ろしながら落とされる声は、やはり冷たい。
「そんなに私が嫌いか」
何言ってんだ、嫌ってるのはアンタのほうだろ。そう言いたいのに、あやまって気管に流し込まれた粘つく唾液に声を奪われる。
「あの男とはできて、私とはできないのか」
無機質なまま、温度もないまま、追い詰めてくる声に返すこともできない。
あの男とはできて?どういうことだ。エドワードはピットとキスなんてしたことがない。
幼いころにふざけて頬に口をつけたりなどはあったかもしれないが。今マスタングが言っているのはそんなことではないだろう。段々と、マスタングの声が大きくなる。
「そんなに、あの男がいいのか」
初めて男の声に色がついた。
苛立ったような声に、背けていた顔を戻す暇もなく。
突然首筋に顔を埋められた。
「ヒッ……」
ぬるりとした感触。次いで、軽くなる左腕。手を離したマスタングが、急いたようにエドワードの服に手をかけた。
「や、いやだッ、やめろ!」
まさか。また、やる気なのか。先程したばかりなのに。
やっと咳が収まったばかりなのに、否定の言葉しか吐けない。
「やだやだ、離せ!」
執務室以外でマスタングに身体を求められるのは初めてだ。そのことも、エドワードの混乱を煽る。
必死に、解放された腕でマスタングを押しのけようとするも、びくともしない。鍛えられた大人の軍人に全体重で圧し掛かられて、息も絶え絶えだ。ひやりとした指先が、エドワードの服の中を這った。
「いやっ、だ、やりたくない!」
両手を合わせることができないように、気がつけば右手は腰の横のシーツの上に押さえつけられていた。
両脚は、マスタングの膝に圧し掛かられ少ししか動かせない。
大きな身体に抱え込むように首筋に頭を押し付けられているせいで、生身の細い左腕は虚しくマスタングの背を叩くばかりだ。
「いやだいやだいやだッ、離せ、や、だぁ―――ヒッ!」
「抵抗するな!」
荒げられた怒気の籠った声に、びしりと身体が硬直する。
「お前は私に逆らえない、違うか?弟のことはもういいのか、文献は?いつまでそんな体でいる気だお前たちは」
そんな身体。鎧の、アルフォンスの姿。機械の脚と、腕。
ゆるゆると頭をふる、短くなった髪が頬にかかる。
「何か勘違いしているようだが言っておこう、君は私のものだ。おもちゃだ。他の馬鹿な将校どもの接待に使われないだけましと思いたまえ」
する、と、マスタングの長い指がエドワードの身体を這う。下の、割れ目の部分を服の上からゆるりとなぜられて体が凍った。そこは、その部位は。接待。使うだなんて、まさか。
「君が人としての人権を守っていられるのも私の一存のおかげだ。私の言葉一つで、君をどうとでもできることを忘れるな。私に体を差し出すのと、薄汚い狸共相手に腰を振ることを強制されるのと、どちらがましかね?」
馬鹿にしたように腰を撫ぜられて、呼吸が止まる。
咳は完全に収まった。なのに声を出すことができなかった。あまりの衝撃に、思考が分裂する。
「わかったのなら、大人しくしていなさい」
マスタングの唇が、舌が、脱がされ粟立つ肌を舐め上げる。胸の頂きに緩く吸い付かれても、エドワードは反応することができなかった。マスタングの指が、何度も割れ目をゆるゆるとなぞりあげる。その指先がすっとズボンの中に入ってきても、エドワードは動くことができなかった。
頭ががんがんと揺れる。もう、今自分がどこにいるのかさえ、忘れてしまいそうになるほどの衝撃に、目がくらむ。
「―――それを言いたくて、追いかけてきたのか」
声が震える。馬鹿だ、オレは。
「オレは、おもちゃだから、今日みたいに逃げることも、許されないって……?」
忘れられたと思っていた。髪ゴムの件を覚えていたのなら、マスタングは何らかのアクションを起こす。
今でもそんなものを使っているのか、気味の悪い子供だなと一蹴されていたことだろう。
だから、髪ゴムを手渡されたあの時は、エドワードの短くなった髪を嘲笑いに来たのだとばかり思って哀しみに苛まれのだが、マスタングに引っ張られている時考えたのだ。
マスタングは、エドワードの怒声を浴びながら顔をこわばらせた。そして今思えば、髪ゴムを渡してきた時も、つらそうな顔をしていたのかもしれない、と。
だから、もしかしたら、エドワードにした事を、泣かせた事を悔やんで追い駆けてきてくれたのかと、そう思って。
それが、どうだ。
「なんだ……」
淡い期待は打ち砕かれ、―――この様だ。
「なんだ」
初めて犯された時、エドワードの口から零れ落ちる苦悶の悲鳴を聞きながら、マスタングは誰もが見惚れるような綺麗な笑みを浮かべて、言ったじゃないか。いい顔だな、と。
君を抱いたからと言って君が好きなわけじゃない、勘違いするなよ。使えそうなものがあったから使っただけだと。
これからも好きな時に使わせてもらうよと、嘲笑ったじゃないか。
「なんだぁ……」
自由になった左手で、視界を覆う。
あっという間に歪んでしまった視界を、マスタングに見られたくなかった。
恥ずかしい、みっともない、惨めで、苦しい。ここでようやく自分の気持ちに気が付くだなんて。
淡い想いなどではない。恋などという不確かなものでもないだなんて、嘘だ。
好きだ。好きなのだ、こんなにも侮辱されて、ものとして扱われて、どうしようもないほどに嫌われていても、マスタングが。ロイ・マスタングがどうしようもなく、好きなのだ。
だからずっと期待を捨てきれなくて、今こんなにも、傷ついている。
余りにも、惨めだ。
「……ぅッ」
泣きたくなんかないのに、涙があふれて止まらない。かろうじて残る服の袖に、染み込んでゆく。
恋は、ここまで人をおかしくさせるのか。あれだけ心に刻み込んだ誓いを、一日で二度も破ってしまった。
彼が好きだと認めてしまえば、苦しくなる。好いて貰えないことに耐えられなくなる。だから、自分自身に嘘をついていた。こんな酷い男のどこに好きになる要素があるのか。ありえないと。過去に憧れはしたがそれだけだと、言い聞かせて。優しくされたいのも、いつか髪を褒めて欲しいだなんて考えるのも、過去の憧憬に縋っているだけだなんて。
オレはなんて、愚かなんだろう。下らない恋情に振り回される、女の性である自分が、憎い。
動くこともできずに嗚咽を漏らしていれば、マスタングの手が止まった。
それにすら気が付かず唇を震わしていると、ふいに。
ぽたりと。
唇に、感じた冷たいもの。それは一度だけではなく、二度、三度と、ぽたぽたと雨のように落ちてきた。
断続的に、唇に、頬に、首筋にかかる、水滴。エドワードは眉をひそめた。
初めは、マスタングの汗かと思った。しかし、それにしては何か不自然のような気が、する。
「……エドワード」
小さく呼ばれた名前に、エドワードの心臓が跳ねた。マスタングに名前を呼ばれたことなんて、初めてだ。
しかも、その小さな掠れ声は、先程までの冷たい色のないものではないように聞こえた。
それは、今にも消えそうなほど、微かなもののような気がして。
そろりと、腕をどかす。途端に目元にも落ちてくる、水。ぽたぽたと空を切る、雫。
そこでようやくエドワードは、マスタングがその漆黒の瞳から、涙を零していることに気が付いた。
「ア、ンタ……」
なんで、という言葉を言う前に、マスタングが小さな嗚咽を漏らした。
さらに溢れた水滴が、エドワードの頬に降りかかる。エドワードは息を飲んだ。
今自分を見下ろしているのは、鋼の、と小さなで掠れた声で銘を呼んだ、先ほどのマスタングだった。癇癪のように声を荒げ、エドワードをかき抱いた、あの。
マスタング自身も、どうやら泣いていることに驚いているようだ、エドワードの頬にかかる水滴を、目を見開きながら眺めている。そして、暫く呆然とした後、急に顔を歪めた。
くしゃりと、紙を丸めたような顔に見下ろされ、そこでようやくエドワードも実感した。
マスタングが、あのマスタングが、泣いている。その不思議な光景は、エドワードは怯えることも忘れ、目を瞬かせた。
「違、う……」
涙と共に、静かな声が、落ちる。
「違う、違うんだ……こんなことを、言うつもりじゃ、なかった……」
途切れ途切れの言葉は、涙に乗って、エドワードの耳朶にじんと響いた。
「抑えられないんだ、自分でも……君に、謝りたくて、来たのに……」
先程までエドワードの身体を撫ぜ、苛んでいた手が、そろりとエドワードの肩に移り。
縋るように、掴まれた。
「嫌い、だと、君に言われた途端、頭が真っ白になって……」
嗚咽を抑え込んだ男の、マスタングの喉が、小さく鳴った。
エドワードは目を逸らせない。
「君が、いなくなるのが……耐えられなくて……君に、見て貰えないことが、苦しくて」
―――何を。
「私は、今君をっ……」
そのまま、すがりつくように抱き締められても。エドワードは視線を天上から移すことができなかった。
「どんな手を使ってでも……自分のものにすることしか、考えられないんだっ……」
マスタングが零した水滴が、間近からエドワードの肌を侵食する。
絞り出したようなマスタングの声は、確かにエドワードの耳元で聞こえて。
それでも、耳を疑った。
―――何を。
何を、言っているんだ。この男は。
マスタングの言葉の羅列は、確かに聞こえているはずなのに。身体に染み込んでこない。
全ての言葉が、ゆっくりと脳内で再生される。
「何、言ってんの、アンタ」
かろうじて動く唇は、か細い声を奏でるだけだ。エドワードの言葉にぴくりと跳ねた大きな身体は、そのまま顔を上げることもなく、まるで消えてしまうとでもいうように、さらにエドワードの身体をさらにかき抱いた。
脱がされた素肌が、マスタングの軍服に擦れて、痛い。
しかしその痛みも気にならないほど、エドワードは目の前の男の黒髪に釘づけになった。
「信じられないのは、わかっている……散々君に、ひどいことを、言った、ひどいことを、……した……」
ゆっくりと、顔を上げたマスタングの表情は、醜く歪んでいた。
「それでも……君に許されなくても、誰に愚かだと罵られようとも……!」
いくつもの涙の痕が、頬に引かれていて。窓から差し込む光をうけて、ちらりと光る。
「君に触れたくて、抱き締めたくて、どうしようもない……!君を欲しいと思う感情を、止められない、もう、もう!」
それはもはや、悲鳴に近かった。
「―――君が好きで、狂ってしまいそうだ……!」
その言葉に、これ以上ない程に目を剥いた。マスタングの黒い瞳に映った子供が、驚いている。自分だ。
好き、と、言ったのか、目の前にいる男は。何を?エドワードを?
エドワードを、好きだと?―――オレを?
「……うそだ」
からからに乾いた喉で、しゃがれた声を絞り出す。
「うそだ、アンタがオレを、好き?」
小さく、首を振る。
「嘘だろ、そう、やってオレを油断させて、堕として、どっかの将軍の相手させる気だろ」
さっき言ってたみたいに。そう呆然と呟けば、「違う……」と傷ついたような顔をした男が、蒼白な顔のまま首をふるりと動かす。その幼い動作に、ますますエドワードは混乱した。
エドワードを上官に売ると言ったのは、確かにこの男だ。
それなのに、どうして当の本人がそんな顔をしているのか、わからなかった。
これは、本当にあのロイ・マスタングだのだろうか。
いつも冷徹な瞳でエドワードを見下し、嫌悪し、侮蔑の籠った眼差しでエドワードを扱き下ろしてきた。つい先ほどまで、恐ろしい笑みを浮かべエドワードを抑え込んでいた、あの。
こんな悲壮に満ちた目。まるで、別人じゃないか。
「嘘じゃない」
「うそだ」
「違う、本当だ。君が好きだ。好きで好きで、たまらないんだ」
「やめろよ!」
ドン、と、強い力で男を押しのける。
もう手首は押さえつけられていなかった。足も、エドワードがもがけば弾かれたように離れた。
目の前の、ひしゃげた顔をした男から逃れるように、後ずさる。
「アンタ、オレのこと嫌いだっただろ!ずっと嫌いだって、言ってたじゃねえか!」
今度はエドワードが悲鳴を上げた。
顔を合わせるたびに気にくわない、嫌いだと言われても、ちっとも慣れなかった。言われるたび、死んだように生きていたエドワードの胸倉を掴み、立ちあがらせてくれたあの声に嘲笑されるたび、心が真っ赤な血を流して。
ずっと止まらない。今でも。心が痛くて、たまらないのに。
「だから、あんな、―――オレに、あんなこと!!」
唾を飛ばす勢いで、声を張り上げる。自分でも、身を切るような叫びだと思う。
「違う!」
マスタングに、痛いほどに肩を掴まれる。その顔は、怒っているようにも見えた。
「嫌いだと、思ってたんだッ……君を見るといっつもイライラして、腹が立って、壊してやりたいと、ずっと思っていて!」
吐き捨てるように、マスタングが声を絞り出す。しかし、それはどこか自嘲を含んでいた。
「でも違うんだ、君はアルフォンスといつも前を向いていた、私を見てくれないことが嫌で、こっちを見て欲しくて、君を誰にもやりたくなくて、私の、私だけのものにしたくて……だから、君を、………犯した」
絞り出されるように吐き出された最後の単語に、エドワードはびくりと肩を震わした。それを痛ましそうに見つめたまま、それでもマスタングは目を背けなかった。
エドワードの一挙一動を、全て脳裏に焼き付けようとしているみたいだった。
「髪を切ったのも、あの、少年が君の髪に触れたのを見ていて、それで、嫉妬して」
必死で言い募る男は、身勝手なことを話しているということに、気が付いているのだろうか。
いや、気が付いているのだろ。だからこんなにも、エドワードの肩を掴む手が、震えているのだ。
「君を傷つければ、君は私のことが忘れられなくなる。私は、君の記憶に一生残り続ける、そう思った、だから」
「―――ふざけるな!」
ふざけるな、ふざけるな。
「何言ってんだアンタはッ、好き?嫉妬?……好き?」
エドワードはマスタングの襟に掴みかかった。
「アンタは好きなやつを犯すのかよ、罵るのかよ、髪、切んのかよ!」
声が裏返ることも構わない。とにかく声を張り上げたかった。
「今日だって、女らしさの欠片もない身体だって、馬鹿にしたじゃないかっ」
抱かれるたびに言われた言葉に、塞がってもいない傷にナイフを突き立てられて。
「お前なんかの子供、なんて、いらないって……いらないって、笑ったじゃないか……!」
何度も何度も抉られて、心の傷から溢れ出る鮮血に、溺れそうになっていたのに。
それが、好きだなんて。
そんな、馬鹿げた話、あるわけない。
あってたまるか。
「うそ、だろ、なぁ」
マスタングは抵抗しなかった。普段ならエドワードが触れた場所でさえ汚いと拒むのに、エドワードのなすがままに首を揺らされている。
ただただ唇を噛みしめ、小刻みに揺れる睫の下から、悲哀に満ちた瞳でエドワードを見つめるだけで。
―――苦しんでいる。そんなの、見ただけでわかる。
だってその顔は、あまりにも。
「……言えよ、嫌いだって」
震えている。自分の手が。
「嫌いだって、オレのこと嫌いだって、言えよ」
いつものエドワードの顔に酷似していたから。つらいと、ただそれだけの感情に苛まれて。
「言えよッ!いつもみたいに!」
身動きひとつ、とれやしない。
エドワードは絶叫した。それに呼応するように開かれたマスタングの口は、何かを発することなく再び閉ざされる。喉まで出かかっている言葉を、何度も飲み込むその姿は、つい先ほどエドワードに髪ゴムを手渡した時の姿と、被った。
やめてくれ。
「言ってくれ」
頼むから。
「言って、くれ。オレはもう、裏切られたくないんだ」
ずるりと、マスタングの襟を掴んでいた手が、落ちる。
「もう、もう、あんな思いするのは、沢山だ……」
マスタングから先に視線を外したのはエドワードのほうだった。
真っ白なシーツに、未だに落ちる水滴は、果たしてどちらのものなのか。
赤くないだけで、きっとこれは、血だ。エドワードの。
「言えない」
小さいが、しかしきっぱりとした声が頭上に落とされる。エドワードの懇願は、虚しくも地に落とされた。
やめてと、拒んだエドワードの腕を振り払った時のように、それでいて全く異なる既視感に眩暈がする。エドワードは目を瞑った。それしかできなかった。
「もう君に、そんなことは言えない」
やめてくれ。
「君の、全部が欲しかった」
やめてくれ。
「すまない」
聞きたくない。聞いてはいけない。
耳を塞ぎたいのに、腕が動かせない。見えない何かに捕まれたように、だらりとシーツの上に垂れたそれは力もこもっていなくて。頼む、それ以上の言葉を聞いてしまったら。オレは。
やめてくれ―――やめて。
「―――好きで、すまない」
その瞬間、エドワードは顔を上げたことを後悔した。
好きでいることを謝った男が、また一つ、透明な涙を零したからだ。
なんて、悲壮に満ちた告白なんだと。エドワードは場違いにも笑えてきた。
どうしようもないほどに望んでいて、望んでいなかった言葉をこれでもかというくらいにさらけ出されて。
歪んだ笑みを浮かべること以外、どうすることもできなかった。
エドワードは、す、と、喘ぐように息を吐き出す。もう八方塞がりだ。マスタングに対する罵詈雑言は全て吐き出した。後は、子供の駄々のようなものが残るだけで。
強張っていた身体が、ほどけてゆく。ゆっくりとベッドに、身体が沈む。硬い、底なし沼ではないベッドに。
「……卑怯者」
今ここで、身の内を曝してくるなんて。
「ああ」
「アンタ、身勝手だ、ずるい」
「ああ、そうだ」
「アンタ、最低だ」
「ああ」
つい数分前と同じように、マスタングは躊躇なく肯定した。
それを聞いてエドワードも声を詰まらせた。しかし先ほどと違っているところは、静かに頷く男が泣いているということだ。そして、エドワードも。
「アンタ、―――馬鹿だ」
「……ああ」
大きな身体が、怯えたように縮こまる。あんなにも大きく見えた男は、こんなにも小さな人間だった。
どうして、今の今まで気が付かなかったのだろう。
「ああ……そうだっ……」
ああ、そうか。エドワードは、そこで理解した。ここに連れてこられた時の、マスタングの表情。
いつもの嘲笑とも、子供のような癇癪ともまた違う。何か得体のしれない、静かで重苦しいもの。
怖かった。その感情が理解できなくて。それでも、今ならわかる。
それは怒り、なんていう簡単なものではなくて。きっと。
「大佐」
エドワードの静かな問いに、マスタングが顔を上げた。
みっともなく歪んだそれ。まるで、断罪を待ち、怯えている罪人のような表情。
なんて情けない顔してやがる。オレは子供だけど、目の前の大人も大概だ。
「―――怖かった?」
エドワードは、そんなマスタングの顔をしっかりと見据えた。
だからはっきり見えた。マスタングが、静かに目を瞬かせたのが。
「オレに捨てられるって思って、アンタ、怖かったの……?」
ゆっくりと見開かれるそれに、エドワードは確信した。
エドワードがマスタングに嫌いだと叫んだ時、マスタングは豹変した。どうしようもない程に怒りに満ちていたためあんな行動に出たのかとも思ったのだが、そうではない。
エドワードに捨てられたと感じて。自分ではコントロールすることのできないほどの恐怖を感じて。
あんなに周りが見えなくなるほど、鬼気迫る勢いでエドワードを縛りつけようとしたのだと。
眩しいものを見たというように、ゆっくりと目を細めた男は。静かに、しかし確かに、頷いた。
男の喉が鳴る。溜まった唾を飲み込むその仕草。そのどうしようもない表情に、エドワードもまた、顔が歪んでいくのを抑えられなかった。
エドワードにとっても、好きな相手に嫌われるということは、身も凍るほどの恐怖だったのから。
「なんだ」
言葉が震えたのは、安堵のためだ。
「なんだぁ……」
涙腺が完璧に壊れた。恐ろしいほどにぼたぼたと零れるそれにエドワードはまた笑った。
そして笑おうとして失敗した。
執務室の隣室で笑おうとした時と同じように、うまくいかず、嗚咽が漏れる。
「……、……ふッ」
その瞬間、力強い腕に抱きとめられた。香る、マスタングの体臭。強く、すがるようにかき抱かれる。
あの時と同じように服は肌蹴ていて、みっともなく泣いてしまってはいたけれど。
マスタングは、エドワードを抱きしめてくれた。
あの時、石のように硬直していた彼の腕が、今ではちゃんとエドワードに優しく回されている。
もうそれだけで、いいような気がした。
頬を伝った水滴が、口に入る。塩っぽいそれは、エドワードの喉奥を伝い身体の中に染み込んだ。たったそれだけで、からからに乾いた喉が潤された気がするのは、なぜだろうか。
マスタングも今、同じ気持ちであればいい。そうであったら、いい。
エドワードは大きな腕を、もう拒もうとは思わなかった。
「髪ゴム、さ」
溢れる涙がようやく止まった後、エドワードはそっとマスタングを押し返した。
「あれ、アンタから貰ったものなんだよ、アンタは、忘れてるだろうけど」
あの時の気持ちが甦る。あのはにかむような、くすぐったいような気持ち。
子供のように泣いた大人は、エドワードの言葉をゆっくりと噛みしめ、小さく息を吐き出した。
きっとその吐息に、全てが詰まっている。
「アルフォンスから、聞いた」
「アルから?」
「ああ、それで思い出した」
どうしてここでアルの名前が。そう問えば、道すがらアルフォンスに会ったと返された。
「君に会いたくて、謝りたくて来たのに、君を傷つけた」
大きな子供は、そう言ってまた身体を縮こませた。
なにをやっているのかと思う。
こんな大人と子供が、安い宿のシーツの上でベソかいて、向き合ってるだなんて。
それでも、不思議とスッキリした。散々泣きわめいたからだろうか。さっきまで、あんなに重く感じていた体も、今は軽い。
「あれ、捨てらんなかったのは、さ」
だからだろうか、意識することなく、自然と言葉が口をついたのは。
「アンタが好きだったからだよ」
はっきりと、告げる。マスタングがみっともない姿をさらけ出して手のうちを明かしたということもあるが、もう本音をさらけ出すことが、怖くなかった。
エドワードの言葉を聞いて瞼をおろした大人は、震える吐息をゆっくりと吐き出した後、唇をかみしめた。
強く、強く。血がでるほどに。きっと、アルフォンスとの会話で確信を得ていたのだと思う。
すまない、と動きそうになった唇を、伸ばした指先で抑える。マスタングは驚いたように目を開いた。
「あやまんな、もう」
強く、指先を押し付ける。後悔と贖罪の念でゆらゆらと揺れている昏い瞳を封じ込めるように。
「あやまるくらいなら、するな」
キツイ言葉が出てしまったが、これぐらいは許されるだろう。
下を向きそうになったマスタングを押し留め、目を合わせる。
吸い込まれそうな黒い瞳に、文字通り吸い込まれるようにエドワードの唇から言葉が零れ出た。
「悪いと、思ってるならさ」
ゆっくりと、なぞるように。湿った唇に触れる。
「別のこと、してよ」
さっきはあんなに冷たいと感じた唇が、今はこんなにも温かい。
「さっきの、あんなん、嫌だ。あんなの、初めてだったのに……」
指先に血がついたが、構わず、形のいい唇に触れる。
この唇に酷いことを言われてきたというのに、触れたくて仕方がなかった。
エドワードの意図を察したマスタングは、顔を固まらせた。本気で驚いたというようなその表情に、エドワードは大胆な自分の行動に途端に羞恥を覚えた。
「あっ、い、いやか……?」
なにを言っているんだ、オレは。
マスタングはエドワードを好きだとは言ったが、それは一種の熱病のようなものかもしれないのに。後悔に苛まれて、好きという感情を履き違えているだけかもしれない。
あわてて腕を引っ込めようとしたエドワードだったが、それは叶わなかった。マスタングに素早く手を捕まれたせいだ。
「……いいのか」
その、余りにも低い声に。エドワードは一瞬反応が遅れた。
熱い吐息が唇にかかったと思ったら。次の瞬間には、大きなそれに、塞がれる。
「んっ……!」
噛みつくようなキスだった。マスタングの激情を一心に集めたような。それでも、歯列をなぞり、急いたようになだれ込む舌はあたたかくて、少しだけ血の味がした。マスタングが噛みきったそれがエドワードの中に入ってくる。
出来る限りの範囲で必死に舌を絡めれば、水に溺れたものが酸素を求めるように、激しく唇を重ねられる。
何度も、何度も。奔流のようなそれに口内の全てをなめあげられて背筋が震えた。その瞬間、離さないとばかりに体をきつく抱かれて、もっと深く求められる。
「ん、ふ……っ」
苦しいとマスタングの袖を引っ張れば、直ぐ様離される唇。しかしそれを名残惜しいと感じる間もなく、また唇に噛みつかれ、激しい舌使いに翻弄される。
「ふ、ぅう、……んん!」
口許が、唾液でべたべたになっていくのがわかる。絶え間なく聞こえてくる激しい水音が口を通して聴覚を刺激し、顔が赤くなる。耳から壊れていってしまいそうだった。さら、と耳の裏を撫でていた指先が、短くなった髪を確かめるように、ゆったりと撫ぜる。
マスタングの大きな手。それが気持ちよくて目を開けると、熱情を湛え、貪欲に熱い光を放つ瞳と目があった。
そっとベッドに横たえられ、リップ音をたてながら唇が離れる。ねばつく唾液の透明な糸が切れる前にまた重ねられ、エドワードはたまらずマスタングの広い背に手を添えた。
「ふっ……あ、」
エドワードが緩く首を降ったので、マスタングがそっとキスを止めた。お互いの荒い吐息が重なる距離。
「あの、な」
激しい口づけに、息も絶え絶えだ。
それでも、熱にうかされたように、潤った喉で、そっと呟いてみる。
どうしても、この気持ちを伝えたかった。
「ずっと、な、こうしたかったんだ」
こんなにも大胆になれるのは、場の雰囲気のせいだろうか。
西日の差しこむ宿の中。狭い部屋で、少し広いベットの上でお互いに触れあっている。
後ろからじゃなくて、向き合いながら。背中においた腕を、きゅ、と彼の首に回すと、マスタングは苦しげに眉間に皺を寄せると、エドワードの顔にキスを落とした。
額に、瞼に、鼻に、頬に、口角に、唇に。一つ一つ、慈しむように。それが心地よくて、エドワードは目を瞑った。
抱き締めるものがなくて拳を握りしめていた時が嘘のようだ。こんなにも、優しい体温に包まれているだなんて、信じられない。それでも、エドワードの髪を優しくなぜあげる手は、紛れもなく本物だ。
「どうして……」
心元ない声色。そっと目を開ける。
「あんなことができたのだろうな」
荒れ狂う後悔を噛みしめながら、懺悔するように髪に口づけてきたマスタングを、エドワードはじっと見つめた。
「こんなに綺麗な髪を、切るだなんて……」
一本一本をすく様に優しく撫でてから、マスタングが、髪に顔を埋めてきた。犬のように。
それがくすぐったくて、気になって、エドワードは身を捩った。
「あ、あのさ、その……」
言い淀む。それでも聞きたかった。
「臭く、ないか?」
虚を突かれたマスタングは、一瞬顔を引き攣らせた後口を開けて―――喘ぐように息をついてから、そのままエドワードの胸元に顔を埋めた。
「そんなわけ、ないだろう」
違う、違うんだと言い募る男は、どうやら自分が口にしてきたであろう言葉を気にしているらしい。今日だって、酷い臭いだと一蹴されたばかりなのだ。その必死な様子に、目が丸くなる。
「君の身体からはいつも、太陽みたいな匂いがして」
「焦げ臭い?」
「違う……違う。温かくて、ひだまりのようで」
すっと手のひらを取られ、血の滲んだそこに優しく口づけられる。
「優しい、香りだ……」
手袋の上からだというのに、マスタングの唇は熱く、触れられた所から火傷してしまいそうだった。
「も、痛くもねえよ」
ずっと握り締めていた握り拳を気にしていたのだろうか。性的な雰囲気など一切感じさせずに慈しむように触れられるて。くすぐったさに身を捩ってもやまないリップ音に、エドワードは鋼の右手でマスタングの頬に触れた。
顔を上げた彼の目の額に、口をつける。
「髪なんて、すぐ伸びるぜ」
目を見開くマスタングの頬を、くすぐるようになぜてやる。
「生きてる限り、な」
「長い」と言われ、「気味の悪い」ものとして断罪された髪は今。「綺麗」なものだと誉めて貰えた。いい匂いだとも。それだけで、こんなに満たされたような気持ちになるだなんて。
自分は本当に単純な人間だなと思いながら、エドワードは夢みる心地で、湿ったマスタングの唇に自分から口づけた。
触れるだけの、拙いキス。それでも、先程とは比べようがないほどに呆けたような顔に、エドワードはついくすりと、笑ってしまった。
ふいをつかれたように表情を消したマスタングは、そんなエドワードに眩しそうに目を細めた後、「本当、に」と呟いた。
「愛しすぎて、どうにかなってしまいそうだ……」
じっと見つめてくる熱っぽい視線に、エドワードもまた熱い吐息を吐き出した。
マスタングは知らないだろう。今エドワードが、どれだけの幸せに包まれているかなんて。
再び始まる優しいキス。血の味は、もうしない。
その顔が、ずっと見たかった、と感極まった様子で耳元で甘く囁かれる言葉に。
エドワードはようやく、マスタングの気持ちが本物であるということを信じることができた。
だから最後に、あの少年の指を切っておくべきだったと真面目な顔をして吐く大人な子供の頬を、エドワードは笑いながら思いきりつねってやった。