

その名を
目が覚める。小鳥のさえずりが聞こえたせいだ。
ぴちゅぴちゅと楽しげに笑う彼らの声を、ぼうっと耳にいれる。
何度か瞬きをすれば視界いっぱいに広がる光。朝だ。起きたくなど、なかった。それでも、起きなければならなかった。
腕に力をいれて、むくりと体を持ち上げようとした。が、途中で止まった。
まどろんでいた思考が定まる。息をつめ、腹部に視線を落とすと、感じていた圧迫感の正体がわかった。いや、正確にはわかっていた。だからこそ体が強ばったのだ。
固くかくばった指先が、たくましい腕が、ランファンの体に巻き付いていた。
どこにもいかせないとばかりに力の込められているそれに、自然と漏れたのは小さなため息だ。
腕の主にそっと視線を移すと、切れ長の瞳は固く閉じられ、薄く開いた口許からは規則的な呼吸が聞こえていた。少しだけ、痩せた気がする。きっと公務が立て込んでいるのだろう。
そんなこと本人は口にも出さないが、最近辺りが騒がしいので間違いではないはずだ。白い顔に映える目の下の隈が、その証拠だ。
女性であるランファンよりも長い、青年の黒髪。解かれた艶のあるそれがランファンの剥き出しの肌に、しっとりと張り付いている。
こそばゆさを覚えこそすれ、それを払う気はなかった。指の一本でも動かすのが億劫である事以上に、払いたくなど、なかったのだ。
ふ、と。小さく吐息を零す。隙間なく密着している男の身体は、鍛え上げられ固い。剥き出しの筋肉は、かつて少年であった頃のそれよりも逞しくなっている。肌に走った細やかな傷も、勲章と言っても過言ではない程に。男の体だった。
ふわりと鼻を掠める汗の匂いに、そっと瞼を閉じてみる。冴えわたる聴覚。
未だにさえずる小鳥達の音色の隙間から、肌に伝わる熱は、暖かい。髪にかかる吐息すらも。
火照った体が溶け合う程にぴったりと寄り添いあい、いっそ冷たかった。
寝ている最中に、寝汗でもかいてしまったのだろう。背中ごしに伝わる鼓動が、ランファンの心の臓をはやくさせる。どことなく、寝台も湿っている気がした。
それもそうだ、昨夜、それも朝方まであんなに絡み合ったのだから。
ぼんやりとした灯に浮かぶ、黒髪の男の姿。少年の殻を脱ぎ捨てた青年の逞しい体にのし掛かられ、翻弄され、汗と涙を唇に幾度となく吸いとられ、何度も奥に絡み付かれて。
ぽたりと散ってきた汗が口に入り、思わず飲み下した。いや、思わずではない。飲み込んでしまいたかった。彼の全てを。
女々しいことを言うわけではないが、ぬるい吐息を絡めるたび、唾液を注ぎこまれるたび、これ以上ないほどに奥を突かれるたび、このまま解け合ってしまいそうな、心臓が一つになってしまいそうな錯覚に陥った。心いっぱいに染み渡る幸福感と充足感。そして、それに押し潰されるように鎮座する痛みに、酔いしれた。
今、自分がしなければいけないことはわかっている。離れなければならないのだ。本来ならば。
自分を包み込むこの暖かな、狂おしいほどに重い腕から身を引かなければならない。
それがランファンの在り方だ。身分を重んじ、身の丈にあった振る舞いをしなければ、それなのに。そう思えば思うほど逃れられなくなるのは、紛れもない己の弱さの証だ。
主の側に控え、臣下として生涯を終える。己に課された誇りも使命すら成し遂げられぬこの体たらく。
幼きころから、いや生まれる前から体に内在していた忠誠心すらも裏切るこの有り様。
今ここに、自分に家臣としての生き様を叩き込み、育て上げてくれた祖父がいたなら、なんと言われていたのだろうか。この愚か者と、頬を張られていたのだろうか。きっとそうだろう。
そして哀しい目で見つめられるのだ。厳しくも、情に溢れる優しい人であったから。
しかし、祖父はもういない。異国の地でその命を燃やし、立派に務めを果たした。残っているのは、この浅ましい体一つだけだ。暗い悦びの帳から抜け出せない、恥知らずな裏切りだけ。
「起きたのか」
ふいに落とされた低い声に、瞼を上げる。全く気がつかなかった。それほどまでに、自分の思考の渦に入り込んでしまっていた。今、誰よりも傍にいる主の身体の変化にすら気が付かないとは。こんなところですらぬるま湯に浸かってしまったのかと、自分で自分が情けなくなる。
「……若」
いつから目を開けていたのだろう。朝の光がたゆたう中、切れ長の黒い瞳がじっとランファンを見つめていた。
「お目覚めに、なられていたのですか」
「まあな」
「いつから……」
「お前が俺の腕から逃げようとしていた時から」
その返答を聞いて純粋に驚いた。逃げなければと思ってはいたが、それを実行に移しているつもりはなかった。それどころか、逃げ出す事もできない自分自身を恥じていたのに。
「無意識なんだろ、わかってる」
無言のまま困惑するランファンに、年若い青年――ランファンの主である―――リンは、小さく口角を上げた。端からみれば笑みの形とも呼べるそれは、ランファンからしてみれば笑みではなかった。幼き頃からお仕えしていたのだ。それぐらいわかる。いつからだろう、彼が、自分に対してまでこんな顔をするようになったのは。
「フーは、お前を立派に育て上げたな」
息が詰まった。自分の主が、誇らしげに、そしてどこか遠くを見つめるように目を細めたからだ。頬は、まだ笑みの形を保っているが、そこにある痛みに気づかぬ程愚かではなかった。
昏く、心の奥底の柔らかな部分が鉛に沈められているような、もがけばもがくほどさらに深みに落とされていくような儚さに、呼吸が、どんどんと奪われてゆく。
苦しい。苦しかった。それでも言わなければならない言葉がある。喉の奥にたまった鈍痛を飲み下し、口を開く。
「若」
暗い瞳を、見つめる。全てを包み込む夜の帳のようだと、いつか思ったことがある。
それは組み敷かれている時だったのか、そうではなかったのかもう思い出せないけれど。そこから伝わる感情に気がついていながら口を止めない自分は、本当に、恥辱に塗れた人間だ。
自分は、自分の想いの全てである人の優しさを、踏みにじって生きながらえている。
「―――ここから出してください」
肺の奥から、声を絞り出す。昨夜散々あげさせられたせいか、少しだけ、喉が痛い。
何度同じ言葉を吐いても慣れぬ緊張感。震える吐息は唇を震わせ、相手にも伝わる。
ランファンの体を抱く腕の力が強くなった。青年の笑みが、静かに消えた。
「後生です、どうか、ここから出してください」
黒い瞳が、ふいに逸らされる。
「……声が、かれてるな」
光差し込む庭に、細められた目。痛みに満ちた声は、はたしてどちらなのか。
「無理をさせた、悪い」
強い力で、だきよせられる。かき抱かれたといったほうが正しいだろう。
反射的に、体が強張った。しかしそれも一瞬だけだ。首筋に埋められる心地よい重みに、直ぐ様体の力が抜けてしまったからだ。
全てを自分のせいにしていいと語る優しい力強さに、甘えている。このままではいけないのに、このままでいてほしいと願っている浅ましい己が、憎い。
「わか……」
「ランファン、言うな」
強い口調。お前を傷つけたくないと、吐息ごとに首筋に吐き出された声は、わざとらしくとがっている。わざとなのだ。わかっている、これが本気ではないことぐらい。
彼が本気を出せば、ランファンに傷をつけることなど容易いはずだ。彼はこの国の皇帝だ。家来に命令しランファンを鞭打つことぐらい息をするようにできる。
それでも彼から酷い扱いを受けたことなど一度たりともない。たかが一人の小娘相手に、優しさを与える事を惜しまぬ慈悲深い男。それがランファンの主だ。
あえて傷つけるような言葉を選んで、ランファンを、ランファンの心の支柱を守ってくれていることぐらいわかっている。
お前は無理強いをされている、だから仕方がないのだと、お前のせいではない、お前が気負う必要はどこにもないのだと。
「言うな、ランファン……」
縋る様にすり寄せられて、鼻の奥が痛む。ずっと、じくじくと膿んでいる。
たまらず、リンの柔らかな髪に頬を寄せた。気づかれないように、少しだけ。
ランファンは、リンの体を抱きしめ返す変わりに、褥の布団を強く握りしめた。
ランファンはいま、広い部屋にいる。宮の奥の一室に。閉じ込められている。
「お前を閉じ込める」と、皆の前で静かに宣言した主によって。
監禁をするとリンは言っていたが、実質これは軟禁だった。
鍵はかかっている。しかし、それだけ。体を拘束されているわけでも、武器を取られたわけでもない。普段から身に着けていた甲冑も、クナイも目に見えるところにある。
幼い頃から主を守る訓練を受け、シン古来の武術に身を包んできたランファンにとって、こんな仕掛けもないただの部屋から抜け出すことなど簡単だ。
決して出るな、という主の命令に、逆らってしまえば。
命令に、背くことはできる。逆らったとしてもリンはランファンを罰しまい。
きっと、親族にも害は与えないだろう。ランファンはうまく逃げおおせ、新たな里のものがリンに仕えることになるだけだ。主から逃亡した裏切り者として里にはもう帰れないだろうが、きっとリンはそんなランファンですら新たな場所で生きていけるように最善を尽くす。
そんなことは百も承知だ。むしろ、他の家臣達の反対を押しきって、リンはランファンを閉じ込めたのだ。臣下達は王の愚かな戯れが終わったと安堵するだろう。
それでもランファンはリンの側から離れなかった。離れられなかった。
臣下の前でランファンを拘束すると宣言をする。そんな事は前代未聞だ。
臣下たちの、あっけにとられた顔を思い出す、ランファンですら、寝耳に水な状況で体を硬直させてしまった。中流階級の、しかもヤオ族に仕える家来の女を傍に控えるなど許されることではない。ありえないことだ。
ランファンの両親は幼い頃に死んだ。親族も長の直径の血が途絶えることになってしまう。
―――だからこそ、リンはランファンを囲ったのだ。所有物として周りに知らしめるために。
周りからの非難を皇帝である自分に集中させるために。妾にすることもできないランファンを囲うことで、ランファンは他の男と子を為すこともできなくなった。
もしリンにこのような扱いを受けなければ、ランファンは次世のために一族の男性と新たなヤオ族の臣下を産み落とさなければならなかった。
リンと、リンの妾達の子に仕えるための次なる臣下を。だからこそ。
だからこそ、リンは。全ては命であると、王の命なのだから受け入れなければならないと。ランファンの自由を奪うふりをして、ランファンを守るための優しい檻を作った。
その優しさを、知っているのに。ランファンはリンを、苦しめている。
「ランファン、俺を憎め」
いつの間にか、直ぐ近くに主の顔があった。精悍な顔は、静かだが、苦渋に満ちている。そんな顔、させたいわけではないのに。
「お前を生きたまま殺しているのは、俺だ」
違う、ランファンは大きく頭を振りたかった。殺されてなどいない。ランファンはリンの側にいる限り生き続ける。リンの側にいること、それがランファンの生きる理由であり、全てだ。ランファンが死ぬのは、自らの意思でこの部屋から出た時だ。
かつてのような臣下にも戻れず、リンの側にもいられぬ、生きた屍になる。
リンからこの部屋を出ろと命令されることを願っていながら、この甘い檻の中の心地よさにうずもれている。
ランファンはリンの命令という言葉に隠れて、自分の欲望を満たしているだけだ。
こうなることは、リンに抱かれることはランファンも心の奥底で渇望していたこと。
彼はランファンを望んだといったが、ランファンこそ、使えるべき主を、身勝手ながらに望んだのだ。これを恥知らずとよべずして、なんと呼ぼう。
「それは、違います」
悦んでいるのだ。主を守らなければならないという使命すら投げ捨てて。
リンから離れたくない、彼の側で生きていきたい、それだけの想いで、いつまでも。
本当に王のため、国のためを思うならば、ランファンは自害してでもリンの側を離れるべきなのに。きっと祖父であったのなら、そう言うだろう。
「違います、若」
それなのに、己の愚かな望みを最善の方法で叶えてくれたリンに対して、全てを差し出すこともできないくせに、命令を聞き入れるふりをして自分が生きながらえるために従順になっている。
なんと、醜い生き物なのだろう。自分は。
「お前は、優しすぎる」
苦みを噛みしめたかのように吐き出された甘い吐息すら、全て飲み下してしまいたいとさえ思う不埒さ。優しすぎるのは、リンのほうだ。閉じ込められ、初めて組み敷かれた時も、苦しそうな顔をしながら、強制的に体を開かされたことに心が震えるくらいの歓喜を覚えた。
抵抗できなかったからしなかったのではない。命令だから拒めなかったのでもない。受け入れたのだ。噛みしめたのだ。
彼から与えられる溢れんばかりの情を。求められる幸福に、その身を委ねてしまったのだ。
「若」
嫌というほどに、主を渇望していたのは自分だったのだと、嫌でも思い知った後に残ったのは、恐ろしいまでの後悔と、それでも溢れ出る事を止められもしない、熱量だった。
「後宮に妾を」
思いのほか、すんなりと口にできた。はっと、息をつめたのはリンのほうだった。
「知っています。迎え入れてください。国のために」
慌ただしい周りに、気づかぬ自分ではない。護衛という任を解かれたとはいえ、皇帝を取り巻く時の残酷さは理解している。
ずっと、公務で忙しそうだった。決まった時間に訪れていた褥も、だんだんと間隔が空いて。家臣に足止めを食らっているのだと言うことは重々承知していた。
そろそろ、各部族から長の娘を迎え入れなければならない時期だろう。娶らなければ、皇帝に召し上げられるべく教育されてきた女たちの生き場所がなくなる。国の存続のために、多くの子を為さなければならない。
それは、王としての責務だ。今、後宮には妾がいない。だからこそ、臣下達は危惧しているのだ。中流階級の娘であるランファンが王の寵愛をうけ、真っ先に子など儲けてしまったらと。他の妃たちに、示しがつかない。
リンは黙っている。黙って、ランファンを抱きしめ、見つめている。
もうずっと、他の誰よりも近くにいる。何度も交わり、蜜を味わい、果てた。小さな頃は主である彼とこのように褥を共にする事になるとは思いもしなかった。
手は、勝手に動いた。そろそろとわずかな隙間から腕を伸ばし、白い頬に添える。薄い唇の周りを、さらりと撫ぜればかさついた。
肌も少し荒れている。疲れているのは明白だ。それなのに、おびただしい量の公務を終え、毎夜この部屋に向かいランファンの側に居てくれる。
抱かれない日もあった。それでも抱きしめあいながら眠った。
じっとランファンに触れられるままになっていたリンが、そっとランファンの手を取った。壊れ物を扱うように優しく、大きな手に包み込まれ、そのまま口づけられる。
柔らかな唇に何度も指先、手のひら、手の甲をついばまれて、そこから伝わる甘い痺れに、ぎゅっと、胸が締め付けられた。
このまま止まってしまうのではないかと思えてしまうほど。
―――泣き出しそうになる。
ここで、彼の腕の中で息絶えることができたのなら、なんと幸せな事だろう。視界が歪む。ここに閉じ込められた時から、涙腺が緩くなってしまった。
涙を流せば、そのぶんリンを悲しませることになる事はわかっているのに。自分の感情の抑えが利かない。全て、リンに奪われてしまったかのようだ。
「……王となるために、お前と異国へ行った」
ぽつりと呟かれた声は、一人ごとのようでもあった。それでもランファンは小さく頷いた。一言一言、漏らさぬように耳を傾けて。
「大変だったけれど、希望があった」
「はい」
思い出す、日々。目まぐるしく変わる世界。そこで出会った仲間達。
それはランファンにも、リンの心にも、深い何ものにも代えがたい何かを残した。
「王となり、一族に安寧をもたらすために」
「はい」
「でも、それだけじゃなくなった。シンは、もっと他の国とも交流を持ち、世界を広げなければならないと感じた、アイツらのように」
アイツら。異国で出会った友人だと、今なら声を大にして言えるだろう。それはきっとリンも同じだ。
「ランファン、俺は自分の出生を呪ったことはあっても、恨んだことはない」
命を狙われ、安心できる日々などなかった。いつも神経を尖らせ、目を光らせていた。自分の力量が足りず主に傷を負わせてしまった時は酷くつらかった。
それでもリンは自分を見捨てなかった。捨て置くことなどできないと、何度も手を差し伸べてくれた。何よりも大切な、主を守るために、自分という存在はここにいた。
「だって、お前と出会えたからな」
こらえきれず、涙がこぼれた。嗚咽はもれない。自然と溢れ出たそれを、拭い去ってくれる唇から離れられない。この気持ちを、なんと呼べばいいのだろう。愛というほど崇高なものでもない、もっと歪で、強欲で、恥知らずで、貴方さえいればいいと、臆面もなく叫びだしたくなるこの情動を。
自分の全ては、目の前の優しい青年にある。今までも、きっとこれからも。
「俺には、お前だけだ」
私だって。口にできぬ、してはならない言葉を、胸の奥に仕舞い込む。それすらも吸い取ってくれるように顔じゅうに降り積もる拙い口づけは温かい。
愛撫のようでいて、慰めるような。静かな、しかし激しい感情が皮膚から伝わりさらに涙腺を壊していく。全ての気持ちが決壊して溢れ出てしまう前に、ここから逃げ出してしまいたい。痛くて痛くて、胸が、張り裂けてしまいそうだ。
「王という責務を、投げる気はない。それはあってはならない事だ。他の兄弟達を蹴散らし、王座に座った者として。俺のために……命がけで戦ってくれた者に報いるためにも」
おじい様。貴方は私にとっても、そして主にとっても掛け替えのない人でした。
きっと、彼は苦しんでいる。家来であった祖父の孫であるランファンを、このように閉じ込めている事に。
臣下であることができず、主の気持ちの上に胡坐をかく無恥な女はランファンのほうであるというのに。ランファンの苦しみでさえ、一人で背負おうとしているのだろう。
語りつくすことのできない、とてつもなく大きな「全て」をその背に負いながら、これからも生きていくつもりなのだ。ならば。
「妾を、迎え入れよう」
迷いのない、凛とした声だった。きっとランファンが言うまでもなく、主の心は決まっていたはずだ。それでも、妾をめとり平気なはずがないと、ランファンの心を案じていたからこそ、惑っていたに違いない。
「……はい、若」
自分は、うまく微笑むことができただろうか。
「ありがとうございます」
それはわからない。しかし、細められ、静かにゆれた漆黒の瞳に察する。
震えた声は、届いてしまった。
「んぅ……」
深く口づけられる。貪るように、歯列をこじ開けられ、口内の隅々まで舐られる。獣のような荒いそれのはずなのに、舌をなぞるそれは哀しいほどに優しかった。
お互いの熱を分け与えるように抱き寄せ、抱き寄せられ。朝の光が差し込む広い部屋で、ただ二人、体だけを持ち寄って。
いつか自分は、リンの子を孕むのだろう。そうすれば自分は嫌がおうにも権力争いに巻き込まれることとなる。リンは公務として妾に子を生ませる。ランファンが生んだ子供は妾の子に見下されることにもなる。それを見越しているからこそ、リンはランファンに憎めというのだろう。
正式な妾にもなれない慰みものとして、肩身狭く一生を生きることになるランファンを案じ、悔いながら。それでも手放すことのできない己を恥じているのかもしれない。離れる事ができないのは、自分も同じだというのに。
貴方だけのせいでは、決してない。
「ランファン、ごめん」
少しだけ、幼い口調。思い出す。臣下でありながら、リンとはよく遊んだことを。今日のように穏やかな朝日が差し込む、小さな庭で。
大人になるにつれ、己の責務の重さに気づき、そんなこともなくなってしまったけれど。これからも、皇帝という空を脱ぎ捨てて、抱きしめあうことはできないけれど。
「若」
好きです。愛しています。決して口にすることはできぬ言葉の変わりに、名前をよぶ。物心つき始めた頃から呼び続けた、その名を。激しい口づけの合間に、何度も、何度も。
「若」
臣下に戻ることもできない。ただのいやしい女に成り下がったランファンが唯一呼べる名前。ぴちゅぴちゅと、この部屋の外で春を奏でる小鳥のさえずりの合間に、何度も呼ぶ。さけぶ。
お互いの熱い口内に吸い込まれてゆく、朝の光に溶けるしかないこの声を。どうか。
「―――若」
いまこの瞬間は、私だけの。
その名を。
*―――――――――
maoさん、お誕生日おめでとうございます!