top of page

「大佐、聞いてるか」
「聞いてないな」
「聞いてねえのかよ」
 げし、と脇腹を蹴られたが痛くはない。加減をされているからだ。なにせ彼の左脚は機械の脚で、本気の蹴りであれば今頃あばら骨の一本でも折られている。そうなれば此方も本気を装ってやり返さなければいけないなと、容赦をしながら隣でじたばたと暴れるエドワードを抑え込みにかかる。
「うわっ、離せよてめえ」
 口汚く喚いている少年だが、ちらりと見えた表情は楽しげだった。ここまでの接触なら疑問に思われてはいないようだと安堵する。もう慣れたものだ。
「いいからさっさと寝たまえ、ほら子どもは寝る時間だぞ」
「誰が子どもだ!」
 なおも騒ぎながら軽く蹴り上げてくるエドワードの頭を、被せたタオルケットの上からぽすんと軽くたたく。布一枚挟んだ状態であってもエドワードの髪がだいぶ湿っているのがわかった。いつもであれば、面倒臭がってそのまま寝てしまうエドワードの代わりにロイが乾かしてやるのだが、今日は仕事を自宅まで持ち帰ってしまったので彼に構う時間がなかなか取れなかった。だからこそ今のように、いい加減に相手をしろとエドワードも拗ねているのだろう。
 ただ、構えオーラがにじみ出ているエドワードの瞼は今にも落ちてしまいそうに蕩けていた。長旅の連続で疲れていると聞いていたので、眠さはピークなはずだ。今から髪を乾かしてやるよりこのまま寝かせたほうが明日の機嫌が悪くならなくていい。
 エドワードの父親になると約束してから、3年が過ぎた。
 ベッドの上で弛緩しきっている体は、完全に警戒を解いていた。まるで家族の傍でまどろんでいるかのように。もちろん最初は、エドワードもここまであからさまに甘えてくれたりはしなかった。けれども彼の心の内にある望みを読み取り、父親のようにエドワードに接し続けていれば、その警戒は1年と経たずに緩んだ。今のような関係になることはたやすいことだった。
 東方司令部にエドワードが訪れる時は必ず食事に誘った。共に食事にありつけ、なるべく嫌味やからかいなどは控えエドワードを構い倒した。性格故に、相変わらず根深い悩みは内に抱え込むエドワードだったが、二人きりでいるうちにだんだんと色々な話をするようになった。その内、エドワードと共に弟を家に誘うようになった。純粋に、疲れ果てた状態で東方司令部を訪れる兄弟ことが心配だったと言うのも本音ではあるが、エドワードのみならず彼の大事な弟も気に掛けるロイの姿に、エドワードが少しでも好感を抱いてくれればいいという下心もあった。
 エドワードは、そのうち一人で私の家を訪れることが多くなった。今日は兄さん大佐の家に行ってると思うので、よろしくお願いしますと申し訳なさそうな電話をくれる弟に内心では歓喜していた。エドワードが誰よりも大事にしているのは、他でもない弟だ。そんな弟の傍よりも、たとえ数日とはいえ私の傍にいることを選んだエドワードに喜びを感じないわけがない。仄暗い優越感に満たされた。
 私がエドワードにとって心温まる『居場所』になればなるほど、エドワードの家族として彼に近づけるようになった。父親のふりを続ける私に、エドワードの態度も軟化していった。弟がいる時は長男としての恰好を崩したりはしないが、二人きりになればそれなりに甘えてくるようにもなった。恋人のようにベタベタとした関係ではないが、隣に並んでラジオを聞いたり、背中合わせで文献を読んだり。
 以前はエドワードと寝所は別だったが、私が冗談を装ってベッドへ引きずりこんだ時からは、なんとなく傍で寝るようになった。野郎と同じベッドで寝て何が楽しいんだよ、とごちるエドワードは見かけだけだ。寝る直前まで互いの考えを語り合い、知識を埋め合わせすることに楽しさを覚えている彼は、率先して私のベッドに入ってくるようになった。エドワードにとっては、同等の知識を持つ友人とふざけ合うような感覚なのだろう。過酷な旅の連続で同年代の友人がいない彼にとっては、至って自然なことだ。
 タオルケットにまかれたままのエドワードが、小さく唸りながらごろりと転がってきた。ぽすんと、胸に温かい人肌がひっついてくる。寝ぼけたエドワードが最大限に甘えてくる、この瞬間が一番好きだった。痛くないようにそっと背に手を添え、ぽんぽんと背を叩いてやればさらにエドワードがにじり寄ってきた。まるで猫のようだ。小さな身体で胸に身体を摺り寄せてくる仕草にさらに愛おしさが増す。このまま力の限り抱き潰してしまえたら。エドワードはまるで麻薬だ。側にいればいるほど離れられなくなる。背中を這いずり回るドロドロとした情動を抑え込むのも、そろそろ限界に近かった。
「鋼の、寝たか?」
「……んー?おき、てるぜ」
 もぞりと寒そうに震えた体に厚い毛布を手に取りかける。眠そうな瞳が毛布から覗いた。目が合う。どこまでも純粋な金色に吸い込まれそうになって、額にかかった前髪を払いのけた。バレないように少しだけ目線を外しながら。そうでもしないと、自分の欲に満ちたおぞましい感情を見透かされてしまいそうだった。
「眠いだろう」
「ねむく、ねえよ……あんたが、仕事ばっかしてっから、あほ」
 舌ったらずな罵声など怖くはない。位置を直してやるふりをして細い肩を少しだけ引き寄せる。エドワードは拒まなかった。ロイに触れられることに慣れてしまったエドワードはあまりにも無防備だ。拒んでほしくはないのにそれと同じくらい拒んでほしかった。そうでもされないとどこまでもこの小さくて大きな存在を求めてしまいそうだ。湯水のように湧きあがる欲には庇護欲のほかに、隠し切れない肉欲が含まれている。溢れぬよう鍵をかけ続けてもう3年だ。今だって、眼前に曝け出されたエドワードの耳の裏から目が逸らせなかった。白い肌に、ちちりと焼き切れそうな眩暈さえも覚える。
「鋼の」
「んー?」
「私も、父親がいないんだ」
「へぇ……」
「だから、こんな風に父と寝た記憶がない」
 閉じられかけていたエドワードの瞳が、何度か瞬く。眠気は去っていない様子だが、思いのほかしっかりとした返答が返ってきた。
「オレも……ねえな。あったのかもしれないけど、記憶に……ない」
「そうか。では、思う存分私に甘えてくれ」
「あ?」
「私を父親だと思って」
「へっ……やだねー」
 台詞とは裏腹に、エドワードがくしゃりと笑ってロイの髪に軽く触れてきた。相当寝ぼけているようだった。彼の弟にこんな姿は見せられないだろう。
「鋼の」
「うーん」
 いよいよ本格的に、エドワードの瞼が落ち始めた。きっともう直ぐで夢の中へと沈んでいくのだろう。ごろりとエドワードが上を向いて、パジャマの胸元がはだけ細い首筋が目の前に現れた。丸い窪みから目を逸らせば、解かれた金色の髪が乳白色のベッドに張り付いて艶やかに見えた。
「私は、君のお父さんになれているかな」
 親切を装い毛布を上までかけてやる。濡れそぼった髪をこれ以上視界にいれないために。
「たいさ、はさ」
「ん?」
「おれの父さんに、なりてえの」
「ああ。前にも言っただろう」
「ほんとに?」
「本当だ。約束しただろう」
 やくそく、とエドワードの唇が動いた。普段よりも幼い口調だ。ぼうっと遠い天井を見つめている瞳は、何を思い出しているのだろう。あの時絡めた小指の感触か、それとも撫でられた頭か。隣で寝転ぶロイの体温か。
「さあ、もう寝なさい。明日は君の好きなミネストローネを作ってやろう」
「こども、扱いすんなよな……」
「子どもだろう」
 エドワードと過ごすようになって、随分と家庭的な料理を覚えた。外で食べることが多いエドワードに少しでも家での料理というものを味合わせてやりたかった。私の傍を、苦難の連続である旅路の中で一息つける場所にしてやりたかった。
「子どもだよ、君は」
 幼い子どもに聞かせる子守歌のように、エドワードの背をぽんぽんと叩く。ロイ自身に言い聞かせるためでもあった。だからだろうか、ふにゃりとほころんだ瞼が完全に閉じられる直前、エドワードの呟いた一言にさっと心の奥が冷えたのは。
「……父、さん」
 見透かされたのかと思った。この浅ましい本音を。

『いーんだよ、大佐は』
『大佐はオレの、父さんだからさ』

 以前エドワードが、部下と会話をしているのを盗み聞きしてしまったことがある。どのような会話だったのかは聞き取れなかったが、その時のエドワードの照れたような表情が今でも忘れられない。いや、忘れられないのではない、自らの意思で心に刻み込んだ。
 面と向かってエドワードに、「父さん」と呼ばれたことはない。そんなエドワードが、ロイの部下の前で、ロイを父として認めていると語っていた。エドワードは、父として君を守るという、ロイがあの場で考えた瀬戸際の約束を信じている。エドワードに好かれるためにロイが作り上げた偽りの関係にのめり込んでいる。自分の体を性的に見ているような大人とは違うと信頼してくれている。この3年間で、ロイがそう植えつけた。
 ロイが裏で手を回せない部分でも、未だにエドワードに性的な接触を求める輩は多いと聞く。実際そのような現場を見かけ間に入りエドワードを庇ったことも少なくはない。たとえ相手が上官であってもだ。エドワードがらみの敵は増えた。だが庇うことを止めようとは思わなかった。
 ──言えなかった。君を、力づくで暴こうとしている他の男と同じように、性的な目で見ているだなんて。息子として思ったことなんてない、君に邪な感情を抱いているだなんて言えなかった。
 エドワードの緩み切った寝顔に反応して、腰の奥から湧きあがってくる熱に自嘲する。理性とはこうも儚いものなのだろうか。庇護したいという温かな感情とは切り離された所で、男としての肉欲はこんなにも正直だ。柔らかなエドワードの寝息を、信用を、信頼を裏切りたくなんてないのに、寝入ったエドワードを前にして考えることはいつも同じだった。
 今この瞬間この子を犯したら、エドワードはどんな反応をするだろうか。押さえつけて服を脱がせ、その身を貪り、欲望を容赦なく突き入れたらエドワードは泣くだろうか、怯えるだろうか、拒むだろうか。それとも私を受け入れてくれるだろうかだなんて、そんなありえない思考にも縋りたくなる。
 エドワードを起こさぬよう静かに間をあけ、そっと下着の中に手を入れてみる。やはり自身の欲はしっかりと硬くなっていた。まだ一度も触れていないはずなのに、それはぬるりと濡れ首をもたげている。手の中で震えるそれを握りしめ、静かに上体を起こす。エドワードはぐっすりと深い眠りについているようだ、起きる気配がない。いつものように寝間着のズボンをずり下げる。エドワードからは見えないようにベッドの横に設置している小さなタンスの三段目から、折り重なった布を一枚取り出した。剥き出しになった自身の熱い肉の根元に被せる。
「は……」
 エドワードの寝顔を見つめながら、まだ芯が固まっていないそれを扱き始める。最初の頃はエドワードに隠れてトイレで処理していたのだが、最近では堂々と寝ているエドワードの横でするようになってしまった。愚かな行為だ、エドワードが起きてバレれば全てが終わる。しかしわかってはいるのだが止められない。それどころか、いつのまにかこの背徳的な行為の虜になってしまっていた。脳内のエドワードを想像しながらするのと、目の前に実物がいるのでは興奮度が大きく違う。極度の緊張感に裏打ちされているのか、もしかしたら、心の奥底ではもうバレてもいいと思っているのかもしれない。ただ一つだけ確信していることは、エドワードが好きだという大きな感情だけだ。
「う……」
 熱に集中して、無心で指を動かす。それはあっと言う間に硬度をあげ、透明な体液が溢れてきた。それを布に染み込ませ、ベッドのシーツに溢れないようにする。毛布の中から、くちゅりというくぐもったいやらしい音と、耳元でエドワードが時折吐き出す詰まったような寝息が重なって、聴覚も視覚も刺激されていく。
「、は……く」
 自身の声にすら煽られる。エドワードが起きないのをいいことに、無防備な顔の横に左手をつき、覗き込む。薄っすらと開かれた赤い口を見つめながら一心不乱に手を動かし続ける。エドワードの口内に包まれる妄想をする。脳内にあるエドワードの赤すぎる舌が、けぶるような快感を与えてくれる。長く時間をかけないために手の動きを速める。先端から溢れた透明な体液で、布がどんどん湿っていく。にちゃにちゃと掻き回すような濡れた音も激しくなり、放出を求め始めた肉が、手のひらの上で激しい収縮を繰り返す。自身の鼻息が荒く大きくなる。いいところに爪が引っかかり、堪えきれずふ、と細く鋭い吐息がエドワードの前髪を掠めてしまったが、エドワードが目覚める気配はやはりない。ロイの側で、安心しきって寝ているということだ。罪悪感がつのるが即物的な欲求に抗うことはできなかった。
 毛布に包まれたエドワードの首筋にそっと鼻を近づけてみる。エドワードの柔らかな匂いが鼻腔を擽り、さらに欲望を温めてくれた。さらに近づき、少しだけ顔を埋める。重いのだろうか、エドワードが苦しそうに眉を潜めた。その苦悶の表情が熱い迸りとなり、下半身にさらなる悦楽を与えてくれる。これだけで手の中の肉欲の質量が増した。滲んだ汗が、ぽつりとエドワードの毛布に垂れる。小さく唸ったエドワードが僅かに寝返りをうった。うなじが濡れて光っている。汗が溜まっているようだ。ごくりと溜まった唾を飲み込む。エドワードを想う時の自身の唾さえも甘く感じるのだから、エドワードの体はどれほど甘いことだろう。
 エドワードの服の下はどうなっているのだろうか、華奢ではあるが、過酷な旅を支えるための鍛錬を怠らないエドワードの体には、同年代の少年とは比べ物にならないほどの筋肉がついている。太いわけでも厚いわけでもない。細いが、きちんとした均整がとれている。服越しからでもわかる薄い腹と、毛布に隠れたぴっちりとした腿のラインを想像して目を瞑る。寝言でもいいから、名前を呼んでほしかった。しかしエドワードは起きない。目の前で何が行われているのか知りもしないでぐっすりと夢の中だ。埋めていた顔をあげ、エドワードの小さな体に静かに跨る。少し湿った布を、毛布越しのエドワードの下腹部にそっと置き、覆い被さるように布めがけて根本から性器を擦り上げる。いつもしている行動ゆえに躊躇はない。自然と腰が揺れ始める。目に見えてひくひくと開閉する先端を爪で弄り、エドワードの狭いであろう内壁を感覚と脳内で疑似体験する。
「エド」
 小さな声で、焦がれた人の名前を呼ぶ。今エドワードが目を開ければ、どのような表情でロイを見上げるのだろうか。今直ぐにエドワードの金色の視界に私を入れてほしいが、目を開けてほしくもなかった。この淀んだ気持ちがバレてしまえば全てが終わる。しかし、もういっそのこと終わらせてしまいたいと願っている自分もいた。
 全てが、限界だった。出すぞ、と心の中で一言呟き、緩急をつけて最後に大きく搾りあげる。喘ぎ声を抑えるため強く歯を食い縛る。腰の奥から濁流のような何かがうねり、タイミングよく手の中のそれが激しく爆ぜた。ぱたた、と切っ先から飛び出した冷たい体液が、毛布の上に敷いた布の上に、エドワードの上に飛び散っていく。
「く、は……」
 快感は一瞬で、全て出し切るまでそれほど時間はかからなかった。最後の一滴を布にかければ、重い脱量感に身体全体が包まれる。そのままエドワードの上にしだれかかりそうになったが堪えた。今は放出の余韻に浸っている場合ではない。素早く白濁液が飛び散った布を畳み、塗れていない箇所でべたついた右手をふき取る。急いで下げていた下着を履き直し、ベッドから降りた。窓と部屋のドアを開け、部屋に充満した青臭さの隠滅を図る。そしてエドワードが起きていないことを確認してから、部屋を後にした。
 手洗い場で汚れた布と手を洗い、洗濯籠に放り投げ部屋に戻る。戻った頃には部屋の臭いも薄れていたので、隙間風吹き込む窓をそっと閉め、ベッドに戻った。そこでやっと、一息つくことができた。エドワードの変わらぬ穏やかな顔がいたたまれなくて、ずり下がってしまっていた毛布を口元までかけてやる。時計を見れば真夜中だった。
 こみ上げてきたのは苦い笑いだ。手のひらで額を覆い肺に溜まった重い感情を吐き出す。何をしているのだろうか自分は。寝ている年端もゆかぬ無垢な子どもの前で、その子どもの寝姿をおかずにして自慰に耽るとは。あまりにも馬鹿げた行為だ。いい歳した大人がすることとは到底思えない。しかもそれをしているのが、他でもない自分だなんて。
 この数年間、エドワードに性的に触れられない代わりに沢山の女性と関係を持った。全て金髪の女性だ。行きずりもいれば、長く続いている女性もいる。言い寄られる時もあったし、自ら声をかけた時もあった。身体の関係だと互いに割り切ってはいるが、彼女たちを抱く際には必ずエドワードの体を思い浮かべていた。皮肉なものだ、エドワードへの恋心を自覚し、君の父親にしてほしいという無謀な約束を取り付けるまでは、むしろ女性との関係を一切絶っていたというのに。こうしてエドワードに誰よりも近づくことができている現在では、不特定多数の女性と体を繋げている。叶わぬ恋心を持て余して。
 エドワードはいつだって初めての感情をくれる唯一の存在だ。この年になって、気持ちすら告げられず手を出せない相手の代わりを他の人間に求めることになるだなんて思わなかった。ロイの気も知らないで、幸せそうに寝こけているエドワードが愛おしくて憎らしい。温めてきた柔らかな感情に忌々しささえも感じる。もうそろそろ限界だった。自身に課した制約が崩壊しかけているのがわかる。必死に伸ばしてきた縄すらもう擦り切れ過ぎて千切れそうだ。一歩踏み外し縄から落ちてしまえば、きっとエドワードに手を出してしまう。それこそ、エドワードが泣いて嫌がり必死に拒んでも無理矢理に。
 エドワードにキスをしたい、エドワードの舌を味わいたい、エドワードの匂いを存分に嗅ぎたい。エドワードを抱きたい。そんな欲求ばかりが日に日に膨らんで全てがぐらぐらの状態だった。エドワードにとってのいい父親を演じ続けるのが苦しい。けれども、だからこそ。
『大佐はオレの、父さんだからさ』
 節くれだった小指を見つめる。父親になると指切りをした。父親として君を守ると約束をした。照れたエドワードは嬉しそうだった。その瞳に答えたくて、ロイの隣を、エドワードにとっての安住の地とするように仕向けた。もう無理だと、常に思っている。今直ぐ寝ているこの子を犯してしまえと、喉まで出かかった欲求を握り潰したのは何度目か。握りしめた拳が震えている。何度も呼吸を整わせ、エドワードの安らかな寝顔に視線を移す。手をだしては駄目だ、堪えろ。違えてはならない。エドワードが抱くロイという父親像を壊してはいけない。エドワードを傷つけてはならない。
 こんなにもエドワードが好きだ。こんなおままごといつまでも続けていいはずがない。ロイのためにも、エドワードのためにも。秘めた想いを伝えてしまえばエドワードからの信頼を失う。子どもの成長は早い。伝えなければエドワードはいつか大人になり年頃の少女と甘酸っぱい恋を経験するだろう。そしてそのままこの子に恋人なんてものが出来たりしたら──ざわりと口角が残酷に引き攣る。想像しただけで腸が煮えくりかえりそうだった。父親ならば祝福してやるべきなのだろうが無理だ、できるはずがない。そんな光景考えたくもない。そんなことになってしまえば、なぜ私ではないのかと自分勝手にエドワードを責め立ててしまいそうだ。
 もしも彼の意思も懇願も信頼も無視して、どこかに閉じ込めたいと思ってしまったら。欲求が、理性を越えてしまったら──自分の考えにぞっとした。

 エドワードの隣で横になる。
 わかっていた。このままでは崩壊が直ぐに訪れてしまうと。その前に手を打たなければならないと。
 ロイが理不尽に、この子を傷つけてしまう前に。





***





「はよー、なんかいい匂いすんな」
「ああ、おはよう」
 ぺたぺたと、彼専用のスリッパを履いてリビングに来たエドワードに向き直る。着替えは終わったようで、黒のズボンに黒のタンクトップという出で立ちだ。シックな出で立ちだというのに目を擦る姿は相変わらずあどけない。髪はまとめられておらずぼさぼさだった。エドワードはスープをよそうロイの隣に当然のように近づき、体を密着させて中を覗き込んで、わっと喜んだ。
「ミネストローネじゃん、手作り?」
「缶では売ってないからな」
 昨晩、エドワードが眠る前に今朝はこれにすると説明したはずだが、この様子だと忘れているようだ。瞼を閉じる寸前、ロイのことを父さんと呼んだこともきっと覚えてはいないのだろう。寂しいはずなのに、少しほっとする。きっとまだ引き返せる。
「大佐って意外と料理できるんだもんな」
「野菜を切って煮るだけだ、簡単さ」
「料理したことないオレに喧嘩売ってんのか?」
「この前君が作ってくれた料理はかなり独創的だったからなあ」
「個性的と言え!」
「ほら鋼の、そんなことはいいから早く皿を用意してくれ。サラダをわける用の」
 ぐぬぬ、と地団太を踏みそうになるエドワードを促せばエドワードは素直に動いた。今、君のために料理をするようになったんだと言ったらどんな顔をするだろうか。君が家に来るまではほとんど外食で済ませ、きちんとした料理など作ったことがなかったんだと伝えたら。
 エドワードがこの家に来やすくなるように巧妙に餌を撒き、エドワードの望むような家庭的な家をあえて装っている。そのお陰で、エドワードが私の家に来る回数は格段と増えた。
 慣れた様子で戸棚を開き、専用の皿を用意しサラダをよそうエドワードの前に、ことりとカップを置く。マッシュしたポテトを混ぜたサラダと、スープと、ベーコンエッグと目玉焼き、エドワードの好きな店で買った手作りの食パンとクロワッサン。いたって平均的な朝食だ。エドワードがパンにいつもかけるココアパウダーも、ストックしてある。
「食べようか」
「おー」
 細長いテーブルで向かい合わず、並んで座る。いつもの定位置だ。ひょこんと跳ねたエドワードの髪が気になり一房つまむ。ぴんと伸びた髪にちらりと此方を見上げたエドワードは、触れられたことに対して気にする様子もなくパンをもさもさと食べ続けた。
「髪、ぼさぼさじゃないか」
「眠かったんだよ。あとでまとめる」
 にっとロイを見上げてきたエドワードが眩くて目を細める。いたずらっ子のような表情に求められていることは直ぐにわかった。まとめてくれよ、エドワードはそう言いたいのだろう。朝が弱く、ぼーっと歯を磨くエドワードの髪をかいがいしく三つ編みにしてやるのはいつも私だ。今、「また私に頼む気かね」と苦笑しつつ言ってやれば、「だってそれは大佐の役目じゃん」とからかい交じりのエドワードの返答が返ってくるだろう。それがいつもの光景であるし、二人の通常だ。エドワードもそんな会話を望んでいる。だが、エドワードが望む台詞を口にすることはできない。変わりに、昨晩から考えていた台詞を喉まで押し上げ重い口を開いた。ロイが今から言う台詞のせいで、この綺麗な瞳が沈んでしまう様子が容易に想像できる。胸は痛むが、エドワードの方が痛むに違いない。それでも少しでも傷が浅くなるように祈る。今ここで言わなければきっと近い将来私は彼を傷つけてしまう。最も酷い方法で。
「鋼の、話がある」
「ん、なに」
 欠伸交じりの、少し間延びした声に足裏に力が入った。

「悪いんだが、もう家には来ないでくれないか」

 一瞬の沈黙。パンを咀嚼していたエドワードの動きが止まった。ゆっくりと此方を向いたまん丸な金色の瞳には、純粋な驚きが含まれていた。
「は?なんで」
 相変わらず真っすぐな質問だった。まだ傷ついている様子はない。必ず理由があるはずだと疑っていないのだろう。その通り理由はある。しかし理由が理由だ、ここでバカ正直に答えるわけにはいかない。君の傍にいると君を犯してしまいそうになるからなんて。
「いやね。厄介な案件があって」
「厄介な案件ってなんだよ」
「まだ表沙汰にはできないんだ」
「なにそれ、手伝おうか?」
「いらない」
 瞬時に否定してしまったせいで、ここにきて初めてエドワードの表情が少し固まったのが目に入った。が、見ないふりをする。黙々と、食事を勧めながら話を続ける。
「少々、込み入ったことになっているんだ。ここ暫くは家に仕事を持ち帰るだろうし、他地方に赴くこともあるから家に帰れない日も多くなる」
 この嘘が、エドワードに通用するかはわからない。だが通用してもしなくともこれ以上の最良はないのだから選ぶしかない。全ては、子どものエドワードに抱く激しい性愛を隠すために選んだ道だ。
「急な話で悪いが」
 本当にその通りだ。自分の目的のために勝手にエドワードを丸め込んでおいて、懐に入れて優しく抱きしめておいて、都合が悪くなったら拒もうとするなんて大人の風上にも置けない。だが今のエドワードを他でもない私自身から守るためにはこれしかない。
「……それは別に、いいんだけどよ」
 暫く押し黙っていたエドワードは、再びもぐもぐとパンを咀嚼し始めた。眉間の皺の多さに、ロイの説明が腑に落ちていない様子を悟る。
「いつまで?」
 素朴な疑問に歯を噛みしめる。それは今のロイにとってはとても心苦しい台詞だった。ロイの了解さえ得られれば、まだ傍に来る気なのだこの子は。拳を握りしめて数拍、動揺をやり過ごす。意味なくテーブルを叩きたくなる衝動を堪えた結果、言葉は先ほどよりも冷たくなった。
「いつまでかはわからんな」
 ぴしゃりと言い切れば、エドワードの瞳が驚愕に彩られた。ロイからこういった冷たさを受けることに、彼は慣れていない。それもそうだ、これまで見せようとしなかったのだから。やはりエドワードの顔を見ることができず、食べる気もないのに淡々とフォークを口に運んでみる。野菜の味は、しなかった。いつも彼と食べる料理はあんなにも旨いのに。
「……落ち着いたら声をかける。だから暫く家には来るな」
 静かにパンを皿に置いて俯いた子どもの姿に切なさが募るが、フォローする気はない。ロイの明確な拒絶を受けてエドワードは今、傷ついている。敏い子だ、ロイが「落ち着いたら声をかける」ことはもうないのかもしれないということも、察しているのかもしれない。
「ただし、定期連絡は続けるように。自分の旅に集中しなさい」
 先ほどまでの温かさは消え失せ、随分と冷たい声が出せるものだと思った。今のロイとエドワードは、上官と部下ではない、かといって恋人でもない。だが、本当の親子でもない。どれほど近くなったとしてもやはり他人だ。年の離れたそんな赤の他人同士が、一つ屋根の下で親しく朝食を取る。この不可思議な距離感に疑問を抱かせないように接してきたことが、今の歪みを生み出してしまった。空気が重い。窓から差し込む朝の光だけが、いつも通り並んで朝食を取る二人を照らし出していた。
 エドワードは、なんで、ともいやだ、とも言わなかった。ただ一言、
「──わかった」
 と小さく返事をした。か細いが固い声色に察する。エドワードは今、ロイの身勝手な想いを受け取ったのだ。いきなり何を言うんだと詰め寄りもせず、淡々と了承の意を示したことがその証拠だろう。さらりと落ちた金色の前髪からエドワードの顔は覗けない。ロイは3年間積み上げてきた関係が、今音もなく止まったのだということを深く自覚した。
 えぐられたように痛む体の奥は、こういった終わりを迎えてしまったことに対してか、エドワードを傷つけてしまったことに対してか。それとも、ロイに拒否されたぐらいで盛大に傷ついたエドワードの儚げな姿に、ほの暗い優越感を抱いてしまったどうしようもない自分自身に対してか。
 重症だなと、意味もなく自嘲してみせる。エドワードにはどうせ見えていない。そんな自分がさらに醜く思えて、ロイは味のしないスープを大きく飲み込んだ。
 その後はほとんど会話をすることなく、二人そろって静かな朝食を済ませ、洗い物をしているロイの背にエドワードは「じゃ」と一言残して家を後にした。呆気ない別れだった、まるで何事もなかったかのように。
 歯を磨いている時に自分の手で結ったのだろう。無造作に編み込まれた三つ編みがちらりと揺れ、玄関扉の向こうに消えた。遠くからでもわかるその圧倒的な輝きが、最後まで瞼の奥から離れなかった。そのせいで、エドワード用にと買っておいた赤いカップが手から滑り落ち床に転がった。割れはしていない。ただ床が濡れた。数か月前に、キッチンが汚いだの騒いだエドワードと一緒にここを掃除した記憶が蘇る。意外と綺麗好きな彼が床を懸命に掃除する姿を、ロイはテーブルを拭きながらずっと眺めていた。手伝えよ!と振り向いたエドワードの顔がなんだか面白くて、眩しくて、目を細めた。
 どのような形であっても、傍にいられることが幸せだと感じていた。実際そうだった。けれども、たった3年でそれがついに辛くなった。

 だからこれでいい。
 これでいいんだ。





***





 息を切らして、振り切るようにエドワードはその場を立ち去った。



「あれ、大佐」
 上官を街で見かけたのは本当に偶然だった。この日に来るということを東方司令部はおろか誰にも連絡していなかったのだから。
 イーストシティを訪れたのはおよそ3カ月ぶりだった。ここ最近は常に一か月に一度は帰っていたので、ここまでこの地に足を運ばなかったのは久しぶりで、変わっていない街並みにもなんだか懐かしさがこみ上げてくる始末だ。
 もう家に来るな、とロイから明確な拒否を受けたあの日からずっと彼を避けていた。旅と研究が忙しいという理由もあったが、なんとなく気まずくて、定期連絡もせずに、ロイからの電話も全て弟に任せてしまっていた。弟は、ロイが絡むとやけに子どもっぽくなってしまう兄の行動を理解しているのでため息交じりに対処してくれていたが、以外だったのはロイがそれについて何の批難もしてこなかったということだ。いつもであれば、些細なことでエドワードが腹を立て、言い争いをして機嫌が悪くなったエドワードに対して先に折れるのはロイの方だった。しかし今回ばかりはロイからの謝罪はない。つまり、彼もエドワードと同様気まずい思いをしているということなのだろう。
 エドワードにとってあの日の出来事はあまりにも突然のことだったが、素直に受け入れ怒る気になれなかったのは、あの時の上官の様子が変だったからだ。実のところ変だったのは別にあの時だけというわけではない、ここ最近ずっと、ロイはエドワードに何か言いあぐねているような、エドワードに言えない悩みを抱えているような雰囲気を醸し出していた。エドワードを見る目もざわざわと落ち着かなさげで、本人は隠しているつもりだったのかもしれないがバレバレだ。そんななんとも言えない空気がエドワードも少し苦手で、エドワードもことさらロイの前では気を使っていた節がある。
 特に完璧に拒絶されたあの日、ロイはいつもはしつこいほどに顔を覗き込んでくるのに目を合わせようともしなかったし、饒舌だった口数も少なかったし、わざとらしいほどに包み込むような柔らかな態度も鳴りを潜めて、やけに厳しい口調でエドワードを突き放してきた。まるで、あえて冷たい口調を選んだかのように。
 だから、何かエドワードに言えない秘密ごとがあるのではと思っていたの、だが。
 今こうしてその理由を思い知っても、どうしてか晴れ晴れとした気持ちにはなれなかった。それどころかこみ上げてきたのは苛立ち交じりの不愉快さだ。認めたくない想いではあるが、こうしてまざまざと心の中がざわつけば受け入れざるを得ない。エドワードは己の幼さを苦虫を噛み潰したような感覚で自覚した。どうやら自分は、この、受け入れがたい光景に対して嫉妬しているらしかった。
 彼を見かけたのは本当に偶然だった。見知らぬ女性と腰を密着させ、大人な雰囲気を互いに醸し出しながら親し気にそれ専用のホテルへと入っていったロイの姿を。あそこで一体これから何が行われるか知らぬほどの子どもではない。しかも、ホテルの玄関に入る前に彼と彼女は深く唇を合わせた。愛おし気に金色の彼女の髪を撫でている彼の姿は確かな情欲を伴っていて、少なからずエドワードに衝撃を与えた。
 ショックを受けたのは、自分を可愛がってくれていた年上の青年の生々しい現場を目の当たりにしてしまったからだけではない。それ以上に、ロイにしどけなく体を預けていた女性となぜか目があってしまった際に、にんまりと笑んだ女性がエドワードに見せつけるように彼との口づけを深めたことが原因だ。棒立ちのまま硬直してしまったエドワードを、たった今顔を合わせたばかりの見知らぬ女性は確かに嘲った。
 なぜ彼女がエドワードを「エドワード」と認識しているのかはわからなかったが、一応自分は有名人だ。エドワードの面は世間一般に知られている上、大方ロイが恋人である彼女にエドワードのことを話していたのかもしれない。彼女との関係を深める上で、邪魔であると感じていたであろうエドワードという存在に関してどのような説明をしたのかはあまり考えたくはないが深く納得した。もう家に来るなと、彼が厳しくエドワードを諭したわけが。
 エドワードの視線の先で、後を引くように女性がロイとホテルへと入っていった。激しい動悸を鎮めさせ、くるりと踵を返し反対方向へ歩き出したエドワードは眉間に皺が集まってしまうのを抑えられなかった。
 ロイとの関係は不思議なものだった。上官と部下であり、兄弟のようであり、友人のようであり、父と息子のようであり、その実そのどれでもなかったり。ロイがエドワードとそのような繋がりを望んだためにエドワードが受け入れて今に至る。というよりも、一人で虚勢を張っていたエドワードを守るために、疑似的な親子関係を継続させてくれていたというべきか。
 東方司令部を訪れる日、エドワードは必ずと言っていいほどロイの家に入り浸っていた。ロイに先にカギを渡され、彼が家に帰る前に自分が彼の家でくつろいでいることもあった。ただ、時々ロイは嗅ぎなれない匂いをまとわりつかせて帰ってきた時もあった。女性ものの香水や化粧の匂いだ。女好きを公言している彼だ、成人男性故にそういうこともあるのだろうと思っていたが、ほとんどは情報を得るためにその筋の店に寄ってきたとか、上官の娘を押し付けられて案内していたとか、お断りを入れるために軽いデートをしてきただとか、そういった当たり障りのない返答だった。今は独り身で、付き合っている女性もいないんだと困ったように笑っていたのは、今思えばエドワードが何のしがらみなくロイの傍にいられるようにという彼なりの配慮だったのだろう。
 ロイは優しい。上官として厳しい面もあり、暇さえあれば楽し気にからかってくるような男だが、それが彼の一面に過ぎないということはもう知っている。時間が合いさえすれば、エドワードのために忙しい時間を割いてくれる。その心地よさに散々甘えて、3年間も本物の父息子のような関係に入り浸っていたのはエドワードの方だ。
 しかし、そろそろ潮時だったらしい。さすがに、将来を考えている恋人相手に15歳の息子がいるんだとは言えないだろう。恋人を家に呼んだ時、エドワードのためにと用意してくれていた日用品があるのも、エドワード自身がいるのもまずい。はっきり言って邪魔者だ。ロイ自身からエドワードの父親になりたいと約束してくれた手前、さぞ言い出しにくかったことだろう。実の子どものように接していた相手に、女性関係の生々しい話をするのも躊躇われたはずだ。
 どれほど関係が深まったとは言え、結局エドワードとロイは赤の他人だ。本物の家族ではない。だから、家に来るなと言われた理由がそのようなことであっても違和感も何もない。当たり前の結果だと理解もしている。けれどももやもやとしたものが胸の奥につっかえてとれない。
 ロイが誰と結婚したとしても、前ほどの距離感というわけにはいかないまでも、彼がエドワードを守ってくれる大人であり続けることは変わらないはずだ。3年間付き合ってきた彼はそういう人間だった。軍に入った当初は右も左もわからない状態で心細かったというのもあるが、先が見えない旅もある程度は慣れた。権力の使い方も覚えた。それにエドワードはもう15歳で過剰な庇護が必要だという年でもない。だから悩むことなど一つもないはずなのに、納得できないと心が騒ぎ続ける。
 エドワードは認めたくなかったのだ。
 父親だと思っていた存在を見知らぬ女に取られた、裏切られたと思っている自分の弱い心なんて。
 むしろそんな女々しい感情を抱いている自分に呆れる。いくつのガキだよ、と自分自身を馬鹿にしてみても、苛立つ感情を抑えることもできないことにさらに腹が立った。指切りげんまんなんて子ども騙しだと笑ったはずなのに、あの約束が何か神聖なものであったと美化して縋りついていたのはエドワードの方だった。
 そう。そんな未熟な子どもだからこそこうして手痛いしっぺ返しを食らったのだろう。イーストシティにいることがバレ、さすがに今日こそは顔を出せにというロイからの受け入れがたい要請に弟からもさっさと行ってこいと尻を蹴飛ばされ、往生際も悪く近場のカフェでぶつくさ時間を潰していた時に。

「こんにちは、坊や」
「……あんた誰」
 ついついつっけんどんになってしまったがもう遅い。声をかけてきた相手もエドワードの一言で大層を機嫌が悪くなってしまったようだ。その鋭い瞳を見ただけで女性の正体がわかってしまった自分がさらに嫌になって、氷が溶けて水っぽくなってしまったジュースを吸い上げる。脳裏に浮かぶのは昨日の光景だ。ロイが、女性と熱烈なキスを交わしていたあの不愉快極まりないシーン。今、目の前にいるのが当人だという事実にさらに苛立ちが募る。
「わかるでしょ?坊や、あの時あそこにいたものね」
「知らねえな」
「記憶力が悪いのね。錬金術師のくせに」
 バカにしくさった言い草にカチンときた。目の前にどかりと座り込んできたの大佐の恋人を細めた目で見上げる。どうして今こうして自分に話しかけてきたのかはわからないが、エドワードを錬金術師と知っているぐらいだ、やはりロイから何か聞いていたのだろう。ただ、彼女がロイの恋人だとしてもあの時エドワードを鋭い視線で見下してきたこの女性にいい感情は抱いていなかった。そしてそれは相手も同じのようだ。無視を決め込んで立ち去ろうとすれば、細い長い指に手首を掴まれた。
「……あんだよ」
「話があるの、座って」
「オレはねえな」
 女性らしい艶やかなネイルから視線を逸らす。ロイの首にねっとりと回していたのがこの指だと思うとうんざりとした気分になった。
「座りなさいよ、目上の人間には敬意を払ってほしいわ」
 確かに慇懃無礼な女性だとは思うが、あからさまに不機嫌になってしまう自分をエドワードは不思議に感じていた。相手は自分によくしてくれているロイの恋人だ、振り払って逃げるのも気が引けてどかりと少年らしく椅子に再び座りこむ。ロイがエドワードの父親ならこの人は母親というやつになるのだろうか。そんなくだらないことを一瞬考えて、冗談じゃねえとジュースを悪寒と共に一気に喉に流し込む。
「どこからどうみても男の子ね。態度の悪い」
「手短にしてくれ。急いでるんだ」
「どこへ行くの?あの人のところかしら」
「誰だよ」
「ロイ、よ」
 するりと指が離されて、甘えたような声で顎を手に乗せ小首を傾げる姿にざわりと嫌悪感が増した。理由はわからない。ロイのことを名前で呼ぶ相手なんて彼の親友くらいしか知らなかったからだ、きっと。
「アンタに関係ねえだろ」
「あるわ」
 とんと、手入れされた長い爪がテーブルを叩いた。
「私、あの人に振られたの。貴方のせいで」
「……え?」
 席を立とうとしていたことも忘れて目の前の妖艶な女性を見つめる。振られた、という予想外の言葉にエドワードはぽかんとしてしまった。昨日あんなに仲良さげにホテルに入っていったというのに。
「もうきっぱりとね。貴方があの人から逃げてるうちに、他の女も切られたわ」
 髪をかきあげながらふう、とため息をついた女性に目を剥いた。聞き捨てならない台詞を聞いた気がする。
「他の女ってなに」
「え?」
 エドワードの言葉に、今度は女性のほうが目を丸くした。
「だって、アンタ大佐の恋人だろう」
「──はっ、!」
 大きく吐き捨てるような声にエドワードは大げさに驚いてしまった。この世の悪意を濃縮したような鋭い視線に、ついカップを握る手に力がこもる。
「恋人!」
 声を上げてけらけらと笑い始めた女性の、異様な光景に飲まれそうになる。
「恋人なもんですか!あんな、人を代用品みたいに扱う男なんてこっちから願い下げよ」
「代用品?」
「──貴方、何も知らないのねぇ」
 くっと含み笑った女性の唇が、つり上がるように歪んだ。それが昨日、エドワードを見つけた時に噛みつくようにロイの唇に唇を重ねた姿と重なって口を閉じる。しかし、目の前の女性はエドワードの逃げを許してはくれなかった。ぐっと顔を近づけられる。真っ赤な唇に顔が歪んだ。
「全部話すのはフェアじゃない、だから一つだけ教えてあげる。私ね、貴方の名前知ってるのよ」
 金色の髪に、青い瞳。典型的なアメストリス人の女性だ。エドワードの知っている女性とは全てが違った。雰囲気も、言動も、エドワードを見下ろす瞳の色も。それは、エドワードに対して並々ならぬ悪意を持っているからだろう。一度、しかも一瞬だけ見かけただけの相手にこれほどの負の感情を抱けるなんて尋常じゃない。だから無視すればよかったものを、エドワードはつい会話を続けてしまった。
「大佐から、聞いたんだろ」
「違うわ」
「じゃ、なんで」
「なんでだと思う?」
「知るかよ」
 女の鋭くて激しい瞳からエドワードは目を逸らせない。ロイに君を守ると言われた時に、その真っすぐな黒い瞳から暫く目を逸らせなかったのと同じように。そこに含まれている感情は彼と彼女じゃ全くの別物だろうに、並々ならぬ強い感情に気圧される。
「あの人の周りに女は沢山いるわ。私もその一人。ちなみにあの人がセックス相手に選ぶ女は全員金髪。それ以外は選ばない。なんでだと思う?」
 セックスという生生しい単語に身体が竦む。かたりと左足が震えた。何かがおかしい。けれども何がおかしいのかがわからなくて混乱する。先ほどから困惑してばかりだ。
「だか、ら……知らねえって」
 これ以上聞いてはいけないと強く想った。何かが壊れてしまう気がしてならなかった。それなのに危険だとわかっているのにどうして自分は大真面目に言葉を返してしまう。これ以上は無理なのにエドワードの両足は地面に縫い付けられたかのように動かせない。
 ロイと関係を持つ人達が全員金髪であること。それと彼女がエドワードの名前を知っていることになんの関係が。と、そこまで思考を巡らせてはたと凍る──思わず目の前にいる女性を見つめてしまった。ぐい、と目じりが下がり、壮絶な笑みを浮かべた女性にぐっと襟を引っ張られ耳元で囁かれる。生暖かい唇の接触と生ぬるい吐息が耳朶に吹き込まれて指先までもがが冷えていった。
「貴方の名前を知ってる理由、教えてあげる」
 冷たい爪に、耳たぶをなぞられる。いやだ聞きたくない。離れろと拒絶してやりたいのに喉に痛みがつっかえて声が出ない。
「だって、ロイね」


 続いた言葉に、手袋越しでも、自身の指の先が白くなったことがわかった。

bottom of page