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「え……」
「じゃあね、エドワード君」
 呆けたまま何も言えないエドワードの前に、女性が勢いよく立ち上がり嵐のように去って行った。遠ざかるヒールの音が頭に響いて動けない。店員がジュースを足しに該当する客のテーブルを回り、そのままエドワードのいる席へ。一見すると不機嫌な顔のまま座りこんでいるエドワードに、つぎ足しますね、と人のいい笑みを浮かべ氷とジュースを多めにカップに注いで、離れた。
 柑橘の香りがぶわっと鼻腔に広がってきて思わず手のひらで口を抑える。手を付けることができなくて、しゅわりと気泡が空気に溶ける様子をぼうっと見つめる。カップの外側に水滴が噴き出し始めて、テーブルをぴちゃりと濡らした。からん、と最後の氷が溶けて透明な水に混ざった薄いオレンジ色の液体がカップから溢れた瞬間、かなりの時間が立っていたことを自覚して勢い良く立ち上がった。何名かの客が何事かとエドワードを仰ぎ見、そしてまた何事もなかったかのように定位置へと顔を戻す。
 空を見上げれば正午は遠く過ぎ、まったりとした景色が広がっていた。ゆっくりとポケットから出した小銭をテーブルに置いて、エドワードは歩き始めた。弟のいる宿に手荷物を置いてきたため手ぶらのはずなのに足取りが重い。は、と震えるため息をついて強く片足を前に出せば、勢いがついた。だんだんと早まる足。一歩二歩三歩と、たまらず駆け出す。
 息を切らして、振り切るようにエドワードはその場を立ち去った。行く先はもちろん、ロイの仕事場である東方司令部だった。
 ──違う。
 石畳を蹴りあげ、エドワードは自問自答する。 先ほど、女性に言われた言葉が頭をぐるぐると回っている。『だって、ロイね』。見ず知らずの女性の言葉は鋭い剣のようにエドワードの体に真上から突き刺さった。切っ先に地面と身体を縫い付けられてその場から動けなくなってしまうほどに。
 ──違うと首をふる。だってロイと約束をした。指切りをした。子ども騙しのようなものだったけど、おどけたように見せていたけれど彼は真剣な顔をしていた。本気で君を守りたいんだと、ロイの真摯な瞳が言っていた。だからエドワードはロイから目が離せなかったし、彼を信じることができた。実際その通りだった。この3年間ずっと、ロイはエドワードを気にかけ、情を持って慈しんでくれた。ロイはよくエドワードの頭をぽすんと叩き、撫でてくれた。やめろと軽く振り払ったとしても、それが照れだとわかっているロイはエドワードを構い倒した。
 雨が降りしきる日に、大丈夫かと痛む手足の付け根を撫でてくれた。温かなココアを入れてくれた。夢うつつの中、魘されるエドワードに安心して寝なさいと背を叩いてくれた。同じベッドで寝るなんていい年をした男同士がすることではなかったかもしれないけれど、ロイは構わないとおどけて見せてくれた。いつのまにかロイの隣は弟と同じくらい安心できる場所になっていて。ロイの家は、エドワードが求めていた温かい場所で。つい何度も足を運んでしまった。ロイはエドワードを嫌な顔一つせずに出迎えた。二人で色んな話をした。私服姿で夜に眼鏡をかけて書物を読みふける姿に、ロイのこんな姿を見れるのは自分だけなのだと特別感さえも感じていた。他愛もない話をしながらラジオを聞いた。隣でいつも夕飯や朝食を取った。空を吸いに行こうとキザったらしい誘いで、近くの公園に散歩出かけたりもした。彼との時間は全て穏やかだった。旅先で辛いことがあっても、イーストシティに帰れば優しい人がいると慰めにもなっていた。
 ロイがそういう空間を作り上げてくれていた。変わらない時間は、まるで切り取ったかのように永遠だった。だから違う。そんなわけない。大佐はずっとエドワードの父親だった。今までも、そしてこれからも変わらず、オレの。

『父親として、君を守ろう』

 ──父さん、なんだよ。





***





 ばたんと、ノックもせずに執務室に駆け込んだ。いつものデスクにロイは座っていた。副官や部下たちはいない。イーストシティにいることもあって流石のエドワードももう逃げることはしないだろうと人払いをしていたのだろう。あの時のように。そしてそれはたぶん当たっていた。他の人間がいる中で彼とこんな話なんてできやしない。
「鋼の、どうした」
 来ることは予想していただろうに、連絡を取ろうとしても捕まらず、数か月ぶりに顔を見せたエドワードにロイは些か驚いたらしい。走ってきたせいで汗だくで、息も荒く扉に寄りかかるエドワードに慌てて近づき、大丈夫かと普段通り顔を覗き込み、伺うように頭に手を置いてきた。その前と変わらない温度につい、ほっとしたのだが。
『だって、ロイね』
 耳元に蘇った女性の言葉にぞわりと背筋が泡立ち、エドワードは思い切り大佐の手を振り払ってしまった。ロイは一瞬目を見開いたが、エドワードのそれはこれまでのような照れからきた拒絶ではないと直ぐに気づいたらしい。払いのけられた手のひらを見つめ顔を曇らせたが、そこは若き東方司令部の指揮官だ。扉の前で言い合うことではないと直ぐにエドワードに入室を促し、部屋に迎え入れた。デスクの前あたりで、ロイと向き合う。
「久しぶりだな」
「ああ」
「連絡一つよこさずに、今までどこを回っていたんだ」
「……南の方だよ。たかが三カ月程度じゃん」
 上官に対する態度からは程遠い、あまりにも棘のあるエドワードの台詞にロイはぴくりと眉を動かしたが、特別注意するでもなく腰に手を当ててエドワードを見降ろした。その瞳は穏やかとは言い難いが、責めるようなものではなかった。どちらかと言うと心配しているような色さえ匂わせていた。それが癪に触った。そんな顔を、しているくせに、と。
「どうして、連絡を拒んだ」
「だってアンタにもう来んなって言われたし」
「私は定期連絡を怠れとは言っていない。君も了承したはずだ」
「なに、心配したとか言うつもりかよ?」
「ああ、心配した」
 躓きも迷いもない真っすぐな台詞に、エドワードは唇を噛んだ。視線を下に移せば綺麗な革靴が目に入る。数か月前まで、風呂場で袖やズボンをたくし上げてわしゃわしゃと靴を洗う年若い国軍大佐の間抜けな姿に笑っていたのに。今は些細な出来事を柔らかさと共に思い出せば思い出してしまうほど、彼の私生活に深く関わり過ぎたことをまざまざと見せつけられるようで苦しかった。
「……何故、避けるんだ」
 やっと入った本題は想定内の質問だった。エドワードは口を開かなかった。沈黙は数秒だった。いつもであればなんてことのない空気感のはずなのに今は重い。先に張り詰めた空気を破ったのはやはりロイの方だった。いつもそうだ、正論を言い含められてエドワードが拗ねて口を閉ざすと「機嫌は直ったか」と飲み物片手にエドワードが籠城している書斎まで来てくれた。その困った顔に怒っている自分がバカみたいに思えて、彼から渡されたカップを受け取る、それがいつもの仲直りの方法だった。けれども今ここにエドワード専用のカップなどありはしない。ここは彼の家などではなく、彼の仕事場だ。
「何か、したか」
 その声があまりにも消えてしまいそうなほど儚くて、エドワードは頑に下げていた顔を上げてしまった。そして見なければよかったと直ぐに後悔した。
「私は君に……君に何かしてしまったか。前に、私の家に来た時に」
「来るなって、言ったのアンタだろ」
「そうじゃない、それとは別に、何か……」
 初めてロイの語尾が濁った。黒い目線が過去の記憶を思い起こすために静かに揺れている。エドワードはそんな大人の姿から目を逸らすことが出来なかった。縫い付けられたかのように足が重い。機械の足なんて鉛のようだ。
「寝ていた時、君に何か……寝言でも」
 しどろもどろで歯切れの悪い台詞に静かに首を振る。身体から力が抜けていく。もちろん悪い意味で。
「何も」
 茫然と突っ立ったまま、真実を口にした。視界の奥で、ばちりと赤い感情が弾けた。
「何も、なかった。別に大佐は、いつも通りだった」
 ロイはエドワードの反応を暫く確認し、その言葉が嘘ではないとわかると心底ほっとしたように顔を緩ませた。その安堵のため息にエドワードは今度こそ血の気が引いた。こめかみから冷たいものが伝い落ちていく。悟ってしまった自分があまりにも憎かった。
「鋼の?どうした」
 ふらついたエドワードにロイは慌てた。だが延ばされた手が、エドワードに触れるか触れないかの場所で止まった。エドワードの体が、痙攣したかのように激しく震えたからだ。
「──なんで何もないか聞くの」
 ロイの目が、ゆっくりと見開かれた。微量な表情の傾きを少しも見落とさないように、エドワードもロイを凝視した。
「あの日オレに、何かしそうだったのか」
 目に見えてロイが狼狽した。ここまできてしまえばもう言い訳はできないはずだ。だってこれではもう──確定ではないか。
 かっと頭に血が昇り、たまらずロイの襟首を引っ掴みすごんだ。勢い余って前のめりになってしまった。まるでロイに縋りついているみたいに。
「違うよな大佐、あんたオレの事好きじゃないよな」
 勢いをつけて早口になってしまったのは、同じくらいの勢いで否定してほしかったからだ。しかしロイは固まったままだ。それが嫌でエドワードはさらにロイに詰め寄った。勢いに飲まれ一歩ロイが足を引いたことも許せなかった。
「違うよな大佐、そういう意味で、オレの体に触りたいとか、そういうんじゃねえよな?」
 エドワードの放った意味を咀嚼し、なぜ、と震えた薄い唇に拳を握りしめる。鼻の奥がじんと痛み始めた。エドワードはさらにもう一歩進んだ。どんと、ロイの背がデスクにぶつかったが構いやしなかった。
「オレの父親になりたいって言ったよな、大佐とセックスする人達がみんな金髪なの、偶然だよな?オレじゃ、オレじゃないよな?」
 生々しい単語が躊躇もなく口から飛び出してしまうほど、エドワードは激しく狼狽していた。カフェで受けた衝撃が、女性のねっとりとした声と共に思い出される。


『だって、ロイね。私の中で射精する時、いつも誰かの名前を呼ぶのよ』
『エドワード、って──君でしょ?』

「違うよな?」
 答える余裕も作らせず、ロイの首を揺さぶる。
「オレの、オレの名前呼ぶのって、代用じゃねえよな、違うよな、オレの名前じゃねえよな?」
 言い募るエドワードの必死さに比例して、子どもを見下ろすロイの瞳の色はどんどんと冷静になっていった。その意味がわかってしまうから、余計に軍服の襟首を掴む力が強くなってしまう。ロイの瞳に映ったエドワードの顔は痛々し気に歪んでいた。振り切るようにエドワードは首を振った。
「約束したもんな?オレと指切りげんまん、したもんな?大佐は違うよな、あいつらとは違うよな。オレのこと、そんな風に見てねえよな、あの女の人が言ってたこと、全部、全部嘘だよな……!」
 旅を始めた頃、訪れる場所で最低な男たちに襲われ続けた経験がまざまざと甦る。今であれば簡単に振り切ることもできるだろうが、あの頃はまだ心も体も幼く気持ち悪さを上回る恐怖に苛まれてうまく逃げ出すことが出来なかった。物心ついた頃には父親がおらず、性的な接触など本で得た知識しかなかった。だからこそショックが大きかった。自分の弱さを認めたくなかったが平気な振りをしながらも夜な夜な襲われかけた瞬間を思い出し悪夢に魘されることもあった。無遠慮に舐められた、触れられた自分の性的な部分から引き攣るような悪寒が消えず、シャワーを浴びるたびがむしゃらに体を擦る毎日が続いていた。そんな時だった。ロイから君の父親になりたいと真っすぐな瞳で語り掛けられたのは。弱いことは恥ずかしいことではないと、他者に認めて貰えたのは。
 守ってくれる人なんていないと思っていた。一人で、弟を守りながら先の見えない世界に飛び込んで前に進まなければならないのだと思っていた。けれどもそんなエドワードにロイは最初に手を差し伸べてくれた。父親も母親もいない、肉親は弟だけ。周囲からの風当たりも強いエドワードに君の家族になりたいと笑ってくれた。
 ぜえぜえと乱れる自分の息が煩くて、無意識のうちにエドワードのほうがロイから一歩引いていた。離れていくエドワードをロイは追わない。ただ黙って、怯えるように下がったエドワードを見下ろしている。
 ロイは、息を乱して怯える子どもの痛ましい姿に昨夜手を切った女性の一人が、自分を激しく非難していたことを思い出して苦みを噛みしめていた。事情を瞬時に悟ることはできた。あの女性がエドワードに何かを話したのだろう。ただ、今エドワードに言うべきな言葉が見つからない。
 強く否定を望まれているくせに、何も話したくない自分がいる。この期に及んで、足掻いている自分の弱さに失笑することもできない。だが悲しいことに、真実をエドワードは既に悟っている。逃げ場などない。ロイにとっても、エドワードにとっても。
 一瞬だけ目を瞑り、息を吸って止める。これは自分の浅ましさが招いた結果だった。数年前にこの執務室で歪んだ気持ちに蓋をした。君の父親になりたいと、己を守るためだけに身勝手な偽りを並べ立てた。両親からの愛に飢えていた寂しい子どもの心を掌握した。3年だ、3年もかけて自分という存在を植え付けた。エドワードを傷つけないためという大義名分を立てて自分の欲を優先させた。
 こんなことになるくらいなら最初から触れようとしなければよかった。自分自身で招いた結末は自らの手で終わらせなければならない。それがこれまで身勝手に代用していた女性たちに対しても、エドワードに恋をした一人の大人としての、責任だった。
「すまない、鋼の」
 動揺していたエドワードが、ぴたりと止まった。見開かれた金色と、蒼白な顔が余計に痛々しくて抱きしめてやりたい衝動にかられたが、もうそんなことはできないのだと思考を戒める。
「すまない、嘘だ」
「なに、が?」
 だから代わりに、ひくりと頬を震わせた子どものに手を伸ばし、そっと小さな左手を握りしめた。手袋越しにエドワードの皮膚の冷たさが浸透してくる。いっそ振りほどいてほしいのに、茫然としているエドワードは、慣れ親しんだ接触を違和感なく受け入れてしまった。そんな所にも自分が振りまいたエゴの種が見え隠れして、余計に掴む手に力がこもった。
「君をずっと裏切っていた」
 目に見えて震え始めた、エドワードの冷えた生身の手。
 もうきっと、こうして温度を分け与えることもできなくなるのだろう。
「君の言う通り嘘をついた。隣で寝てる君の顔を、体を見ながら私は──私は、君が想像もつかないようなことばかり考えていた」
 びくりと、エドワードの肩が跳ねた。わき目もふらず走ってきたのだろう、額は汗ばみ、肩にかかっていたぼさぼさの三つ編みがずり落ちた。編み直してやりたいと思った。もうそんなことはできないけれど。
「君の体に触れたいと、君と食事をしている時でも、いつだってどこだってそんなことばかり考えていた。そうだ、君にバレたのかと思ったんだ……夜に、君を見ながら自慰をしていたことを」
 あえて赤裸々に語った。エドワードの無防備な寝顔にいつも溺れた。隠してはならない、これは断罪だ。
「──ッ……!」
 エドワードの顔が、青を通り越して白くなった。食いしばった歯の隙間から声にならない悲鳴が聞こえるほどに。
「うそだよな」
「本当だ」
 エドワードは何度かひきつけを起こしたかのように口を震わせ、閉じ、また震わせ、吐息と唾液を必死に飲み込みそれを長いこと繰り返し、やっとエドワードの口から吐き出されたのは予想通り掠れた声だった。
「同じかよ。オレ、話したよな。されたこと。縛られたって、ぬ、脱がされて舐められたって、ぶん殴ること忘れるぐらい……こ、怖かったって!」
「ああ、そうだな」
 弟を守るために、誰よりも強くあろうとするエドワードは自尊心とプライドがとても高い。そんな彼は、誰かに「怖い」とバカ正直に話すような少年ではない。それでも時間をかけて、ロイはエドワードに心の隙間を見せて貰えるように彼の心を掌握した。信頼されていることを全部理解した上で、邪な目で彼を見つめ続けることを止められなかった。
「それと、同じこと、したいって」
「思っている」
 さすがに手を振りほどかれた。か細い声と同様に、それは弱弱しい動きだった。
「父親になりてえんじゃ、なかったのかよ!」
 エドワードの感情の雨が嵐のように体に叩きつけられる。この突き刺すような痛みを真っすぐに受け入れることが、自分にできる最後の真心だと本気で思っていた。
「なるって、オレを子どもだって、そう言っ、」
 耐え切れなかったのか、エドワードが強く瞼を閉じた。ぐにゃりと歪んだ目じりに、エドワードの衝撃が全て込められていた。
「指切り、したのに……!」
 大きな瞳からは涙は零れていない。エドワードの父親という立ち位置で信頼を勝ち得たものの、彼の涙だけは未だに見たことがなかった。
「……っ、父、……さん」
 唇が切ない笑みの形に歪んだ。寝ぼけていない彼に初めてそう呼ばれたのが、今、だとは。
「悪いが、君の父親になる気はない。最初からなかった」
 ひゅう、とエドワードの喉が鳴いた。息も、しずらそうに見えた。
「君を、自分の子どもだと思ったこともない」
「いうな」
「わたしは君の父親ではなく」
「いうなよ!」
 エドワードの茫然とした鋭い視線を体一つで受け入れる。まさか、君の父親になりたいと偽りに塗れた嘘を語ったこの執務室で、自らの言葉を否定することになるとは思ってもいなかった。いや、そうはいっても未来はきっと最初から決まっていたに違いない。この恋情を止めることなど最初からできやしなかったのだから。今度こそは真実を言わなければならなかった。エドワードがどんなに拒んでも。

「君の恋人に、なりたい……」

 それはあまりにも切実な声だった。父親として君を守ると、エドワードに約束してくれた時と同じくらいの感情とに満ちていた。だからこそ、そのたった一言でエドワードの感情は全て打ち砕かれた。
「なんだよそれ」
 ふらりと体が傾く。どろどろとこみ上げてきた気持ちを、エドワードは表現することができなかった。ここで今それを言うのかと眩暈までしてきた。優しく君の父親になりたいと、私の息子になってくれと微笑んでくれたこの場所で。父親としてして君を守りたいと指切りをしてくれたこの場所で。君の父親になるつもりはさらさらなかったと宣言されることの、残酷さ。
 エドワードは強く自覚した。自分が思っていた以上に、ロイを父のように慕っていたということを。本人に面と向かって言うのは照れ臭くて一度も伝えたことはなかったけれど。イーストシティに来れば温かく出迎えてくれて。年端もゆかぬ幼子のような扱いもされていたけど、本当に息子のように思っていてくれているんだと嬉しかったのに。それが。
「こいびと」
 渇いた台詞だった。全て嘘だっただなんて。全てはエドワードの願望が見せた幻だった。
「……そういうことかよ」
 力の抜けた体を気力で支える。父親のフリをしていた酷い大人が、今何を考えているのかはわからない。先ほどとは打って変わって表情がない。衝撃に今にも倒れてしまいそうなエドワードに手すら伸ばさない。いつもだったら直ぐに支えてくれただろうに。つまりはそういうことなのだ。
「嘘か、よ」
 指切りなんて子ども騙しだと思っていた。本当にそんな関係になんかなれるわけないって。けれどロイは数年かけてエドワードにそう信じさせてくれた。君は可愛いななんて頭を撫でてくれた。それなのに。
「指切りも、全部」
 全部全部、エドワードを騙すための、大きな嘘。
「オレの、体を見て興奮?なに、オレを、オレをみながら、じ……自慰とか。舐めたいとか触れたいとか、おか、犯したいとか?そんなこと、思ってたのかよ、はは、なんだそれ、なんだよそれ笑える」
 少しも面白くなんてない、けれども無性に笑い飛ばしたい気分だった。自分自身を。
「指切りなんて、くっだらねえことしてさ。オレを安心させてから、どうこうする作戦だったわけ?そうだよ、アンタの思い通りになってた。アンタの目の前で無防備に寝たりしてたよ。でも、アンタがその顔の下でオレの体を裸に剝いてたなんて知らなかった。さぞ簡単だったろうな、親のいない、惨めなガキ一人手玉に取るなんてさ!」
 か細かった声が、だんだんと大きくなる。エドワードは激しく渦巻く感情を抑えきることができなかった。目の前で、言い訳するでもなく無防備に突っ立ったままの大人に全てをぶつける。
「私は」
「近寄るな!」
 一歩、近づいてきたロイにむかってエドワードは叫んだ。もう笑いはこみ上げてこなかった。その変わり激情に腕が震える。腕だけじゃない、体のあちこちに震えが伝染していく。憤怒や憎しみだけであればよかったのに。そこに含まれている自分の感情を理解できてしまうことが絶望的だった──裏切られた哀しみのほうが強いだなんて。そんなの、地獄でしかない。
 信頼していた、信用していた。
 息子として自分を慈しんでくれていたロイが、好きだった。
「どうせ笑ってたんだろ、オレがアンタにどんどん懐いていくの見ながら、いつか丸め込んでヤッてやろうとかそんなこと思ってたんだろ!」
 ロイが痛まし気に目を見開き、突き動かされるように手を伸ばしてきた。エドワードは再び声をあげた。あまりの悲痛さに、自分でも驚くぐらいだった。
「触るなぁ!!」
 振り払った拍子に、左手がロイの頬をかすめた。 思いのほか勢いがついてしまって、ロイの顔が横を向く。真顔で頬に触れ、殴られた傷を確かめる姿に恐ろしさを感じた。じわりと赤らんでいく白い肌を見ていられなくて一歩、そして二歩下がる。
「触るなよ……」
 ロイの全てから逃れるように。
「そんな、汚い手、で」
 傍で笑うエドワードを汚すことを想像して、好き勝手に性欲を満たしていたそんな手で。あいつらと同じように、エドワードを汚そうとしたそんな手で。
「触らないでくれ……」
 先ほどまでの勢いはどこにいったのか、喉が詰まった。とんと腿の裏に、ソファの淵が当たった。このソファで、ロイが用意してきたお菓子を頬張りたわいもない会話をした時間もあった。
「これ、以上」
 ──オレを惨めに、しないでくれ。
 体を庇うように両腕で抱きしめる。最後の言葉は今まで以上に掠れて言葉になんてなっていなかった、だが、ロイの耳にはきちんと届いたらしい。彼の手のひらがぐっと握りしめられた。きつくきつく、まるで全ての感情を飲み込むかのような仕草だった。彼がが絞り出した声も、やはり静かだった。
「すまなかった……鋼の」
 ロイが、ため込んでいた台詞を吐息と共に吐き出した。静かに流れてゆく空気は、沈黙なんて気にしないで二人並んでいた食卓と同じようだった。かつんと、ロイがエドワードに背を向けた。背で腕を組む姿は、上官としての彼だった。毅然と伸びた背ではなかったけれど。
「もう私は、君の父親になろうとはしない。もう、嘘はつかない。全て私が悪い、今までのことは忘れてくれ。私ともう関わりたくないのであれば、それでもいい」
 背中越しにエドワードに話しかけてくる声は、これまでと変わらず淡々としていた。
「私から君に接触を図ることはもうしない。君はこれからも弟と旅を続けなさい。もちろん今まで通り、君たちへの援助は惜しまないつもりだから安心してほしい。何かあれば相談してくれ。動けるところは、今まで通り動こう」
 かつんかつんと、ロイがデスクに戻る。処理の終わっていない書類が、デスクの上に大量に溜まっていた。
「帰りなさい。弟の元へ」
 やはり、声だけからはロイの感情は読めない。それもそうだろう。今ロイはエドワードとの間にきっぱりと境界線を作ってしまった。耳に痛い沈黙が続いた。いつのまにか体の震えは収まっていたがその代わり酷い脱力感に見舞われた。エドワードはロイを殴ってしまった左手を見つめてから、背を向けて扉に向かった。
「──約束を」
 何も言わず、ドアを開けようとしていたから、耳に響いた彼の声がやけに印象に残った。平坦ではあったが、いつもの慈しみに満ちた声ととてもよく似ていたからだ。
「約束を破ってしまって、本当にすまなかった」
『父親として、君を守るよ』
 ロイの穏やかな声が遠ざかる。安らぎが消えていく。小指で結んだ約束が同じ場所で、解かれた。あっと言う間の出来事だった。
 エドワードは扉の外へ足を踏み出し、後ろ手で閉めた。振り返ることはしなかった。だから、広い執務室で、ぽつんと殴られた頬を撫ぜたロイの姿を見ることはなかった。


「……右手で殴ってくれていいと、言ったのにな」

 ****





 とぼとぼと、司令部の庭を歩く。
 宿に帰る前に、少しだけ頭を冷やそうと思ったのだ。こんな顔でアルの傍には戻れない。
 エドワードは自分が恥ずかしくてたまらなかった。悲しくて恥ずかしい。今になって思うのだ。もしかして自分は、ロイの想いに気がついていたのではないかと。
 カフェでロイの恋人だと思い込んでいた女性に彼の話を振られた時、エドワードはなぜかすぐに気づいてしまった。ロイが金髪の女性を選んで関係を結び抱く理由を。それは、自分の代わりなのかもしれないと。
 しかしこれは、相当おかしな話だ。全くロイの気持ちを知らなければ、これ以上彼女の話を聞くのは危険だとも思わなかったはずだ。皆目見当がつかないと切って捨てていたはずだ。けれどもエドワードは気づいてしまった。それはつまり、エドワードがロイの気持ちに薄々勘づいていたという事実に他ならないのだ。
 今思い返せば納得する点は多々あった。ロイの自分を見つめるあの瞳。優しくてあたたかくて、エドワードに対する慈しみに満ちていたあの黒い瞳に時々何が灯った。深い黒の奥で蠢いていた。そしてそんな時に限って、エドワードはロイに甘えた。悪態をつきながらも無邪気な笑顔を曝け出して。ロイがエドワードに対して父親として接することを無意識のうちに強制するように、だ。自分の行動を振り返ってみれば、ガツンとパズルのピースがハマってあまりの衝撃に頭が割れそうに痛んだ。
 自分の行動はきっと牽制だった。ロイの身の内に潜む得体の知れない未知の感情に触れたくなかったのだ。触れてしまえば全てが終わるとわかっていたから。そうだ、エドワードは心の奥底では知っていた。だから見て見ぬふりをしていた。他でもないロイが自分を性的に見てくる嫌悪すべき大人たちと同じかもしれないという恐ろしい可能性から目を背けたくていた。見せようとしない大佐に甘え、このままでいさせてほしいと願っていたのだ。
 もしも受け入れてしまえば。エドワードの父親がいなくなる。 物心ついた頃には家を出てしまっていた父親の代わりがいなくなる。指切りをしてまで、エドワードの父親になってくれた人が。エドワードだけの父親が。そんなのは嫌だ、ダメだ。そんなのは───そん、なのは?
「大将」
 はっと、エドワードは顔をあげた。直ぐ目の前にいたのは咥え煙草がトレードマークのロイの部下だった。もっとも今は勤務時間中だからか、煙草は吸っていないようだが。
「ハボック、少尉」
「よ、久しぶりだな」
「久しぶり」
「コッチにきてたんだな、連絡ないから心配してたぜ」
「……あー、忙しくてよ」
 わりい、と頬を掻きながら少し顔を逸らし視線を下げる。目に入ったのロイと同じ革の軍靴だった。違う人間相手だというのに浮かんでくるのは酷い言葉を投げつけて拒絶した彼のことばかりだ。
「相変わらずあちこち移動してんのか」
「まあね」
「で、どこいってたんだ?」
「どこって、ま、いろんな町で情報収集」
「違う違う」
 手を振ったハボックに首をかしげる。
「今までじゃなくて、今。そんな顔して誰かに虐められたか?」
「顔?」
「すごい顔してるぞ、お前」
 ハボックの声色に驚いた。ハボックは真っすぐにエドワードを見降ろしていた。少し陰りを帯びた、エドワードを心配している表情だった。普通にしていたつもりだったのにバレてしまった。沈みそうになる気持ちを抑え、いつも通り口角を上げてみせる。
「なんだよ、オレそんな変な顔してるか」
 だが、それなりに付き合いの長い軍人にはエドワードの虚勢など通用しなかったらしい。
「ああだいぶヤバイぞ、簡単にいえば、そうだなぁ」
 澄んだ青い瞳にひょいと覗き込まれる。ハボックのほうが彼よりも背が高いはずなのに、脳裏によぎったのはやはりあの真っ黒な瞳だった。エドワードの中に、常にある存在。
「置いてかれた子どもとかいろんな例えはあるけど、結局は」
 うんうんと、ハボックは何を納得しているのか頷いた。
「寂しそうな顔だな」
 エドワードは思わず瞳を瞬かせてしまった。寂しそうな顔という言葉がエドワードの中でしっくりこなかったのだ。指切りをしてまで自分の父親になってくれた人が、エドワードの父親としてのロイ・マスタングという存在が本人の手によって壊されるのが耐えられなかった。裏切られて腹が立って哀しかった。ダメだと思った。いやだと思った。何故だろうか。だってそれは、そんなのは。そんなことをすれば。 エドワードの理想とする父親が、消えてしまう。
 ──ストンと、エドワードの胸にハボックの言葉が真っすぐに落ちてきた。
 そうか、そうだったのか。 怒りの奥にある哀しいという気持ちの、また更に奥にあったものは。父親として振舞ってくれた人間がいなくなるという事実をこれほどまでに恐れたのは。他でもない寂しいという感情に苛まれてしまうからだ。
 エドワードは寂しかったのだ。大嫌いだと公言している父親が傍に居てくれなくて寂しかったのだ。そしてその寂しさを、他でもないロイで埋めていたのだ。
「あ……」
 かぁっと、頬に血が昇ってくる感覚に自分を殴りたくなった。溢れてきたのは、先ほど感じた恥ずかしさなんて比べ物にならないほどのけた違いの羞恥だった。エドワードはロイを利用してた。彼の気持ちから逃げて気がつかないふりをしたあげく、ロイを自分が望む『父親』という枠組みに無理矢理押し込めていた。ロイはエドワードのそんな気持ちに気が付いて、エドワードが望むままそれを演じてくれていただけだ。行き当たってしまった誰にも話せないような事実にエドワードは動揺した。
「オレ、は」
 ぐるぐると思考が歪んでいく。
 3年間ずっと、エドワードはとても卑怯なことをしていたんじゃないか。

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