top of page

​ウソツキティヤ

『君に話がある、2人きりの時間を設けてほしい』
『はぁ?なんだよ急に』
『どうしても話しておきたいことがあるんだ。明日の夕方執務室に来てくれ。そうだな、18時30分ぐらいだと丁度いい』
『報告書は次でいいってアンタ言ったじゃん』
『その通り、報告書は次でいい』
『……何、企んでんだ』
『別に、何も企んでなどいない』
『っかー嘘くせぇ。招集命令とかじゃねえんだろ?』
『違う、個人的な用事だ』
『ますます胡散臭い、アンタから個人的な用事だなんて』
『君が次の旅に向かう前に伝えなければならん、明後日には発ってしまうんだろう?』
『そう……だけど。別に明日呼び出される必要あるか?今ここで言えばいいだろ』
『すまないがそれはできない。来てくれ、頼む』
『……なんでアンタ、そんなに愁傷なんだよ』



 げんなりとした返答に苦笑しつつ、その後も当たり障りのないやり取りをかわす。
 まあいいけどよ、と受話器の向こうにいる少年に了承の意を示してもらえて、内心で喜びを露わにする。自分自身の照れを誤魔化すように喉を震わせれば、からかわれたと勘違いしたのか子どもは代わりにうまい菓子用意しとけよ!という可愛らしい付け足しを吐き捨てて受話器を切ろうとした。耳に馴染む声が遠のいてしまうことにもったいなさを感じて、ではまた明日、とほんのり拘束的な約束を取り付ければ、不機嫌かつ大人びた口調でああ、と返され電話を切られた。
 通信の終わりを告げる無機質な音さえも名残惜しく思えて、らしくないなとほほ笑みが零れた。かしん、と受話器を置いた指はどうにも強張っていて、柄にもなく緊張していたことを自覚してふうとため息をついた。それでも強張りは解けない。これは重症だ。
 金色の髪とトレードマークの赤いコートを脳裏に描けば、じんとした切ない痛みが胸に広がっていく。電話越しに聞こえてきたハスキーな幼い声は何度聞いても耳に心地よく、掠れた心に淡い色どりを添えてくれる。忙しさに忙殺され久しく忘れていた、胸が甘く灯る感覚だった。
 椅子の背もたれに体重を預け天井を仰いだ。やけに素早い心臓の鼓動は、受話器を置いても高鳴ったままだ。ついに行動に移してしまった。電話をしてしまった以上、もう逃げも隠れもできない。自分の決断がいい方向に向かうのか、悪い方向に向かうのかはわからなかった。なにせ27年間生きてきて初めての経験な上、相手はまだ13歳にもなっていない少年なのだ。年齢も、性別も、未知の領域だ。天才錬金術師で、頭脳明晰で、唯我独尊で、それでいて子どもらしく純粋で、真面目で、正義感が強くて、口調がちょっと荒くて、短気で、小生意気で……優しさをひた隠しにするあの子から、目が離せないなんて。
 迷惑を、かけるはずだ。きっとあの子は動揺するだろう。それでも言わないという選択肢はなかった。それほどまでにあの少年が自分の中でとても大きな存在になっていた。いい大人なのだから自制するべきだとまともな理性は警鐘を鳴らしていたが、止めることができなかった。まるで子どもの駄々のようだ。離別も、戦争も、恋も、情愛も、様々な経験を積み上げここまで成長した自分にまだこんなワガママな面が残っていたなんて新たな発見に自分自身が驚いた。あの子に出会ってからは、自分でも認知していなかった意外な一面を浮き彫りにされてばかりだ。
「大佐、まだいらしたのですか」
 トントン、と丁寧なノックと共に執務室に入ってきたのは副官だ。ふと窓を見れば外はもう暗かった。今日の仕事は、明日のためにサボらず真面目に終わらせた。そろそろ帰宅の時間になる。
「いいや、今から帰るよ」
「誰かに電話を?」
「所要でね。今終わったところだ」
「……軍の回線を私情に使うことは避けてくださいよ」
「してないよ」
 じとりとした視線は、どの口が言うのかという非難を雄弁に語っていた。そんな鳶色の瞳を真摯に受け止める。なにせ言い逃れできない前科がある。久々に逃亡も図らず真面目に仕事をこなした上官に、仕事上の右腕が疑いの眼差しを向けてしまうのは当然のことだろう。だらしなかったかつての自分に非があることは認めるが、それもこれもあの子どもに出会う前の話だ。つい3年ほど前まで、この回線で当たり障りのない相手とデートの日程を決めていた自分が懐かしい。
「本当ですか?」
「本当だとも」
 立ち上がり、ハンガーにかけておいたコートを羽織る。まだ疑いは晴れていないらしい。背中にひしひしと突き刺さる鋭い視線をするりと避ける。確かに電話をかけた相手は仕事上関わりのある軍属の少年だが、かけた理由は副官の危惧している通り私情だ。詰め寄られれば言い逃れはできない。そうなってしまえばたまらないと、話題の転換を図ってみる。
「君は?まだ帰らないのかね」
「私は、あと少しだけ書類を整理してから帰ります」
「そうか、では私は先にあがらせて頂くとするよ」
「はい」
 君も遅くならないように、と本格的に帰り支度を始めようとして気づいた。そうだ、明日のためにしなければならないことがもう一つあったのだ。しかも、かなり重要な案件だ。
「中尉」
「はい?」
「聞きたいことがあるんだが」
 てきぱきと書類を整理し始めた美貌の女性に向き直り、にっこりとほほ笑む。ロイの満面の笑みに何かあるのかと訝しんでいる副官も、件の少年を可愛がっているうちの一人だ。彼女ほど、この重要案件の適任者はいないはずだ。厳しい眼差しの中にある彼女の優しさを、ロイは誰よりも買っていた。
「君、この時間でもやっている美味しいお菓子の店を知っているかね」
「……は?」
 拍子抜けするような質問に、麗しの副官は怪訝そうに眦を釣り上げた。
 が、やはり彼女は優秀だった。軍の回線を私情で使ったと言外にアピールする私にこれ見よがしにため息をつきながらも、「うまい菓子」とやらを購入できる店への道順を、懇切丁寧に紙に記載してくれたのだから。






***







 次の日、仕事に余裕ができた時間帯だった。金色の子どもが丁度良く現れたのは。
 次でいいと言っておいた報告書もどうやら律儀に用意してきたらしい。ん、と仏頂面で突き出された書類の束を受けとる。エドワード・エルリックという少年は幼いなりに、大人の世界に踏み込むという覚悟をしっかりと持った子どもだった。ロイ相手に敬語は使わないが、上官、部下としての関係はきっちりと。ちらりと伺える彼の生真面目さに好ましさが増す反面、急かしてしまったという申し訳なさも募った。
「あんだよ」
「いや、律儀だなと思って」
「さっさと提出しちまったほうが楽なんだよ」
「すまなかったね、急かすつもりはなかったんだが」
「どーだか」
 乱雑な物言いで、ふでぶてしくソファに腰を下ろしたエドワードの前には、用意しておけよと言われた美味しい菓子とやらを置いていた。紅茶の傍には砂糖も添えてある。エドワードがいつも紅茶に2粒の砂糖を入れていることは把握済みだ。
 報告書に目を通す振りをして、皿に盛られた色とりどりのクッキーにほんのり目を輝かせた子どもが、小さな唇を開きピンク色のクッキーを口に含む瞬間を見届ける。ふた口、み口と続けて噛んだ後、僅かに綻んだ頬にほっと胸を撫でおろした。どうやらお眼鏡に叶ったらしい。昨晩優秀な副官に教えてもらった店にギリギリで滑り込み、当店話題のマドレーヌやらクッキーやらを買って来たかいがあったというものだ。
「で、今回の旅はどうだった?」
「伝えたいことってそれ?」
 もぐもぐと咀嚼音を奏でながら、尊大な口調と共に小さな両手でちんまりとカップを持つ姿のギャップは、いつ見ても胸に温かなものを灯してくれる。
「まあいいじゃないか、独り身で寂しい上官の世間話に付き合いたまえ」
「アンタ自分で言ってて虚しくねえ?」
「上官の話題に乗るのも部下の務めだとは思わんか」
「思わねえっつの」
 呆れかえったエドワードは、それでもクッキー頬張ることはやめなかった。元気な食いっぷりをこのまま眺めていたかったが、会話を続けるためにエドワードが提出してくれた報告書の一番上に目を通す。子どもらしからぬ整った字にふむ、と頷く。今回訪れたのはこの街か。
「聞いたことがある街だな」
「ああ、結構いい街だったよ。大した情報はなかったけど……でも」
 ふつりと、妙なところで途切れた会話に顔を上げる。言い淀んだ少年を伺ってみるが、金色の瞳は垂れた前髪に隠されていて見えなかった。だがきゅっと閉じられた口元に違和感を覚えた。何かを耐えているような仕草に見えた。
「何かあったのか、この街で」
「え?」
「随分と都会じゃないか、田舎育ちの君にとっては大変だっただろう」
「どういう意味だよ」
「そうだなぁ、人酔いとか」
 いつも通り台詞にからかいを混ぜれば、子ども扱いすんじゃねえよと力強い返事が返ってくるのだと思っていたがどうやら違うようだ。予想に反してエドワードは黙ったまま、さらに口を引き結んでしまった。眉間の皺が増えている。普段の彼の様子とは明らかに違った、これはいよいよ何かある。
「鋼の?」
「……アホか、人酔いとかガキじゃねえんだから」
 数秒の間を置いて返ってきた返事も覇気がない。エドワードを注視していることを感づかれないよう報告書のページをさらに一枚捲り、さりげない尋問を始める。
「どうした、心無い言葉でも言われたか」
「心無い言葉ね、それのほうがまだマシ」
 は、と吐き捨てられた吐息には明確な悪意が混じっていた。失笑に形づくられたエドワードの口元は、遠目からでもわかるほど歪んでいる。ぱらりと、3枚目の報告書のページを捲る。綺麗だった字がどことなく乱れ始めているのが気になった。もう一枚、もう一枚と捲る。7ページ目で乱雑さの滲んだ字が、とある名前を書き記していた。目を細めて思考を巡らせる。
「よからぬ人間にぶち当たったようだな」
「よからぬ人間?まあな、いたよ」
「君の、錬金術の腕をもってしても、太刀打ちできない人間が?」
 エドワードが、がりりとクッキーをすりつぶした。黒のズボンに少しだけクッキーの欠片が散る。
「舐めんなよ、ぶっとばしてやったさ。でも」
 天井を仰いだエドワードの瞳が細められる。金色の奥に広がった暗がりが、今度ははっきりと見えた。
「子どもでさ。男の子のオレが、いーんだと……」
 ざわりと、ロイの背筋が戦慄いた。一瞬にして、手首が冷える。
「すげえなぁ都会は、子どもだからって、脅せばどうにかできると思い込んでるやつがゴロゴロいやがる」
「例えば、どんなことを」
「数えてもきりねーよ、尻触ってきやがったりとか、他にも……いろいろ、さ」
「ほう」
 報告書をぱたんと閉じた。勢いを付けないように細心の注意を払ったはずだったが、乱れた心は抑えきれなかった。エドワードに見えないように、手袋越しに手のひらを握りしめる。ふつふつと、腸が煮えくり返ってくる。記載されていた名前は思い当たる姓だった。時々よからぬ噂が耳に入る南部の資産家だ。いろいろ、の部分を濁されて、わからないという方が無理だろう。平静を装うだけで精一杯だった。指先の末端まで駆け抜けた冷たい激情が痺れ、目の前が黒く淀んでいく。今直ぐにでも報告書に記載された忌々しい名前を、存在諸共燃やしてやりたいくらいだった。
「どいつもこいつも、こんな継ぎ接ぎだらけの男の体のどこがいーんだか」
 おぞましいことでも思い出したのか、エドワードが首のあたりを掻きむしった。
「べたベた舐……触りやがって、変態め」
 言い直された台詞を聞き逃しはしない。エドワードが擦っている所は舐められた箇所だろうか。報告書に書かれてあった人名についてエドワードによる説明はたった数行だけだった。『鉱物に絡んだ錬金術に興味があった資産家の男性。彼が願いが叶う赤い石を持っているとの噂を聞き邸宅に赴いたが、ただの宝石であり成果は得られなかった』だそうだ。
 噂によると、財はあるが好色家として軍上層部でも有名な男性だったと記憶している。金を使って、何人もの年若い少女、少年を邸宅に囲っているとかいないとか。管轄外であることをこれほどまでに恨んだことはない。そうでなければ今直ぐにでもしょっ引いてやれたものを。
「ほんっとーに、世の中似たような奴らばっか。くっだらね─よな……」
 軽口に隠されているのは、苦々しさだ。紅茶のカップを見つめる金色の瞳は揺れていた。そういえば紅茶を出した瞬間エドワードは一瞬顔を曇らせていたような気もする。ロイの予想が正しければ、盛られて身体をまさぐられたか。ありうる。
 長い金色の髪に同色の瞳、小柄な体。目つきと態度の横柄さで忘れがちだが、エドワード・エルリックという少年はとても目を引く容姿をしている。顔立ちが整っているからという理由だけではない、ただ、圧倒的な存在故に、人目を引くのだ。そんな小さな子どもが、大人の庇護を受けず旅をしている。考えるまでもなく、そういった性癖を持つ大人たちの恰好の餌食だ。なぜ今の今まで気が付かなかったのだろうか、その危険に。いくらエドワードが体術や錬金術の才に優れた天才だからといっても、自分よりも歳を重ねた大人に性的な興味をぶつけられて平気なはずがない。さぞ気分が悪かっただろう、おぞましかっただろう。
「ま、一発お見舞いしてやったけどな。オレが股間蹴り飛ばしただけで気絶したんだぜアイツ、ざまあみろってんだ」
 へっ、と肩を竦める仕草にも、空元気さが見え隠れる。
「まーでも、アルもいたしさ。変態野郎どもはこれからも叩き潰してやるよ。あんなのは羽虫だ、羽虫」
 今のエドワードは、自分が「他人に性的搾取される対象である」という事実を身をもって体験させられ、動揺しているようだった。気にしてないように振舞いながらも、沈んでいる蜂蜜色の瞳は痛そうだ。
「っていうかオレの話はもういいって。で、なんだってオレに話したいことって。人払いまでしちゃって。情報でもくれんの?」
 エドワードがソファから身を乗り出して此方に視線を向けた。目が合う。ロイやここの司令部にいる人間を微塵たりとも疑っていない真っすぐな瞳だ。躊躇なく二杯目のおかわりを注ぎはじめた紅茶がその証だろう。
 世の中似たような奴らばっか、変態野郎どもめ。エドワードの敵意に満ちた台詞が耳に張り付いていた。きっとこれまで、訪れる先々の街で幾度となく似たような目にあっていたに違いない。エドワードにとっては、自分を「そのような目」で見る大人は恐ろしい化け物のように見えているはずだ。押し黙ったロイに、エドワードが、ん?と首を傾げた。その仕草の愛らしさから逃げるようにデスクの上を払う。埃など何もない、ただ考える時間を作りたかった。

「君が好きだ」と、伝えるつもりだった。

 想いを自覚してから数年。これ以上押しとどめておくことができず、ついに今日、彼に告白をしようと思っていた。だが、この状況でそれを口にするのはためらわれた。エドワードはまだ12歳の子どもなのだ。同年代の少女たちと、甘い初恋を経験する年頃だ。そんな思春期のエドワードにとって、自分を庇護して貰えると思っていた大人から恋愛感情を告げられるというのは、どれほどの衝撃だろうか。少なくとも「今の彼」にとっては、大人から受ける性的な目線には耐えられまい。
「私は」
 ごくりと、口内に溜まった唾を飲み込む。怪訝そうな金色の目を見ることができなかった。ゆるやかに波打っていた心臓が、だんだんと大きく鳴り始める。今の自分自身の一挙一同が、エドワードにどうみられているか。それがこんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。
「私は、君が……」
 君が好きだと、言うのは簡単だ。
 しかしその次はどうなる。旅を続けるエドワードにとって、ロイや東方司令部が少しでも彼の安らぎの場所になっているのならばそれを奪うことはできない。もしも奪ってしまえば、彼の信頼を最低な形で裏切ることになる。傷つくエドワードは見たくない。いや違う。これは建前だ。純粋にロイ自身が、エドワードに嫌われたくないのだ。好きだ、と伝えた途端、瞳を曇らせるエドワードを見たくないだけだ。嫌悪と侮蔑の感情を向けられることに、耐えられないだけだ。
 押し黙ったまま何も語らないロイを、エドワードは根気強く待っていた。今から私に一世一代の愛の告白をされるだなんて全く想像もしていないはずだ。信頼されている。それがこんなにも重い。
「私は、君と」
 一度だけ、すっと息を吸った。思いのたけを告げて自己満足に酔いしれることと、エドワードに嫌われることを天秤にかける。答えは、考えるまでもなかった。
「いい関係を、築きたい」
「……はぁ?」
 わかりやすく眉根を寄せたエドワードと視線を合わせ、驚かせないようにゆっくりと椅子から立ち上がりエドワードに近づく。唐突な接近に少しだけ体を引いた子どもを怯えさせないよう、静かにしゃがみこみ、ソファに座る彼と目線を合わせる。
「な、なんだよ」
 ロイにこんなことをされたことのないエドワードは、目に見えて動揺していた。しかしそこに恐れは感じられない。今、エドワードの目の前には酷く真面目な顔をした人間がいることだろう。表情を取り繕うのは得意だ。これまでそうやって生きてきた。14も年の離れた子ども相手に嘘をつくぐらい造作もない。なにせロイは、彼よりも長い年数を生きてきた「大人」なのだから。
「私はね、鋼の。君の……」
 エドワードの母親ははやくに亡くなり、父親は物心ついたころには家を出ていったと聞く。エドワードたち兄弟は実親の庇護を早くに失い、隣人に手助けされながら二人で生きてきた。とくにエドワードは長男気質が強い。弟を兄として守ると自分自身を常に戒め、いつも肩ひじを張っている。13歳なんて、まだ大人に甘えたい盛りだろうに。彼には甘えられる居場所がない。実の親のように寄りかかれる存在がいない。ならば、今口にすべき答えは一つしかなかった。本来の気持ちを舌の裏に縫い付け、ロイは口を開いた。
「君の、父親になりたい」
 ぴったり30秒だ。エドワードが口を開いたまま固まったのは。
「……へ?」
 ずるりと、エドワードがソファに体重を預けた。
「ち、ちちおや?」
「ああ、父親だ」
 真顔で頷く。今のエドワードに必要な役職は恋人などではなく、自分を理解し導いてくれる父親だ。そしてそれを彼に与えることができる人物は、他でもなくロイだ。いつだったか、アンタには感謝してる、とエドワードに言われたことがある。ぶっきらぼうな口調だったが、柄にもなく赤らんでいた小さな耳を覚えている。エドワードの瞳に焔を焚き付け、彼をこの軍部という世界に引き入れ細い道を提示したのはロイだ。それをロイ以上にエドワードこそが強く意識している。これは自惚れでも何でもなく事実だ。
「なに……いっちゃってんの、アンタ」
「実は私は、君をまあまあ可愛く思っていて」
「は、はああああ?」
 エドワードが大げさに仰け反った。柔らかそうな耳が徐々に赤く色づき始めた。
「た、大佐、アンタ頭打ったか?それとも仕事しすぎてついにおかしくなったか、認知か?」
「失礼な、私はまだ27だぞ。どこもおかしくなどない」
「いーやおかしい!アンタ今自分が何しゃべってんのかわかってんの」
「わかっているよ、今本音を君に言っていることぐらい」
 エドワードは目に見えて動揺していた。それはそうだ、いつもはからかい交じりに相手をしてくるいけ好かない大人が、真面目な顔で君を可愛く想っていると告げてきたのだ。ロイが彼の立場であれば警戒していただろう。だが彼はロイではない。誰よりも真っすぐで不器用な優しさを持つ、エドワードなのだ。
「まあ聞きたまえ。この際だからはっきり言うが、私は君を息子として想っているよ」
「え、え……え!?」
 泳いだ視線を追い、できるだけ緩やかな笑みを浮かべて見せる。他意はないと伝えるために。
「む、息子って、つまり……アンタが15の時にこしらえたガキってことじゃんか」
「そういうな」
 からりと笑うふりをして、エドワードの頭にそっと手を置いてみた。小さな体はぴくりと強張ったが、ごく自然な動作で髪を撫でてみる。さらさらとした金の髪が手に馴染み、このまま想いを込めて強く強く抱きしめたい衝動をなんとか堪える。
「ちょ、おい!子ども扱いすんなよ」
「承諾しかねるな」
「た、大佐、本当にどうしたんだ」
「しょうがないだろう、君が可愛いんだから」
「ば……」
 再びの真正面からの攻撃にエドワードの頬がぼっと湯だった。いい加減耐えきれなくなったのか慌てて手のひらを引き剥がされそうになったが、懲りずに構い倒しているとエドワードもついに諦めた。混乱しているようだが、その瞳は先ほどと違って濁っていない。まんざらでもない様子だ。本気で嫌がられていたら強い力で手のひらを叩き落とされているはずだ。エドワードの手が、所在なさげにうろうろとさ迷いだす。
「ァ、アンタさ」
「はは、君の髪はごわごわしているなあ」
「うるせえ、やっぱからかってんじゃねえか!」
「──嫌か」
 撫でまわしていた手を止め、エドワードの顔を覗き込む。きょとり、と瞬いたエドワードの瞳を見つめていれば白い目じりが赤らんだ。ふいと視線を逸らされる。エドワードの両手は、いまだにさ迷ったままだ。
「こうされるのは」
「い、いや、というか」
「嫌というか?」
「だから、なんていうか」
 常にきっぱりと意見を述べるエドワードにしては珍しくしどろもどろだった。ロイが本気で言っているということを理解してしまったことで、うまい言い訳が見当たらないのだろう。尖った唇がつんと上を向く。むすっとした表情は照れている証だということに、ロイ以外の誰が気づくだろうか。
「まあ、いやではな、い……けど」
 柔らかそうな唇が紡いだ言葉に、ずしんと胸の奥が重くなる。同じく重くなった手を、エドワードの頭からそっとどける。
「無理に頼れとは、いわないが。君がよければ、私のことを父親だと思ってくれていい」
「正気?」
「正気だとも」
「キャラ変わってねえ?」
「……君に伝えたかったことはこれだ」
 違う。こんなことを言いたかったわけではない。
「切っ掛けが掴めなかったからな。改めて言わせて貰うよ。私は君を可愛いと思ってる。私は君のお父さんというやつに、なってみたい。そのような関係を築きたいと、思ってる」
 嘘を舌に乗せるのは得意なことのはずなのに、しゃべればしゃべるほど口の中が乾いていく。必死に唾液を生成しなければ喉を震わせて声を出すことすらも難しいだなんて。いい大人が聞いて呆れる。
「マジ、か」
「大マジだとも」
「お……」
「なあ、鋼の。私の息子というやつに、なってはくれないだろうか」
 眉を下げ、少しだけ照れくさそうな表情を作ることができたのは、もはや奇跡に近かった。
「……あー」
 もじもじと、エドワードの指先が意味もなく組まれた。居心地悪そうに、バツが悪そうに、エドワードがロイを見上げた。その瞳に映っているのは、エドワードが望んでいる、期待というやつだ。
「ほ、本当に、アンタ、オレの父親ぁ?とかに、なるつもりなんかよ」
「君がよければ」
「……へえ~~~」
 そっぽを向いたエドワード両頬は、熱湯を浴びせられたかのように赤い。ぶらぶらさせていた足が、ぴたりと地面に着く。伺うように見つめてきた金色の瞳が、きらきらと輝いて見えた。
「か、勝手にしろよ」
 ──ズキリと、大きく痛んだのは胸だ。ともすれば溢れそうになる苦い衝動を渾身の力で微笑みに変え、エドワードから離れる。このまま近くにいれば、何をしてしまうかわからなかった。舌の根も乾かぬうちに、エドワードを裏切ることだけは避けたかった。
「……お許しが出て、安心したよ」
「べ、別に、オレはアンタに父親になってほしいとか、そんなこと思ってるわけじゃねえからな、アンタが頼むから仕方なく……!」
「ああ、わかっているよ。有難う鋼の、私のワガママを聞いてくれて」
 もう一歩だけ下がる。拳を握りしめて力説するエドワードの姿に、思い上がるなと自制をかける。これが今のエドワードとの距離だ。
「何かあれば頼ってくれていい。君を守ろう」
「けっ、上官のアンタが、そんなことできるわけねーだろ」
「できるさ」
「しんじらんねー」
「そうか、では」
 ふい、と此方を向いた少年に小指を差し出す。何事かと私の指を見つめるエドワードにさらに目尻を緩めてみせた。
「約束をしようか、指きりげんまんだ」
「……あ?」
 エドワードは私の顔と差し出された小指を交互に見つめて、ソファの上を今度は勢いよく後ずさった。
「な、なに考えてんだ恥ずかしいことしやがって、子どもか!」
「恥ずかしくなんかないぞ。親と子の間ではよく見かける光景だろう?」
「そっそうだけど……!」
「約束だ、鋼の」
 わたわたと顔を真っ赤にして狼狽えるエドワードに、私のエゴに付き合わせてすまないねとおどけてみせる。エドワードの肩が少しだけ下がり始めた。おずおずとロイを見上げる瞳から、剣呑さが消えていく。
「父親として、君を守ろう」
 啞然としていたエドワードは何かを言おうとして口を開いたが、直ぐに閉じた。ぱくぱくとそれを何度か繰り返しても言葉がまとまらなかったのか、ずるり、と力が抜けたかのように革張りのソファにその身を全力で預けた。脱力したエドワードの体重に、ソファがきしりと唸る。
「あ、アンタな……」
「冗談でこんなことを言っているわけではないことぐらい、君にもわかるだろう」
「マジでいってんのかよ、それ」
「ああ、大マジだとも」
「大マジ」
 先ほどと同じ会話に、エドワードが今日初めて吹き出した。緩く小指を振ってみせれば、エドワードが恐る恐る、生身の指を伸ばしてきた。逃げられる前にと、小さくて丸い指先に自分の指を絡める。エドワードはぴくりと反応したが、それだけだった。
「では、指きりげんまんだ」
「……しょーがねえな」
 悪態を吐きつつもその指が引っ込められることはない。
「嘘をついたら私を殴ってくれ、鋼の右手でいいぞ」
「そんなことしたらアンタの頬腫れあがっちまうぞ」
 おどけたエドワードが、ロイの動きに合わせて指を振ってくれた。
 指切りげんまん、嘘ついたら針を千本飲ます。
 初めて触れたエドワードの指先は柔らかく離れがたかったが、いつまでもこうしていては不審がられてしまう。静かに指を解放すれば、エドワードはロイをじっと見つめていたが、まだ私の温度が残る小指をしげしげと見つめ、唇を小さく綻ばせた。
「子ども騙しかよ、馬鹿みてえ」
 ふく、と堪えきれない笑みが吹き出てしまいそうにも見えた。
 エドワードの白い歯に、赤い唇に、どうしても目がいってしまう。柔らかな口にむしゃぶりつきたくなる。一度自覚してしまった感情は喉の奥に重くへばりついたままだ。約束なんてどうでもいいと全てを放り投げて口付けてしまいたくなる。こんなことなら、想いを自覚などしなければよかったと後悔さえ滲む。
 だが、耐えなければならなかった。渇きのように増していく情愛に重い鍵をかけても。それを選んだのはロイ自身だ。道を違えてはならない。約束を守り続け、他でもないエドワードの望む父親としてのロイ・マスタングを作り上げ続けなければ。
 これは約束でもあり、ロイにとっての戒めでもあった。これからエドワードとの関係がどう変化したとしても、この絡めた指を決して解いてはならないという固い決意。

 それは、あれから数年経った今でも変わらない、二人だけの確かな約束だった。

bottom of page