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Who caught his blood?
I, said the Fish,
with my little dish,
I caught his blood.

 

誰が取ったか その血を取ったか
それは私さ 魚が言った
私の皿に 小さな皿に
私が取った その血を取った


 


Who'll make the shroud?
I, said the Beetle,
with my thread and needle,
I'll make the shroud.

誰が作るか 死装束を作るか

それは私さ 甲虫が言った

私の糸で 私の針で

私が作ろう 死装束を作ろう

──まだダメか。
エドワードは深く、硬い椅子に腰を沈めた。

この状態のマスタングに会うのは一ヶ月ぶりだというホークアイは、黙ってマスタングを見つめていた。表情は冷静そのものだが、静かに握りしめられた拳に、彼女の心の揺れが見てとれる。
「誰だと思う?っていうか、前も会っただろ、もう忘れたのか」

マスタングは怪訝そうな顔を崩さなかった。うろうろと黒目を動かし続けている。自分の醜さを自覚はしているが、エドワードの方から答えてやる気は起きなかった。少しだけの落胆もあった。やはり、わからないのかと。

苦楽を共にした、仲間すらも。彼は。
「あたれば今日の夜もお菓子食べていいぜ」
「あ……」

「この人、誰だと思う?」

今のマスタングにとっては蜜のような誘惑だろう。案の定彼は顔を輝かせ、誘われるまま部屋に踏み込んできた。が、直ぐに歩みは止まった。幼い脳内を必死に巡らして行くうちに、混乱が再骨頂に達したらしい。曇って行く顔色。彼の心情が手に取るようにわかる。そんなマスタングの様子に、今のエドワードはもう慣れてしまった。

「わ、からな……い」
「アンタ自分の部下の顔も覚えてねえの」
「ぶか」
「そ、部下」
「……」
「あれだけ世話になったのに?」
薄情な奴、そう吐き捨てれば、マスタングの広い肩がびくりと震えた。
「エディ」

窺うように、マスタングがエドワードを呼んだ。エドワードに怒られることを極端に嫌う。機嫌の悪いエドワードに、必死になって自分の取り分である菓子を渡し、機嫌をとろうとすることだってあるくらいだ。
いらねえよ、と何度押し戻しても同じことを繰り返す。もの覚えが悪いったらありゃしない。
無性にイライラとして、エドワードはこれ見よがしにホークアイが持ってきてくれた菓子を手に取り、袋を破って見せた。あっと、マスタングが素直に悲しんだ。少しだけ溜飲が下がる。
「残念、じゃあお前はお菓子抜きだ」
一歩、マスタングはエドワードに近づいた。駄々っ子のように、床の上で足を踏みならし始めた大人に、それまで黙ってことの成り行きを見ていたホークアイがついに声をあげた。
「エドワード君」
僅かに掠れた声だった。エドワードに対する非難めいた感情は感じられない。ただ、哀愁だけがあった。
「エドワード君、彼に話を聞いてもいいかしら」
ホークアイは、優しい女性だった。際立つ己の醜さにじくりと痛む胸から、エドワードは思考を背け、袋から取り出したクッキーを、ボリッと一枚噛み砕いた。
「……何聞いたって、なにも思い出せないと思うよ。こんなんだし」
激しくなるマスタングの地団太を、言外に罵る。
「エドワード君」
ホークアイは、静かに笑みを浮かべた。慈愛に満ちた瞳だった。
「それでもいいの、大丈夫よ」

半分になったクッキーを置いて、マスタングに視線を投げる。
「……最後だ、ヒントやるから当てて見ろよ。この前大きいお兄さんが来ただろ?」

ここまでくればエドワードも意地だった。大きいお兄さん、と言われてマスタングはぴたりと地団太を止めた。

「覚えてるか?金髪の、煙草臭いお兄さんだよ。お前遊んでもらっただろ」

マスタングが首を捻った。覚えているのか覚えていないのか微妙な所だ。もしもあったとしても、きっとうっすらと記憶に残っている程度だろう。マスタングが覚えているのは、いつだってエドワードのことだけだ。

「この人はあの時の大きいお兄さんの知り合いだ。さて、誰でしょう」
「エディのと、ともだち」
「それ以外は?」
「エディの……おねえ、さん」
「……まー、当たらずも遠からずって所かな」
姉のように、慕っているのは本当だ。
ぴー、と、けたたましくお湯が沸いた。残りのクッキーの欠片を噛み砕きながらやかんの火を止めた。こんなにおいしいクッキーを、こんな気持ちで食べたくはない。
はあ、とため息をついてからマスタングに向き直る。彼はシャツをぎゅっと握りしめていた。心細くなった時に、彼がよくやるクセだ。彼をこんな気分にさせたのは自分だ。むしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、エドワードは、自分の許しを待っている「子供」に向かって、腕を伸ばした。
「もういい……来れば」
きょとんと目をまんまるくさせたマスタングは、すぐに体のこわばりを解き彼にとっては理解不能な、正面きっての悪意を押し付けられたことなんてすっかり忘れたかのようにてくてくと近くに寄ってきた。側に座るホークアイを若干警戒しながらエドワードの傍にきたマスタングは、ぺたりと地面に座りこみエドワードの腰にまき着いてきた。太い腕に腰を締められ、力を入れられて若干痛い。エドワードから離れるのを恐れているのか、彼はエドワードにどんな酷いことを言われても、侮蔑されても、めげずにエドワードに縋りついてくる。
エドワードは、いつものようにその腕を軽く叩いた。
「こら、ちゃんと椅子に座れ」
引き剥がそうとすればするほど力が強まる。それはわかっているので、仕方がないと食べ物で釣る。2枚目のクッキーの袋をあけて、マスタング専用の皿の上に置いてやった。
緑色の、落としても割れない子供用の皿。自分の分だと直ぐにわかったマスタングは、ようやくエドワードから離れて自分専用の椅子に座った。切り分けておいた林檎を皿に移し、苦い紅茶が飲めない彼のため、ホークアイには紅茶を、マスタングには彼のお気に入りのオレンジジュースを入れてやる。もちろんカップも、彼専用の手持ちつきだ。それでも、マスタングの目はあまり輝かなかった。やはり、見知らぬ人間の存在は気になるらしい。
ジュースを啜りながら、窺うようにホークアイを見つめている。
「ほら、挨拶は?」
「こんにちは……ロイさん」
自分の苗字がマスタングだと理解できないマスタングのために、ホークアイは彼の名を呼んだ。それでもマスタングは返事をしようとはしない。持ち前の忍耐力で、ホークアイは辛抱強くマスタングを見つめる。
「こんにちはだ、言えるだろ」
「、こん……に、は」
エドワードにたしなめられて、マスタングが、消え入りそうな声で挨拶を返した。これでは完全な人見知りだ。安心させるために、わざと目じりを緩めたホークアイ相手でさえ警戒心が収まらないマスタングに辟易する。
「ごめん中尉、まだこんなで」
「いいのよ。わかってるわ」

だが、二人の会話をよそに、マスタングは箱に詰められた色とりどりのクッキーに思考を切り替えたらしい。いつものようにたどたどしい指先で、自分の好きな色のクッキーを一つ掴んで口に入れている。何味だったのだろうか。彼の顔が、輝いた。
「中尉、今なら話かけても逃げないと思うよ。お菓子与えてれば大人しいから」
ほら、見てよ。言いながら、マスタングの髪をくるくると弄ぶ。少し汗っぽい。マスタングはクッキーを貪ることに集中していて、髪を弄られていることにもなんら頓着していないようだ。
他人がいれば、寝ていても直ぐに起き上がっていた男と同一人物だとは思えない。
今のマスタングは、かつてのマスタングとは別人だ。ベッドの上で飛び跳ねて遊ぶこともある。昼間に散々体を動かしてやれば、夜寝付くのも早い。素直な子供だった。
「あーあ、ぽろぽろ零してさ……」
子どものように両手でクッキーを貪る大人の異質さには、もう慣れた。マスタングの口周りに、粉々になった食べかすが零れ、テーブルを汚す。何度掃除をしてもすぐこれだ。

「そんなにうまい?」

エドワードを見、クッキーを見、一拍遅れてエドワードの言葉を理解しマスタングは、うんと一つ、頷いた。
「へえ……よかったな」

なんともいえないざわざわとした気持ちが、背筋を駆け巡る。
「エディ」
暫く何かを考えこんでいたマスタングかすっと手を差し出してきた。そこには食べかけのクッキーが挟まれていた。
「いらねえよ、お前の食べかけなんて」
心底迷惑だと顔を背けても、ぐいぐいと押し付けてくる。面倒臭くなって、大きな手を軽くはたき落とした。あっとマスタングが間抜けな声をあげて、クッキーがテーブルに落ちてぽろりと砕けた。
「……あーもう、また零しちまったじゃねえかよ」
今のは確実に自分が悪かったのだが、どうにもマスタングを責める言葉しか使えない。そうすることが癖になってしまっていて、今更変えることができなくなっていた。マスタングはエドワードが叩き落したクッキーを拾い、口に入れた。黙ってこちらを見つめてくるホークアイの視線を感じる。ここで前に出ることは得策ではないと理解しているのだろう。それがエドワードにとっては有難く、いたたまれなかった。
「……溢れてるってば、大佐」

大佐、と呼んでも、彼は新しいクッキーに夢中になったままだった。

エドワードは手拭きでテーブルの粉をかき集めた。他人にとって、自分達の関係はどのように見えるのだろうか。頭のおかしな青年の世話をする少年。異常な光景だと思う。視線が気になって、おちおち散歩もできやしない。だからこそこんな町はずれの場所に住んでいるのだし、実際、彼と出歩いたことがあるのは庭までだ。

「ほら口閉じろって、ふいてやるから」

剃りきれなかった黒い髭に、白いクッキーの欠片がくっついていた。心は哀れな子どもの癖に、身体だけは成人男性そのもの。ナプキンで、大人しく口を閉じたマスタングの唇と頬を拭ってやる。マスタングが、嬉しそうに目尻を緩めもっと拭いてくれと身を乗り出してきた。無邪気に。

そこにあるのは、全幅的な信頼と、純真さ。いっそ眩いばかりの。

──姿形は、確かに見知ったマスタングだ。

けれども今のマスタングは、マスタングではない。
正確には、国軍大佐として生きてきたロイ・マスタングでは、もうなかった。

 

 

エドワードの知っているマスタングは、壊れてしまった。

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