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Who'll dig his grave?
I, said the Owl,
with my pick and shovel,
I'll dig his grave.

誰が掘るか お墓の穴を
それは私さ フクロウがそう言った
私のシャベルで 小さなシャベルで
私が掘ろうよ お墓の穴を

Who'll be the parson?
I, said the Rook,
with my little book,
I'll be the parson.

誰がなるか 司祭になるか
それは私さ ミヤマガラスがそう言った
私の聖書で 小さな聖書で
私がなろうぞ 司祭になろうぞ

 

「いつまでそうしているおつもりですか」

 

 


薄暗い部屋の中、酒瓶が、部屋のあちらこちらに散らばっていた。暫く開けられることの
なかったその扉。それを開いた女性は、予想通りではあったが目も当てられぬ惨状に、わ
ずかにだが眉間に皺をよせた。


「いつまでそうしているおつもりですか」


もう一度、同じ言葉を吐く。
しかし答えはない。寝室の隅に置かれてあるベッドの上。そこに座っている大きな影は、こちらに気が付いているはずなのに下を向いたまま微動だにしなかった。
まるで身を隠すように閉めきられた扉を抉じ開けた金髪の女性──ホークアイは、無言のまま部屋に一歩、足を踏み入れた。
むわっと、漂うアルコールの匂い。途端にジャリとなる靴。下を見なくともわかる。硝子の破片だ。廊下の明かりに照らされて、部屋に散らばった硝子の破片がキラキラと輝く。踏み入れれば、怪我をしてしまうかもしれない。それでもホークアイは構わず歩を進めた。
「玄関の鍵が、空いていたので入らせて貰いました」
普段の彼女ならばあり得ない行動だ。上官の私邸に許可なく上がりこみ、ましてや声をかけることなく部屋に入り込むなど。それでも、彼女がこうするのにはわけがあった。
「この国の国軍大佐ともあろうお方が、無断で仕事を休むとは何事ですか」
ベッドの側まで歩みよったホークアイは、大きな体躯を持つくせに、やけに小さく見える男を見下ろした。
「たかがこれしきのことで、落ち込んでいる暇があるのですか」
国軍大佐と呼ばれた男は、今はその身を、いつもの青い軍服で覆ってはいない。白いシャツに黒いズボン、私服だ。その私服も何日も着替えていないのか襟元が黄ばみ、汗ばんでいる。微かな異臭にホークアイは鼻を顰めた。きっと、ろくにシャワーすら浴びていないに違いない。目に見えて疲弊している。いや。絶望しているというべきか。
「これしき……」
ぴくりと体を揺らし、小さく呟いた男は、僅かだが顔を上げた。久しぶりに聞いた上司の声は、今までに聞いたことがないほどに掠れていた。軽くつつけば今にもひび割れてしまいそうな、ひび割れた声。それもそうだろう。これだけ酒を浴びるように飲み、爛れた生活を送っていれば誰であろうとこうなる。人間兵器と呼ばれている彼だって、人間なのだ。
「これしき、と、言ったのか」
覗く黒の無精髭が、男をより一層汚ならしくみせている。しかし、哀愁漂うその姿に同情する者はここには誰もいなかった。この淀んだ空間にいるのは、男と、そんな彼を冷めた目で見下ろす副官一人だけだ。
「これしきのことでしょう」
「違う」
「そうでしょうか」
それでも、この身体の中から腐った臭いを撒き散らす男は、ただの男ではない。この国の国軍大佐なのだ。堅苦しい軍服を脱ぎ捨て、どれだけ酒をあおろうと。軍人としても、そして人間としても愚かな男であったとしても、その階級から逃れることはできない。逃れないで上を目指すと、男は誓っていた。成すべきことは、山のように積まれている。
「違う……」
膝の上で握りしめた拳を、男が震わせる。
「違いません」
辛辣に言い切った瞬間、男が顔を上げた。
暗いその瞳が、ホークアイを視界に捉える。そこに小さく宿った憤怒と哀しみの焔は、一瞬にしてどろりとした汚泥に包まれて、淀んだ。目線が泳ぐ。単純に醜い。そんな言葉が似合うほど、男は歪んでいた。
「これしきのことでしょう。少なくとも貴方にとっては」
ホークアイは目を逸らすことはしなかった。逸らす価値もない。
「私達にとっては大きなことです。でも、貴方にとってはそれほどのことではなかったのでしょう」
あくまで淡々と、事実を述べる。
「だから、あんなことができたのでしょう」
ホークアイの震える指先に、男はようやく気がついたようだった。
「戦場で犯された人間の哀れな末路など、腐るほで見てきたでしょうに」
戦場という異常な場所で、多くの人間が狂っていった。男も女も関係なく、それぞれの理由で。ホークアイが今相手にしている男も、加害者であると同時に、被害者の一人でもあった。上の命令に逆らえず数多の人間を手にかけ、野望を抱き、自身の犯した罪と命の重みを背負いながら前を向いて歩いていた男。もしかしたら真っすぐに見えていた足跡は歪に歪み、崩れて砂に埋もれていたのかもしれない。周囲が気づかなかっただけで、彼は狂っていった人間の一人であったかもしれない。いや、きっと病んでいた。
けれども。例えそうだったとしても。
「それを平気で行えたというのは、貴方にとってそれが大したことではなかったから。違いますか、マスタング大佐」
闇に飲まれた。それを理由に他の人間を壊してしまった時点で、人は簡単に、被害者の皮を被った加害者になりうる。彼は、かの戦地においては圧倒的な加害者であり、被害者でもあった。けれども今彼は、紛れもなく加害者だった。
ロイ・マスタングは、一線を越えてしまったのだ。


沈黙が、寝室を支配した。時計の鳴る音だけが無情緒にしかし確実に、果てのない未来に向かって時を刻み続ける。一分でも一秒でもいい、過去に戻ることができたのなら。ただひたすらそう乞い願う人間は、この世界に溢れかえるほど存在する。ホークアイや、彼が殺してきた人間の家族もそう願っていることだろう。しかし、それは絶対に叶うことのない未来だ。かの有名な小さな天才錬金術師ですら、時を戻すことも、人を蘇らせることなど出来やしなかったのだから。
「後悔なんて、しても意味がありません」
マスタングも、その中の一人に過ぎない。
人が人であるかぎり、それは避けられない事実であり、真実だ。
「苦しむべきは、貴方ではありません」
だからこそ、人は間違いを犯さぬよう努力し歳を重ねてゆく。そんなこと、子供ですら知っている。それが錬金術師であるならば、なおさら。
「本当に苦しむべきあの子は、もう」
それなのに。それなのに。どうして。
「もう、あの子は」
どうして。あんなことが。
「目を覚ましません」
人を苦しめ、追い詰めることができたのか。 どうして、そうなる前に自分を止めることが出来なかったのか。
「やめろ」
はっきりとした、強い声。しかしマスタングは立ち上がらなかった。ホークアイは目線を下げた。こちらを睨み付けてくる瞳は餓鬼のように窪み、爛々と鈍い光を放っていた。
それでも、強張った手は硬直したように、膝を掴んだまま動かない。動かせないのだろう。
「これは事実です。いつまで逃げているつもりですか」
「……やめるんだ」
命令的な口調とは裏腹に、そこに含まれているのは弱弱しい懇願だ。ホークアイにはわかる。どれだけ虚勢を張ろうとも、小さく震える唇がそれを物語っている。もう何年も、マスタングの側にいたホークアイであればなおさらだ。そして、今マスタングがどれほどの負の感情に苛まれているのかも。まるで、手に取る様に。
「やめません」
「やめろ」
「あの子は何度貴方にそう懇願しましたか」
ぐっと歪んだ、マスタングのこけた頬。

顔を下げ、どこまでも逃げようとする男をホークアイは逃さなかった。
「それでも貴方は止まらなかった」
「やめてくれ」
「やめません!」
ついに、ホークアイは声を荒げた。その大声にびくりと体を震わした男に、全ての感情をぶつけるように拳を握りしめる。成すべきことはしてきた。マスタングがいない間の処理も全て行った。休んでいる暇などなかった。進みゆく時間にただただ身をゆだねることはできなかった。軍人として、副官として、そして、あの子を慈しんできた、人として。だから、ここからは、ホークアイ個人の時間だ。
「貴方がしていることはただの逃避です!」
ひしゃげた男に向かって、叫ぶ。
「いい加減にしてください、受け入れられない事実から目を背けて、一体何が変わるというんですか、何も変わらない、あの子はもう目を覚まさない。アルフォンス君は一人ぼっちになって、故郷の幼馴染も、あの子を見守ってきた人もみな、打ちのめされています。それでも私達は生きていて、あの子をあんな風にした貴方も生きている。腐っている暇はありません、やるべきことはまだ残っています。イシュヴァールの政策も、上を目指すと言う貴方の野望も、何も進んでいません」
どうしようもないほどに荒れ狂う感情を最後まで抑えておけるほど、できた人間ではない。

まるで子供のように項垂れる大人に向かって、その心を切り裂く言葉を重ねる。

身を守る様に力が込められた男の手。一体何からその身を守っているというのか。本当に守るべき人間は、自分自身などではなく。あの子ではなかったのか。
「欲しかったのでしょうあの子が。これは、貴方が思うままに行動して手に入れた結果です。もっと喜んだらいかがですか」
マスタングが顔を上げた。その顔は喜びとはほど遠い。しかし、初めにみた、激情と怒りがないまぜとなった荒んだ表情ではなかった。
それでも、その黒い瞳からは涙は零れていなかった。もう出しつくしたのか、それとも流す価値もないと自分を戒めているのか。わずかに開き、断続的な呼吸を繰り返している彼の口がどんな意味を持っているのかホークアイはわからない。
それでもホークアイは逃げなかった。この男から。だからこそ、逃げ続けている男に腹が立った。
「今さらでしょう、貴方も私も、屍の上に立って生きている。だからもう一度、言わせて頂きます。
荒げた呼吸を沈め、静かに息を吸って、吐く。しっかりと声が、通るように。

「これしきの事ぐらいで、立ち止まっている暇があるのですか」

最後の言葉は、最大で最低な皮肉だ。それをわかっていながらホークアイは言った。
かつて小さな、本当に小さな女の子を守れず、打ちのめされていたエドワードに対してマスタングが言い放った言葉だ。あの時は、彼女を奮い立たせるための言葉だとばかり思っていたが、今思えばそれもどうか危うい。あの時、どんな気持ちで彼が人間なんだ、と叫んでいたのか。もしあの時気が付いていたら。何かが変わっていたのかもしれない。だがもう遅かった。



エドワード・エルリックは、もう目を覚まさないのだから。


結局、ホークアイがマスタングと会話らしい会話をすることは出来なかった。

一ヶ月前も同じ結果だったので、驚きはない。どちらかと言うと今日のマスタングは、前回よりも比較的大人しくしていた。駄目だったのは後半からだ。突然錯乱したかのように席を立ち、案の定転んで床に体を叩きつけ始めた。自分のテリトリーに見知らぬ他人がいることがやはり相当のストレスなのか、うめき声をあげて床に突っ伏し、頭を抱えてホークアイを拒絶するマスタングに、ホークアイは潮時だと席をたったのだ。
「エドワード君」
帰り際、ホークアイはエドワードを真っ直ぐに見て言った。
「……ん?」
「ごめんなさい、まだ来るべきではなかったわね」
「いや、しょうがない。気にしないでくれよ」

誰か来てくれないと、オレも狂いそうだし。その言葉は胸にしまっておく。

「私は、彼に嫌われてるみたいね」

「誰に対してもあんなんだって」
そう、エドワード以外には。マスタングは、また部屋に引きこもってしまった。

今頃、部屋の隅で体を丸めて縮こまっているに違いない。いつものように。
「エドワード君」
「おかしいのはアイツだ」
「……三ヶ月、経ったわ」
積み上げられた荷物。汚らしい廊下の惨状。マスタングが遊びながら落書きをした壁を、ホークアイはなぞった。乾いたクレヨンの粉が、彼女の指についた。
綺麗な円ばかり落書きしているのは、錬金術師だった人間としての名残が少しでも残っているからなのだろうか。そこにサラマンダーの印が描かれていないことが、エドワードにとってもホークアイにとっても幸いだったのか、それとも哀しみだったのか。
「もうそろそろ、貴方は解放されていいと思うのだけれど」
エドワードは、小さく苦笑した。
「オレは、もう解放されてる」
「見捨てて」
ホークアイが、かつてのマスタングの部下が、静かに言い放った。
「いいのよ?エドワード君」
床を見つめる。拭き損なっていた箇所が目に入った。飛び散った液体。マスタングがトイレまで持たず、飛び散らかせたものを、掃除し忘れてしまっていたらしい。そこまで気が回らなかった。
──自分は、どうしたいのだろうか。
心に問うても、わからない。疲れていた。エドワードしか頼れるものがいなくなったマスタングをいたぶりたいのか、嘲りたいのか。わからなかったが、マスタングから離れることはどうしてもできなかった。優しいだとか、そんな美しい感情でないことだけは確かだ。

 

まだ三ヶ月、されど三ヶ月。
エドワードだってわかっている。いつまでも、こんなことをしていられないこと。
けれども、だって、マスタングは。エドワードがいないと、壊れてしまう。


エドワード君が縛られることなんてないのよと、とホークアイはことあるごとに言う。弟にもそう言われた。実際その通りだと思う。本当は、エドワードはマスタングを見捨てるつもりだった。けれどもいま自分はここにいる。
マスタングはエドワードが目覚めてからはずっとあの調子だ。
全てを忘れ、子どもになっていた。
それでも、何故かエドワードのことだけはしっかりと認識し、覚えていた。
目覚めたばかりで意識も朦朧としているエドワードを見て、彼は呟いた。

心のこもった声で『エディ』と、一言だけ。

初めはどうしたのかと、純粋に驚いた。どんな時でも、彼には「鋼の」としか呼ばれたことがなかったから。たった一度の、あの時を除いて。

あの日の出来事について、エドワードの記憶はおぼろげだ。
気がついたら水面が見えた。それからの記憶がない。目覚めた時には、狂ったマスタングしかいなかった。


話によるとエドワードは、三ヶ月も目覚めなかったらしい。

もう目覚めることは難しいだろうと医者が匙を投げたエドワードは、しかしそれでも目を覚ました。持ち前の精神力か、鍛え上げた身体か。医者には素晴らしい生命力だと褒められたが、その代わりにマスタングが壊れていた。おそらく精神的なものだろうと医者は結論づけた。正常な記憶、正常な思考、正常な言語、正常な大人としての行動、果ては排泄に至るまで。マスタングは何もわからない子ども、いや赤子に成り下がっていた。

その中でただ一つ、マスタングが覚えていたこと。

それは、エドワードが「エディ」という人間であるということだった。

 

どこからどこまでエドワードのことを覚えているのかはわからない。

ただ、彼はエドワードに懐いた。目覚めたエドワードから片時も離れなかった。お陰でエドワードは、目覚めたばかりで重い体を引きずってマスタングの世話をしなければならなくなった。エドワードがいなくなれば喚く、騒ぐ、泣く。エドワードを求めて走り回る。エドワード以外の人間に少しも懐かない。むしろエドワード以外の人間が傍によれば怯えも露わにパニックに陥る。かつての彼のあまりの変わりように戸惑いの連続だった。だって、壊れる前の彼と何もかもが違う。

以前の彼であれば、エドワードを都合のいい道具として扱うことはあれど、エドワードを求めて探し回るなど絶対にしなかったはずなのに。

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