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「なんで?」


 第一声は、それだった。やってしまったと、此方を見上げた黒色の瞳は苦悩に満ちていた。何かを諦めているようにも見えた。エドワードはマスタングの仕出かした行動に驚き、困惑し、そして茫然と同じ言葉を繰り返した。
「なんで?」
「エドワード君!」
 激しい足音が聞こえても、背後で大きな声で叫ばれても。エドワードは眼下の光景から目を離すことができなかった。信じられなかった。と同時に、どこか納得もしていた。驚きはしたが、いつかはこんなことが起きるのではないかと心のどこかでは思っていた、らしい。それを知ったのも、まさにこの瞬間だったのだが。


「なんで?」
「……エドワード君!」


 強い力で、引き寄せられる。そこまでされても目を逸らすことはできなかった。ただ視線を集中させる。自分の目の前で起きた出来事から、意識を逸らすことは不可能だった。
 手を伸ばして触れる。倒れた男が顔を顰めた。白い手袋に滲んだ赤は、この男から流れ出たものだ。手袋どころではない、それはあっと言う間に地面を濡らし、エドワードの膝を濡らした。酷い出血だった。
 小さないざこざがあったと、招集命令がかかったのは数時間だった。テロ組織が、イーストシティの外れに立てこもったと。そう報告を受けて。案の定、マスタングはたまたまイーストシティの近くに滞在していたエドワードを出動させることを渋った。が、エドワードはマスタングの意向を押しのけ、前に出た。錬金術を齧るテロリストも数人いるという情報通り、民間の怪我人も若干名いた。幸い死者は出ておらず、錬金術を齧っただけのテロリストの実力もたいしたものでもなく、マスタングが少し脅しただけでテロリスト共はあっという間に鎮圧された。エドワードの出る幕はなかった。そんな、どの地域でも発生しそうな事件の一つ、のはずだった。
 気を抜いていたわけではなかった。けれど、きらりと光った異物に気が付くのが遅れたのは確かだった。戦況が安定し、マスタングが汗ばんだ発火布を一瞬抜き取った瞬間だった。それを見越していたのか、偶然だったのかはわかならい。けれども、テロの残党は銃弾をうならせた。 
狙われたのはエドワードだった。小さな子どもを撃ち殺し、軍の怠慢を市民に訴えようとでもしたのかもしれない。ぱん、と高らかな音の後、倒れ伏したのはエドワードではなくマスタングだった。テロの残党は見事に撃ち抜いた。エドワードではなく、マスタングの背を。
 圧し掛かってくる重さに気が付く前に、エドワードは地面に押し倒されていた。マスタングの肩が目の前にあった。首筋に埋もれたマスタングの頭に混乱した。静寂は僅かだった。怒声が響き渡り、部下達が慌てて駆け寄ってくる。エドワードはそこで思い出した。銃声と共に、マスタングに腕を引かれたことを。そして、腕の中に絡めとられたことを。温度を失っていく大きな身体に、他でもないマスタングに、庇われたことを。

「なんで?」
 わけがわからなかった。わからないまま、全体重を乗せてくるマスタングをどける。
 マスタングは抵抗なく地面に転がり、「ぐ……ッ」と今までに聞いたことがないような苦悶の声を上げ、体を痙攣させながら弛緩した。顔はいつも以上に蒼白で、脂汗が次々と流れては土の地面を濡らしている。途切れ途切れの呼吸は、掠れたラジオのように荒かった。こんなマスタング、見たことない。なんだか現実味がなかった。いつも高圧的な態度をとる男が、地面に伏してもがいている。エドワードの目の前で。
 ふと、マスタングと目が合った。ぼんやりと、目の前に倒れたマスタングと、ドクドク流れ続け青い軍服を濃紺に濡らす血液を交互に見返すエドワードに、マスタングはひくりと口を戦慄かせ。
「すま、ない」
 と、一言いった。苦渋に満ちた顔だった。
 一拍おいて、すまない、と彼は再度口にした。口の端からも血液が零れている辺り、内臓も損傷しているのだろうか。そんなことを緩慢に思い巡らしながら、エドワードは血の気の失せた顔で自分を見つめる黒髪の男を見下ろした。自分を庇い傷を負ったマスタングを、助けるでもなく。
「……エドワード君!」
 結局、ホークアイ中尉に肩を叩かれた時に、担架が到着した。マスタングは開いた傷口を自身で抑え呼吸を細くしながらも、エドワードから視線を逸らさなかった。痛いのはマスタングのほうだろうに。傷ついたように揺れる黒曜石に声をかけることもできず、エドワードは素早く医務室に運ばれてゆく彼の男を眺めていた。
 血に染まり濃い赤になったエドワードのコートの裾を隠すためか、いつの間にか肩にかけられていた女性ものの軍服の上着が、砂の地面に落ちた。砂が散った。


 あの人が、勝手にやったことだわ。
 だから、恨まないであげてね。


 あのあと、事態に気が付いた軍人に、マスタングを撃った残党の一人は射殺されたと聞いた。努めて冷静に、エドワードにタオルを手渡してくれたマスタングの副官は、上官を助けるでもなくただ見下ろしていたエドワードを責めなかった。ただ淡々と、エドワードを案じてくれた。多くを語らない彼女は、どこまで知っているのだろうか。いや、何も知らないはずだ。人前で、マスタングとの関係を匂わしたことなど一度もなかった。直接関わり始めたのはまだ数年だが、ホークアイ中尉が優しく、常識ある人間だということはわかる。上司が良からぬ行為を働いていれば直ぐに諫めるだろう。何も知らないまでも、彼女は立派に、大人だった。だからこそ、エドワードは彼女に聞いた。マスタングが療養している医務室の場所を。
 結論から言うと、マスタングは無事だった。医療の錬金術を学んでいる医者が在住していたという。損傷はあったが、処置が早かったおかげで命に別状はないとのことだった。ただ、不慣れな医者だったために、そこまでうまくはいかなかったようだ。出血も多かったため、彼は絶対安静だった。
 アポイントも取らず部屋を訪れたエドワードに、マスタングは何かを悟っていたのか、人払いを命じた。咥え煙草がトレードマークの金髪の軍人に頭をぐりぐりと撫でられた拍子に、体が傾いて部屋の中に足を踏み入れてしまった。扉が静かに、閉められる。
 二人だけとなった白い部屋。既にベッドから起き上がっていたマスタングの顔は、重症人らしく紙のように白かった。エドワードとは目線を合わせず、「怪我は」とだけ言った男の、白い包帯が眩しくて目に痛い。
「……あるわけねえだろ」
 その言葉を本来問いかけるべきなのはエドワードのほうだろうに。なぜこの男が。
「……アンタが盾になったんだから」
 マスタングが、僅かに俯いたような気がした。バツが悪い、とも違う奇妙な雰囲気。じわじわと、背筋を下から這い上がってくるうすら寒さは、予感だった。命の危機を感じる切羽詰まった戦いはもう何度も経験したし、圧倒的な敵意を感じさせる嫌な予感というものには慣れている。けれども、今エドワードが感じているのはそれとはまた異なる、細胞一つ一つがゆっくりと冷水に浸っていくような、冷ややかな悪寒だった。心の臓めがけて迫りくるそれから逃れるためには、今すぐここを去らなければならない。エドワードにはそれができる、はずなのに、どうしてか踵を翻すことができない。
 すまないと、血を吐くように声を絞り出したマスタングの掠れた声が頭から離れてくれはい。何かを謝られた、けれどもそのその何かがわからない。なんで?とエドワードが問うた時、まずい、と。マスタングが顔を歪ませた意味が。
「なあ」
 黒い髪の隙間から夜の色が覗く。憔悴しているように見えた。
「今から、アンタに変なこと聞いてもいいか」
 関係を断ち切られてから一年と少し。マスタングとの関係は、奇妙に変わっていた。下僕であるよう振舞いながらも、エドワードを常に意識しているマスタングという人間を、持て余していた。この男に、三年間も苦しめられてきたという過去が、この一年でどこか遠いことのように思えてたのも事実だ。だからこそ、無暗に動くことを避けてここまで来た。もしも一歩でも足を踏み出してしまえば、もう戻ることはできない。そう思っていたから。
「おかしいことを、言うと思う。答える価値もないものだったら。捨て置け」
 心が、過去が、乱されることはあってはならない。エドワードの最優先事項はそれではない。弟と元の体に戻る。それを強く念頭に置き、声に色を乗せないよう静かに言葉を紡ぐ。禁書の在処を書いた紙を、必要ないのなら捨て置けと言ったマスタングと同じように。
「大佐、は」
 エドワードを切り捨てた後のマスタングは、エドワードと接触する時、常に自身を戒めているように見えた。エドワードを痛めつけていた頃とは異なる固い笑みを浮かべ、余計なことは言わず、淡々とエドワードの足痕を追う。エドワードの妨害になりそうな壁があれば、何も言わずに排除し、道を作る。
 最初から、おかしいと思っていた。マスタングはこんな人間ではなかった。一年前とはまるで別人だ。最後に部屋に呼ばれたあの日、エドワードに飽きていたからだろうか、エドワードを本物の性処理道具のように扱い、エドワードの混乱も恐怖もねじ伏せて好き勝手に自分の欲を満たし、気のすむまで犯しぬいていたのは彼だ。そこで言っていたではないか。切った女に割く時間は無いと。それなのに今の彼は、暇がある時にエドワードに情報提供をしているのではなく、エドワードのためにわざわざ時間を割いているように見えた。
 けれども、奇妙に思いつつも、それらの全てはエドワードに対する負い目から来ているとエドワードは納得していた。無理矢理、自分をそう納得させていた。  
 もう君に飽きたと、エドワードを傲慢に捨てたマスタングであるからこそ、子どもを犯したという過去の負い目は将来的にマスタングが目指す未来の害にしかならない。だからこそエドワードに利を与え、エドワードが余計なことを言わぬように背後から見張っているのだと。マスタングの言う『贖罪』とは、そういうことであると。それが少し過剰になっているだけなのだと。マスタング自身もそうエドワードに説明していたはずだ。
 

 エドワードを軍事に参加させないことも。
 危険な任務時に、司令官自らが赴き、エドワードを守ろうとすることも。
 エドワードが欲する資料があれば、多少無理を言わせてでも手に入れようと画策することも。
 エドワードが軍幹部の関係者と接触する場合に、必ず仲介に入り面会の場に立ち会うようになったことも。
 二週間連絡せずにいただけで、事件に巻き込まれたのではとエドワードの行方を捜し出したことも。 


 白い床に視線を移す。頭が重かった。マスタングの前に立って数分もしていないというのに、これまでのことを思い出すだけで、なんだかどっと疲れが増した気がした。このまま息すらも、止められてしまいそうだった。──誰に?
「……オレのことなんて、好きじゃないよな」
 自分で口にしてみて、吐き気がした。俯いたまま動かず佇んでいた大人が、ピクリと反応したような気がして余計に嫌になる。こんな事件が起きていなければ、生涯口にすることはなかったであろう言葉だ。顔を上げることができない。視線は感じるが、首を動かすだけの気力がなかった。
「……好きじゃ、ねえよな」
 声を絞り出す。みっともなく掠れていた。頬を釣り上げて吐き捨てる。自身で言い放った言葉が信じられない。冷や汗が項にたまり、背筋を転がる。機械の足裏が、かちかちと床を叩いている。静まり返る部屋の中、自身から膨れ上がる動揺の音をかき消すために声を張りあげた。
「違うよな、大佐がオレに構うのは、アンタが言う、贖罪ってやつの一貫だよな」
 そうだ、これはあり得ないことだ。間違いであればとんだ大恥、屈辱だ。マスタングに肉体関係を強要されていた頃、マスタングにそんな素振りは全く見られなかった。少なくとも、関係を解消される前までは。
「いろいろオレの面倒見ようとすんのも、全部アンタのためだよな。オレがアンタとのこと周りにバラさないように、甘い蜜を与えようって、そういう思惑があるからだよな。そうだよな」
 語尾が荒くなる。口調が早まる。
「そうだよな?」
 全力疾走したかのように、呼吸が続かなかった。やっと言い切ったというのに、爽快感などは一つもない。ただ、身体が重い。心臓の音がうるさい。顔を上げる。マスタングは窓の外を見ていた。
 こちらを見ないでほしかった。そのままエドワードを苦しめていた時のようにシニカルな笑みを浮かべて、「当たり前だ」と嘲笑ってほしかった。マスタングの贖罪の方法は、いたってシンプルだ。エドワードが目的と達成させるまで、奪った分だけ与える。ならば、エドワードが望むべき未来を手にした瞬間その贖罪は終わるはずだ。エドワードもそれを感じていたからこそ、マスタングの不可思議ともとれる接触を飲み込み今日まで距離を保っていられたのだ。いつかは終わるのだ。あの頃の歪な関係に戻るくらいだったら、ぴんと張った静かな水面を波立たせることなく、マスタングの気のすむまで勝手に贖罪でもなんでもさせてやればいいと、そう思っていた。
「……君を」
 マスタングの顔が、ゆっくりと此方に向けられる。血の気を失った肌が、吸い込まれそうになるほどに、透明に見えた。
「君を助けたことを、後悔している」
 それは意外にも、しっかりした声色だった。黒い色の瞳に、偽りの色はない。やっと開いたマスタングの唇にほっと胸をなでおろす。張り詰めていた息が吸えた。ああ、やっぱりそうかと、細胞の全てが絶対零度の苦しみから脱却した。これで終わりだ。エドワードの愚かな勘違いは誰にも顧みられることなく嘲笑われ、霧散する。それだけだ。それだけだったのに。
「けれども、後悔はしていない」
「……え」
 しかし、次に続いた男の言葉に希望は直ぐに打ち砕かれた。マスタングが、目に見えて安堵したエドワードに緩く目を細め無表情を崩したのだ。細められた眦が、忌々しげに歪んでいた。どうしてそんなに、苦しそうな顔を。
「後悔はしていない。できない」
「たいさ」
 縋る様に、目の前にいる男の階級を口にする。
「君は、私を憎むだろうが」
 止めろと、叫ぶつもりで口を開いた。が、直ぐに閉じる。マスタングの目が、エドワードをしっかりと捉えていたからだ。真っすぐな黒曜石に、覚悟が見える。マスタングの言葉が、耳の中でぐるぐると回る。今の状況はなんだ。後悔はしているけどしていないなんて、矛盾もいいところだ。おかしい。マスタングの行動は贖罪であるはずだ。エドワードを手籠めにしてきた過去は、彼にとってくだらないことの一つなのではなかったのか。飽いた子どもに、顧みもしない過去について追及されるのが面倒だったのではないのか。煩わしいと、後悔しているのではなかったのか。未来への妨げにならないように、手を尽くしているのではないのか。それ故の、贖罪だったのではないのか。だから、マスタングは銃弾からエドワードを──

 贖罪? これが?
 そこまで考えて、振りかぶる。本当はとうの昔に、気づいていた。
 マスタングが、自分の命さえも投げ出し、エドワードの命を守ろうとする。そんなもの、贖罪ではない。
 音もなく静かに、ぼんやりと靄のかかった視界が開けてしまった。
 エドワードは三年間、ロイ・マスタングという男を見てきた。狡猾で、理不尽で、冷徹で、獰猛で、傲慢で。それでいて、部下を守るだけの度量も持ち合わせている、不可解な大人だった。でも、人としての何かが、欠けている男だった。そんな彼が、たかが性欲処理の嗜虐心を満たすためだけの道具だった相手に、贖罪とはいえ命を投げ出すようなことをするだろうか。もしもマスタングがエドワードのために身体を投げ出せば、それは、エドワードの知るロイ・マスタングという男ではない。エドワードを痛めつけるだけに存在していた悪魔のようなあのマスタングではない。お前に飽きたと、エドワードの存在そのものを侮蔑した彼とは違う。
 では、誰だ。彼は誰だ。エドワードを身を挺して庇ったマスタングという人間は、一体。

「アンタ誰だ……」
 今のマスタングは。
「アンタ、誰だよ」
 エドワードの知りえない、マスタングだった。
「私は、ロイ・マスタングだ」
 いつのまに立ち上がっていたのか、マスタングがベッドから降りていた。
「ただの、男だ」
 一歩一歩、床を踏みしめて近づいてくる革靴を眺める。
 新品のシャツを軽く羽織り、腹部に包帯を巻いた姿。開かれた胸元から、鎖骨と固い腹筋が覗く。久しぶりに見た、マスタングの剝き出しの肌。エドワードはいつもベッドの上で彼を見上げていた。夕日を背後に立つマスタングから、汗の匂いがした。夜の匂いだ。鼻を掠める慣れたそれに、瞬く間に溢れ出す記憶。力ずくで降ろされるズボン、被さってくる筋肉の重さ、首から、徐々に下へ向かっていく蛞蝓のような舌の柔らかさ、引かれては押しこまれ、腹の奥まで侵入してくる異物、鈍痛、えづくほどの快感、引き攣る自分の声、臓器が押し出されるような圧迫感、途絶える意識、重厚な軍服の匂い、マスタングの目、冷たい黒、ぬめる体液の気持ち悪さ、腕を組み此方を見つめる女、女、女、嘲笑、力ずくで開かされた両足、穿たれた内部の苦しさ、伸びてくる長く赤い爪、鼻が歪むほどの香水の臭い、下腹部で蠢く艶やかな髪、長い舌に絡めとられる幼い自身の性器、自分に集中する、沢山の目、目、目。
 目のくらむような失意が、エドワードの嘔吐感を呼び覚ます。
「……ッ」
 マスタングが腕を伸ばす。あと一歩で、体に触れる直前。ぞっとした。エドワードは飛びのき、扉に背をぶつけた。背中に響く痛みより、体の奥底からあふれ出す崩壊感に震い慄いた。一歩分空いた距離。今の、エドワードとマスタングの距離。
 背面にある扉に背を預け、エドワードは口元を抑えた。体が、呼吸が震えた。口元を抑える手のひらも震えていた。喉の奥にせり上がったものの酸っぱさに喉が焼かれる。歯の根が合わぬほどに痙攣する。生暖かな唾を何度も飲み込み、嘔吐間をやり過ごす。それでも手はどけられなかった。そうでもしないと、叫び出してしまいそうだった。
「ぐ、う、……ぅ……っ」
 泣いてもいないのに、手のひらの隙間から意味のない嗚咽が溢れて止まらない。口の中で腹の底から湧きあがった得体のしれないものが暴れ狂う。そんなエドワード見下ろすマスタングの瞳は、今までに見たことがないほど切なげな色に満ち、揺れていた。引き結ばれた唇、何を思い出しているのか、辛酸を舐めたかのように潜められた眉。どれもこれもが、エドワードが初めてみる彼の表情だった。見たくないのに、何故か目が離せない。マスタングの深い奈落を思わせる漆黒がじわりと光り、痛ましげに細められた。まるで、怯えるエドワードを憂いているかのようだった。そんなはず、ないのに。そうであってはならないのに。
「……ただの、男だ」
 マスタングが、エドワードに触れようとしていた手をぐっと握りしめ、降ろした。やめろ、やめてくれ。そんな顔をするな、そんな痛まし気な顔でオレを見るな。オレが怯えることに怯えるな。
「君を、君を自分勝手に苦しめた、ただの男だ」
 いうな、聞きたくない。それを聞いてしまったらオレは。オレ、は?

「君が好きな、ただの男だ」

 ──ぽたりと、心の中に小さな雫が零れた。落ちてしまった。水面に波紋が広がっていく。目を瞑ることさえできなかったのは、何の罪か。
「嘘を、いうな」
 呆然と呟きながら、激情が身の内でざわめく。
「オレが、好き? アンタが、オレを?」
 贖罪をしてやろう、と傲慢に言い切っておきながら、エドワードの顔色をうかがうような態度。律儀にエドワードに伺いを立ててから、エドワードに接近する気の使い方。飽きたというのなら放っておけばいいものを、わざわざエドワードに近づく、その真意。なんとも思っていなければ、捨て置けばいい。それなのに、エドワードの憂い全てをかっさらおうとする、その信念にも似た強引さ。自分の命を、投げ出せるほどの。
 エドワードは苦しめられてきた。ずっと、この男を疎んで来た。
「嘘だ、そんなのは。ありえないだろ、だって」
 ありえない、あってはならない。他でもないマスタングの手によって心を砕かれ、砕け散ったことも忘れてしまいそうなほど憎んで、憎み足りないほど、疲れていた。エドワードとマスタングの間に、未来などない。これ以上近づいても、ただ苦痛だけが広がるだけだ。それなのに。
「君を庇ったことは失敗だった。けれども、体は勝手に動いた。何度時間を戻しても、私はきっと同じことをする。目の前で君の命が、消えてなくなるくらいだったら」
 長く端正な睫毛が小さく震えている。
「自分の命を投げ出したほうが、よっぽどましだ……」
 身を絞るような慟哭に、何が言えようか。マスタングの漆黒の瞳に、いつもの冷酷さはなかった。それどころか想いを伝えようという子どものような必死さがある。こんな三流映画のような台詞を吐いてしまえるマスタングが信じられなかった。嘲笑すらしてやれない。ここは映画ではなく現実だ。現実は夢の世界のようにうまくいきはしないと、凄惨な戦いを通ってきた彼は知っているはずなのに。
「君を、失いたくない……どうしても」
 エドワードはもう耐えることができなかった。手を振り上げ、マスタングの頬に打ち付ける。
 マスタングは避けなかった。横を向いたマスタングの頬がじわじわと充血していく。マスタングに関係の解消を命じられた時も、こうしてマスタングを殴った。あの時は拳で、今は平手で。どちらにせよ、体術に長けた軍人であるマスタングが、自分よりひとまわりも小さな体格のエドワードの手を避けられないはずがない。それなのに、あの時も今も、彼は避けなかった。彼がエドワードから与えられる痛みを享受している理由なんて、考えたくもない。
「これを、見ろよ」
 機械の腕で、生身の腕を掴み上げ、俯く男の眼前に持っていく。
「これを見てみろよ、大佐、わかるか」
 ぎりぎりと痕が残るほどの強い力で押さえつけても、痙攣しているかのように震える、腕を。
 目を逸らさないマスタングにさらに腸が煮えくり返り、数歩、詰めよった。 
「アンタの傍にいるだけで、この様だ……」
 機械鎧にまで震えが伝染していく。意図してこうなっているわけではない。ただ、体が言うことを聞かないだけだ。マスタングにいたぶられ、弄ばれ、抱かれるたび、こんなにも、エドワードの身体は軋んだ。マスタングを恐れた。憎しみを凌駕するほどの痛みに、体中が悲鳴を上げた。無視しようとしてもできない無力感は常にエドワードの心の隅で燻っている。関係を解消して離れている時はよかった。長く悪い夢だったと死に物狂いで記憶に蓋をして、弟を一番に考えることができた。それなのに。
「それでも、オレが好きだのなんだの、くだらないことぬかす気か……!」
 謝られたら。彼が悪魔などではなく、ただの人間の男になってしまったら。
 エドワードは一体何を一番にすればいいというのか。
「……言うつもりは、なかった」
 許せなかった。エドワードを好きなどと言い訳のようにのたまうその唇も。惨めな紙きれのようにひび割れるマスタングの表情も。全てが煩わしかった。
「でも君に、君に……気づかれてしまった」
 銃弾に撃ち抜かれた時、まずい、と。マスタングの瞳は確かにそう訴えていた。それから目を逸らさず見つめ続けたエドワードが悪いのだろうか。エドワードだって、好きで気づいたわけじゃない。気づきたくなんてなかった。けれども、もう気づかぬふりはできなかった。このままマスタングの贖罪とやらを甘んじて享受できるほど、恥知らずでもなかった。第一、受け取りたくなかった。
「もう抑えることも、自分を偽ることもできない……すまない、無理だ」
 ふいに、影が消える。視線の下にマスタングの頭があった。マスタングが床に膝をついていた。いつもは見上げているはずの顔が、エドワードより低い位置にある。
「……なんのつもりだ」
 項垂れた男のつむじから、土に汚れた黒髪がさらりと流れた。
「君を嫌うふりなどもうできない。許して貰うつもりもない。だから」
 小さい頃、幼馴染が絵本の中で姫を颯爽と助ける小奇麗な男に憧れを抱いていたことがあった。王子様と呼ばれるキザったらしい存在に熱中している彼女がなんだかおもしろくなくて、影でこっそりとマネをしたことがある。手作りの剣で、弟と戦ったり、馬にまたがるふりをして遊んだり。
「君に忠誠を、誓いたい」
 悪を成敗し、麗しい姫の手をとり手の甲に口づけた王子は白いズボンが汚れるのも気にせずに床に傅いた。王子と違って、今のマスタングは惨めだった。王子の真似事をするこの愚かな大人は、煌びやかで麗しい服すら来ていない。土と、黒い血に汚れた軍服だ。場所だって、どこかの立派な城とは程遠い。アルコールと血の臭いが充満する狭い一室だ。忠誠など、贖罪をしてやろうと傲慢に囁かれるほうがまだましだ。軍に忠誠を誓うはずの国家錬金術師の男が、よりにもよってエドワードに。酷い虚脱感に襲われる。拳を握りしめでもしなければ、足の先から力が抜けてしまいそうだ。
「アンタの忠誠なんて反吐がでる」
「奴隷でいいんだ。君の奴隷に……」
 か細い懇願じみた台詞に、かっと目の前が赤く染まった。
 それは、エドワードにとって最も脆い部分だった。
「ふざけんな!」
 怒りに任せて、マスタングの襟首を掴みあげ、引っ張りあげた。ぐっと大きな身体が持ち上がる。マスタングはエドワードの手を振り払わなかった。苦しめるために、機械鎧の腕に力を込める。
「アンタは、オレをなんだと思ってんだ! 奴隷、奴隷だって? できるわけねえだろ! オレが、アンタに強制されてきたことなんて……」
 マスタングがエドワードの下僕のように振舞う前は、エドワードの方こそがマスタングの奴隷だった。あの屈辱の日々を彼が理解しているはずがない。エドワードがどれほど、苦しみ抜いていたかなんて。
「それなのに! 他でもないアンタが、奴隷なんて、そんな、そんな簡単に言いやがって、オレは、オレはずっと……っ」
 絶叫に言葉が続かなかった。襟ごと掴み上げていた身体を激情のまま激しく揺さぶる。座り込んだままマスタングがよろけた。が、漆黒の瞳はまだエドワードから逸らされなかった。それどころか、哀愁漂う目はエドワードを純粋に憂いていた。感情の波に飲まれ、暴れるエドワードに憐憫の情が向けられている。思考は一気に冷えた。
「……っ!!」
 成すがままにされているマスタングの身体を振り払い、力の限り突き飛ばす。どん、とマスタングが床に倒れ込んだ。倒れた拍子に傷が床に触れたのか、マスタングが小さく唸り、歯を噛みしめた。額に散った脂汗。乾燥した土色の唇、小石で擦れたのか、白い頬に走ったいくつもの赤い線。乾いた泥がへばりついている首筋。そして、シャツの隙間から覗く、包帯に覆われた腹。エドワードを庇った証。エドワードに突き飛ばされたせいか、塞がり切っていないそこからは新たな血が滲んでいる。痛々しく、散々な状態の惨めな姿に、かつての自分の姿を重ね見る。肩で息をする。こんな惨めな姿を見下しても、心は少しも晴れない。それどころか、身体の奥底からどんどんと毒のような感情が溢れてくる始末だ。自分でも理性が効かない。抑え込めない。頭を掻きむしり顔を覆っても、瞼の裏は暗いまま。マスタングの目が脳裏にちらついて離れない。エドワードの痴態を、愉しそうに見下ろす目、かと思えば、冷たく蔑む目、切なく滲んだ目、そして、真っすぐにエドワードを憐れみ、心配する目。

 やめろ、そんな目で見るな。その目はいらない、欲しくない。オレを腫れものにしたのはアンタのくせに。哀れなのはアンタのくせに。こんな子どもに抵抗すらできず、無様に倒れ伏していているのはお前のくせに。なんでオレがそんな目で見られなくちゃならないんだ。どうしてオレが、他でもないアンタに。そんな顔をしていいのは、お前じゃない。泣いてしまいたいのは、ずっと泣いてしまいたかったのは──オレだ!

「……しゃぶれよ」
 躊躇なく溢れた言葉は、自分のものとは思えぬほど低かった。
「舐めろよ。ズボン降ろして、手も使わないで、狗みたいにオレを咥えて見せろ。奴隷になりたいんだろ。じゃあお望み通りしてやるよ」
「は、がねの」
 エドワードを見上げ、気圧されるように顎を引いたマスタングに今度こそ感情が弾け飛んだ。
「できるだろ? 足も舐めろ。歯で靴を脱がして、土で汚れたこの汚い足を舐めてしゃぶってみせろよ! オレに、させてたみたいに!!」
 ありったけの悲痛を込めて怒鳴る。こんな台詞、エドワード自身何度も言われてきた。しゃぶれ、と命じられればどこでも従った。執務室の机の下でも、路地裏でも。マスタングが望むところであれば何度でも口を開いて咥えた。エドワードにとって、恋愛というのは漠然としたものだった。幼馴染の少女に対するむず痒くなるような想いは、確かにあった。けれど、それが恋情だったのかと聞かれると簡単に頷くこともできなかった。年頃の恋であったかもしれないが、恋であると理解する前に、淡い想いはマスタングに手折られた。
 好きでもない人間とセックスをする自分は、もう誰とも触れ合うことはできないのだろうと思った。エドワードにとって、他人と肌を重ねるという行為は屈辱そのもので、苦行だった。そうマスタングに身体に教えられた。上手にできれば、その日のマスタングは機嫌がいい。従順にしていれば、酷くされない。だから、どこをどうすればマスタングが悦ぶのか、直ぐに反応するのか、そんなことばかり、うまくなってしまって。
 奴隷というのは、そういうものだ。自分自身を汚いものとして扱うことだ。人権を捨てることだ。エドワードは捨てた。捨てざるをえなかった。捨てなければ前に進めなかった。奴隷になると、軽々しく口にできるマスタングが許せなかった。エドワードが与えられてきた苦痛は、そんなに簡単なものではない。マスタングが与えた恥辱はそんなに軽いものではない。進むべき道が真っ黒く塗りつぶされ、何も見えなくなるほどの闇だ。
 それなのに、それを与えた側の人間がそんな台詞を、わかったふりをして。エドワードの気持ちなんて、他人に、しかもマスタングになんてわかるはずがないのに。人の気配すらしない鬱蒼と茂る森にエドワードを捨て置いておいて、今更望んでもいない想いを曝け出してくるだなんて。

「やってみせろ!!」

 ふざけるな。
 ふざけるなよ。

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