top of page

2



 骨ばった筋肉が、呼吸に合わせて動いている。
 その流れるような線が、綺麗だと思う。


 小さな背に触れてみたくて、マスタングは手を伸ばした。が、直ぐに止めた。背後からの気配を感じとったのか、わずかにピクリと震えた背中に子どもが目を覚ましていることを悟ったからだ。
暫く待っていれば、振り向いてくれるだろうか。そんな些細な自身の望みでさえ、今の関係では難しいことをマスタングは知っていた。
 予想通り、わざと体を動かして広いベッドを軋ませてみても、手の届く距離に寝そべっている子どもが此方を向く気配は全くない。それどころか、ぐっと体を縮こまらせてさらに距離を置いてくる始末だ。
「……鋼の」
 結局、声をかけたのはマスタングのほうだった。マスタングから声を掛けなければ、この少年は此方を見ようともしない。その金色の瞳に、マスタングを映さない。そのような関係を作り出したのは自分自身でありながらも、己の内部で脈打つ心臓の鼓動が一瞬でも止まってしまいそうになるほど冷たく軋むのは、自業自得としか言いようがなかった。
「鋼の」
 行き場を失った手で、シーツを掴む。自身の太い腕と、その背を見比べる。随分と、か細い。鍛えているとはいえ、やはり相手は子どもであった。
「鋼の」
 三度目の呼びかけで、小さな身体はやっと動いた。僅かに傾いた背から、ぱさりと一房、金色の絹が零れ落ちる。やはり、触れたい。指先をそろりと動かし、乳白色のシーツに散らばった金に指を通してみる。肌の代わりに触れたそれは汗に濡れ、とても冷えていた。体温の低いマスタングの指よりも。
「……なんだよ」
 『嫌々と』『煩わしそうに』『面倒臭そうに』。今の返答に含まれていた少年の感情を文字で表すとすればこの三つだろう。そして、その感情に至るまでの少年の根幹部分に、マスタングに対する『拒絶』の意思があることを、マスタングは十二分に理解していた。それでも、どれほどマイナスの感情を抱えているにしろ、こうして口を聞いてくれたことに安堵を覚える自分がいる。そんな自分自身の醜さすらも、マスタングは既に理解していた。そして、悲嘆していた。
「起きているのか」
 努めて、平静な声色を装う。これからマスタングが行うであろうことの真意を、目の前で寝そべる少年、エドワード・エルリックに知られてはならなかった。知られたら最後、きっとエドワードは傷つくだろう。それもこれまで以上に。自分はエドワードにとって、憎むべき対象そのものでなくてはならなかった。
 かつて、戦火に身を投じ罪なき人々の命を虫けらのように奪い去った自分は、今なお生命活動を維持しているということで、誰かしらに恨まれ、憎まれている。今さら一人増えたところで、どうとなるものでもない。自分の罪がまた一つ、増えるだけだ。
 それに、憎悪の対象であるということは認識しているが、その憎悪を理解することは難しい。マスタングは他人だ。誰かがマスタングを殺したいほどに憎んでいても、それは他者の感情であってマスタングのものではない。理解している、と嘘ぶるのは傲慢であり、偽りだ。自分が自分でる限り、他人を理解することはできない。理解したいと願うこと自体、それは他者を傷つけて生きてきたマスタングの役目ではなかった。マスタングにとって、してはいけないことというのは数多くあり、エドワード・エルリックはそんなマスタングにとって、マスタングの愚行という罪の一身を目に見える形で担う存在だった。そんな彼に、マスタングの心の揺れを理解させてはならない。それは、エドワードの心を殺すことだ。
 と、彼への大義名分をこうして再確認してみても、結局のところマスタングは自分が可愛いのだ。事実を認識することを恐れて逃げているだけだ。けれども、逃げること以外に、エドワードにしてやれることがわからないというのも本音だった。マスタングにできることなど限られているし、エドワードはマスタングがこれ以上傍にくることを望んでいない。
 ならばやはり、今から紡ごうと、何度も脳内で繰り返している言葉はエドワードにとっての最善のような気がした。例えそれが、一般的に見てよい方法ではなかったとしても、今のマスタングには、それ以外の方法を模索する時間も、余裕も思考もなかった。
「……見りゃ、わかんだろ」
 水分を失い、からからにしわがれた声でエドワードは吐き捨てた。ベッドが軋む。エドワードが体を丸めた。角ばった背骨の周りに、赤い痕が散っている。痛々しい噛み跡も。赤らんだ痣のない部分を探す方が難しい。エドワードが小さく咳をした。その些細な振動さえつらいのか、ますます体が丸まる。エドワードの臀部から零れた赤交じりの白に視線を落とす。
「寝れないのか」
 今日は、いつも以上に手酷くエドワードを抱いた。いや、凌辱した。一切の躊躇もなく、初めてエドワードを組み敷いた時のように、一方的に。初めてのあの時、エドワードは激しい拒絶を示した。当たり前だろう。もし仮にマスタングがエドワードの立場であったら同じ態度をとる。エドワードは絶大な権力を持つ大人と対抗するだけの知識と頭脳は持ち合わせているが、いかんせん経験の少ない子どもだった。生まれてからまだ十二年と少ししか経っていない幼い子だ、体の大きな大人にベッドに縫い留められ、一体何ができよう。エドワードがあの時できたことと言えば、ただ耐えることだった。

『等価交換をしようか、鋼の。私は君の身体に興味がある。そして、君には喉から手が出るほど欲しいものがある』
『君が今私の狗になれば、君に情報を提供しよう。私が権力を使って集めるだけ集めた賢者の石の情報を』
『弟の命も保障する。どうだ? 悪い話ではあるまい』

 マスタングがただただエドワードを痛めつけるために愛撫を施しても、腰を動かしても、痛いとも、怖いとも、止めろとも、泣き叫びもしなかった。ただ、呻き声を上げながら、マスタングが与える苦渋と羞恥と絶望に耐えていた。そんな無垢な子どもに、体の芯から燃え上がるような情欲が溢れ出して止まらなかった。支配下におけばうまく利用することができる、裏切らぬよう、自分の弱い立ち位置を理解させるという打算など、後付けに過ぎない。手を出したくて出した。ではなぜ、手を出したのか。そんな単純明快な自身の想いを顧みることもせず、エドワードを強姦したという事実に興奮し、エドワードの身体に、エドワードに溺れた。
 あの、壊滅的に昏い一夜で終わりにすればよかったのだ。しかし三年前のマスタングはそれを拒んだ。エドワードを解放するなど少したりとも考えなかった。むしろ、これからエドワードを手中に収めることができる、乾いた日々に潤いができたと悦んだ。
 それは、うっそうと木々が茂る迷い込んだ森の中で、美しい湖を発見した時の感動とよく似ていた。手を伸ばせば届く距離に、まん丸く大きな金色の月が存在しているように錯覚した。手に入ったと錯覚した。
 全てが終わったあと、茫然とベッドの上で横たわっていたエドワードは、気崩した軍服をただすマスタングを見上げていた。そこに光はなかった。ただ疲れたと、全身全霊で訴えていた。その時にはもう、エドワードは理解していたようだった。マスタングの等価交換という名の提案は、その実ただの脅迫であることを。
 重ね重ね、エドワードは子どもではあったが、頭の回転ははやかった。たとえそれが、指先を動かすことすら億劫な、疲労困憊している時であったとしてもだ。マスタングに推薦され、国家資格を得た身。マスタングの部下として、これからも在る事実。故郷で秘密を守ってくれている、家族のような存在。権力ある大人の本気を小さな体にぶつけられた彼は、逃げることは不可能であると、確信していた。
 エドワードは、自身が逃げる術すらも持たぬ子どもであることを、とてもよく理解している『子ども』であった。エドワードは、真っすぐ、真摯に、周囲を憂いた。だから、心を固めるのは早かった。
 一週間後、自分からマスタングの家を訪れたエドワードの表情は、悲壮と、確固たる決意に満ちて、痛々しかった。

『……予想以上に早いお越しで驚いたよ』
 玄関で立ちすくむ子どもを、慈愛に満ちた表情で出迎える。
『なぜここに?』
『言わなくとも、わかんだろ』
『君の口から聞きたい。言ってくれないか』
『……アンタと』
 口だけは勝気に。指も顔も、青白く。
『等価交換を、しに』

 ようこそ、待っていたよと、優しく抱きしめた身体は強張っていた。蒼白な顔をしていた彼に、久方ぶりの興奮が膨れ上がった。マスタングはあの時のエドワードの姿を、今でも忘れることができないでいる。

 現在、エドワードはマスタングの傍にいる。痛む全身の筋肉を惜しみなく晒し、全てを拒むように背を向けて。初めの一回以降、マスタングは比較的、エドワードの身体に傷をつけるようなことはしなかった。最も、エドワードにとってマスタングとのセックスは、例え肉体的な苦痛がなくとも、精神を蝕まれる忍耐の時間にしか過ぎなかっただろうが。
 ただ、今日のマスタングは優しくなかった。エドワードを乱暴に家に連れ込み押し倒し、普段とは違うマスタングの様子を訝し気に警戒しながらも、いつものように足を開いたエドワードを激しく貫いた。無残に裂けた部位の激痛に盛大に顔を歪ませ、耐え切れず、小さな静止の声を上げたエドワードの口を塞ぎ、性欲処理の道具のように腰を振り、果てた。前からも後ろからも、時間の許す限り、何度も。
 今日は酷く犯すと、マスタングは身勝手な決意を固めていて、そう振舞った。エドワードは混乱し、普段は表に出さぬようしまい込んでいるマスタングに対する怖れに体を引きつらせ、同時に怒りと憎しみに淀んだ目を向けていたが、耐えた。自身が狗であることを常に架している少年は、マスタングに噛みつかれ、幼い男芯を痛めつけられ、嗜虐しか感じられないであろう暴行に押し殺し切れぬ悲鳴を押し殺し、歯を食いしばり、涎を垂れ流し、耐えた。耐えて耐えて、気絶した。
 それからエドワードが意識を取り戻すまで、三十分と少し。マスタングはエドワードから未だ膨張していた肉を引き抜き、少しでも楽な姿勢になるよう横たわらせた。そして意識を失ってもなお苦しみに震える小さな背中を、ずっと眺めていた。先ほどまで散々責め苦を与えていた肌に触れることは、もうできなかった。きっと、これからもできない。
「……寝る?」
 ここから見えるのは、エドワードの白い頬と金色の睫毛だけだ。けれどもピクリと反応した機械の肩に、エドワードが吐き捨てるように笑ったことだけはわかった。
「アンタの傍で? はは、できるかよ」
 時々咳き込みながら、淡々と、自分の置かれた状況に自嘲するエドワードの声は冴えわたる月影のように冷たかった。その真っすぐさに、マスタングは痛む胸を押さえ、同時に安堵した。取り付く島もないエドワードの様子に、エドワードのマスタングに対する真っ向からの否定を、確かに感じることができたからだ。いつものように痛烈な皮肉をエドワードに囁き、彼が望まぬ愛撫を施すこともせず、ただもくもくと、痛めつけるためだけの行為だった。なんの説明もなく急に暴虐を働いたマスタングを、エドワードは既に見限っていた。しかしそれは、マスタングがエドワードに願ったことだ。
「ご命令とあらば、従うぜ。アンタの隣で、寝るふりでもしてやる」
 強気を崩さぬよう振舞うエドワードの態度に、心躍る興奮を確かに感じていたかつての自分。マスタングに弱みをみせないよう常に心を固い棘で覆い隠すエドワードに、苛立ちを感じるようになったのはいつからだろうか。
「命令すれば? いつもみたいに、さ」
 エドワードの言葉尻が、すぼまる。窓の外の月は、もうだいぶ傾いている。あと数時間もすれば朝日が昇るだろう。雲もなく、星もよく見える、いい日だ。
「……君は、私の命令にはなんでも従ったな」
 先ほどの今で、よく軽口が叩けるものだ。マスタングは組み敷いた細い体の甘い匂いを思い出し、汗と白濁液と、赤い血で汚れたシーツに視線を移した。エドワードの苦痛が、目に見える形で在った。今のエドワードは体力も、自分と会話もする気力もない。そんなことは重々承知している。はやく、言うべきことを言わなければならないということも。
 けれども、マスタングの真意とは裏腹に、マスタングの口は意地汚くもエドワードとの会話が少しでも長く続くように足掻き始める。今日という日を迎えるために、マスタングは醜く愚かな過去を剝き出しにし、自分自身に突き付けたはずであるのに。それでもまだ、エドワードと関わることをやめられない。例えそれが、彼を傷つけるものだったとしても。
「乗れと命ずれば、自分でほぐして腰を振り、よく動いた。君ほどサービスのいい娼婦は見たことがないよ」
 自ら腰を落とし、マスタングを飲み込み腰を上下していたエドワード。征服欲を満たすために、マスタングは思うがままにエドワードを扱い、彼はそれに従った。家族のために。
「執務室で自慰をさせたこともあったな、いつだったか覚えているか?」
 淡々と、エドワードを苛む言葉を口にする。デスクに散ったエドワードの白濁液を、舐めとるように指示した覚えもあった。エドワードは屈辱に唇を噛みしめながらも、そんな非道な命令にも従った。狗のように這いつくばり額を擦りつけるエドワードに支配欲が満たされた。こいつは、軍ではなく、マスタングの狗であると。
 エドワードと関係を持ち始めた頃、エドワードの中にある性は未開の領域だった。もちろん性的な関係を誰かと持ったこともまだであれば、夢精もない。凄惨な体験を仕出かしたことも理由の一つではあるだろうが、エドワードの身体が小さく、同年代の子どもより幼かったのもまた原因だろう。まだ剝けてもいない淡い色の幼い男の芯を穿り出し、散々に弄り、エドワードの男としての機能を無理矢理開花させた。それから両手では数え切れないほど、エドワードとセックスをした。性を知らぬ子どもに性を植え付ける、という背徳的で淫らな行為に、自身でも驚くほどに耽った。
 諦めに淀んでおきながら、じりじり、と燻る焔をその金色の瞳に灯しながら。体を明け渡しても、反抗心を失わぬエドワードに狂熱した。いつでもどこでも、マスタングが望めばエドワードは足を開いて抱かれた。執務室でも、路地裏でも、手洗い場でも、マスタングの自宅でも、安い宿であっても。

 たとえ、人前であっても。

 等価交換という名目でエドワードを初めて組み敷いたのは、馴染みの娼館のベッドの上だった。
 秘密裡の情報を渡すためにと、エドワードを誘いこんだ。誰にも聞かせられない話をする時は、ここの一室を借りるのだと、そう誤魔化して。マスタングが女好きという噂は聞き及んでいたのだろう。ここの娼婦達と通じていてね、彼女たちから客の情報を仕入れているんだ、といたずらに成功した子供のように微笑めば、子どもながらの潔癖さでエドワードは顔を顰めながらも大人しく足を運んだ。まさに、飛んで火に居る夏の虫とはこのことだった。
 連れてきた娼館で、ここで見知らぬ女を抱くか、私に抱かれるかどちらかを選べと提示したのはマスタングだ。エドワードが幼馴染の少女に抱いているだろう仄かな恋心を、叩き潰してしまいたかった。彼がどちらを選んだとしてもよかったが、後者を選んだのはエドワード自身だった。彼ならそうするだろうと、思ってはいたが。
 金と色に満ちた女性達の巣窟で、娼婦にエドワードの嬌声を聞かせた。もちろん、マスタングと付き合いが長く、マスタングの冷酷さを十二分に理解している女達だ。子どもを支配下にいれ、利用するために協力してくれ、と幾人かに金を握らせれば、二つ返事で了承した。
 人前でするのかと青ざめるエドワードに、趣味が悪いわ、と呆れる女もいれば、優雅にほほ笑む女もいた。興味なさげにエドワードの裸体を眺める女もいれば、エドワード睨みつける気位の高い女もいた。共通していたのは、どの女性であれ、顔を背けたり、エドワードを哀れむ女はいなかったということだ。マスタングが利用している店はそういう場所だ。だからこそ、情報が手に入る。
「せっかく娼館に連れていってやったというのに、君は女はいやだと言うし」
 懐かしい思い出を歌うように語りながら、瞼で、エドワードが耐え抜いた言葉にできぬ苦渋の日々を噛みしめる。
「今でも、あの子はどうしているのか聞かれることがあるぞ。覚えているかい? 君の精通を手伝った女だ。あれは店でも上位に入るほどの女でね。そんな彼女の口で初めて達けたんだ、君は運がいい」
 それまで黙って、マスタングの趣味の悪い言葉の羅列を聞いていたエドワードが、ひゅわ、と大きく息を吸って吐いた。呼吸の仕方を、探しているようだった。
「そういえば、君に足を舐めて貰ったこともあったな、懐かしい」
 愉快な思い出を語っているはずなのに、エドワードとの情事を思い出せば思い出すほど、苦かった。心に泥のように陰湿な、嫌なものが蓄積していく。従順なエドワードがただ一つ難色を示したのは、最愛の弟にマスタングとの関係を知らされそうになった時だった。

 どんな屈辱にも耐えられる、だけど、アルフォンスには言うな。
 それだけは、嫌なのだと。

 あのエドワードが、初めてマスタングに懇願した。だというのに、不思議といつもの嗜虐心に満ちた高揚は訪れず、代わりに細胞を埋め尽くしたのは嫌な不快感だった。マスタングにどんなに嘲笑をされてもただじっと嵐を収まるのを待っていたくせに、弟のこととなれば顔色を変え憎い相手にも懇願する。不愉快だった。歯で軍から支給された皮のブーツを脱がさせ、固い素足に舌を這わせ、足指をしゃぶらせている間も苛立ちは収まらず、マスタングはエドワードの動くつむじを冷たく見下ろしていた。
 その日エドワードは初めて、気が狂いそうになるほど過度な快楽を叩きつけられて失神した。それでも、闇夜の中で気を失い、月に照らされ浮かび上がる肢体を、飽きることなく揺さぶり続けたのだ。今思えば、その頃には既にエドワードに落ちていた。
「だいぶ遊ばせてもらったよ。他と比べても、やはり君はいい身体だった」
 あれほどまでに触れることを躊躇っていた背に、指先は自然と伸びた。
 つ、と、エドワードの背骨を舐めるように指を這わす。エドワードはまだ、振り向かない。身体も震えていない。ただ、張り詰めたような空気がエドワードを包み込んでいる。今エドワードは、どれほどマスタングを殺してやりたいと思っていることだろう。それでも、ここで跪き足を舐めろと命ずれば、エドワードはその通りに動くのだ。
 マスタングの毒の棘がエドワードを突き刺せば突き刺すほど、エドワードの神経はきつく、ギリギリと音と立てて張り詰めていく。数年の間に、その細い糸は何度も修復を繰り返し、見るも無残な姿となっていた。エドワードが、弟と共に元の身体に戻るまであとどれだけの時間を有するのかわからない。戻ること自体、不可能なのかもしれない。けれども、エドワードとアルフォンスがそれ相応の終着を見せる前に、ボロボロの糸が切れてしまうのは時間の問題だった。切れた後を想像することなど容易い。容易いからこそ、もう終わらせなければならなかった。眩い世界へ焦がれ、無理矢理雁字搦めに縛り付けたこと自体が、間違いであったのだと。愚劣であった自分を認める時が。
「……だが、さすがに三年は長かったな」
 長かった。鋼の銘を与える、と仰々しい拝命書をエドワードに与えた日から三年という長すぎない時の中で、エドワードはここまで耐えた。けれど、マスタングのほうが耐えられなくなった。
「君は私の命令には従順だからな、今回も素直に従いたまえ、鋼の」
 自分の気持ちをはっきりと自覚した日のことはよく覚えている。あの日、マスタングは関係を持っていた女性と夜の街を歩いていた。甘い雰囲気のディナーを終えたとなれば、次にやることは決まっている。人通りの少ない宿を見繕い、紳士的な体でエスコートをしている途中で、イーストシティを訪れていたエドワードをばったり見かけた。まずいと思った。何がまずいのかはわからないが、エドワードには見られたくない一場面だった。視線を僅かにさ迷わせていれば、此方に気が付いたエドワードと目があった。しかし、狼狽していたのはマスタングのほうだけだった。 
 エドワードは思いもよらぬ場面に瞠目するや否や、目に見える形で肩を降ろしたのだ。ほっとした、そんな風に。大人の割り切った関係に、持ち前の潔癖さで侮蔑するでもなく、嫉妬するでもなく、エドワードは確かに、安堵した。
 自分に不等価な等価交換を強いる大人が、自分以外の人間を抱く。その事実はエドワードにとって喜び以外の何物でもなかったのだろう。いつかは、解放される。マスタングにとって自分は、大勢の中の一人である。決して執着などされていない。だから大丈夫だと、そんな声が聞こえてきた。マスタングは、雑踏に紛れ去って行った小さな身体をただ見つめた。そして気づいた。今、マスタングの腕を組んでいる女性の髪が金色であることに。無意識に選んだ相手。けれども、そこにはマスタングさえも気づくことのなかった真意が在った。
 私はエドワードに、執着している。
 そんなエドワード自身に、エドワードの中でのマスタングの立ち位置を見せつけられ、傷ついたのだと。

『かわいそうに』

 数人の視線が突き刺さる中でエドワードの中を貫いた時、散々愛撫をしてやっと起ち上がらせたはずのそれは、あっと言う間に硬度を失った。それが腹立たしくて、無表情に徹してことの成り行きを見守っていた女に指示をした。達かせてやれと。言葉の意味を理解し硬直したエドワードを貫いたまま抱え込み足を開かせた時、小さなため息を零しつつ近づいてきた女は一言零した。かわいそうにと。
 そして、指示通りエドワードの幼い男の性を長い時間をかけて指と口で初めて弾けさせた女は、初めての吐精に放心しているエドワードの頭を優しく撫ぜながら、もう一度言った。かわいそうに、と。
 その時は、女の言葉の矛先はエドワードだと理解していた。けれどもエドワードの気持ちを自覚した時、あの言葉はエドワードではなく、マスタングに向かって放たれたものだったのだと気が付いた。
 激しい羞恥に、顔を覆いたくなった。まさか全員。少なくとも、あの女性は気づいていた。
 私がエドワードを求めていたのは、身体を試してみたかったわけでも、支配下にいれるためだったわけでもない、と。
 それは確かに絶望だった。エドワードにしてきた仕打ちを想えば、名前を付けるのすら躊躇われたその感情は、マスタングが決して持ってはならない感情の最たるものであった。慈しむでもなく、可愛がるでもなく、ただ、略奪したいと思う。その心も体も、全てを奪ってやりたいと。エドワードの瞳が、マスタング以外を映すことが許せない。それは恐ろしい感情だった。破滅そのものだった。背筋が冷えるような感覚に急かされ、その日はらしくもなく相手の女性をないがしろにしてしまった。
 乱れる感情を理解してしまえば、あとは転げ落ちていく一方だった。日に日に、膨らんでいく限界。もう、エドワードの張り詰めた糸を、叩くことすらままならなかった。マスタングに触れられるたび、感情を押し殺すエドワードの顔を見て、心が軋み続けた。氷のような汚泥が心の奥底に溜まっていて、足を上げるのさえ億劫だった。激痛にも近い痛みに眩暈がした。もう、エドワードを傷つけているのか自分を傷つけているのかさえ、わからなかった。限界だった。このままでは、手に入らぬ焦燥感に飢えエドワードを壊してしまう。
 
 だからこれで、終わらせるのだ。
 エドワードが、マスタングの揺れる瞳に気づかぬ内に。

「もう、君は必要ない」
 ぴくりと、これまで微動だにしなかったエドワードの頭が動いた。顔が、わずかに此方を向く。こんな時であっても、赤く色づいた唇を貪りたいという気持ちは変わらない。それどころか強くなる一方だ。これは、愛だろうか。理性では抑えることのできない衝動。これが愛だとすれば、マスタングがこれまで数多の女性と育んできた愛など、まやかしにしか過ぎなかった。しかし、これが本物であったとしても、もうどうしようもできない。本物は自らの手で壊してしまった。最も酷い方法で。焼き尽くすことは得意だが、修復する術など、知らなかった。
「もう私が君を抱くことはない。今までご苦労だったな」
「……は?」
 見えないはずのエドワードの顔が、不安定に揺れたような気がした。エドワードが振り向いた。と同時に、ベッドから起き上がりエドワードに背を向ける。エドワードの顔を見たくなかった。自分の顔を、見られたくなかった。
「これからは部下として励みたまえ。君の錬金術の腕は、買っている」
 一度エドワードを視界にいれてしまえば、何を言ってしまうかわからない。もう君はいらない。そう嘲り捨て置き、エドワードを解放し、彼の苦痛を少しでも取り除くことが目的だ。言った傍から、エドワードに乞うような眼差しを向けてしまったら全てが台無しになってしまう。
「な、に」
「物分かりが悪いな。もう君を抱かない、そう言ったんだ。二度も言わせるな」
 苛立ったように、髪をかき上げる。エドワードに自由を与えるためには、マスタングは最後まで非情でなければならなかった。最後の最後まで、冷血漢で傲慢で人でなしな醜い男を演じなければならなかった。そうでなければ、エドワードはマスタングを憎めない。
 ぎしりと、ベッドに重みがかかった。起きた拍子に身体が痛んだのか、エドワードが呻く。振り向きたくなる衝動を堪え、背後を伺う。起き上がったエドワードの視線が、背中に注がれているのを感じる。何度も脳内で繰り返した言葉を一言も漏らさず口にのせるために、マスタングはエドワードには聞こえないように、震える息を小さく吸い込んだ。
「昔の君はまだ可愛げがあったが、今では筋肉もだいぶついてきているしその機械鎧が無くなればそのうち背も伸びるだろう。自分よりも背の高い男を抱く趣味はない。しいて言えば興味が失せた。まあ、潮時だな」
 実際、エドワードの中世的な顔の造形に変わりないが、その輪郭も昔に比べていくらか精悍になってきている。柔らかかった手首も、少年らしく角ばってきた。喉仏も、しっかりと見えるくらいには大きくなっている。太ももの筋肉も、柔らかさは消え鍛え抜かれた肉だけが残り、しっかりとした筋に覆われ、固い。この三年間、エドワードの身体をそれこそ隅々まで検分してきたが、エドワードの身体は確かにまるみを帯びた子どもから少年へと変化しつつあった。あと数年もすれば、彼は精悍な青年へと成長するだろう。そして、可愛らしい少女と恋をするのだ。
 マスタングが予測するエドワードの未来の世界に、マスタングは存在しない。マスタングは、エドワードの世界を黒く塗りつぶす害悪そのものだ。愛を望むことも、許しを願うことも、マスタングが踏み入れてはならぬ領域だ。エドワードにマスタングを、憐れませてはならない。エドワードは、真っすぐな人間だ。もしもマスタングの本心を理解すれば、きっと、いや確実に、その真摯な心を傾ける。そうであっては意味がない。張水面に腐った石を投げ捨て、真っすぐに伸びた月影を揺らす行為は、マスタングの利益にしかならない。エドワードの幸せからは程遠い。これでは、今までとなんら変わりがない。
 沈黙は、長かった。いや、マスタングが長いと感じただけで、本当は数秒の出来事だったのかもしれない。エドワードは何も言わない。どんな表情をしているのかもわからない。結局、我慢することができなかったのはマスタングの方だった。張り付けた笑みが崩れぬように気を付けながら、体中の全ての力を総動員し重い体を振り向かせる。金色の視線とかち合った。エドワードは、マスタングを凝視していた。丸い満月のような瞳が、今まで見たことがないほどに見開かれていた、
 今日初めてエドワードと目があったのが今とは、皮肉なものだ。
「なんだ、その顔は」
 嘲笑う、ように努力した。うまくいったようだ。エドワードの瞠目を見ればわかる。
「手切れ金でも欲しいのか」
「……ふざけんな」
 表情のないエドワード、というのはこれまでに何度が見たことはあったが、今のそれは、これまでとは明らかに異なっていた。血の気を失った真っ白な顔は、逸らされることなくマスタングを見つめている。
「ふざけるな、よ」
 震えだした赤い唇に、エドワードに叩きつけてしまった圧倒的な衝撃を見る。あれほどまでに見たかったエドワードの剝き出しの感情がそこにはあるというのに、高揚感はこれっぽっちも生まれない。ただ、怒りを超えた憤怒に感情を抑えることができなくなっているエドワードの激高と、深く深く傷ついているエドワードの心を憂う。
「ふざけているようにみえるか?」
「飽きた? そ、んな、そんな簡単な言葉で、今までのことが、チャラになるとでも」
「チャラ? 妙だな、君との関係は等価交換のはずだったのだが」
 手の甲に顎を置き、エドワードの裸を上から下まで検分するように視線で舐めまわす。噛みつかれ充血した胸元、首筋に走った青黒い手の平の痣。エドワードが見ることができない部分にまでつけた唇の痕。ふくりと腫れあがり、中の赤身がめくれあがっている結合部。何度も吐き出し、どろりとエドワードの腹の中を汚すマスタングの残液。こんな非人道的な行為が、等価交換などであるはずがない。等価交換だと、何度も自分に言い聞かせてきたであろうエドワードは、どれほどの想いで今、私を睨みつけているのだろう。
「その体を差し出す変わりに君に情報を与え弟を保護する。これが契約内容だ。弟の命をその身体一つと等価にしてやったんだ。感謝されこそすれ、疎まれる筋合いはないな」
 エドワードがシーツを握りしめた。強く力を入れすぎて、指先はもう真っ白だ。
「……どうした」
 耳に入ってくる言葉の羅列が信じられないのだろう。エドワードが口を開閉させた。ぶるぶると、拳が震えていた。
「私に捨てられるのがそんなに不満かね」
「この……!」
「そうでないのであれば喜びたまえ」
 どん、とエドワードがシーツを叩いた。
「喜んでる……? ああ、喜んでるさ! これ以上ないほどにな!」
 エドワードがベッドの上で声を荒げた所など、久しぶりにみた。エドワードはぐしゃりとシーツを握り潰し、機械の手で胸を押さえていた。何度も震える吐息を吸い込み、乱れ狂う怒りを必死に沈めようとしている。その加速していく鼓動をあやすために、抱きしめてやりたかった。けれど、そんなことをすればエドワードの尊厳がさらに傷つくことを知っている。
「……なにか、ないのか」
 すとんと、地面に落下するように、エドワードが肩を落とした。緩慢な動作だった。マスタングがエドワード以外の他人を抱くという事実を知った時、彼が胸をなでおろしたように。しかし、そこにあるのは安堵ではないのだろう。
「大佐……ないのか、オレに。何か言うことは」
 エドワードの虚無が、乳白色のシーツに散った赤をじっと見つめている。
「子どもというのは、本当に聞き分けが悪くて困るな」
 鮮血に滲んだシーツから目を逸らしながら、喉の奥で蠢く自身の愚かさが生み出した異物を、痛苦と共に吐き捨てる。
「もうお前では起たん、と言っている」
 マスタングが渾身の力で最低極まりない一言を叩きつけたように、エドワードもそれ相応の力で腕を振りかぶってきた。一歩も動けぬように抱き潰したつもりだったが、やはり体力のある少年の動きは素早かった。
 一発目は頬で受け入れた。二発目の拳は手のひらで掴み上げた。何度もねじ伏せた腕を、引き寄せるのは簡単だ。本来であれば煩い虫を払うように叩き落とさなければならなかったのだが、口内に溢れた鉄の味ですら愛しいと認識してしまえば、抑えることはできなかった。エドワードの身体を、包み込むように引き寄せてしまったのはマスタングの失態だ。間近にある燃え盛る金色の瞳に口づけたい。けれども、情熱に満ちた焔とは違う、悲壮に染まった焔にぐっとこらえる。
「上官に手をあげるか、愚か者め」
「うるせえ! 愚か者はどっちだ……この、この!」
「手放すとは言え、三年間いい思いをさせて貰ったことは本当だからな、これからも情報は提供しよう。後見人の任を降りる気もない。そう怒るな」
「黙れよ!! オレは、アンタが憎い……」
 憎いと。エドワードから直接言われたのは初めてだった。爛々と尖る金色のビードロは確かな敵意に満たされていた。エドワードは信じている。マスタングがエドワードの体に飽きたから、成長していく彼の体に興奮しなくなったから、エドワードを手放すと。だから、こうして溜めに溜めてきた激情をありったけぶつけてくる。まさにマスタングの思惑通りだった。それなのに。
「憎い、か。そうだな」
 立派に傷ついている自分こそが、憎らしい。エドワードをここまで痛めつけておいて、未だに自分勝手な痛みに酔っているだなんて。苦しむ彼を思って胸を痛めることすら、驕傲の一言に尽きた。
 泣きもしないエドワードが、それでも泣いているかのように、血を吐くように慟哭しているのはマスタングのせいだ。死に物狂いで屈辱と苦痛と絶望とに耐えたあげくに、まるで使い古した玩具のように投げ捨てられて。自分の存在意義を、ここまでこき下ろされて。何度ボロボロになっても、いくらでも自身を戒める強さを持ったエドワードの精神が狂いそうになるほど、エドワードを水の底に叩きつけたのは自分なのだ。
「この野郎! オレは、オレは」
「私との関係を世間にバラすか? それもいいだろう。私はこれ以上の昇進を望めなくなり、そして君の名がより一層有名になるな。同性の上官に性的虐待を受けていた天才錬金術師の少年として。当然、そんな君の弟にも、視線が集まるだろうな」
 ぎりぎりと、エドワードが歯を軋ませた。それはマスタングが抑えつけている機械鎧の軋みよりも大きい。この世の怨嗟を凝縮したような速さでエドワードがマスタングの腕を振り払い、叫んだ。
「アンタは!!」
 機械の右腕が、マスタングのはだけた襟首を締め上げる。エドワードの指先が、怒りに震えていた。
「アンタ、は……」
 続く言葉が見つからないのか、エドワードがずるりと手を離し、胸元のシャツを緩く掴んだ。
「……安心したまえ」
 それを、今度こそ鬱陶しい羽虫でも払うかのように、叩き落とす。
「私こそ、君との関係を公表する気は全くない」
 エドワードは、マスタングとの関係を誰にも暴露はしないだろう。だから、マスタングも語らないとエドワードの前で明言した。エドワードは他でもない弟のため。マスタングはエドワードのためだ。弟を守るためにマスタングにずっと身体を差し出していたなど、アルフォンスが知れば苦しむ。そしてエドワードも苦しむ。アルフォンスは、エドワードと同様に真っすぐな子どもだ。そしてそんな弟の優しさを踏みにじるようなことを、エドワードは避ける。どれほど、自分が傷ついたとしても。
 本来なら、してやるべきことができぬ現実。マスタングが責任を取って軍を退けば、エドワードが目指す未来を守ることができなくなる。マスタングがエドワードにした行為は恥ずべき行為だ。しかし、エドワードとその弟を守ることができるのがマスタングしかいないというのも、また事実だった。
 軍の上層部は、腐っている。人体錬成という禁忌を犯した少年を利用しようとのたまう輩は多くいる。しかもそれが、マスタングの子飼いの狗であったとなれば、エドワードが今度どのような扱いを受けることになるのかは考えずともわかる。マスタングは焔の錬金術師であり、この国の国軍大佐でもある。マスタングの銘と権力は、エドワードを保護するのには勝手がいい。今はまだ、この力を手放すわけにはいかない。この国の未来と、エドワードのために。
「双方の利点を考えれば、それが得策だ。そうは思わんかね」
 エドワードの瞼が陰った。そこに了承の意を受け取り、皺になった襟を正しエドワードを見下ろす。エドワードとこんなに近づくことができるのもこれで最後だろう。散々貪り、触れた唇と、頬の丸み、透き通った金色の硝子を、脳裏に焼き付ける。エドワードの全てが、眩しかった。
「君に敬意を表するよ。前言撤回だ。君は聞き分けのいい子どもだ」
 ──全てを捧げる。エドワードを全力で守る。どんな権力からも、エドワードの障害になる、何もかもから。
 エドワードは、もう耐えられなかったようだ。マスタングを視界の全てから排除するため、暫く体を震わせた後、痛む体を引きずるように背を向けた。俯き、ずるずるとベッドの上を這い、無造作に椅子に捨て置かれていた服やブーツに手をかける。
「寝ていかないのか、まだ夜中だ」
「……アンタと、同じ空気吸ってたら」
 エドワードの声は上ずり、力無く掠れていた。

「狂う……」
 
 衝動は一瞬だった。思わず手を伸ばしてしまう。脳内の警鐘に逆らい、丸まったエドワードの身体を抱きしめていた。背後からの突然の襲来に、エドワードはぎくりと体を硬直させ、竦んだ。一度ありったけの感情を表に出してしまったエドワードは、もう取り繕う余裕がないのか、素直だった。素直に、マスタングを恐れた。ひっ……と喉が掻っ切られたかのような声を絞り出し、細い体を縮こませる。身に沁みついたこれまでの怯えと恐怖は消えない。その事実をまざまざと見せつけられても、マスタングはエドワードを、焦がれた少年を抱きしめることをやめられなかった。
 狂う、と。たった一つ落とされた言葉に、途方もないほどのエドワードの哀しみを感じた。
 脳内で描いていた通りの台詞は、全てエドワードにぶつけることができた。あとはよろよろと部屋を後にするエドワードを、興味なさげに眺めていればいいはずだった。そうしなければならなかった。それで、エドワードとの歪な関係は終わるはずだった。それなのに。
「……やっ」
「贖罪を、してやろうか」
「はなせっ」
 もうこれ以上何もする気はないと安心させるために吐いた言葉は、マスタング自身にとっても予想外の言葉だった。
 贖罪を、だなんて。マスタングの自己欲そのものだ。決してエドワードに言ってはならない言葉だ。金属臭とオイルの臭いが漂う肩口に、顔を埋めてしまいたくなるのを渾身の力で押しとどめることができたのは奇跡だった。エドワードからはわからないように、天からの差し込む光のような金色の一房に、口づける。 
「離、せ、離せよ」
 この子は、世界に愛される子だ。どうかこれから先の道のりが、この子にとって慈愛に満ちたものであるように。
「……君に、贖罪を」
 噛みしめるように囁く。
 エドワードが頭を振った。漂う汗の匂いと、濃厚な青臭さ。そこに交じる、嗅ぎなれたエドワードの体臭が鼻腔に充満する。人工的ではない柔らかなそれに、安心している自分がいる。慈しみたいのに、傲慢な言葉を吐き出すこの唇。この矛盾にもっとはやく気が付いていれば。初めから気づいていれば、エドワードを怯えさせることなく抱きしめることはできただろうか。思い出すのもはばかれるほどの始まりの日の出来事は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。いっそのこと忘れてしまいたいと、願うほど。
「遠慮するな。こんなことをいつまでの気に病まれては叶わんからな。君は黙って、私に守られ、私から与えられる有益な情報を享受する、いい案だとは思わないか」
「いらない! いらねえよッ! アンタからの施しを受けるくらいなら……!」
「死んだ方がましか? アルフォンスが泣くぞ。元に戻るならなんでもすると、言ったのは君ではなかったか?」
 硬直したエドワードの髪を、あやすように撫でる。喉奥で低く笑ってやる。エドワードに殴られた頬が激痛に軋んだが、構わず口角を上げてみせる。エドワードがよく知る冷酷な笑みだ。ほころんだ入口に、容赦なくこの身を埋め日々を思い出させるように、ドワードの臀部をなぞる。びくんと跳ねたエドワードの身体に、マスタングに手足を押さえつけられ、腹の中をかき回され苦痛と衝撃に喘いでいたエドワードを思いだす。
 どうか騙されてくれ。君にとっての悪魔は、未だに悪魔のままだと。そう心の底から願いながら、マスタングはエドワードの身体を解放した。ふらりと傾いだエドワードが、恐る恐るこちらに目を向ける。今にも水滴が弾けてしまいそうな、痛ましい瞳に伸びる腕を堪える。石膏で固めたかのように軋む足で、エドワードから離れる。軋むベッド。これも、もう終わりだ。
「次の報告は、二か月後だ。何か調べてほしいことがあれば連絡したまえ」
 椅子にかけてあったガウンを羽織る。シャワーを浴びにいくという口実で、エドワードから距離を置く。
「暇があれば、調べておこう。これまでのことを世間に公表されるリスクは負いたくないのでね。切った女との清算に、どこまで時間を割けるかはわからんが」
 『女』として扱われることを、エドワードは何よりも嫌った。だから敢えてそう扱う。エドワードの視線を意識しながら髪をかき上げ、いつも通りのペースで歩を進める。扉の傍に着いた頃には、血の味が絡んだ生唾が口内に広がっていた。
「では、また二か月後に。それまでに君たちの体が元に戻っていればいいな」
 お前は情人の一人にしか過ぎなかったのだという嘘を、エドワードは理解してくれただろうか。
「さぼるなよ」
 それはアンタだろ、とエドワードはよく言っていた。アルフォンスやマスタングの部下の面々の前では、エドワードはマスタングに普通に接した。それは互いの暗黙のルールだった。二人きりの部屋になればエドワードは軽口を黙殺し、マスタングの一挙一動を伺い、体を強張らせた。扉を閉める直前に見たエドワードは、窓の外を眺めていた。此方から伺うことができたのは背中だけだったが、シーツを下腹部にくるませ、放心したようにぼんやりと傾いた月を見つめる様子は、儚げで。美しいとさえ感じた。
 伸びたエドワードの影は、マスタングの足元には届かなかった。それでよかった。静かに扉を閉める。この部屋に戻った時、エドワードの姿が消えてくれていればいいと切に願いながら。



 それから一年と少し経った頃。マスタングは後悔した。
 自分の身勝手な行いを、後悔せずに、後悔した。

bottom of page