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MÅNGATEの森で

1



 後悔はしている。けれども、後悔はしていない。



 ロイ・マスタングは、エドワード・エルリックの下僕であった。
 少なくとも、エドワードはマスタングをそう評価していた。自惚れでもなく、ただ事実としてそれを認識していた。   
 初めは、些細な一言だった。書類の束を忙しそうに処理している大人に聞かれ、当時発禁処分となっていた本を探していると本当のことを語っただけだ。
 エドワードとしては、特に深い意味はなかった。報告書を提出し受理された後は、古い文献を好んで仕入れる下町の古本街に出向いて、しらみつぶしに探すと。東部とはいえ、イーストシティはそれなりに都会だ。ここになければ次はまた別の場所へ向かえばいい。いつもそうしていた。だからその時も、聞かれたからその通りに答えただけだった。だから。
 マスタングが執務室で報告書に目を通している間、エドワードが東方司令部の書庫で何度も読み返した書物に手持無沙汰に目を通していた時に、黒い革靴がコツリと狭く暗い書庫内に響いた時は心底驚いた。そして、歩幅一歩分空けて立ち止まったマスタングに差し出された一枚の紙きれの用途がわからず、混乱した。
『言っておくが、入るぞと声はかけたぞ』
『なんの、ようだよ』
『君が探している禁書の在処』
『……は?』
『ルーベル通りにある二店舗だ。一つ目は右側の区画の大通りにある赤いが布が窓に張り付けられている店で、Rという文字が大きく書かれているからすぐにわかるな。二つ目は、ルーベル通りの次の通りにある。歯車の置物が錆びたベンチにかけられているから直ぐにわかる。どちらの店も非正規ではあるが、時々私も利用している。ただ、店の名前はない。一見すると空き家に見えるかもしれないがきっちりと運営している。人目を避けて入りたまえ。君が読みたい本もそこにはあるそうだ。私の名を出せ、直ぐに通してくれる』
『……はあ?』
『君のことだ、一つを見つけ出せば次の巻も欲しくなるに決まっている、しかし、この二店舗に次巻はない。二から四巻までは、北部にある。ノーリンズという比較的大きな町だ。そして五巻の行方はまだわからん。ただ、この作者が執筆した本で表紙が白一色の妙な本があると聞いた。どうやら暗号の匂いがするらしい。どうせなら解読すればいい、何、君ならお手の物だろう。今言った詳しいことは、その紙の裏側に記載しておいた。見ておきたまえ』
本棚に身体を寄りかからせたまま、エドワード急に現れたマスタングから与えられる怒涛の情報に呆けていた。手にしていた本を閉じる暇もなかった。そして、表情一つ変えずにエドワードを見下ろし、エドワードの返事も待たず紙切れを閲覧中の本の間にすっと挟み込み部屋を後にしようとしたマスタングに、慌てた。
『……おい』
『なんだね?』
 エドワードの承諾を得る前に、本の隙間に挟み込まれた紙には、びっちりと文字が書きこまれていた。流れるような筆跡は、きっとマスタングのものだ。いささか急いでいたのか、ところどころインクが滲みでている。エドワードが書庫を訪れたのはまだ1時間にも満たない。これだけの短時間で、これほどの情報。尋常ではありえない量だ。
『これ、アンタが、調べたのか』
 言葉は疑問形ではあったが、エドワードは確信していた。こんなことができるのは、マスタングしかいない。彼の部下たちは今昼休憩で、執務室はがらんどうとしている。仕事ができる人間がマスタングしかいなかったことがその証拠だ。よもや、休憩中の部下を呼び戻してエドワードが頼んでもいない情報収集に時間を費やさせたわけではあるまい。
 沈黙は、肯定の証だった。エドワードは、純粋に困惑した。
『……いらねえ』
 なんで調べたんだ、とか、どうやって調べたんだ、とか、聞きたいことは山ほどある。けれどもエドワードはこの一言に留めた。マスタングと会話をする心の準備も何もしていなかったのに、余計なことを言うのは憚られた。マスタングはエドワードの反応を予想していたのか、そうではないのか、一つ瞬きをしてさっさと踵を返した。
『必要ないのであれば、捨て置いてくれて構わんよ』
 そして、張りつけたような笑みを浮かべながら、色を感じさせぬ静かな台詞を残して今度こそ部屋を後にした。
エドワードは、本に挟み込まれた紙切れとマスタングが去った扉を交互に見つめ、低い天井を仰いだ。なんだか、どっと疲れが増した気がしたのだ。

 思えばこの出来事が、全ての皮切りだったのだと思う。

 国家錬金術師ロイ・マスタング国軍大佐が、十二歳という若さで国家資格を得た天才錬金術師、エドワード・エルリックを甘やかしていると、そんな噂が流れ始めるのに時間はかからなかった。根も葉もない噂であればエドワードも噛みつくか黙らせるかで対応できるのだが、如何せん根も葉もない噂ではないのだ。確かに、マスタングはエドワードを甘やかしていた。というよりも、ことあるごとにエドワードを中心に物事を考えている節があった。たかが十五歳の少年ごときに、だ。
 それは、この国の軍人としてあるまじき行動だった。軍人は国に忠誠を誓う。それは、決して私人ではない。ましてやそれが年下の部下など、言語道断だ。また、マスタングは側近の部下には堂々と言い放ってはいるが、大総統の座を狙う野心家でもある。子飼いのちっぽけな狗などに、構っている暇などない。はずだというのに。
 マスタングのエドワードに対する行動は、目を見張るものがあった。
 例えば、エドワードを軍事に関する業務に参加させない、エドワードの知識や錬金術の才が必要だと思われる場面であっても危険が高ければ向かわせない。仮に向かわせたとして司令官自ら赴きエドワードの前に立つ。エドワードが欲する資料があれば、多少無理を言わせてでも手に入れようと画策する、エドワードが軍幹部の関係者と接触する場合には、その相手が誰であれ必ず仲介に入り面会の場に立ち会う、などなど。数えればきりがなかった。 
 その中でも、赤い石の噂を聞きつけて、電話もない山の中にある辺鄙な村を訪れていた時にマスタングが単身乗り込んで来た時は心底驚いた。聞けば、音信不通だったから何かよからぬことに巻き込まれているのではないかと思った、とのことだ。まあ、定期報告を怠ったエドワードにも非はあるが、たかが二週間連絡を入れなかっただけでそんなことになるとは、さすがのエドワードも面食らった。マスタングはというと、何もなければいいと、相変わらず読めない表情で東方司令部まで帰っていった。なんなんだ。
 とにかく、マスタングはエドワードを常に気にしていた。そして、エドワードの利になることがあれば真っ先に行動した。エドワードは軍属とは言え、鋼の資格を得、軍に忠誠を誓った軍の狗だ。他管轄からのさりげない苦情や、マスタングが最も嫌悪する、年だけ取った能無しのただ飯ぐらい共からの嫌味にさらされても、マスタングはエドワードに対する姿勢を変えなかった。それは、部下に対する上司の気遣いとは一線を画していた。
 一見すると、マスタングがエドワードに首輪をかけ、妙なことを仕出かさないようそれを握っているように見えるだろう。しかし、その実態は違った。マスタングは、まるでエドワードに付き従う臣下のようだった。エドワードに対しては何も求めず、ただエドワードに与える。エドワードがやり過ぎだと突っぱねれば従順に歩みを止め、じっとエドワードの次の出方を待つ。エドワードの前には決して出ず、エドワードの一挙一動を背後から見つめている。五感の全てを総動員させ、エドワードに集中している。背後に突き刺さる針の視線に困惑しているのはエドワードだけではない。お陰で、エドワードの背後には必ずマスタングが控えているということで、エドワードを叩き潰そう、又は懐柔しようと接近してくる輩は減った。


 マスタングは、エドワードの下僕であった。軍の狗ではなく、エドワードの狗であった。


 それを理解しているのは、マスタングの傍に控える数人の部下だけだ。エドワードといる時のマスタングは、冷静沈着な大人、威厳のある上司、軍人、過去、それら全てを取っ払った個の人間そのものであると、部下の一人は言った。対してエドワードは、そんなマスタングという人間を持て余していた。
 エドワードは、マスタングが何故そうまでしてエドワードを気に掛けるのか、いや、下僕として振舞うのかその理由を知っていた。知っているというよりも、当事者であった。だからこそ、マスタングという大人に対してどのような対応すればいいのかが、わからなかった。
 やりたいようにやらせておけばいいと、放任を決め込む自分もいる。
 後ろ盾があるのならば利用してしまえばいいと、利己的な自分もいる。
 とことん搾取して破滅させてしまえと囁く、悪魔のような自分もいる。
 自分には、それをするだけの理由があるのだと。
 マスタングを軍人たらしめる枷を取っ払い、一人の人間にするエドワードと、エドワードという人間に固執するマスタング。二人の間に何があったのかなど、マスタングに忠誠を誓い誠心誠意支えている部下たちも知らないことだ。エドワードのたった一人の弟もだ。当たり前だ、エドワードもマスタングも、誰にもことの真相を話してはいないのだから。話すつもりもなかった。エドワードは全ての事実を、墓場の底にまで連れて行くつもりであった。そして、エドワードがそう望まずとも、マスタングもそうするであろうことも知っていた。
 マスタングを前にした時、エドワードと彼の間に流れる奇妙な空気は、波紋一つない夜の湖に佇む、清涼でいて、寂しげな空気感に似ている。鳥のさえずりも聞こえぬ漆黒の中で、水面に真っすぐに伸びた月明かりの上で、向かい合って佇んでいる。
 逆光に陰るその姿はとても印象的だが、顔が見えない。だから、無暗に動くことは憚られた。水面の上でわずかに接触でもすれば、擦れた部分から零れ落ちたたった一滴の雫で水の波紋が全体へと広がっていってしまう。それは、確かに畏れであった。
 エドワードは、彼との歩幅を詰める気はない。あの嘘のような出来事からかれこれ1年経ったが、その間ずっと、マスタングはエドワードに触れようとはしなかった。マスタングが宣言した通り。だから、エドワードは心の安寧を保っていられる。少なくとも、表面上は。

 贖罪を、と、マスタングは言った。
 静寂に潜む危機感、と言えば正しいのだろうか。砂上の楼閣、と言っても差支えはないのかもしれない。たった一滴の雫が水面に落ちれば終わりだった。故に、波一つない水鏡に映った月明かりを揺らさぬよう、一定の距離を置く。この微妙な均衡を続けていれば、きっといつかは忘れる。エドワードが思い出したくないと切に願う、あの悪夢など。
 贖罪をしてやろう、と、マスタングは言った。傲慢にも。
 そう、確かにマスタングは、エドワードに贖罪を誓った。エドワードを気に掛けるのも、エドワードの下僕であるようにと自らを演ずるのも、全てはエドワードに対する、マスタングなりの贖罪だった。贖罪であるべきだった。贖罪でなくては、ならなかった。

 ロイ・マスタングはエドワード・エルリックを強姦した。
 マスタングがエドワードの下僕のように振舞う前は、エドワード・エルリックの方こそが、ロイ・マスタングの奴隷だった。

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