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 アリッサの言う通り、教会の内装はとても美しいものだった。広い天井に、長めのランプがぶらさがっていて、そのガラスに施されている装飾も蝶の形をした花だ。木でできた長めの机やイスが縦一列に並んでおり、結構な大人数が収納できる広々とした空間となっている。前の方には大きめのオルガンが二つ左右にシンメトリーに置かれ、そのさらに奥には司祭が説教を行う台があった。台の真ん中には、一輪のオルギニアデカンサスが花瓶に活けられている。そして少しの段差を昇ったまたその奥には大きなステンドグラスがあった。あれは、オルギニアデカンサスが天の使いによって、地上に植えられているシーンだろうか、カラフルな色合いの硝子の一つぶ一つぶが外からの明るい日差しを受けて教会内を照らすさまはさながら後光のようだった。
ステンドグラスのその向こうの外の敷地には墓地があるらしい。オルギニ教に入信していない人々も入れる大きな墓地だ。人々はこの教会内からステンドグラスの向こう、墓地に眠る人々に祈りをささげ、永遠の命を得ることとなった彼等の祝福を願うそうだ。
 二階にも行ってみたが、そこは礼拝の終わりに信者の人々が集い、お茶会などをする場所となっているようだった。もちろんキッチンもある。そしてそこから繋がる小さな倉庫のような別室に、教会の行事に使用する小物や装飾品がまとめられていた。そしてその隣の部屋が資料室となっており、オルギニアデカンサスにまつわる伝記やらの資料が保管されていた。一つ一つ丁寧に保存されていたのだが、それはオーギュが所有しエドワードがこの五日間で読み漁ってきた資料とほとんど変わりなかった。エドワードは礼拝堂にある聖書や聖歌をぱらぱらと開きながら、もう一度高さのある天井や床を見渡した。ふと壁の一点が気になって、なるべく自然な動作で近くによる。壁に描かれたオルギニアデカンサスの花を興味深くなぞるふりをしながら、左手で感触を確かめる。
「あ、アリッサさん。二階の他に、オルギニアデカンサスに関する資料が保管されてる場所ってないのか?」
「ないのよねぇ、どれも歴史あるものだから、そろそろ国立展示館に展示のお願いが来てもいい頃だと思ってるんだけど……」
 そういうことを聞きたいわけではないのだが、という突っ込みをエドワードは飲み込んだ。ダリアがアリッサは天然だと言っていた理由がいよいよ信憑性を帯びてくる。この礼拝堂の中を一つ一つ紹介してもらう中でも、彼女は何度も転びそうになっていた。
「ごめんなさいねぇ、力になれるものがあまりなかったみたいで。でも、第一教会も第二教会も、保存されているものは一緒なのよ」
 困ったように眉間にしわを寄せるアリッサに、エドワードは頭を振った。ないと言われればしょうがない。探すまでだ。壁を一通り確認し終え、エドワードはアリッサに向き直った。
「それにしても、広い教会だな、結婚式もあげられそうだ」
「ええ、あげるわよ、愛し合うステキな二人がここで夫婦になるの。実はダリアのご両親も、ここで結婚式を挙げたのよ」
「へえ」
 ということは、まだオーギュが脱退していない頃だろう。
「今から十六年前になるのねぇ、私はまだ十八歳で、駆け出しの修道女だったわ。ダリアのお母様は本当に綺麗で、とっても羨ましかったわ。ダリアもお母様に似て、とっても綺麗な子よねぇ、ふふ、エリック君、そう思わない?」
「だからアリッサさん、そういうのじゃないんだって」
「あらぁ、そう? あのね、ダリアってダンスも上手なのよ? あ、実は私も上手なんだけどねぇ」
 ふふ、とアリッサはお茶目に笑った。ウインクまでしてくる始末でエドワードは脱力した。駄目だ、完璧にアリッサのペースに巻き込まれている。ダリアもよく「ふふ」と笑うが、これはきっとアリッサから移ったものなのだろう。
「それに、さっきまで二人でデートしてきたんでしょう? 二人ともとってもお似合いよ? ねえエリック君、ここにいるのは二週間くらいって言ったけど、もうすこしだけ長くいてもいいんじゃなぁい? ダリアもきっと喜ぶと思うの」
 ねえ? と口元を抑えて笑うアリッサに、エドワードはほとほと参ってしまった。嬉しそうにしているあたり別に他意はないのだろうが、事あるごとにアリッサはエドワードとダリアの仲を勘ぐる、というよりも取り持とうとしてくるのだ。アリッサにとっても、ダリアは可愛らしい妹のような存在なのだろうが、こうもゴリ押されてしまうと困ってしまう。アリッサの言うようにダリアは綺麗な少女だと思うが、エドワードがダリアに、それ以前にエドワードが他人に対してそういった気持ちを抱くというのはあり得ないのだ。そんな暇がないという以前に、そういった恋愛感情が既に壊されてしまっているから。あの黒い獣によって。
「ふふ、エリック君、ダリアをよろしくねぇ」
「だから、アリッサさん、そういうんじゃ……」
 でももし、マスタングとの関係が普通の後見人と部下だったら、マスタングと肉体関係など結んでいなかったら、アリッサの言うようにエドワードはあのダリアという少女に何か、甘酸っぱい感情などを抱いていたのだろうか。もしも自分が、普通の男だったら。性的に搾取等されていない、普通の男だったら。頭をかく。考えても答えが見つかるはずはない。エドワードは頭を振った。外にあるトイレに行ったにしては長らく不在のダリアが戻ってこないかと視線を変える。
「……よろしくね」
 ん? とエドワードはアリッサの声色に違和感を持って振り向こうとした、が、ダリアの姿と、それ以外の小さなわらわらとしたものが扉の奥から出てきたのでアリッサに向き直ることができなかった。
「エリック、ごめんね待たせちゃって」
 パタパタと駆け寄ってきたダリアは、先ほどとは状況がかなり違っていた。腕の中に小さな子どもをかかえている。しかもそれだけではなくダリアの後ろにも小さな子が数人くっついていた。五、六歳ぐらいの年齢で、皆統一された白の上下を着ている。長袖に長ズボンだ。
「あらぁ、もうお掃除の時間になっちゃったのかしら?」
 ぽやんとしたアリッサの間抜けな声に、反応したのはダリアの傍にいる小さな子ども達だった。
「アリッサせんせぇ、もうお時間になったよ」
「ベス先生いっぱい怒ってたよ、エミリア先生は困ってた」
「あとねぇ、お客さんがいるよ、ほら」
「あら、あらあらぁ……ほんと、スミスさんだわぁ。どうしましょ、ベスいないんだけど」
 アリッサが少々焦った様子で玄関を見た。エドワードの位置からは見えないがどうやらスミスという客人がドアの向こうにいたらしい。そういえば、かなり長い時間アリッサを連れまわし教会の中を案内させてしまっていた気がする。申し訳なさを感じた。
「アリッサ、ベスさん用事が終わったらここに来るそうよ、でも本当に怒り心頭って感じだったわ」
「あらぁそうなの、ベスってばいっつも怒ってばっかりねぇ。ごめんなさい、ちょっと出てくるわ」
「アリッサせんせぇ、おっちょこちょい」
 パタパタと玄関に向かって走っていくアリッサに可愛らしく手を振る子どもたちの頭を、ダリアが撫でた。その光景からなんとなく目が離せなくなる。纏わりつく子どもたちを優しく見つめるダリアの瞳は、慈愛に満ちていた。本当に子どもたちが愛おしそうだ。そういえば、教会は育児院としての機能も果たしていると聞いた。ということは、この子たちは教会の隣にあった育児院でお世話をしている孤児の子たちなのだろう。
「……えーと?」
「あっエリック、紹介するね、教会の子たちよ。外にでたら捕まっちゃって……ほら、みんなご挨拶は?」
「えーと、あなたに、オルギニのしゅくふくが、ありますように」
「ありますようにー」
「あら凄い、よく言えたね」
 ここの教会の挨拶らしい、どこまでも宗教だ。
「ねえねえだりあー、このちっちゃい人だれー」
「あたしのお友達の、エリックよ」
「えりっくちっちゃいね」
「ちびだ」
「ほんとにちび、だー」
「なっこの、ちびガキども!」
 ナチュラルに気にしていることを指摘されるのはもう数え切れないほどだったが、さすがにここにきてから三度目である。しかも相手は自分よりも背の低い小さな子どもときたものだ、大人げないと言われようといい加減エドワードも我慢しきれなくなった。
「わ、怒った!」
「おこ、ったよー!」
「にげろー!」
「待てこら!」
 楽しそうにきゃいきゃいと逃げ回る子どもたちを追いかける。ちょうど小さな男の子を捕まえることができたので片手で持ち上げると、楽しかったのかもう一回して! とせがんで来た。エドワードを真っすぐに見つめるその純粋な瞳に怒りが削がれ、エドワードは子どもを抱えたま大きくくるりと腕を振ってやった。ぶら下がった子どもがきょとんとして、また笑う。すると、ダリアの傍にいた子どもたちが我先一番とエドワードに群がってきた。ぎょっとする。傍から見れば、さながら小さなゾンビたちに襲われる人間のようだろう。
「エリック、あたしもしてー」
「ボク、も」
「わっコラ、オレはおもちゃじゃねえんだぞ!」
「あはは、エリック人気者じゃない」
「ダリア、見てないで助けろ!」
 子どもたちに人見知りという概念はないようだった。容赦なく次々に圧し掛かってくる子どもたちの圧は予想外にすさまじかった。髪は引っ張られるし頬は引っかかれるし首に巻き付かれて苦しいし、邪気のないじゃれ合いにエドワードはなすすべなく陥落し、両手に女の子と男の子を抱えくるくる回ってやるしかなかった。
「エリック、右手かたーい」
「機械鎧だからな」
「きゃー! もっとまわって、まわって」
「ずるいボクも、ボクもし、てー」
「お前らまてまて、順番だっつーの、ぎゃーズボンを脱がすな!」
「こーら、それはやりすぎよアンソニー」
 止めに入ってくれたダリアのお陰でズボンの下を曝け出すという醜態は晒さずに済んだが、もうこの時点でエドワードはへとへとだった。腰にまとわりついていたアンソニーという幼児は、少したどたどしい声だった、他の子とも比べてみてもなんとなく雰囲気が異なる。もしかしたら障害を持った子なのかもしれない。頭を撫でてやればにかっと欠けた歯を見せて笑ってくれた、素直で愛らしい表情だ。なんというか、ここにいる子どもたちにはいつものように怒声を浴びせることができなかった。それどころかわちゃわちゃと群がられれば体の力が抜け、無意識に苦笑が漏れてくる。アンソニーの小さな頭をぐりぐりとかきまわしてやれば、喜んでいるのかさらに抱き着いてきた。ふわりと、幼児らしく甘い匂いが香る。
「あらあらぁ、ふふ。こうしてみると、二人ともお父さんとお母さんみたいねぇ」
「もうアリッサってば、またそんなこと言って」
 客人の対応を終えたアリッサが戻ってきたらしいが、子どもたちの相手を必死にこなすエドワードはアリッサの言葉を否定することができなかった。というよりも、遊んで攻撃の嵐に彼女たちの方を注視することができなかったのだ。だから、気が付くのが遅れた。

 

 



「いや、本当にお似合いだ」

 

 


 広い教会内に響いていたはずの声が、かき消えた。ダリアの声も、アリッサの声も、子どもたちの声までも。
 子どもたちの相手でせわしなく動いていた鼓動が一瞬だけ止まり、刹那、どっと大きく跳ねた。大きな拳で容赦なく胸を打たれたような衝撃だった。目を見開く。


「だが、子供に向かってちびガキはないんじゃないか、エリック。大人げないな」


 どくんどくんと、心臓に血が集まってくる。平穏な日常に冷たい風が吹き始めた。一瞬にして冷や汗が背筋を伝った。エドワードの耳朶を打ったのは、聞き覚えのある低い声だった。圧倒的な艶と威厳を持つ、甘いテノール。
もう何度もエドワードを苛んだ毒が、耳を通って骨の髄まで侵入してくる。仄暗い圧迫感が増してゆく方向へ、体中の神経一か所に集まり鋭く引きずり出されていくようだった。
 エドワードは軋む首を動かして、後ろを振り向いた。もう振り向かなくともそこにいる人間が誰なのかはわかっていたが、そうせざるをえなかった。
「やあ、エリック。こんなところで会うなんて偶然だね、驚いたよ」
 凍り付いた首が固定される。視界に入ってきたのはエドワードにとって圧倒的な力を持つ男だった。ロイ・マスタング。エドワードの上司でエドワードを支配する男。最後に会ったのは確か一週間前のことだった。
「たっ……」
 大佐、と言いかけて直ぐに口を噤んだ。私服の、見慣れない服を着たマスタングの目が僅かに細められたからだ。意図的だった。突然の出来事に硬直していた思考がその眼差し一つでがむしゃらに回り始める。エドワードの身体が必死にマスタングの意図を探れと叫び出す。防衛本能だった。従えと。
「あらぁ? スミスさん、エリック君とお知り合いだったの?」
「エリック、お知り合い?」
「初めまして可愛らしいお嬢さん、私はロナルド・スミス。エリックの親戚だ」
 ダリアに向かって人好きのする笑みで自己紹介を始めたマスタングに瞬時に察する。マスタングはエドワードと同じくふざけた偽名を使い、なおかつここの修道女と顔見知りになっている様子だ。エドワードが来る以前にここに着き、裏で何かを探っていたことは明白だった。
「えっあっ、あ……私はダリア・サンモンツェルです。えっと……」
「著名な錬金術師の家で研究の手伝に行くという話は聞いていたのだが、まさかノーズレンだったとはね」
「あっはいそうなんです、エリックには、父の手伝いをして頂いていて」
「ということは、君はエリックが世話になっている家のご息女というわけだね、どうぞよろしく」
 合わせるしかない。

 大人たちの些細な混乱には興味がないのか、未だに教会の中を走り回る子どもたちから静かに離れる。舌打ちを堪え、躊躇なく近づいてきたマスタングに向き直る。
「エリック、なんだか懐かしい声が聞こえたと思ったらまさか君に会えるとは。久しぶりだな」
「……久しぶり、ロナルドさん」
 差し出された手を振るえる手で握り返せば、強い力を込められぐいっと抱きしめられた。鼻腔に入ってきたマスタングの慣れた臭い。そこに僅かに、女性ものの香水が混じっているような気がして鼻が歪んだ。総毛だちそうになるのを堪え、なんてことない抱擁に見えるようにマスタングの肩を叩く。叩き返され、離れる寸前耳元で、『このあと私の宿に』と、ひっそりと囁かれた。唾を飲み込む。
「あらぁ、親戚だったのね」
「凄い偶然ね」
「ああ母方のな、本当に、オレもびっくりしたぜ……言ってくれよ」
「君だって、ノーズレンに行くなんて一言も言っていなかったじゃないか」
 よくもまあ口から出まかせを。どくどくと耳元で騒ぐ心臓を抑えるため、湿った呼気が残る耳を手の甲で拭う。なるべく、自然な動作に見えるように。
「ロナルドさんは、ええとどうして」
 可愛らしいお嬢さん、と呼ばれたせいか少し赤らんだ顔をしているダリアに尋ねられ、マスタングは平然と嘘八百を言ってのけた。
「ああ、観光でね。直ぐ近くの宿に泊まってるんだ。ここの街並みは綺麗だね、料理も美味しいし空気も澄んでいる。もう暫く泊まろうと思っているんだ」
 エドワードはバレないように苦虫を噛み潰した。こんなことになるのなら、最初から彼の『設定』も教えてくれればよかったものを。いや、エドワードに言わなかったということは、何か理由があるのだろう。それか、ただの嫌がらせか。
「アリッサァー!」
「きゃぁ!」
「あっベスせんせーきた」
「おこられるぞー」
 突然、裏の扉から女性が飛び出してきた。大声で名を呼ばれたアリッサが驚いてぴょんっと飛び跳ねる。エドワードも驚いてしまった。アリッサと同じ白い服を着ている女性が険しい顔をして、肩をいからせながらズンズンと歩いてくる。アリッサへ向かって一直線だ。
「な、なぁにベス、驚いたわ。まあどうしたの? そんな悪魔みたいな顔をして」
「誰が悪魔だって?」
 悪魔はさすがに言い過ぎだと思うが、ベスと呼ばれた女性は嫌味な二つ銘に相応しくとても険しい顔をしていた。
「あの、あの……ベス先生落ち着いてください、ね?」
 いきり立つベスの後ろから、ひょっこりと細い女性が現れた。小さすぎて見えなかった。怒り狂うベスを宥めようとあたふたしている。
「エミリアは黙ってなさい。なにやってんのよもう、掃除の時間だってのに子どもたちも集めないで外の水も出しっぱなしで! あちこち水浸しよ?」
「あれっ、あれれれ、あらまぁ……ごめんなさぁい、あいたたた」
「謝ってる暇があったら今すぐ来なさい! ったく、新人のエミリアでさえちゃんとしてるってのにあんたときたら!」
「怒らないでベス、ほら、あなたに、オルギニの祝福がありますように、よ」
「あんたって子は、都合のいい時ばっかり!」
「ベス先生、あの、アリッサ先生もわざとじゃないですし」
「あーんエミリア助けてぇ」
「あんたはいつもそうやってエミリアに泣きついて! 今日という今日は……って、あ、ら。ロンさん、きょ、今日もいらしてたんですね」
 鬼の形相でアリッサの頬を抓っていたベスが、エドワードの隣にいるマスタングに目をやった途端、慌ててアリッサの頬を解放した。
 マスタングは驚くことなく、ベスに向かってゆったりとほほ笑んで見せた。ああなるほど。ロン、というのはロナルドの愛称か。
「あ、あのこれは、その」
 へなへなと崩れるアリッサを、エミリアが慌てて介抱している。その横で頬を赤らめ、女性らしいしなを作り始める姿は、どこからどうみても恋する乙女だ。
「ちょ、ちょっと後輩がなってないものでして、いつもこんなに怒っているわけでは……」
「ベスせんせー、お顔まっか」
「まっかだまっか」
「もお違うの! 走ってきたからよ」
 豊かな体付きのべスは、緑色の小さなピアスが埋め込まれた耳に金色の髪をかき上げた。まとわりつく子どもたちを優しく撫で、上目遣いでマスタングの傍にするりとまとわりつく仕草には、一挙一動熱がこもっている。エドワードは既視感を覚えた。これはあれだ。以前マスタングが街中で見知らぬ女性と腕を組んで歩いていたのを見かけたことがあるが、その時女性の表情とそっくりなのだ。
「あの、ロンさん。その……」
「ああ、仕事熱心な姿にますます感銘を受けました、やはり貴女は愛情あふれる女性のようだ──また、明日の夜」
 歯の浮くような台詞の最後に、ひそ、とベスの耳元で囁かれた言葉は本当に小さかった。聞こえたのはマスタングの直ぐ横にいたエドワードだけだろう。また今夜。それが意味することがわからぬエドワードではない。
自身の艶を十二分に理解しているマスタングが、故意に作り出したそれ専用の声色。だがベスという女性はそうは受け取らなかったらしい。赤らんでいた顔をさらに火照らせた。
 アリッサの紹介で、ベスとエミリアの二人に自己紹介と共にマスタングの親戚であることを告げたが、ベスの視線はほとんどマスタングにくぎ付けだった。
 意味深な視線を躱しながら、『あなたに、オルギニの祝福がありますように』と美しく礼をしてから、鼻歌まじりにアリッサを引きずっていくベス。その後ろをひょこひょことエミリアがくっついていく。去り際にエミリアが、少しだけ後ろを振り向いて何か言いたげに会釈をしてきた。片手を上げてそれに答えたのはマスタングだ。その表情は、ベスに向けていたのと同じ笑み。まさか。
「──エリック、どうかね。積もる話もあるんだが少し話さないか、宿はすぐそこなんだ」
 素早く切り替えたマスタングに、肩をぽんと叩かれびくりと跳ねてしまったのは失態だった。マスタングが唇に三日月型の笑みを張りつけたのだ。先ほどの対人用の微笑みとは違う、サディスティックに歪んだ口元。嫌な予感しかしなかったが、それが見えているのはマスタングの真正面にいるエドワードだけだ。何も知らない周囲に助けなど求められるわけがない。もとより、求めることなどできやしないが。
「ああ、えっと」
 後で宿へ来いと命じられていたので、拒否することはできない。エドワードはちらりとダリアに視線を投げた。人に気を利かせるダリアのことだ、返答はわかってはいたのだが一人にしていいものかと気がかりだった。少し前から、ダリアの顔が青い気がするのだ。表面上は元気そうに繕ってはいるが、時折足を気にする仕草をしている。子ども達に縋り付かれているダリアがこちらに目を向け微笑んだ。怪しまれないようエドワードも笑みを返す。視界の隅に映ったマスタングの口元が一瞬だけ歪んだような気がして気が急いた。早くしろと言っているのだろう。
「エリック、これから礼拝堂の掃除があるの。あたし手伝うから、ロナルドさんとお話してきて大丈夫よ」
「……大丈夫か?」
「大丈夫だよ、休み休みする。無理しないし」
「でも」
「すまないね、感謝する」
「わ」
 ダリアとの会話を遮るように、マスタングの腕が伸びてきて、肩を抱かれた。予想外に強い力で驚いた。マスタングにしては性急な足取りでエドワードを引きずるように歩き始める。慌ててエドワードも早歩きになる。
「お、おい、大佐」
 二人だけにしか聞こえないように、小さな声でマスタングに囁きかける。マスタングがちらりとエドワードを見たが、これまでの軽口が嘘のように、冷ややかな瞳に見下ろされてエドワードは言葉を飲み込んだ。焦る。つい先ほどまで、まだ愉しげな風貌だったのに。たった一瞬で、何かマスタングの怒りに触れるようなことをしてしまったのだろうか。これから待ち受けているだろう屈辱を想像して身震いする。こんな場所でそこまで酷く扱われることはないとは思うが、相手はあのマスタングだ。薄く息を吸い込み、吐き出す。
「鋼の」
「……なんだよ」
 怖気付かぬよう震える拳を握り締めマスタングを睨む。密着した部分に冷気が流れこみ、余計離れられなくされているような気さえした。隣から響く声は氷のようだ。
「ダリア嬢がこちらを見ている。私を見て笑いなさい」
 その一言に余計に頬が余計に引きつりそうになった。こいつはどこまでエドワードをバカにすれば気がすむのだろうか。こちらからはダリアの姿は見えない。渾身の力で、へらり、と頬を緩ませてみる。だが、マスタングの視線は冷たいままだ。必死に笑みを浮かべたまま、軋む右手を伸ばしマスタングのコートをぎゅっと握りしめ、身体を僅かにくっつけた。気心しれた親戚同士に見えているだろうか。まさかそう来るとは思わなかったのか、一瞬だけマスタングがぴくりと固まった。そしてエドワードの行動にわずかながらに満足したのかゆったりと口角を上げ、エドワードに顔を寄せてきた。
「いい子だ」
 教会から出る。空は晴れているのに気分は最悪だ。近場と言っていたが、マスタングの宿泊している宿まであとどのくらいなのだろうか。密着して歩くマスタングはほほ笑んでいるが、底冷えするような恐ろしさは消えてはくれない。

 エドワードは引き攣る口元を必死に盛り上げながら、苦行のような道のりを歩いた。

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