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「なんで、アンタがここにいるんだ」
「旅行だ」
 マスタングが泊っている宿泊所は、本当に第一教会から遠く離れていない直ぐの立地にあった。彼の地位から考えるといささか不釣り合いな、一般の宿泊客が泊るような質素な宿だった。
「そんなわけあるか、ロナルド・スミスとかいう馬鹿みたいな偽名使いやがって。仕事はどうした」
 扉に背を預けたまま、何がロンだ、とエドワードは吐き捨てた。

 どさり、と狭い部屋のベッドに腰掛けたマスタングの出で立ちは、いつもの青い軍服と違い見慣れぬ私服だった。黒いズボンと、シャツの上には品のよさそうなベストを羽織っている。優雅に足を組めば足の長さが目立った。しかも今は、長く黒いコートを羽織っているので見るからにいっぱしの旅行者だ。普段の冷徹な軍人としての側面や、国軍大佐としての威厳がいくらか和らいでいるその姿は、認めざるをえないが、甘いマスクも相まって女性ならば直ぐ声をかけてしまうような姿だった。
「もちろん、休暇をとってあるさ。ここは観光地だからな、特にあの教会には綺麗処も多い、観に行ったかいがあったな」
「いい加減にしろ。観光しに来るならこんな郊外じゃなくて、もっとでかい第一教会付近に行くはずだろ」
「どこも人気でね、泊まれる宿がここしかなかったんだよ」
 しれっとした表情は、いかにも胡散臭かった。彼が嘘を言っていることは明白だ。彼との付き合いが短い人間であれば騙されていたかもしれないがエドワードは違う。この人間に何度腹立たしい思いをさせられたことか。
「アンタ教会の人からも顔覚えられて……いつからここに」
 アリッサはともかく、ベスという女性はロンさん、と上目遣いにマスタングを見上げていた。あの体の密着具合は、ただの知り合いの男女というには近すぎる。少なくともべスの方は親しい間柄だと思っているに違いない。必死に色目を使うベスを見下ろしていたマスタングの目は相変わらず冷めてはいたが、相手を虜にしようと蠢く艶のある目をしていた。いつもエドワードに向けるものとは違う。
「一週間ほど前だ、君がここに到着する三日前になるな」
 コートを脱ぎ、乱雑に髪をかき上げる仕草は板についている。三日前、ということは、エドワードにサンモンツェル邸に赴けと命じた直ぐ後にこの町に飛んできたということなのだろう。
「アンタ、何考えてんだよ、なんであそこの教会こそこそ嗅ぎまわってんだ」
 本当に一体、この男は何を考えているのだろうか。もしかしてエドワードをノーズレンに来させたことと関係があるのだろうか。
「偶然さ」
 混乱するエドワードをよそに、マスタングは飄々とした態度を崩さなかった。

 これは最後まで白を切る気らしい。
「それにしても、君も随分ここになじんできているようじゃないか。ダリアと言ったかね、あの少女は、仲睦まじい様子で何よりだ」
「当たり前だ。ダリアは」
 なんと答えればいいか迷って一瞬口を噤んだ。居候先の娘である彼女を、友達だと呼んでいいものなのかがわからなかった。
「……そりゃ、五日もいれば」
「研究そっちのけでオーギュ・サンモンツェルの娘とデートに勤しむとはね。教会に来る前は二人仲良く大通りを散策していたと聞いたが」
 断定的な台詞だ。きっとアリッサから話を聞いていたに違いない。それとも、遠目からエドワードがダリアと戯れる様子を眺めていたのだろうか。視線なんて感じなかったが、気配を消すことに長けた男だ、あり得る。
「……いま、その話は関係ないだろ」
「関係ない?」
 ぴくりとマスタングが顔を上げ、目を細めて眦を崩した。その表情に、何かいつもとは異なる違和感を覚えた。
「勘違いされては困るな、鋼の」
 エドワードを見定める黒い瞳が、鋭く波打ったような気がした。
「大事な研究をほっぽって、何をしているんだと聞いている」
 マスタングの瞳の奥に、かろうじて潜んでいた笑いが消えた。一瞬にして、ひやり、と首が寒くなった。今の一言で部屋の温度が一度下がったような感覚だった。口の中が渇いてゆく。先ほどとはまた違った緊張感が増した。答えを一つでも間違えれば、首を刎ねられてしまいそうな緊迫感だった。

 今の彼の視線は、エドワードにとって凶器に近い。エドワードは今更ながらに気が付いた。今のマスタングが、いつもの彼とは少し違っていることに。瞳の奥に、いつもの嘲笑がない。
「──別に、デートとかじゃ、ねえよ。オーギュさんが、ちょっと羽伸ばしてこいって、言ってくれて」
「オーギュさん、ね」
 崩された足が、ゆったりとした動作でコツ、と床を踏みしめた。コツ、コツ、コツと響く断続的な音は床を伝って、エドワードの身体を振動させる。デスクを指で叩くマスタングを思い出して、足先がだんだんと冷えていく。
「羽を伸ばせるほど研究は進んでいる、ということかな」
 言葉に詰まり、下を向きそうになる。しかし堪えた。
「オーギュ・サンモンツェルの研究は、君たち兄弟にとって有益な情報となりそうか?」
 核心を突く問いかけだった。正直に言うと、調べれば調べるほどあのオルギニアデカンサスという花は、エドワード達の求める賢者の石とは関係がないように思えた。
「それは、まだ」
「わからないのかね」
 責めるような発言に口を引き結ぶ。
「私は最初に言ったぞ、君たちの研究のためにならないようであれば帰ってきていいと」
 マスタングの台詞にだんだんと体が重くなっていく。見えない重力に圧し潰されているみたいだった。だが、エドワードがここにきてからまだたったの五日しか経っていない。望みは薄いが、このまま調べていけばもしかしたらエドワードの探し求める賢者の石に──いや、賢者の石に関係はなくとも、ダリアの病気を治す何かは、見つかるかもしれない。
「まさか弟の身体そっちのけで、サンモンツェル卿の娘の身体を治す方法を探しているのではあるまいな、君は」
ぎくりとして下を向く、古いカーペットが目に入った。やはり、この宿はそこまでいい宿ではないようだ。
「答えられないということは、図星かね」
「違う」
 口先では否定しているが、顔を上げることはできなかった。これでは肯定しているようなものじゃないか、と頭ではわかっていてもそれ以上何も言えなかった。もしかしたら自分達の体を元に戻す何かが見つかるかもしれないという気持ちがないわけではないが、それ以上に、ダリアの体が気がかりだというのも本音だった。きっとマスタングには、エドワードのそんな気持ちはバレている。
「あれだけ弟が大事と言っておきながら、君の情の深さには感嘆するな。君は凄いな、恐れ入ったよ」
 いつも通りの、なんてことないマスタングの嫌味のはずなのに胸がずきんと痛んだ。理由は明白だ。エドワードの不快感を最大限まで煽り、エドワードを崩そうとするいつもの常套手段とはまた違う。

 マスタングが本気で、エドワードを愚か者だと思っているからだ。
「ああ、それとも」
 拳を握りしめる。聞くな、意識するなと心に蓋をする、だがマスタングはいつもエドワードの上をゆく。エドワードが必死に保とうとしている心の平穏を、わが物顔で踏み潰してくるのだ。エドワードを掌握するために、従わせるために。
「そんなによかったか、女性の体が」
「……なに?」
「弟想いの君が弟のことも忘れて虜になるほど、魅力のある女性器を持っているのかね、あの子は」
 あまりにも、あまりにも最低極まりない発言に、エドワードは顔を上げて硬直してしまった。呆然とマスタングを見つめる。マスタングの瞳は、飲み込まれるような漆黒だった。
「棒のように細かったな、締まりはよさそうだ」
 いつのまにか、彼は笑みを消していた。無表情でエドワードを見つめている。ここまで温度のない目を見るのは初めてだった。
「実に惜しいな、君がどうやってあの女相手に腰を振るのか見てみたかった。私は男に──私に抱かれる君しか知らないからな」
「……!」
 怒りに頭に血が昇るのは何度か経験していたが、怒りで目の前が真っ白になったのは初めてだった。地面に縫い付けられていた脚に力を込め、大股でマスタングとの距離を詰め右手でマスタングの襟に掴みかかる。こんな目に見える反抗今までしたことがなかったのに、マスタングは微動だにしなかった。それがなおエドワードの怒りを煽った。
「何も……!」
 マスタングは今、本気でエドワードを傷つけようとした。いつものようなかすめる程度の嘲りではなく、確かな刃でエドワードの首を切りつけた。だがそれが、エドワードのみならず無関係の人間にまで及んだことにエドワードは強い憤りを感じていた。ショックだったのだ。何度も捩じ伏せられた腕を絶対者であるマスタングに振り上げてしまえるほどに。
「何も知らねえくせに!」
 唾を吐く勢いで怒鳴りつける。本来であれば、エドワードの反抗など彼は煩い虫を払うように叩き落とすだろう。だが、目の前にある黒い瞳にはエドワードの燃え盛る金色が映り込んだままだ。何を考えているかなんて知るよしもないが、エドワードはこの憤怒をマスタングにぶつけることしか考えられなかった。
「ダリアのこと、何も……!」
 ダリアは普段は明るく振舞ってはいるが、父親の見えない所で蹲っていることがよくあった。少し走っただけで、嘔吐することも。さっきだって教会のトイレに閉じ籠っていたのは、消耗した体力を元に戻すためなのだと、思う。

 ダリアは常に笑っている。日に日にその小さな身体を蝕んでくる病魔に嫌な顔一つせず。マスタングだってそれは知っているはずだ、そして教会でダリアの笑顔を見たはずだ。子どもたちを慈しむ彼女の姿を。

 普通の女の子だ。あの優しげな少女の姿をみて、なぜそんな酷いことが言えるのだろうか。彼女を意思のない玩具として見下すことができるのだろうか。彼にとっての玩具はエドワードの方だ。それなのにダリアまで巻き込もうとするなんて。

 まさか本当に、エドワードとダリアの関係を疑っているわけではないだろうに。
 いや、これは建前だ。ダリアのことを侮辱されて確かに腸が煮えくりかえった。だがその奥に閉ざされた、エドワードのコンプレックスを他でもないマスタングに叩き潰されて、我慢できなくなったのだ。

 女のように組み敷かれ、マスタングに抱かれる自分。気づいた時には、性衝動自体に嫌悪感を覚えるようになってしまった。彼の愛撫でしか、反応できない。自分自身でする時もそうなのだ、彼以外に抱かれる自分が想像できない。あまつさえ、女性を自分が抱くなんてことは。想像しただけでも吐きそうだった。

 エドワードの男性としての矜持も、未来も、全て奪ったのはマスタングのくせに。それなのに。
「上官に手をあげるとは、愚か者め」
「うるせえ!」
「では君は、何を知っている」
「何がだよ……!」
「あの親子の何を知っている」
 はっとする。マスタングの襟を掴んでいた手首に、マスタングの手が絡みついていた。男の大きな手のひらに、エドワードの手首はすっぽりと収まる。機械腕であっても、だ。本気で掴まれれば機械と言えども折れてしまうのかもしれない。そう不安になるほど。
「疑似家族にでもなったつもりか、馬鹿が。君は部外者だ」
 いつにないほど、マスタングの言葉は鋭い。普段は柔らかな口調なのにそれもない。血管の浮いた手の甲に、力の強さが伺える。
「手を離せ、鋼の」
 機械の肩が軋み始める。強い力で押し下げられている。身の内で暴れまわる憤怒を糧に、なんとか抗う。
「聞こえなかったか主人の命令が。このまま腕を引きちぎられたいか、狗」
 悪意の塊が、マスタングの声としてぶつけられる。がくんと肩が落ちた。なおもマスタングの力は緩まない。このままでは宣言通り肩から機械腕が外されてしまう。急に、空気が変わったようだった。
 エドワードの怒りが徐々に冷えてゆき、マスタングに対する圧倒的な恐れに塗り替えられていく。マスタングはエドワードに無体を強いる男ではあるが、乱暴を働くことは最初の時以外ほとんどなかった。だから失念していた。マスタングは過去に一度、力の限りエドワードの頬を張り、首を絞めつけてきた男だ。
「鋼の、跪け。ここに」
 今のマスタングは普段の柔らかさはなりを潜め、苛烈な炎を瞳の奥に宿していた。彼は本気だ。エドワードは後ずさりしそうになる足をどうにか地面に縫い付け、握りしめている襟からこわばる機械の指を、一本づつずつ離した。全部離れても、マスタングはエドワードの手首を解放してはくれなかった。

 どうしたらいいかわからず硬直していると、マスタングにばしんと頬を叩かれた。あまりにも一瞬の出来事でぽかんとする。躊躇の無い早さだった。

 声を出す暇もなかった。じわじわ遅れてやってきた左頬の痛みに、ああ殴られたんだなと理解する。
「もう一度だけ言おう、跪け」
 久しぶりに与えられた暴行らしい暴行に、いつのまにかエドワードは怒鳴ることさえできなくなっていた。マスタングから視線を逸らすことさえできずに、彼の指示に従いゆっくりと膝を下ろしていく。まるで操り人形だ。目の前は、マスタングの股の間だった。エドワードが座り込んだのを確認してからマスタングはエドワードの腕を羽虫でも払うかのように解放し、頭の後ろを鷲掴みぐっと押し込んで来た。
「手袋を外せ」
 震える手で、両手袋を外し、カーペットの上に置く。マスタングは流れるような動作でズボンのボタンをぱちりと外し、無造作に下着の中を暴いて見せた。まだ萎えたままだというのに、はみ出した黒い茂みの下から漏れてきたむわっとした男臭さに、顔が歪む。エドワードの苦手な臭いだ。これから何を命じられるのかがわかって、エドワードは唇を血が滲むほどに噛みしめた。

 


「しゃぶれ」








BUTTERFLY KNIGHT
(ロイエド/R18小説/全236頁/A5/1760円)

 

 

 

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