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BUTTERFLY KNIGHT

【第二章】



ロイ・マスタングが見えない。
彼がどういう人物なのかわからない。

エドワードにとって、ロイ・マスタングという人間は不可解な人物だった。エドワードの上官であり、後見人であり、エドワードに不等価な等価交換を強いる男。人をいたぶるのが大好きなサディストで、鬼畜で、エドワードがこれまで出会ってきた男の中で最も最低な男で、エドワードはいつも微笑みを絶やさず自分を抱き潰してくるマスタングが恐ろしくて……と、嫌な所を上げればきりがない。アルフォンスのように感謝していた時期もあった。一年間の機械鎧のリハビリに耐えられたのも、彼から提示された未来に向かって死に物狂いで頑張っていたからに違いない。しかし、それは幻だった。
エドワードは男だ。マスタングも男だ。同性を好きになるのは個人に備わっている性的嗜好によって決まる。エドワードはまだ『恋』というものを知らない。だから自分がどちらの人間なのかも厳密にいえばわからない。しかしマスタングは違うだろう。彼は極度の女好きだ。彼に恋人を寝取られたとか奪われたとか、そんな噂はしょっちゅう耳に入る。
もしかして本当は同性が恋愛対象で、隠れ蓑として女性好きを装い実はエドワード以外の部下にまで手を出しているのかと一時期は疑っていたのだが、彼らとマスタングのやり取り、そして関係を見ている限りその可能性は低い気がする。きっと、今の段階で彼に目をつけられているのはエドワードだけだ。でもならばどうして、エドワードだけなのだろうか。なぜエドワードに執着し、手を出そうとするだろうか。
暇つぶし、なのだろうか。しかしそれならば、もっと手堅い所に手を出せばいいのではないか。子どもの体に興味があるならなおさらだ。エドワードには理解できないが、訪れた街でそのような店を見かけたこともある。女性や、男性が性を売る店だ。マスタングが抱いてみたいと思う年齢層の子どもも少なからずいるという話も聞いたことがある。その筋の人に売れるのだと、たまたま情報を探るために忍び込んだバーで飲んだくれていた男が仲間と思われる男と笑いながら語らっていた。にわかには信じがたい話だが……いや、それはエドワードも同じだ。子どもが性を売るなんて信じられないと言っておきながら、エドワード自身もこうして性を奪われている。今のエドワードと同じように、のっぴきならない事情で大人に足を開く少年や少女もきっといるのだろう。だからマスタングも周囲に関係がバレてしまう危険を冒してまでエドワードの体に拘らなくとも、そういった店に赴けばいいのでは、と。その方がよっぽど合理的だ。
しかし、もしもそうなってしまえばマスタングの手によってエドワードと同じく傷つく子どもが一人増えてしまうということになる。それは、ダメだ。それに、エドワードはマスタングの性欲処理器だ。彼がエドワードに飽きたら、今よりももっと恐ろしいことになってしまう可能性もある。
『それに、機械鎧の着いた身体にはとても興味がある。むき出しの神経を直接愛撫されれば人間の体はどうなるのか、この醜い接合部もちゃんと快楽を感じるようになるのか、とかね。あとはそうだな……まあ、色々試してみたいことだらけだよ』
彼がエドワードにしてみたいと宣言していたことは、あらかたやられ尽くした、とエドワードは思っている。マスタングに懇切丁寧にしつこく開発され、初めは痛みしか感じなかった機械鎧の繋ぎ目も、今では彼の指に弄られるだけで性感帯へと変わってしまう。
いつか彼に飽きられエドワードがお役御免となれば、どうなってしまうのだろうか。新たな利用方法として、別の人間に身体を差し出せと命令されたらと思うと怖い。マスタングは野望を持つ男だ。いつか大総統の座を射止めようと画策している男だ。昇進のためには手段も択ばないだろう。軍はまだまだ男所帯だ、少女だけでなく、少年にいたずらすることを好む輩も数多くいるという噂も聞く。どの世界でも、人間の三大欲求の一つは性欲だ。上層部へのし上がる手段として、他者にエドワード自身を差し出すことを要求されればエドワードに断るすべはない。
はたして、心は持つのだろうか。アルフォンスのためだと、自分自身に言い聞かせてマスタングに従うことはできるのだろうか。もしも拒めばマスタングは宣言通り、アルフォンスを上層部に売るのだろうか。
マスタングがわからない。冷たい男だ、恐ろしい男だ。しかし、部下と仕事をしている時の彼は、存外普通に見える。慕われてもいる、信頼されてもいる。彼はエドワードを一体どうしたいのだろうか。どうして、エドワードにだけ、こんな扱いをするのだろうか。
そんなことをつらつら考えていれば、ぶろろろ、と車がエドワードの真横を通った。運転席の男が訝し気にエドワードを流し見、去って行く。はっとする。慌てて辺りを見回せば、エドワードは今綺麗に積み上げられた石畳のほぼ真ん中に立っていた。これでは邪魔なはずだ、一歩間違えれば轢かれる所だった、危ない。慌てて壁による。
集中しろと、ゴツンと壁に頭を擦りつける。と、数日前にべたついていた髪を思い出してさらにうんざりとした。執務室で自慰を強制された後、白濁液に塗れた手で髪を攫われてベタベタになってしまったのだ。シャワー室に行けば弟に訝しがられるし、いつものように手洗い場で処理するしかなかったので大変だった。鏡に映った、白いものがこびり付いた自分の髪に惨めさが増した。股の間や腹部に散った体液をタオルで必死に拭いとっても、トイレに行くまで着込んでいた服は微妙に濡れていて気持ち悪いし、臭いもなかなか取れないしで、本当に散々な一日だった。
──だめだ。どうしたって、エドワードに今回の話を持ってきた男の姿が頭から離れてくれない。肌寒い季節になってきたというのに、昼間はまだ太陽光が鋭い。それが熱い焔を思い出させるのだ。焼けていく感覚に思考が引きずられそうになってしまう。弟のことに集中したいのに、いつだって頭の片隅にはマスタングの微笑みがある。自分を見下すあの冷たい黒曜石がエドワードを捉えて離さない。
はあ、と大きくため息を付き、軽いトランクを片手に再び持ち上げ前を見据える。今エドワードはとある町に居た。西部のケイル地方にある街、ノーズレンだ。マスタングにそこに向かえと『提案』された日からまだ一週間もたっていない。先方には了解を取った、と連絡が来たのは提案を受けてから次の日だ。相当早い展開に弟は素直に喜んでいたが、エドワードには嫌な予感しかしなかった。あまりにも出来過ぎている。エドワードはマスタングの提案に頷く前から、手はずを整えていたに違いない。エドワードが断ることはない、断れないと判断して。全く人を手のひらで転がすことに長けた男だ。
ノーズレンは、ケイル地方においては小さめなやや外れの地域だが、由緒ある商家や資産家の家も数軒立ち並んでいる。高級住宅街、というよりも、歴史のある街だ。西部を管轄する西方司令部から少し離れた場所にあるせいか、その地域独特の宗教も昔から確立され、教会等も立ち並んでいる。教会では孤児の育成に力が入れられ、貧富の差は少なからずあるにしろ治安もよく統率も取れた比較的安全な街だ。外観を損ねないよう統一された街並みに、その豊かさの片鱗が伺える。見たこともない趣味のよい建物が堂々と立ち並ぶ姿は、どれもこれもエドワードが生まれ育った田舎よりも近代的で、洒落ている。旅から旅の連続だったエドワードから見ても初めて目にするものばかりで、街の中心部を歩いていた時は自然と心が浮足立ったものだ。しかし、こうも距離が遠いと美しい街並みにも飽きが来るというもので。
「っかしいな……確か、ここら辺のはずなんだけど」
エドワードは用意していた地図を片手にきょろきょろとあたりを見回した。誰かに道を聞こうと思っても、如何せん人が見当たらない。エドワードが訪れようとしているところは、ノーズレンの中でもまたさらに外れに近い閑静な場所だった。しかし、たくさんの人でにぎわっていた駅を見る限り、ここまで人がいないとは思えなかったのだが。
「えーと、地図だとここを……どっちだ?」
ここに着いてからもう一時間は経ったが、エドワードは先ほどから同じ場所をうろうろと歩き回っていた。何度も立ち止まっては改めて地図を見直し、ぐるぐると首を傾けてまたあたりを徘徊していた。細い小道も多いため、何をどうしても道がわからない。方向音痴ではなかったはずなのだが、初めてみる慣れない土地に四苦八苦していた。いつもであればしっかりものの弟がエドワードを引っ張ってくれるのだが、頼みの弟は今ここにはいない。今回はエドワード一人で動けというマスタングの『指示』があったので、弟には二人で訪れようとしていた別の街に一足先に行ってもらったのだ。こうして別々に旅をするというのは初めてのことだったので、エドワードは少々不安だった。
「だーもうわっかんねえ! どっかの家の人に聞くっきゃねえな」
エドワードが意を決して、手ごろな家に道を尋ねようと決意した瞬間。
「どいてッ!」
大きな声がした方向へ顔を向ける。真上だった。太陽光を逆光として、視界にもの凄い速さで何か近づいてくるのが見えた、いや落下してくる。女もののスカートと、誰かの細い脚と──小さな尻が。
「……ぅわああああ!」
エドワードが悲鳴を上げたのと、どしんと、顔面に柔らかな身体がのしかかってきたのはほぼ同時だった。




***




どちらかと言えばエドワードの方こそ悪かった。少女が飛び降りてきた塀はそこまでの高さではなく、慣れた人間であれば余裕で着地できる高さだ。しかし一瞬の出来事であったためエドワードにそれを判断する余裕がなく、少女が転げ落ちていかないように咄嗟に手を伸ばして受け止めてしまったのだ。目測を誤って顔面で少女を受けとめてしまったのもエドワードのミスで、エドワードの顔にほぼ尻もちをつかせてしまうことになったのもエドワードのせいだ。
だがしかし。だからといって。
「……へ、変態!」
その反応は、ないのではないだろうか。
「だっ……誰が変態だー!」
「だだだだって、あたしのお尻見たでしょ! こっこの変態!」
 真っ赤な顔で尻を庇い、後ずさりした少女にエドワードの方こそ真っ赤になってしまった。
「あ、あんたが落ちてきたせいだろうが!」
「あたしのせいだっていうの? なんでぼーっと突っ立ってるのよ怖いわね、 あたしが落ちてくるの待ってたんじゃないの!」
「はあ? なんでそうなるんだよ! っつうか降りる時、下に人がいない確認するべきだろ!」
そうだ不可抗力だ。エドワードとて別に好きで尻に敷かれたわけではない。確かに見知らぬ少女に柔らかな尻を押し付けられたショックで思考が暫く停止してしまっていたがそれはしょうがないことだろう、エドワードじゃなくたって誰だってこうなる。ここまで言われる筋合いはない。
「し、したわよ! でも見えなかったんだもの、まさか貴方みたいな変態がいるとは思わないじゃない! はやくどいてよ、迷惑よ!」
「へ、変態変態って、言わせておけばこいつ……!」
 短気な性格が災いして、相手が女だとかは関係なくエドワードはつい怒鳴ってしまいたくなったのだが、潤んだ瞳でキッと睨みつけられてうっと言葉に詰まってしまった。そんな顔をされるとエドワードの方が悪者みたいだ。確かに、石の壁の上部分には結構な量の蔦が生えていて、ちょっとのぞいたくらいでは壁際の方までは確認できなさそうだ。
「確かに……これは見えないかも、な」
認めるのは癪だが、特にエドワードが立っていた場所は残念なことに蔦のせいで死角になっていた。色々な悪条件が重なった不幸な事故だったらしい。
「そうよ! だから驚いて、驚いたから、だから……」
しかし、このままここで『変態』という不本意極まりないレッテルを貼られそれが広まってしまえば、この町に居づらくなってしまう。地方の街だ、噂の広まりも早いだろう。訪問早々ここの住民に白い目で見られるのはどうしても避けたかった。
「オレは別に、ちょっと道に迷ってただけだ!」
「はあ? 道?」
「ああ、ここに来たのは初めてだからな」
「……え、貴方、ここの人じゃないの?」
「違う。ちょっと用事があって、ついさっきこの町についたばっかだ」
「……そ、そうなの、ここの人じゃなかったの、ね、なんだ」
どうこの少女を説得するべきか、と返答を探しあぐねていると、言葉が尻すぼみになっていた少女が突然姿勢を正し、土下座する勢いで思い切り頭を下げてきて、エドワードはぽかんと口を開けてしまった。
「ごめんなさい!」
「……は?」
「本当に、ごめんなさい! 痛い思いさせた上に、つい、驚いて酷いこと言っちゃって……ここ近道で、今の時間にここの通りに人がいるとは思ってなかったの!」
「え? い、いや、その」
「確認もしないで降りちゃってごめん、へ、変態って言ったのも、その……勢いで。本当に、ごめんなさい」
 エドワードは呆気に取られてしまった。急に態度が変わったこともそうだったのだが、俯いた少女の顔が真っ白だったのだ。先ほどまで、怒りと羞恥に真っ赤になっていたというのに。
「あ、いや、その……オレの方こそ、悪かったよ」
 そろりと見上げてきた表情には、申し訳なさが満ち溢れていた。本気で悪かったと思っている顔だ。どういった心境の変化なのかはわからないが、真摯に謝る少女を無下にはできなかった。
「オレも、怒鳴ってごめん」
 エドワードは頬を掻いた。エドワードこそ、小柄な少女を支えきれずみっともなくすっ転んでしまったのだ。きちんとうまく受け止めておけばこんなことにはならなかったはずだ。
「そ、それよりあんた、怪我は?」
「え? あ、うん。あたしは、ないよ」
 よかった、と返せば、少女がほっとしたように胸を撫で下ろした。エドワードは目の前にいる少女に改めて見た。歳は、同じぐらいだろうか。背はエドワードとさほど変わらなそうだ。少しだけ色あせた、花びらの柄が散った黄色のワンピースを着こんでいる。色の濃い青い瞳と、長い金色の髪は典型的なアメストリス人の証だ。髪は二つに分けて三つ編みにされている。諸事情によりいつもの髪型ではなく、髪を後ろで一つに結んでいるエドワードとは対照的な出で立ちだった。一見すると本の似合う物静かそうなイメージなのだが、塀から飛び降りるということをやってのけるということは見かけによらずアグレッシブなのかもしれない。鼻の先にちょっとだけついている泥に、エドワードはここ、と鼻をかいてみせた。少女は直ぐに気づいたのか袖で鼻を擦り、服についた泥にあれ? と声をあげてから、堪えきれずに吹き出して笑った。皺のように深いえくぼが目立つ、眩しい笑顔だった。つられてエドワードも苦笑しながら頭をかく。
「あの、本当にごめんなさい」
「いや、こっちこそ、受け止めきれなくて」
「そんなことないよ、助けようとしてくれてありがとう」
 まだまだ気まずい雰囲気ではあるが、ひとまず、先ほどのわだかまりは解けたようだ。エドワードは痛む腰をさすりながら立ち上がり、少女の手にしていたバッグの中から散らばってしまった花の束を拾い、まだ座り込んだままの少女に右手を伸ばした。少女がエドワードの手を取って、ゆっくりと立ち上がる。と、右手の硬さに違和感を覚えたのか少女がエドワードの腕を少しだけ見つめた。しかしそれは一瞬の出来事で、少女は顔色を変えずにエドワードの手を離し、ありがとう、と一言感謝を述べてほほ笑んだ。迷いのない表情だ。気の使い方に好感が少し上がった。花束を返し、エドワードは肩をすくめる。
「……右腕が、機械鎧でさ」
「あ、そうなのね。だからか、逞しいなって思ったのよ」
 さして気にする素振りもみせず、少女がスカートのごみを払った。ちらりと見えた足首が、異様に細く見えたのだけが気になった。
「花もありがとう、あたしね、ダリアって言うの」
「ああ。オレは、エ──エリック、だ」
マスタングから強制的に授けられた偽名で名乗るのは初めてで、多少つっかえてしまった。
「そう。エリックさんはどこから来たの?」
「えーと、東部の方からで。あっそうだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「あ、そういえば道に迷ってるって言ってたわよね」
「ああ、この地図ってどう見るか知ってるか?」
「地図?」
ひょいっと気軽に覗き込んで来た少女にも見えるように、地図を広げる。
「なかなか人がいなくて誰にも聞けなくてさ」
「まあ、それもそうね。今は礼拝中だから」
「礼拝中?」
 少女が指さした方向は、先ほど少女が落ちてきた石垣だ。
「この向こうが礼拝堂で、今丁度、礼拝が開かれてるわ」
 言われてみれば、石垣の向こうからかすかに歌のようなものが聞こえてくる気がする。途切れるように響く、繊細な旋律が。
「こんな真昼間に、礼拝?」
「うん。早朝礼拝、昼礼拝、そして夜礼拝。週に一度、一日三回あるの。ここらへんは結構信者の方も密集してるから、礼拝時間は人通りも少なくなるのよ」
「へえ」
 だからか、先ほど少女がここの通りに人がいるとは思わなかったと言っていたのか。そういう理由であれば納得だ。そういえば、この地域では独特の宗教が確立されていると聞いていた。来る途中もいくつか教会らしき建物もみかけた。らしきというのは、エドワードはここに伝わる宗教が一体どんなものか知らなかったため、何を崇拝対象としているのかがわからなかったからだ。教会らしき建物の外観には、十字架も、何かの宗教を思わせる偶像等も置かれていなかった。
「あ、れ? この地図、かなり昔のやつじゃない?」
「は?」
「だって、もう封鎖された道とかも記載されてるよ。ほら、ここの道はもうなくなってるし、こっちの道は別の道と繋げられてるもの。あたしが生まれる前の地図よ。五十年くらいは前なんじゃないかな」
「五十年!」
 少女に説明されるまま改めて地図を見直す。すると、どうやら本当に、今の地形とは微妙にズレがあるようだ。
「まあでも、大通りまでは変わりないからこの地図でも大丈夫だけど、ここらへんはちょこちょこ変わってるから……教会から新たしく発行された改正版のやつ、持ってない?」
「持ってない……」
エドワードはふつふつと怒りが湧きあがってくるのを感じた。あのクソ大佐め、なんの嫌がらせだ。地図を用意しておいたとか言って渡してきたくせに昔の地図を渡されても意味ねえじゃねえか。握りしめた地図をぐしゃりと握りつぶし床に叩きつけてやりたくなる衝動を堪え、エドワードは用途を失った地図を畳んでポケットの中に突っ込んだ。変わりに、別の書類をトランクの中から取り出す。
「じゃあさ、この家って知ってるか?」
 エドワードは、訪問予定先のサンモンツェル家の屋敷の写真を見せた。没落しかけているとはいえ、歴史のある名家だ。これくらいの豪邸であれば巷の人間でも知っているだろう。
「どこ?」
 先ほどよりも近くで、少女のまぶたが瞬いた。ふわりと揺れた癖のつよい金色の髪に引き寄せられ、エドワードは一瞬だけ呼吸を止めてしまった。文字を読むため静かに左右に動く瞳の色に、動けなくなったのだ。
「あら、ここなら、それこそ地図を見る必要ないわね」
 いたずらっ子のように、少女がエドワードを見つめて片目を細めた。エドワードはますます目が離せなくなった。深い青色かと思われていた少女の瞳は、光の当たり具合で光彩を変え、様々な色に変化したのだ。まるで、虹のように。
「だってここ、あたしの屋敷だもん!」

 少女が手にしている赤い花束が、秋の風に柔らかく揺れた。

***




「やあ、君がエリック・マクレーガン君だね。私はオーギュ・サンモンツェルだ。よろしく」
「あ、はい。よろしくお願いします」
耳になじまない自分の名前に一瞬反応が遅れてしまったが、気を取り直してエドワードは差し出された手を握りしめた。相手に驚く様子がないということは、事前情報でエドワードの右手が機械鎧であることは把握済みなのだろう。
「こんな辺鄙なところまで来て頂いて申し訳ない。アダムスから話は聞いていたよ。アダムスの友人が軍の将校だったことも、アダムス自身が退役軍人であったこともこの間初めて知ったんだがね……」
「へ、へえ~、そうだったんですか」
 オーギュは、少しだけ苦々しい表情をした。どうやら軍人嫌いというのは本当のようだ。エドワードはボロがでないよう、脳内で頭に叩き入れた設定をフル回転させた。
「ああ、アダムスとは歳は違えど酒場で知り合った友人だったんだ。最近ではアダムスはもう足腰も弱くてなかなか会えない状況だったんだが、急に電話が来たもので驚いた」
「いや、オレも、まさかこんなご縁を頂けるとは思ってなくて……」
今のエドワードの名前は、『エリック・マクレーガン』だ。錬金術師の才を持ち、将来はその筋の研究分野での活躍を夢見る年若き少年、というだいぶ大雑把な設定になっている。
それでもこのようにサンモンツェル家に居候できたのは、今のエドワードが、マスタングの上司であるレイブン中将の遠い親戚という設定だからだ。なんでも、レイブン中将の同期でもあり今はもう軍を退いているアダムスという人物が、サンモンツェル家の当主であるオーギュと親交のある人物であり、マスタングからの要請を受けたレイブン中将がマスタングと共謀し、アダムスに架空の親戚の少年の話を持ち掛けたらしい。つまり、事の顛末を知っているのはマスタングとレイブン中将とエドワードのみであり、退役し少々認知の始まっているアダムスという人物はレイブン中将の言葉を鵜呑みにし、レイブンの遠い親戚であるエドワード──エリック・マクレーガンをサンモンツェル家に推薦した、という手はずである。エドワードはレイブン中将とはほとんど関わったことがなく、ちなみに事の功労人であるアダムスという人物にも会ったことがない。アダムスもエドワードを知らない。そしてオーギュも、レイブン中将を知らない。つまり、又聞きという微妙な縁で繋がれた赤の他人ということになる。今考えてもとんでもない設定だ。よくこれで通ったなとエドワードも感心してしまう。
「こちらこそ、研究の手伝いをさせて頂けて有難いです。今力を入れているのが医療方面に関する錬金術師なので。実はレイブンさん、とお話したのは今回が初めてだったんですけど、話を頂いた時すごく有難かったです」
「……君のためになるような研究ができればいいんだが」
疲れたように肩を竦める仕草が気になって、エドワードはまじまじと目の前の男性を見上げた。肩を落とす男性の金色の髪には、少しだけ白が混ざっている。声にはまだ張りがあるとしても、写真と寸分たがわないというか、覇気の無い、青白い顔をした暗そうな人物だっだ。眼球が窪んでおり、目の下の隈も濃い。どうやら単に写真移りが悪いだけではなかったようだ。人相が悪いというよりも、やつれている。それに、彼の瞳は漆黒を思わせる黒で、より一層深い闇を思わせる色をしていた。あの男と、同じ色だ。
「お父さんったら、新しい人が来るなら事前に言ってって言ってるでしょ」
「ああ、ああそうだった……すまないダリィ、すっかり忘れていて」
怒りながらもエドワードの茶色いコートをかけてくれた少女の名は、ダリア・サンモンツェルと名乗った。正真正銘、オーギュ・サンモンツェルの娘だ。ダリィというのは愛称らしい。まさかサンモンツェル家の人間だとは思っておらず、正式名で自己紹介をされた時エドワードはかなり驚いてしまった。
資産家の娘というものだから、なんというか、もっとお嬢様じみている姿を想像していたのだ。それに難病だと聞いていたのでもしかして寝た切りの状態なのかとも思っていた。しかし、ダリアは元気に歩くしよくしゃべるし、挙句の果てには石壁から飛び降りてくるような少女だ。気がつかなかったのは仕方がないことだろう。
「まったくもう、お客さんに汚い部屋使わせるわけにはいかないでしょ。ただでさえ掃除もしてないのにー」
娘と共に訪問してきたエドワードにサンモンツェル卿もどこで知り合ったのかと驚いていたが、まさかお嬢さんの尻を顔で受け止めてしまったことがきっかけでとは言えず、道端でちょっと……と濁してしまった。ダリアも苦笑いで誤魔化しながらエドワードに目を合わせてきたので、二人の最悪な出会い方は今後も秘密になるようだ。
「で、お父さんはお昼食べたの?」
「ああ、ああ、食べたともダリィ」
「嘘ね、今作ってくるから待ってて。サンドイッチでいい?」
「ああ……なぜバレるんだ」
「娘なんだから当たり前でしょ。あ、エリックさんは?」
「あっオレは、列車の中で食べてきたから大丈夫」
「うん、わかった」
 仲睦まじい親子の会話だが。ある程度大きな屋敷を持った資産家にしてはいささか不可思議な会話でもある。今の話からすると、父親の昼食は娘のダリアが用意するらしい。資産家であれば使用人が調理するのが普通だと思うのだが、どうやらサンモンツェル家には、料理人だけでなく使用人は一人もいないようだった。完全に、父親一人、子一人だ。
屋敷の玄関に向かう途中の広い庭も、随分長い間手入れがされていないのか荒れ放題だった。唯一手が加えられているのは玄関付近の一角の花壇だけだ。聞けば、ダリアがそこで園芸をしているらしい。手のゆき届かなくなった屋敷のいたるところから集めた花を栽培しているそこは、小さな、本当に小さな花畑のようだった。また外から見た屋敷自体も、壁もひび割れ蔦が伝い生え放題で、豪邸というよりも幽霊屋敷と言ったほうが正しそうな風体だった。かなり前から財政が傾いているというのも頷ける。
「あっその前にオルギニ! 今日は四本もアリッサから貰えたのよ、ここに置いておくね。残りの一本は、いつもの所?」
「ああ、ありがとうダリィ、すまないね、残りも飾ってきてくれ」

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