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BUTTERFLY KNIGHT

「この子の名前はダリアにするよ。ダリア・サンモンツェル、愛称はダリィだ。君に似て可愛らしい子になる」
「……貴方って、本当に馬鹿な人ね」





 【第一章】



「久しぶりだね」
アルフォンスが窓の外を眺めながらそう呟いた。心なしか、その声は弾んでいるように聞こえる。今のエドワードには理解できない感情だった。
「前に来たのは二か月前だったよね、みんな元気かなあ」
まさに、ウキウキという言葉そのままにはしゃぐ弟の姿に、エドワードはうんざりとした。
「元気にしてんじゃねえの、たかが二ケ月ぐらいでどうにかなるもんでもねえだろ」
「またそういうこと言って」
弟のたしなめるような台詞にケっと悪態をつきながら、エドワードは足を椅子の手すりにかけた。行儀悪いよ、というアルフォンスの高い声を右から左へ流し、窓の外へと視線を移した。窓から吹き込んでくる風はこんなにも心地よい。だというのに、どうしてこんなにも憂鬱なのか。流れるような景色の中に見えるのは、春の陽気を浴びて萌ゆる木々や、色とりどりに咲き誇る花々。そして不規則に立ち並ぶ家や店。だんだんと、しかし確実に、エドワードの見知った風景が近づいてくる。それを視界に入れるのがたまらなく嫌で、エドワードは目を閉じ一人ごちた。
ああクソ、行きたくねえな。
「ちょっと兄さん寝ないでよ、もうすぐ着くよ?」
「知るかよそんなの、そのまま通り過ぎちまえ」
幼い子どものように駄々を捏ねている自覚はある。しかし、嫌なものは嫌なのだ。
「全くいつまでそんなこと言ってるの、第一悪いのは兄さんでしょ?」
「うっせえ」
「連絡もちゃんとしないで、そりゃ大佐も怒るでしょ」
弟の小言を聞くのが嫌で、ごろんと背を向けて寝返りを打つ。相変わらず颯爽と流れる景色。エドワードはもう一度瞼を閉じた。
アルフォンスには定期的に後見人に連絡を取っていると言っていたが、それが嘘だということがバレたのは一昨日だった。あろうことか、エドワードの後見人かつ上官はエドワードのいない時間帯を見計らって電話をよこし、『ここ暫く君の兄から連絡が一切来ていないのだが』と告げ口しやがったのだ。兄は自分のほうなのに、一歳下の弟に態度がなってないと怒られ、エドワードは今、見てわかる通り不貞腐れていた。
数日前まで、賢者の石の情報があるという噂を聞きつけて南部の片田舎に言っていた彼らは(もちろんデマだったのだが)、その一本の電話によって、急遽その場所からの撤退命令を言い渡された。『明後日までに東方司令部に来るように』と、弟から受け取った電話口にそれだけ言われてそのままぶち切られた回線に、エドワードは内心で怒り心頭、そしてそれ以上に冷や汗をかいていた。
電話の向こうの相手は、エドワードの直属の上司であるロイ・マスタング大佐だ。若くして国軍大佐となった彼は、軍人のくせに仕事はサボるし、いつも女性と遊んでるし、掴み所がないし、いつも飄々としてるし、だいぶ年下のエドワードに優しくするどころかいつも嫌味を言ってからかってくるような男だった。しかし、エドワードをわざと怒らせて楽しんでいる風でもあるマスタングはその実とても有能でもあった。有事の際には指揮をとり、的確で冷静な判断を下す。その手腕はさすが若くして大佐の地位を得ているだけのことはあるとエドワードも思っていた。
それでも、彼がエドワードにとっていけ好かない人間であることにはかわりはない。しかもエドワードは軍に属してはいるが正規の軍人ではなく、軍属だ。世話にはなっているが直属の上司とも呼べぬ男の無理難題なんて強く跳ねっかえしてやりたいと心の底から思っている。しかし毎度のことながらエドワードがマスタングを拒むことはできなかった。招集通りにイーストシティに向かっているのには、一つ大きな理由があるのだ。




***




「やあ、来たね」
「別に来たくて来たわけじゃねーよ」
「兄さん」
「あーはいはい、で、何の御用ですか大佐殿」
これ以上弟の小言を聞きたくなかったので、さっさとわが物顔でソファに腰掛ける。ついでに足も組んでやった。その横柄な態度にまた弟がしかめ面をするのはわかっていたが、どうにも数年間染みついた態度というのはそう簡単に取れはしなかった。それに、部屋の主、というよりも東方司令部の指揮官殿は、エドワードの態度に顔色一つ変えずに書類を捲っている。
彼はエドワードの態度など全く気にしていないらしい。階級が下でしかも年の離れた部下にこんな態度を取られても怒りもしないのだから、そんな相手に部下らしい態度をとらなくとも別に構やしないだろう、というのがエドワードの自論だ。最も、彼のエドワードに対する態度は、心が広いとか、優しい人間だからとはわけが違う。舐められているのだ。それがより一層エドワードを腹立たせ、横暴な態度へと拍車をかけていた。
「久々に会ったというのに談笑もせず何の用、か。寂しいね」
「野郎と談笑したって何も楽しくねえだろうが」
「兄さん?」
「別に突っかかってねえっつの」
咎められる前に、弟のもの言いたげな視線を制する。エドワードと違って弟のアルフォンスはこの男に意外と懐いている。というよりも、手足と体を失い希望を失っていた自分たちに未来を提示し、軍という特殊な世界に導き好きに旅ができるようにある程度放っておいてくれている存在に感謝をしているといったほうが正しいのだろう。エドワード達兄弟が子どもながらにうまく立ち回れているのもこの男の後ろ盾があってこそだ。それは間違いない。だが、自分達がこの大人の欲がはびこる世界でそれなりに「うまく立ち回れている理由」が、マスタングの心優しき善意などではないことを、エドワードのたった一人の家族は知らない。
「すみません大佐、いつもいつも」
兄の横柄な態度に、アルフォンスは素直に頭を下げていた。
思うところはあるのだろうがこれ以上兄を責めるようなことはしない。その代わり、自分が兄に変わって謝罪する。つくづく自分とアルフォンスの立場が逆でなくてよかったなと思う。もしもアルフォンスがエドワードの立場だったら、きっとエドワード以上に大事な家族を守るために奮闘していたはずだ。そんなのはエドワード自身が耐えられない。エドワードの唯一の上官は、アルフォンスの謝罪を受けても涼やかな表情を変えることはなかった。薄ら寒いとしかいいようがない笑みで。
「いや、別に気にしてないよ。ご機嫌斜めなお兄さんの代わりにどうかねアルフォンス、私と談笑でもするかい」
「そうしたいのはやまやまなんですけど、そうするとどっかの兄が拗ねるもんで」
「御託はいいから、さっさと用件を言えよ」
口の中に広がる苦味を喉の奥に押し込めながら、エドワードはつい口調も荒く怒鳴ってしまった。やましい空気などなにもない和やかな空気が耐え切れなかった。またか、と呆れを滲ませるアルフォンスはいい。せっかちだな、と肩をすくめるマスタングの態度はエドワードの苛立ちをさらに加速させた。不快感が腹の底から煮えたぎる。気持ちを落ち着かせるために前髪を乱暴に梳いたが気は晴れない。白い手袋にしがみついた金色の抜け毛の数本を、ぴっと振り払いソファに落とす。ささやかな反撃だ。この小奇麗な一室で数か月かけて埃まみれになってしまえ。
「ゴミはゴミ箱に」
「……用件は」
僅かに抜けた金色の髪がソファの上から床にさらりと落ちたのを見送る。ゴミと称されたのはエドワードの髪の毛に過ぎないが、この男にとってのエドワードの立ち位置が見え隠れしてなお腹の奥が重くなった。打ち消すように涼しい顔をしている上官をじろりと睨みつける。
「用件はこれだ」
マスタングは束ねられた紙の資料をデスクの上に置いた。取りに来いという無言の圧力がかかる。今日初めて目があった真っ黒な瞳は、いつもと変わらずじっとエドワードを見つめていた。こいつのこういうところが苦手だ。隣から感じるアルフォンスの視線が痛い。エドワードは今試されていた。弟の前で、普段通りの兄を装えるのかを。
「どうした?」
エドワードを気遣うようでちっとも気遣っていない白々しい台詞に舌打ちを堪え、ソファに沈んだ腰を上げる。連日の長旅の疲れからか、重い腰の感覚に嫌な記憶を呼び起こされそうになり、大げさに足で地面を叩き立ち上がった。アルフォンスの手前だ、子どもながらの反発心でしぶしぶ動いているように見えるのならそれでいい。面倒臭さを前面に出し、頭をかきながらデスクの前まで歩く。
「……なんだよこれ」
「見てわからないかな、一般市民の調査資料だ」
「見りゃわかる。そんなことを聞いてんじゃねえ」
組んだ手に顎を置いた偉そうな上官が、目線だけで先を促した。読め、ということだろう。背後では、アルフォンスがエドワードと上官の会話を邪魔しないようお行儀よく立っている。駄目だ、気にしすぎると頭がバカになっちまう、今は目の前のことだけに集中しろと自分自身に言い聞かせて、エドワードはデスクに置かれた資料を手に取った。少しだけ黄身がかった表紙には、見たこともない男性の写真が印刷されている。
「オーギュ・サンモンツェル?」
隣には名前、職歴、家族構成等が羅列されている。どこからどうみても、よく見かける個人の身元調査資料だ。だが、真っすぐに前を見据えた壮年男性はどこか覇気がないようにも感じられた。白黒ではあるが、白いを通り越して青白くも見える。写真写りが悪いのだろうか。
「サンモンツェル、って、なんか、偉そうな苗字」
子どもらしい台詞を呟いてしまってから後悔した。目の前にいる男が意味ありげに笑ったからだ。
「サンモンツェル家は実際偉い。ノーズレンでは名だたる名家であり資産家だった」
「だった?」
マスタングの台詞にひっかかりを感じて聞き返す。どうやら、生じた疑問は正解だったらしい。
「今現在、サンモンツェル家に権威はない」
「没落した、ってこと?」
「ほとんど没落した、といったほうが正しいだろうね。長らく仕えていた使用人たちはかなり前に全員サンモンツェル家を去った。屋敷を売るまではいっていないが、まあ時間の問題だろうね。あれでは土地税もまともに払えまい」
「へえ、で、このほとんど没落気味のおっさんがどうかしたのか」
「単刀直入に言おう。君にはこの男の屋敷で、錬金術の研究を手伝って貰いたい」
「……は?」
予想の斜め上をいく返答に、エドワードは素直に眉をひそめた。今耳に入ってきた言葉を脳内で咀嚼してみても、直ぐに理解することは難しかった。
「どういうことだ?」
「ハンベルガング家のジュドウという人物を覚えているかな」
そんなこと、思い出すまでもない。自然と重いため息が漏れそうになってしまうのは仕方がないことだろう。ハンベルガング家。記憶にもまだ新しい名前だ。名前を聞いた途端ぎしりと巨体を揺らした弟と、軽く顔を見合わせる。アルフォンスの表情はわからないが、共有している気持ちはきっと一緒のはずだ。
「覚えてるぜ。忘れるわけがねえ」
苦い一件だった。あの盲目の錬金術師がいた名家だ。代々仕えている家の死んだ娘を人体錬成しようとして失敗し、両目を持っていかれた錬金術師のために、使用人諸共その事実を隠し続けているあの閉じた一家。優しい嘘に騙されていることに気づかず、一生を終えるだろうあの忠義ある錬金術師の老人は。
「ジュドウさんは、あの家に仕える錬金術師だった」
「そうだ。ハンベルガング家のようなある程度の資産家は、代々家に仕える錬金術師がいる。まあ、お抱え錬金術師というやつだな。ハンベルガング家はそうではないが、貴族階級の名残の血筋も多いせいか地域によっては家に仕える錬金術師の質が家の質にも関係してくる。ノーズレンのあるケイル地方では、特にそれが顕著だ」
「なんだよ、錬金術師の質って、感じわりぃの」
 なんだか、気分のよくない話だ。まるで、家に仕える錬金術師をペットみたいに。
「サンモンツェル家に代々仕えていた錬金術師は、家が傾き始めた十数年前から途絶えていてね。だがここ数年になって、錬金術師が必要になった」
「なんで?」
「行けばわかる。今言えることは、ご当主オーギュ・サンモンツェルはかつて資産家であり──錬金術を学ぶ者でもあるということだ」
「錬金術を?」
意外だった。改めて資料を見る。見かけで人を判断するわけではないが、生気のない瞳で前を見据える男がまさか錬金術師だとは。しかも、没落しかけているとはいえ名家の男が。
「しかも、研究対象は生体錬成。国家資格を持っているわけではないが、まあ、それなりの知識人でもある。なんでも、娘が母親と同じ難病でそのために錬金術を学んでいるらしいよ。生まれた時からの臓器の機能不全だそうだよ」
機能不全。瞬時に頭をよぎるのは、エドワード達兄弟に錬金術のノウハウを教えた女性の存在だ。エドワードが師と仰ぐその人も、臓器を「持っていかれて」虚弱体質だった。生まれながらに機能不全の娘の体をなんとかしようと錬金術を学んでいる。それはつまり、エドワードとアルフォンスの求める何かと通ずるものがあるということで。
「そして、最近ではこんな噂もある。サンモンツェル卿は落ちぶれてもなお娘を想うあまり部屋にこもり続け、研究を重ね、挙句の果てにはあらゆる万病に効くといわれている空想上の薬を求め散財をしている、とね」
「兄さん」
隣の弟に肩を小突かれたらしい。カチャン、と金属音が右手に反響する。マスタングが続けた言葉に、エドワードの興味は興味、というレベルでは終わらなくなった。あらゆる万病に効くといわれている空想上の薬。それはまるで、エドワードたちが探し求めてやまないものと同じではないか。
「どうだ、興味がわいてきただろう」
 もったいぶった言い方に、素直に頷くのには癪に障った。エドワードはマスタングの、のらりくらりと真意を躱し、小出しに情報を与え人の反応を伺い引っ張り出してくるやり方が常日頃から気に食わなかった。これが社会の酸いも甘いも経験した大人のあるべき姿だというのなら、こんな大人にはなれなくていい。なりたくない。
「つまり、サンモンツェルの当主さんは財政が破綻した今でも娘のために錬金術の研究を続けていて、しかも、それは賢者の石の研究に近い。で、さらには研究が行き詰まってるからそれなりに錬金術ができる人間をお手伝いとして募集してる、と」
エドワードは平静を装い、資料を再びデスクの上に置いた。実際の所エドワードは冷静だった。何せこれまでこの食えない上官から与えられてきた情報で、本物とやらを拝んだ試しがなかったからだ。こんな情報一つで一喜一憂していたら身が持たない。それに。
「話が早くて助かるよ。偶然噂を聞いてね。君たちの探し求めているものの手助けになると思ってこの話を持ってきたんだ」
嘘だ。そんな偶然あるわけがない。そんなのはマスタングの顔を見れば一目瞭然だった。
「ただ、彼は軍人、しいては国家錬金術師嫌いの気があるらしいから、『鋼の錬金術師』として研究の手伝いをしてもらうわけにはいかないんだが……」
「それってつまり、兄さんは偽名を使えばいいってことですか?」
「そういうことになるね、もちろん、私のほうで手はずは整えておくつもりだよ」
アルフォンスの期待に満ちた声色に、組んだ指に顎をのせ優雅にほほ笑む様はいかにも胡散臭い。これが、マスタングがエドワード達兄弟のためを思ってした行動だなんてはなから信じちゃいない。絶対何か裏があるはずだ。
けれども、弟のアルフォンスは違ったようだ。というよりも、乗るべきだと判断したのか。
「大佐、ありがとうございます。よかったね兄さん。新しい情報が掴めるかもしれない」
「何たまたまだ。気にすることはない」
マスタングは、お行儀もよく愛想もよく振舞うアルフォンスにぺらりとデスクに置かれた資料を指先ではじいた。まるで、価値のないものみたいに。
「鋼の、どうだ。もしもその気があるのなら私のほうからサンモンツェル卿に話をつけておくよ。ああ、君のためにならんと判断したらすぐに帰ってきて貰っても構わんよ」
どうだ、とは白々しい。最初にマスタングは『錬金術の研究を手伝って貰いたい』と言ったのだ。話を持ってくるだけならば、そんなくどい言い回しをする必要はない。貰いたい、という言葉を使ったということは、これはマスタングからの頼み事であるということだ。そして、マスタングの頼み事というのは実質エドワードにとって逆らうことのできない命令だった。マスタングは、エドワードが自分の頼み事という命令に逆らうことができないことを理解した上でこうして話を持ち掛けたのだ。しかも、わざと弟の前で。
「……ああ頼む」
逆らえないエドワードに胡坐をかいて反応を楽しんでいる──最高に性格が悪い。わかっていたことだが、相も変わらず嫌なやつだ。わざと顔をふいと逸らして、勢いで吐き捨てる。拗ねたエドワードが言いたくもない感謝を口にしていると思わせるように見せたのが功を奏したのか、隣のアルフォンスが緩く笑う気配がした。素直じゃないね、なんて生暖かな声も聞こえてきそうだ。
「わかった、直ぐに手はずを整えておこう。資料等は追って渡そう」
満足げに頷くマスタングが忌々しい。君のために、なんて彼は口に出していないはずなのに、言葉の節々にエドワードを逆なでする感情が込められているのは勘違いではないはずだ。
「へっ、アンタに頼み事するなんて最悪」
「いつも迷惑かけてるんだからたまにはいいんじゃない」
「お前な」
「だって兄さん、いっつも何かやらかすたびに大佐にお世話になってるじゃない」
さらりと酷いことを言ってのけたアルフォンスに向き直る、が、視界の隅で動いたマスタングの細い指先にはっと意識を引き戻され、すぐさま口を噤んだ。彼が組んでいた腕がいつのまにか解かれ、デスクの上に乗っていたのだ。
スローモーションのように、マスタングの爪の先が、──トン、と。つるりとした高級感のあるデスクの上を叩く。二度、三度、トントントンと。その乾いた音で、苛立ちに染まっていた思考も弟に向けようとしていた感情も全て消え失せた。いや、吹き飛んだと。
どくどくと心臓が跳ねる。トン、トン、トン、とマスタングはさらにデスクを叩いた。軽々しい音で。しかしそれはエドワードにとっての屈辱の音だった。足元からどんどんと見えない冷水が湧き出てきて、あっと言う間に心臓まで浸水してしまった気分だ。
急に固まったエドワードに、アルフォンスは怪訝そうに小首を傾げた。すぐさま渾身の力で顔を伏せて、前髪の隙間からマスタングを伺う。彼は予想外にエドワードに視線を向けてはいなかった。それどころか、エドワードを見つめるアルフォンスをじっと見つめていた。
トン、トン、トン、トン──とん。最後の一回だけ、静かにマスタングがエドワードへと視線を移した。真っ黒な眦が細められ、口元には三日月型の笑み。どこまでも引きずり込んでくるような底の無い漆黒に、身体全体が重くなった。部屋の重力が急に増したのではないかと思うほど。そうだ、ここはマスタングのテリトリーだった。最愛の弟が傍にいることで少しだけ安堵してしまっていたことを恥じる。一瞬だけ、この男との関係を忘れてしまった。それを、目ざといマスタングが許すはずがないというのに。
「兄さん?」
ぴたりと、乾いた音が止んだ。エドワードとマスタングだけにしかわからない合図が勝手に始まり、終わった。声が震えないように、細く酸素を吸って、吐く。
「アル、先に図書館に行ってろ」
「え?」
「これから話があんだよ、大佐だけに」
あえてぶっきらぼうに退出を促す。二人で呼び出されたというのに一人だけ席を外すことを言いつけられるのは辛いことだろう。例えそれが振りだとは言え、自分の兄が他人との間に、弟の知り得ない関係を築き上げていることを見せつけられるということは、弟の心に鋭い棘を残すはずだ。だってアルフォンスは、エドワードの半身なのだから。
「……うん、わかった」
物分かりの良い弟に苦みが募る。拳を握りしめることで痛みをやり過ごすのはもう何度目か。あれこれと追及することはせず帰り支度を始める弟のほうが、よっぽどエドワードよりも大人だ。そして目の前にいるこのろくでもない大人よりも。
「カバン僕が持っていくね、気に食わないこと言われたからって暴れたりしないでよ」
「子どもか」
「子どもでしょ?」
 敢えて、からかうような言葉を残していくのはエドワードに対するアルフォンスなりの気づかいなのだろう。弟の優しさが見え隠れするこんな時、エドワードの中でアルフォンスに対する愛情が深まっていく。それと同時に、そんなアルフォンスをこんな形で傷つけなければならない自分の不甲斐なさに絶望し、それを強いる彼が、憎くてたまらなくなるのだ。
「では大佐、兄さんをよろしくお願いします」
「ああ、すまないね」
わざとらしい謝罪の裏に隠された本音に気づいているのは、今この場ではエドワードしかいない。エドワードのドロドロと暗く濁ってゆく心情を、マスタングは素知らぬ顔で悠々と跨いでいく。エドワードは部屋を去るために後ろを向いた弟の背中を、あとでな、とこつんと拳で叩いた。反響に気づいた弟が少しだけ振り向き、待ってるねと笑った。鎧に表情はないが、確かにアルフォンスは笑った。返した笑みは自然だっただろうか。からからに乾いた喉のせいで、口の中がささくれだって痛かった。

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