
「妊娠した」
そう告げた時、確かに大佐は凍った。
いつもの冷静沈着な様子からは考えられないくらい動揺して、手に持っていたペンをころりと机の上に転がす始末だ。黒いインクが大事な書類に散らばって少なからず悪いな、と思った。決して目の前の男に対してではない。後からこの書類を険しい顔で片づけるであろう男の副官を思ってだ。
「聞いてる?妊娠したって言ってんだけど」
固まった大佐に、ことさら真面目な顔で言ってみる。
自然な動作でまだ膨らんでいない腹を見せつけるように撫で上げれば、より一層大佐の顔は青くなった。ものの見事に真っ青だ。たぶんそのうちその青い軍服と同じくらいの色になると思う。
大佐はまるで機械のようにギクシャクと、男が転がったペンを手にとって、意味もなくインクボトルの中に入れた。たったそれだけの動きですら大変な様子だった。みっともない。
「妊 娠」
内心の動揺が声にも滲み出ている。アンタそれでも国軍大佐かよ、情けない。
「本当か?」
残酷な台詞を相手の気持ちも考えずさらりと吐く男を冷たく見下ろすと、大佐はさらに慌てた。情けない。
「なぜ、避妊はちゃんと」
頬が痙攣している。よくみればなんだか隈も凄い。机の上に溜まった書類も多い。どうせいつものように仕事をサボって徹夜にでもなったのだろう。ああ本当に、情けない。
誰かとデートがあるという日は猛スピードで書類を捌くくせに、それ以外はてんでだらけている。
ちなみに、オレは司令部を訪れる旨を昨日のうちに連絡をしていた。それでも書類に埋もれているということは大佐にとってオレの来訪は特別大したことでもなかったのだろう。
こんな扱い、今更慣れた。昔はそんな大佐の態度にいちいちショックを受けていたものだが今はもうそんなことはない。ぶっちゃけて言うと別にどうでもいい。
そう思えるようになるまでだいぶ涙を流したが、それはそれ、これはこれだ。
あの人はいろんな意味で自由だから、いつか離れていく人もいるかもね。
そんな事をいつだったか中尉が言っていた。その時は大佐に心底惚れていたため、そんなことない仮に大佐の側に誰もいなくなったとしてもオレだけはずっとアイツの側にいる!だなんて悲劇のヒロインばりに声を張り上げたものだが、今思えば顔から火がでそうなぐらいこっぱずかしい発言をしてしまったと思う。その時の中尉の微妙そうな表情の意味が今ならわかる。まさか、離れていく第一号が自分になるとは思いもしなかったけど。
「アンタ酔っぱらってたから覚えてないかもだけど、避妊具切れた時責任取るから中出しさせてくれとか言いながらばかすか出しまくってきたのアンタだぞ」
こいつの女好きはビョーキだ。あの日だって、好みの女に夜の誘いを断られてメソメソしながら自分のところに来た。かなり酔っぱらって子どものようにしがみついてくる大佐がちょっとかわいく見えてしまって母性本能が擽られてしまったのが運のツキだった。
なんであの時受け入れちゃったかなぁ、オレ。
無防備さを曝け出して甘い言葉を囁いて誘惑して、手玉に取る。大佐のいつものやり口だ。正直辟易していた。他に女が捕まらなかった時だけの代用品として扱われていることには気づいていた。それにいくら発育が悪くたって、自分は女だ。もう15歳だ。妊娠するかもしれない危険性もあった。でも、一緒にいてくれって泣きつかれたら拒めなかった。
大佐はバカだ。でもオレも馬鹿だ。
「2か月だって、どうする?責任取る?」
こてりと小首を傾げる。そんな可愛らしい姿がとても好きだと、大佐はよく睦言を吐いていた。
大佐にあの手この手で恋に落とされ食われたのは12歳の頃で、自分の進むべき道を提示してくれた彼があの時はやけに頼もしく輝いて見えたものだ。
盲目的に、慣れない恋なんてものをしてしまってからもう3年。時間の流れと共に大佐への気持ちが冷めて言った自分が薄情だとは思わない。
だって、何度も大佐の浮気現場を目撃すれば自然とこうなる。決死の覚悟で告白して、簡単に頷かれて浮かれ舞い上がっていたのはオレだけだった。初めて男が自分以外の恋人と逢瀬を重ねているシーンを目撃した時は何も言えず立ち去り、胸を突き刺すあまりの痛みに愁傷にも枕を濡らし続けてしまったものだ。我ながら健気だ。
それなのに大佐は悪びれなかった。それどころか困ったようにオレを見下ろして言った。
私が君一人に搾れるほど、君は魅力的なのか、と。
冷水を浴びたように、頭の中がしんと冷えた。言い返すことができなかった。引く手数多な大佐がオレと付き合ってくれているだけで奇跡なのに、オレだけを見てほしいだなんて言えるはずもなかった。だから、君が頑張れば私の一番になるかもしれないよ?と彼が困ったように微笑んだ時、身を蝕んでいた怒りは急速に掻き消えた。ただ、胸の奥に広がった空虚のような穴に恋心だけが取り残されて軋むように痛んだ。それでも、ずっと追いかけてきた。頑張ってきた。ただ側に居たかった。何度裏切られても、オレを絶望のふちから引っ張りあげ怒りを剥き出しにしてくれた、ただのロイ・マスタングが好きだった。オレの隣で無防備に寝て疲れを癒す彼が、好きだった。
けれどもオレだって人間だ。限界はある日突然くるもんだ。
妊娠が発覚した次の日、彼にどうこのことを話そうか迷っていた時、いつものように大佐が愛人とホテルから出てきたところを目撃し、ぷつりと切れた。
終わってしまった何かは恋心だったのかもしれないし、まだ恋をしていると思い込んでいた自分だったのかもしれない。どっちかはわからないが、まだかろうじてしぶとく大佐を覆っていたキラキラが一瞬にして消えてしまった。
目の前に現れたのは黒い髪をした童顔の浮気男が一匹。
恋は盲目だとはよく言うが、今となってはよくあそこまで大佐を想い続けてこれたなと思う。こんな優柔不断で、女癖が悪くて、自分勝手で、いつも寂しそうに笑う、三十路間近の男を。
「な、責任取る?」
大佐は答えない。いや、答えられないといったほうが正しいのか。さ迷う視線をオレは追う。
急におかしくなって、口の端が引き攣り始めた。堪えることはもうできなかった。
「……ふ、あは、はははははは!」
急に声を上げて笑い出した自分に、大佐は本気で驚いたらしく目をまんまるくさせた。普段は切れ長で細い黒目がここまで大きくなるのも珍しい。
未だに自分から視線が外せないのだけが難点だ。それ以外はもう完璧に見限ってるはずなのに。
「嘘だよ、ばぁか」
「は?嘘」
「そう嘘、妊娠なんてしてない。アンタの驚く顔が見たかっただけ。どう?少しは目覚めた?浮気男に鉄槌下してやりたかったんだけど」
ぱたぱたと手を振って冗談めかした笑みを浮かべてやれば、大佐は伺うように眉間にしわを寄せた。が、オレが肩を震わせ始めたのを見てわかりやすくほっと一息ついた。
普段のポーカーフェイスが嘘みたいだ。その心底安心したというような表情に、今自分が浮かべている笑顔とは程遠い脱力感が襲い掛かる。足の力が抜けてきた。やばい、力を入れてないとこのまま座り込んでしまいそうだ。でも大佐の前でそんな醜態晒すなんて絶対に嫌だ。望む答えが返ってこないことなど、初めからわかっていたことなんだから。
「鋼の、君ね……」
「はは、ざまあみろ!」
さて、これからどうしようか。
この子を産むか産まないかは、まだ決められないけれど。もしも産むのなら、この子の一生を面倒みなければいけない、それは当然のことだ。命を作ったものとして、するべきだ。
でもオレは今、自分と弟のことで精一杯だ。
旅を続けながら赤ん坊の世話をする。それは不可能だ。故郷に預ける?そんな自分勝手なことできるわけがない。できるけど、幼馴染も受け入れてくれるだろうけど、だからこそダメだ。これ以上の迷惑なんてかけられない。
「はは、アンタの顔すっげえ見もの。世の女性陣に見せてやりてえよ」
「驚かせないでくれ……肝が冷えた」
「ははは」
「本当かと思って焦ったじゃないか」
「あはははは!ばぁか」
あの人はいろんな意味で自由だから、いつか離れていく人もいるかもね。
そんな事をいつだったか中尉が言っていた。
でも寂しい人だから。結局みんな離れられないのよね。私も含めて。
そう言っていた。
「ははは」
責任が取れないのであれば、最初から産まない方がいい。それが命を身勝手に作ってしまったものの責任というやつだ。でも。
「ばぁか」
どうしよう。
げらげら腹をかかえて指をさすオレに、大佐は苦く笑いながら肩をすくめた。戻したインクボトルからペンを取り出し、インクで少し汚れてしまった書類をトントンと整理している姿はやはり様になる。そんな大佐の前で、オレはまだお腹を抱えて笑ってる。震える足を地面に縫い付けて。
産まない方がいい。一人では育てられない。でも、どうしても。
罪の形は、こんなにも尊い。
恋だった。好きだった。全部もう過去形のはずだ。それなのに。
自分から目を背けて仕事を再開し始めた童顔の浮気男から目が離せないのはなぜなのか。
夜中にうなされた大佐が飛び起きて、隣に眠るオレに気づき詰めていた呼吸を吐き出し、縋り付くようにオレを強く抱きしめる姿を思い出すのはなぜなのか。
腹をさすりながら、撫でた黒髪の感触を思い出してしまうのはなぜなのか。
未だにしぶとく残る恋心への憎悪に、胸が張り裂けそうだった。
聞いて聞いてマリア様