
「エドワード君に何をしたんですか」
部下達が、おざなりなノックと共に執務室に入ってきたのは、それから少し間をおいてのことだった。
「大将、泣いてたんですけど」
鋭い視線でマスタングをねめつけるホークアイ中尉と、いつもの咥え煙草を置いてきたらしいハボック少尉に詰め寄られたところで、マスタングはやっと放心状態から解放された。
「ああ……」
マスタングのらしからぬ様子に、部下の二人も顔を見合わせた。マスタングは未だに混乱する頭のまま、どっと椅子に座り込む。エドワードを犯している時から暫く立ち尽くしていたため、どうやら脚が疲れていたらしい。どっと圧し掛かってくる謎の重さに、マスタングは俯いた。
「あのねえ」
先に呆れたように溜息をついたのは、ハボックだ。
「何したのか知らないっすけど、いい加減にしてくださいよ」
上官に対してなんという口の聞き方だ、という軽口さえ出てこない。
「いつまでこんなこと続けてるつもりですか、好きな子いじめはみっともないっすよ」
しょうがないと言いたげな口調に、昨日の出来事を思い出す。
そういえばこの時も、ハボックは呆れたように私を―――ん?
「は?」
今、マスタングの耳がおかしくなければ、妙な言葉が聞こえてきたような。確か。
「―――好き?」
怪訝な顔をして顔を上げれば、予想通り呆れ返ったハボックの顔があった。
「なんだ大佐、もしかして自覚してなかったんです?」
自覚とは、一体。といいうよりも、好き、とは。
好きな子いじめだと?それはつまり、私が鋼のを好きということで―――好き、だって?
「何を、馬鹿なことを」
「バカなのは大佐でしょうが」
回らない思考のまま、口から零れ出た嘲笑はすぐさま叩き落とされた。
「何を、言っているんだお前は。私は、鋼のが嫌いで」
「あのね」
呆れかえった顔をした長身の男が、さらに呆れた顔でマスタングを見下ろした。
「好きの反対は、無関心なんですよ」
ハボックにこんな表情を向けられるのは初めてのことではない。いつもエドワードに冷たい態度を取った時、彼はいつもこんな顔をしていた。苦い物が喉に詰まっているような、なんとも言えない顔。
その時はなんとも思っていなかったのだが、今ならこの表情の意味がわかる。
これは、幼い子供に言い聞かせるような、聞き分けのない子供を叱りつけるような顔だ。
「嫌いだったら関わりたくないでしょう普通。アンタはハクロ将軍に好んで会いにいきますか、ハクロ将軍に構いたいと思いますか。嫌いだったら何がなんでも避けるでしょう」
「わ、私は、鋼のを避けて」
「ないでしょ、いっつも大将が来るってわかった時はぶつくさ言いながら仕事ちゃっちゃと片付けちゃって」
「だ、だが」
頭が混乱する。先ほどの比ではないぐらいに。
「私は鋼のが笑うと、いつも腹が立って」
「大将が自分に笑いかけてくれないからイライラするんでしょう、好きだから」
「は、鋼のの声を聞くだけで、動機が収まらなくなって」
「声聞くだけでドキドキしちゃうんでしょう、好きだから」
「あれが、いつも弟しか見てないのが、癇に障って」
「アルじゃなく、大将に自分だけを見て欲しいんでしょう、好きだから」
「……あの長い髪が、いつも視界にちらついて、目障りで」
「綺麗ですからね大将の髪は、アンタは特についつい目で追っちゃうんでしょうね、好きでたまらないから」
「……あの、生意気な目が……」
「まだ言うか」
はあ、と大きなため息をついたハボックが天井を見上げた。マスタングはそんな部下に視線を移すこともできずに、自分の思考が泥の中にはまってゆく感覚に呆然と床を見つめた。
白い床に、赤いコートに身を包んだ少女の姿が浮かびだす。マスタングに背を向け、鎧の弟と共に前を歩くエドワードの姿が。
「なんの、冗談だ」
私が、鋼のをだなんて。震える吐息は今度は失笑ではない。動揺のためだ。
次々と追いたてられる言葉に、今までの常識が覆されていく。
それでも、ハボックの言葉をそのまま鵜呑みにすることはできなかった。
好き、つまり恋、愛情。そんなもの、腐る程してきた。自慢ではないがマスタングは女性にモテる。女性は今まで切れたことなどない。しかし、エドワードと知り合ってからは何故だか誰かと付き合うという行為に関心がいかなくなって、ここ数年は誰かと関係をもったりはしていないが、それでも誰かとお付き合いをする際には、相手の女性を優しく、慈しむように扱ったものだ。
エドワードを前にした時のように、虫唾が走ったり、イラだったり、ましてや壊してしまいたいなどという物騒な感情に苛まれることはなかった。ここまで誰かに感情的になってしまうことも初めてだった。だから、エドワードはマスタングにとって、「死ぬほどに大嫌い」な相手だと思っていたのだ。
それが、好きだって?
ぐるぐると思考の渦に飲まれそうになった時、静かに傍に控えていたホークアイ中尉が、口を開いた。
「大佐」
静かだが、いつも以上に鋭い目つきの彼女の視線を受け止める。
「それが証拠です」
「証拠?」
「はい、大佐はエドワード君を見ると、腹が立ったり、目が逸らせなくなったり、胸が苦しくなったりするんですよね?」
「あ、ああ」
そういえば彼女は、エドワードのことをいつも妹のように可愛がっていた。
「だから私は、エドワードが、死ぬほど嫌いで」
「逆です」
「なんだって……?」
それもそうだろう、エドワードは誤解されやすいが、情に熱い、真っ直ぐな子供―――いや、人間なのだから。
「大佐はエドワード君が死ぬほど嫌いなのではなく、死ぬほど好き、なのではないですか?」
目を剥く。見目麗しい副官は、背筋を正したままマスタングをしっかり見据えた。
「大佐とってエドワード君は、無関心以外の全て、なのではないですか」
その言葉に。
マスタングは今度こそ言葉を失った。
無関心以外の全て。好きの反対は無関心だという。
それはつまり、全てのベクトルがエドワードに向いているということで。
苛立ちも、執着も、憎しみも、愛情も、全て。
―――ああ、そうか。
一気に、視界が開けた。
エドワードに、酷い言葉を投げ続けてきたのは、エドワードにこちらを見てほしかったからで。
エドワードに肉体関係を強制したのも、性欲を満たすためでもなんでもない。ただ純粋に、鋼のを、エドワードに触れたかった、抱きたかったからだ。女性との縁が切れたのは、エドワード以外に興味がいかなかったから。
苦しむ少女をみて楽しいと思っていたのは、自分が与える苦痛に反応する少女が嬉しかったからだ。この瞬間だけは、他の誰でもなく、少女が最も愛する弟でもなく、マスタングだけをその小さな体で感じてくれる、見てくれる。
憎しみでも、恐怖でも、怒りでもなんでもいい。エドワードに自分を忘れないでいて欲しかったのだ。
エドワードの記憶から抹消されることなく、死ぬまでエドワードの中で生き続けたかった。
エドワードから濁った瞳で見つめられるたび、その瞳が傷ついて揺れるたび、怯えに歪むたび。感じていた高揚感は。
これは、ほかでもない。想いを募らせた相手を、自分の物にできたという優越感だ。
そうか、私は。
「鋼のが、好きなのか……」
エドワードの笑顔が、脳裏に浮かんだ。それが自分に向けられたものだと思うと、こんなにも胸が締め付けられるような、泣きたくなるような幸福感に包まれる。
そうか、そうだったのか。
脳裏のエドワードの微笑みが、泣き顔に変わる。耐えきれずに零れ落ちた少女の一瞬の嗚咽が耳なりとなって、マスタングの聴覚にじわりと突き刺さる。
私はこんなにも。あの子が。
「好きだ」
その言葉は、認めてしまえばすとんと胸に落ちてきた。
自尊心も何もかも、全てを奪い去りたい、完膚無きまでに叩き潰して苦しめてしまいたいと思うほど。
思ってしまうほど。
好きだなんて言葉では言い足りないぐらい、狂おしい程に。
「私は鋼のが、―――好きなんだ」
強張っていた身体が、一気に脱力した。
一度口に出してしまえば、途端に湧き上がる、金色の彼女を想う気持ち。
誰かに向けられた笑顔も、声も、大きな瞳も、艶めく髪も、全てが。
輝いて見える。愛おしいと、五感の全てが悲痛な叫び声を上げた。
気付いていたのだ、たぶん最初から。それでも、14も年下の子供に惚れてしまったという事実を認めたくなくて、自分の心に嘘をついてきた。そして、黒く塗りつぶしたそれを凶器に変え、エドワードを苛んだ。自分をこんな気持ちにさせるエドワードが悪いと、非のない彼女に理不尽にも怒り狂って。
マスタングは、片手で顔を覆い隠した。
「私、は」
この手で、エドワードを押さえつけて、彼女の人権を踏みにじった。
少しも悪いなどとは思わずに、むしろ当然の権利であると笑って。
いくら押さえつけられても、泣きごと一つ言わず耐えてきたエドワードを、何度も。
「私は、馬鹿か……」
今になって、自分の気持ちを認めることができた、なんて。
「だから言ったじゃないっすか、いじめないほうがいいって」
愚かしいにも、程がある。
「後悔することになるから」
先程のハボックの言葉は、そういうことか。
本当に、馬鹿だ。幼いと自嘲する権利もない。滑稽なのは、エドワードではない。他でもないマスタングの方だった。
部下の忠告に聞き耳を持たず、自分の気持ちから逃げいていた結果がこれだ。
大馬鹿者にも程がある。
今までエドワードにしてきた自分の醜い仕打ちが、覆い隠した黒い視界を、絶え間なく流れてゆく。
苦痛に歪んだ顔も、誰かに向けられた笑顔も、強張る顔も、少女のように頬を赤らめる顔も、耐えるように唇を噛みしめる顔も、もう思い出したくないものまで、全て。
涙を零してまで、嗚咽を噛み殺そうとした歪んだ顔が、瞼の裏から離れてくれない。
「私は、馬鹿か」
マスタングは顔を抑えたまま、しばらく動けなかった。白く磨かれた床が、じわりと歪む。
どのくらい長い間、そうしていたのか。
「大佐、大将に何をしたんですか?」
焦れたように問われ、沈み込んでいた意識が浮上する。
「急に出てきたと思ったら、フード目深に被ったまま出ていっちまって、俺らに声もかけずに」
隠してるようだったけど、ちらっと見たら泣いてるのが見えたんで。そういうハボックの言葉にマスタングは顔を上げた。
フードを目深に。そういえば、この部屋から出ていく時にエドワードはフードを被っていた。いつもはそんなことはしない。それは、その理由は。
「まさか」
黙り込んだまま唇を噛み締めたマスタングに、目の色を変えたのは副官だった。その固い声色の意図を理解して、マスタングはゆるゆるとかぶりをふった。
「手は、あげていない」
手をあげたわけではない。しかし、それよりもさらに酷いことを、ずっとしてきた。
ほっと、僅かながら肩を撫で下ろした部下に、心が軋む。
3年間という長い間。私は彼女を。しかも、―――しかも今日は。
「では、何を」
「あの子の髪、を」
「髪?」
思いがけない言葉に困惑する部下達に向かって、吐き出すように声を絞りだした。
「切って、しまった」
一瞬の沈黙。生唾を飲み込んだのは、きっとハボックだ。
「………切ってほしいと、頼まれたんですか?」
それでも冷静な副官の声色にも、固さが滲む。
「いや」
自分で話していて、情けなくなる。マスタングは今にも崩れ落ちそうになる体をなんとか支え、部下に目をやった。
責めるような視線。先程までは逃げるように遮ってしまったが、今はそんなことをするわけにはいかない。
涙を流し、切られた髪を隠すためにフードを被り、みなの視線に晒されながら部屋を後にしたエドワードを思う。
エドワードは周りに気をつかう。生意気だと思われがちだが、優しい心の持ち主だということは知っている。
今回もきっと、ことを荒立てぬために配慮をしたのだろう。子供らしからぬそんな態度が気にくわなくて、点数稼ぎか、子供の浅知恵だなと、本人に向かって嘲笑したことがある。
それでも、エドワードは何も言い返さなかった。一体、どちらが子供だというのか。
どんな気持ちで、何も言わずに去っていったのだろう。ぎり、と、胸が押し潰されそうに軋んだ。
「目障りだと、思って」
絞り出すように吐き出せば、起こしてしまった事実がよりいっそう体にのし掛かってきた。気づいていなかったなんて言い訳にもならない。
「アンタって人は……」
ハボックの呆れ声に、返す言葉もない。
どうしようもないほど好きな女性に、酷い言葉を浴びせ、犯し続け苦しめたあげく、挙句の果てには目障りという見も蓋もない理由で髪を切り刻んでしまった。髪をほどいて出かけるくらいなのだ。大事にしていたはずなのに。
後悔してもしきれない。なんということを、してしまったのか。
「大佐」
身勝手な自己嫌悪に陥るマスタングに、優秀な副官は声を荒げることもしなかった。
「自己嫌悪に陥るのは勝手ですが、一番の被害者は髪を切られたエドワード君です」
しかし、その内容はいつも以上に辛辣だ。そして、正当だ。
「まだ遠くには行っていないはずです。追い駆けてください」
思わず顔を上げると、予想通りに険しい顔をした副官が、マスタングを静かに見下ろしていた。
「仕事は帰ってきてからです。行ってください」
迷っている暇はなかった。
マスタングは椅子から立ち上がると、駆けだすように部屋を出た。
隣室に待機していた他の部下達も、驚くことなくマスタングを送り出した。「頑張ってきてください」と声をかけてきたのはフュリー曹長だ。見ればファルマン准尉も笑みを浮かべているような気がする。
本当に、部下達は全てをお見通しだったのだろう。マスタングがエドワードが気になるあまり、子供のように辛辣な態度を取り続けきたことに。だから今まで、何も言ってこなかったのだ。知らなかったのは、マスタングだけだった。
顔から火がでるほどの羞恥に見舞われるが、今すべきことは、何よりも傷つけてしまった彼女を追いかけることだ。
話をしたい、声を聞きたいと思うこと自体が独りよがりなことだというのは重々承知している。エドワードはマスタングの顔すら見たくないだろう。命令を下し、理不尽な等価交換を強いてきた罪は、重い。初めて執務室のソファで幼い身体を貫いた時の、エドワードの苦痛に歪んだ表情。悲鳴を抑えるために、血が滲むほどに噛みしめていた唇。今までは思い出すたびに昏い愉悦感に打ち震えたものだが、今ではもうそんな気持ちすら遠い。自分から招いた所業であるのにも関わらず、つい先程までエドワードをいたぶることを正当化していた自分自身が信じられなかった。
過去の自分を、抹消してやりたいとさえ思う。それでも、そんなことをしても何の解決にもならないことはわかっている。逃げることもできない現実は、自分自身が招いた結果だ。
それなのに、打ちのめされそうになっている己の自分勝手さに、反吐がでる。
もしかしたら、もう口もきいてくれないかもしれない。それどころか、目も合わせてくれないかもしれない。それだけのことをしてきた。エドワードはきっとマスタングを嫌悪し、恐れ、殺したい程に憎んでいるだろう。
それでも、会いたい。顔が見たい。
今すぐに彼女を触れることができないのが、つらい。
短い髪を隠して、俯きながら歩いているだろうエドワードを抱きしめたい。
自分勝手な思いであることはわかっている。それをエドワードが望んでいないということも。
今でもまだ、泣いているのだろうか。あの綺麗な金色の瞳から涙を零しているのだろうか。
あんな風に、泣かせていい子ではなかったのに。
「エドワードッ……」
二つ銘ではない、彼女の名前を呼ぶ。
謝る謝らないの問題ではない。ただひたすら、あの子に会いたいという想いが湯水のように溢れ出す。
マスタングは胸ポケットを強く握り締め、驚きに目を剥く門番に目もくれず、がむしゃらに東方司令部の玄関口を飛び出した。
後悔という身体に圧し掛かる錘を、振り切るように。
人通りの少ない歩道を一人ぼっちで歩きながら、エドワードは石畳を見つめていた。
笑顔で母親と並んで帰路につく子供が見えた。たぶんエドワードよりも少し下ぐらいの年齢の少女だろう。
長い巻き毛を降ろし可愛らしいワンピースを揺らしながら、エドワードの横を通りすぎる。
ふわりと香る、甘い臭い。
見ないように視線をそらしてしまったこと自体に、自嘲の笑みが漏れた。
エドワードがあれくらいの年齢の頃は、アルフォンスと旅に出ていた。
男の恰好をして、野宿をして、汗だくになるまで歩いて走って。シャワーすら浴びれない日もたくさんあった。
もちろん今でも。
酷い臭いと、マスタングからそういわれることも初めてではない。だからいつも、司令部に来る前は身体を洗うように心掛けてはいた。お前との子供なんていらない。そう言われることも初めてではない。
それでも今日は、エドワードも予想していなかったことをされた。
初めから、いつもより機嫌の悪い男の様子に、きちんと注意を払っておくべきだったのだ。
それか、手ひどく扱われることを覚悟をして、相手をするか。
そうであったら、あんな無様な姿を彼の前で曝すこともなかったかもしれない。
―――髪を切られた。
願掛けなど、女々しいことをしているつもりはなかった。ただ、アイツは覚えてないかもしれないが、こんな関係になってしまう前に一度だけ髪を褒められたことがある。
いや、褒められたというのは語弊があるかもしれない。
国家試験を受けた時、髪ゴムを無くした。感覚のない右手で持っていたので、落としたことに気が付かなかったのだ。しょうがないので適当に紐か何かで結ぼうと思った時、マスタングがたまたま通りかかった雑貨屋で買ってきてくれたのだ。
みっともない。せっかく長い髪なんだから、きちんとまとめなさいと。たった一言。なんてことない会話だ。
この時はまだ、仲が良好というわけでもなかったが、マスタングからそこまで冷たい態度をとられていなくて、ましてや肉体関係を強制されてもいなかった。
粗雑に赤い色のそれを落とされ、重くもないのに、手のひらがじわりと熱くなったことを覚えている。
試験の時は緊張はしていなかったが、マスタングから貰ったゴムを身に着け、心が少し軽くなったような気がしたことも。だから、調子に乗って大総統に槍を向けるショーも実践した。
女である自分が嫌だった。いつも涙を流すような、弱い自分になりたくなかった。だから形だけでもと、男のような恰好で旅をすることを決意したのだ。旅を終えるまではこの姿のままでいると誓った。男であると勘違いされたままのほうがいい時もある。
昔から、服装に頓着しない男勝りな性格だったことが幸いしてか、男の恰好をすることは別に苦ではなかった。
弟のためだったら、目的のためだったらなんだってする。それがエドワードを支えている根幹だったから。
それでも、道行く少女の女の子らしい格好に、思わず目が行ってしまうことも少なくなかった。
だから、嬉しかったのだ。マスタングは女性によくもてる。彼にとって異性に物を渡すなんてことは日常茶飯事で、特に深い意味もないことだったのだろうが、コートよりも少し淡い色の赤いゴムを手渡された時、女でいていいのだと言われた気がして。弱くてもいいのだと、認められた気がして。
その時から、マスタングに惹かれていた。子供心に、憧れがあった。マスタングにとってはなんてことない出来事だったのだろうけど、年上の他人で、ただの子供だったエドワードの髪をそう言ってくれたのは、マスタングだけだった。
恋、などという確かなものではないけれど、彼に、優しい目で見つめられたいと想っていた。
でも、エドワードは次第にマスタングに嫌われていった。どうしてこれほどまでに嫌われているのか理由はわからない。もしかしたら初めから嫌われていたのかもしれない。今思うと、あの時髪ゴムを渡されたのも、ただ単にうっとおしくて目障りだった、という理由だったのかもしれない。
エドワードは禁忌を犯した愚かな子供だ。それに、大総統に喧嘩を売ったり、生意気な態度のいけすかない子供であることは自覚している。マスタングに冷たい態度をとられることも、氷のように冷えきった言葉を投げ掛けられることも、蔑まれるような目で見下ろされることもしょうがないことのように思えた。
それでも、あんな関係を強制されたことは苦痛だった。女の性をもつ人間としての自分を蔑まれた。性の冒涜という、卑劣な手段によって。そこまでするのかと愕然とした。嫌いな子供というだけでこんなことをするだなんて。マスタングが理解できなかった。エドワードを組敷く時のマスタングの冷えきった嘲笑。心底エドワードをいたぶることを楽しんでいる笑みに、同情すらも向けられない自分が、どうしようもないまでに嫌われている自分の存在が苦しかった。
それでも、一番理解できないのは自分自身だ。信頼も信用も憧憬も、何もかも崩れ去ったというのに、まだ優しく見つめて貰いたいだなんて。今からでもいい、優しく髪に触れて貰えたらだなんて。貰った髪ゴムと一緒に、小さな期待を捨て去ることもできないなんて。
どうしようもないほどの己のバカさ加減に、呆れてものも言えない。
「長い」と言って貰えた髪は、「気味の悪い」ものとして断罪され、捨てられた。すがるような気持ちすらも否定された。エドワード自身を否定された。過去の憧憬に縋っているだけだとは言え、伸ばし続けていれば、いつか、髪を褒めて貰えるかもしれないだなんて、何を血迷ったことを考えていたのか。
しかも、髪を切られたくらいで泣く、だなんて。エドワードが最も苦手な、弱い女そのものじゃないか。
エドワードは手足を失ってから涙を流したことはなかった。泣けない身体になってしまったアルフォンスのため、と
言えば聞こえはいいが、これはエドワードの自己満足だ。元の身体を手にするまで涙なんで流さない。そう心に決めていたのに。まさか、こんなくだらないことで泣いてしまうだなんて。再び、自嘲の笑みが漏れる。
「本当に、バカだ、オレ」
口に出してみれば、よりいっそう惨めさは募る。
女々しい自分が、ちっぽけな人間に思えた。
「エドワード?」
ふいに名を呼ばれ、声のしたほうをちらりと見れば、昔馴染みの姿があった。
「……ピット」
「よ、昨日ぶりだな」
にやりと笑う彼は、昨日たまたまここイーストシティで再会した同郷の少年、ピット・レンベックだ。
ウェーブのかかった茶色の短めの髪に、目尻のつり上がったこげ茶色の大きな瞳。医者の卵である彼は、イーストシティには知り合いの医者の手伝いをしに来たらしい。以前で会った時よりだいぶ背の伸びたピットは、もうエドワードと背丈を比べることもない。昨日は少し時間があるということで、そのまま喫茶店でお茶を飲み近況報告をし合ったのだ。
「なんだよフードなんか被って。あれ、お前今日司令部に顔出すとか言ってなかったっけ―――」
ピットが言葉を詰まらせた。
エドワードはピットの視線から逃れるためにフードをさらに目深にかぶり顔を背けたが、いっぽ遅かった。
「お前」
つかつかと歩みよってきた彼に、素早くフードを取られた。
「おい!」
「誰にやられた」
エドワードよりも目線の高いピットの眉間には、皺が寄っていた。その視線は、エドワードの短くなった髪に注がれている。
「別に、なんでもねえよ」
「目だって真っ赤だぞ。って、お前泣いてた?」
「泣いてねえっ」
顔を隠そうとするエドワードの腕をピットが掴んで引っ張る。近い距離。昔からエドワードにとってピットは悪友のような存在だ。故郷にいたころはしょっちゅう共に行動し、顔を合わせない日などなかったほどだ。共に悪知恵を働かせ友人にいたずらを仕掛けた仲だ。そのやんちゃぶりからエドワードとピットは村の子供達のリーダー的存在だった。
大人びたとは言え、この遠慮のない態度は変わらない。それが嬉しくもあるが、今は放ってほしかった。
しかし、ピットは性格も言動もエドワードに似ているのだ。ここで引き下がるはずはない。
「泣いてないわけあるかよ、目ぇ真っ赤だぞ。それで、これなんだよ」
悪びれた様子もなくピットが短くなったエドワードの髪に触れた。
「自分で、切った」
「はあ?んなわけあるか、だってお前昨日あんなに―――」
「何をしている」
そんな時だ。二人の間に冷たい声が落とされたのは。
「―――え」
先に声を上げたのはエドワードだ。なぜなら、思い切り腕を引っ張られ、倒れ込むように大きな腕に抱き止められたからだ。
ふいに鼻を掠める、嗅ぎ慣れた男もののコロンの匂い。つい先程までこの匂いの側にいた。香りに、体が自然と強ばる。顔をあげるまでもない。それでもエドワードは顔を上げた。こんなところにこの男がいることが信じられなかったから。
「大佐……」
案の定エドワードの腕を痛いほどに掴んでいる男は、マスタングだった。つい先程、エドワードを犯し髪を切ってきた男は、今度は鋭い目付きで、ピットを睨み付けていた。
「触るな」
たった一言、しかし他のものを圧倒するかのような声色は、マスタングが上にたつ人間であることを再認識させてくる。ピットも同様だ。急に現れた軍人に命令され、口を開けて固まっている。
なんでアンタがここに、とエドワードが問う前に、マスタングは急に声をあらげた。
「これに触れていいのは、私だけだ……!」
そう言いながら、エドワードを強く抱き締めてくる。まるで、かき抱くようなそれには、エドワードも絶句した。
一体、なにを。
「大、佐」
マスタングに抱き締められるなど、初めてだった。いつも、机に押し付けられて事を済ますだけだったので、慣れない感触に戸惑う。ましてや、エドワードの前で怒鳴り散らすマスタングなど。キップを見る、ぽかんとした顔に見つめられ、途端に羞恥に襲われる。人通りが少ないてはいえ、道端の真ん中、公衆の面前だ。人前で誰かに抱きしめられるなど、しかもそれが、あのマスタングだなんて。
「ちょっ……は、離せ!」
逞しい腕の中で暴れてもびくともしない。それどころか、腕を掴んでくる力は増すばかりだ。生身の腕が音をたてて軋む。
「い、痛っ」
思わず声を上げれば、はっと目を見開いたマスタングが慌てた様子でエドワードを離した。これにはエドワードのほうも目を見開いた。僅かに後ずさった男を見る。マスタングはいつも冷静にエドワードを苛む。痛いだなんて叫んでも、男が聞き入れたことはなかった。それが、腕を掴まれて悲鳴を騒いだだけで手を離されるなんて。
腕を抑えながらじりじりと後ずさるエドワードに、マスタングは狼狽したように視線をさ迷わせた。なんだ、とエドワードはマスタングを凝視する。こんな落ち着かない顔をしたマスタングなど、見たことがない。
そもそも、どうして彼が今ここにいるのだ。仕事はどうしたんだ。
考えられることエドワードを追ってきたということだが、それはないだろう。マスタングに限って。
見つめ合いが続く。場違いな鳥の囀りが耳元に落ちてくる。
長い沈黙を先に破ったのは、それまで静かに事の成り行きを立ちすくんで見ていたピットのほうだった。
「……あの」
先程の動揺は消え失せ、静かにマスタングを見上げる瞳は冷静だった。前に立ち寄った村でも、ピットは目上の相手に大人な態度を崩さなかった。故郷に居た時にガキ大将のようなことをやっていた人物とは思えないくらい大人びた姿に酷く驚いたものだが、場違いながらに、今もそんな姿に驚いている。
「すみません、軍人の方ですよね」
ピットは、彼がエドワードの上官であることはなんとなく察している風だった。しかし不穏な空気を感じ取ったらしい。マスタングを見上げる瞳は、警戒するように煌めいている。
「どちら様ですか?エドワードに何か用でも」
あるんですか、と、聞きたかったらしい。しかし、それ以上ピットは声を出すことができなかった。
マスタングに、鋭い目つきで睨まれたからだ。エドワードでさえ見たことがないそんな表情。
ひゅっと、ピットの喉が鳴ったのをエドワードは確かに聞いた。
「軽々しく呼ぶな」
その言葉に、ピットは目を見開いた。水を張ったような緊張が、辺りを包み込む。
エドワードは、そんなマスタングの様子に純粋に驚いていた。恐怖はない。あるのは困惑だ。エドワードはマスタングのことを、エドワード自身を異常なまでに嫌っているということ以外は良識のある大人だと思っていた。
現場では冷静に指揮を取り、上に立つものとして部下からの信頼も厚い。少なくとも、初対面の名もしらぬ人間に、しかも少年に、誰彼かまわず当たり散らすような大人ではない。そう、大人なのだ。
それが今、エドワードからしてみれば、幼い子供のような癇癪を起こしているように見える。
こんなマスタングは、見たことがない。いつもの冷静さがまるでない。短い時間で、急に別人になったようだ。
マスタングを見上げることしかできないエドワードの視線を感じてか、怒りに満ちていた顔の男は、途端にバツの悪そうに視線を彷徨わせた。そして、呼びにくそうに銘を口にした。
「……鋼の」
いつもの威厳に満ちた冷たさは、やはり感じられない。それどころか、小さくて不安定だ。
一瞬の躊躇の後、すっと差し出された無骨な指先。途端に震えた身体は、条件反射だ。
そんなエドワードの震えに、マスタングの手が止まった。迷うように宙に浮いた腕が僅かな時間をかけて、ゆっくりと戻る。しかし、マスタングはすぐにポケットから何かを取り出し、エドワードの目の前に持ってきた。
「これを」
反射的に受け止める。手のひらに静かに乗せられたものは。
赤いゴムだった。マスタングに買って貰い、先程エドワードの髪とともにゴミ箱に投げ捨てられたもの。
―――その瞬間、目の前の世界が、ぴしりと固まった。
先程までの純粋な驚きが、じわじわと黒いものに塗りつぶされる。重くないはずなのに、手が震えた。
あの時は、ゴムを貰えたことが嬉しくて、それでも素直になれなくて『アンタから貰ったもの身につけて試験受けたら落ちそうだな』だなんて悪態をついてしまったが、今は悪態をつく余裕もない。
「……なんだよこれ」
自分でも驚くほどに、震える声がでた。
「なあ、なにこれ」
マスタングが口を開いた。しかし、何か声を発することなく閉ざされる。マスタングの視線が、エドワードの短くなった髪に注がれる。まるで、気味の悪いものを見たとばかりに、皺の寄せられる顔。
黒かった視界が、真っ白になった。
「―――いい加減にしろよっ」
エドワードは、声も嗄れんばかりに、叫んだ。
手のひらに乗せられた赤いそれを、思い切りマスタングに向かって投げ捨てた。青い軍服に跳ね返った赤は、音も立てずに地面に落ちてた。
「なんなんだよこんなもん持ってきて!泣いたオレがそんなにおかしいかよ、嘲笑いに来たのかよ!」
地団駄を踏むように、靴を踏みしめる。いやだ、こんな女みたいな癇癪起こしたくないのに。
「なんなんだよ、アンタはオレのこと嫌いなんだろ!だからあんなこと……ずっと」
マスタングにされてきたことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。痛い、目頭が痛くて熱い。
「アンタにしゃべるなって言われたからしゃべんなかっただろ、目障りだって言われたから極力顔見せないようにしただろ、笑うなって言われたからアンタの前では笑わなかっただろ!?髪だって……っ」
声が裏返る。感情が波立つのを抑えられない。止まらない。
「鋼、の」
「これ以上、オレは何を殺せばいいんだよ!なんだよ、そんなもの!」
強ばるマスタングの声を遮り、砂まみれになったただのゴミを睨み付ける。
また、嫌われてしまう。今まで以上に。そうなればどんな扱いをうけるのかわからない。嫌われること事態も嫌だ。それでも。アルフォンスのことを持ち出された時に抵抗を止めた腕が、短くなってしまった髪をかきむしる。ぱさぱさと頬にかかるそれが煩わしくて頭をふる。
「なんだよ……いらねえよ……!もう、もう、結べやしないのに……ッ」
「鋼のっ」
「うるさい!」
悲痛なエドワードの叫びに呼応するように、マスタングが素早く手を伸ばしてくる。この男の手に何度傷つけられたのか。ずっと耐えてきた。酷いことをされても、言われても、嘲笑われても、どんなに冷たく扱われても、弟のため、未だに捨てきれないマスタングへの憧憬のため。だけど。
もう撫でられたいなんて、優しくされたいなんて思わない。あるのは、どうしようもない、哀しみだ。
「触るな!」
体に触れられる前にその手を叩き落とす。鋼の右手で。前にエドワードが転びそうになった時、誤ってこの男の軍服を掴んでしまったことを思い出した。冷たく一瞥された後凄い勢いで振り払われ、地面に尻餅をついてしまったあの時の惨めさに、突き動かされる。痛まないはずの右腕が、痛んだことも。
「虫唾が走るんだよ、アンタに触られると、気持ちわりぃんだよッ」
びしりと、固まった表情。後悔したのは一瞬だ。今まで見たことのないマスタングの顔に、今まで溜めこんできたものが一気に流れ出す。
「アンタの声も、もう聞きたくない、顔も、何もかも、全部全部もう見たくもないんだよ!アンタの存在が目障りなんだよ!気付けよ!」
今まで散々言われてきた言葉を、口に乗せる。止まらない、止まれない。
「アンタなんて、アンタなんて、―――大嫌いだ!」
最後の最後に、思いの丈を叫んだ瞬間。
先程よりも強い力で、両肩を捕まれた。
「ぃっ……」
「―――嫌い?」
冷水を浴びたように、怒りに染まった頭が冴えた。落ちてきた血を這うような声に、顔を上げる。
そこには、今までみたことがないほど、能面のような顔をしたマスタングがいた。互いの吐息が頬にかかるほど間近に。
「……ッ」
体が凍りつく。塗りつぶされたような黒黒とした瞳が、エドワードの視界一杯に広がる。
怖いと、思った。今までエドワードはマスタングに色々なことをされてきたが、諦めや苦痛や屈辱、哀しみ、そして今のような怒りを感じたことはあれど、恐怖を感じたことは初めて男に犯された時以外なかったのに。
目が、逸らせない。底冷えしそうな、悪寒が走りそうな、昏い瞳に見下されて、喉が鳴った。
「来なさい」
静かに告げた男が、エドワードの腕をまた痛いほどに掴み上げる。
成す術もなく、子供のように容赦なく引きずられ、すり減るような鈍い音を靴底が奏でた。
「は、はなせよっ」
「うるさい、黙れ」
否定の言葉も小さくなる。怒鳴り散らしたこともあってか、喉がかさかさに乾いていた。
振りほどこうにも、鋼の義手を抱え込むように捕まれ、大人の長い足にずんずんと歩かれ、転ぶように歩くことで精一杯だ。
「大佐ッ」
それでもなんとか抜け出そうと腕を引っ張れば、肩の間接を締め上げるようにねじりあげられ、本当の悲鳴が漏れた。
「ぃ、いてぇっ、」
「鋼の、聞こえなかったのか」
冷たい、感情の無い声に、背筋が冷えた。
「黙りなさいと言ったんだ」
いつもの嘲笑とも、先ほどの子供のような癇癪ともまた違う。何か得体のしれない、静かで、重苦しいもの。
怒り、なんていう簡単なものではない。それも、尋常じゃないほどに。
逆らってはいけない。本能が、叫ぶ。
「エドワード!」
視界のすみで、こちらに近寄ろうとするピットが見えた。ピットは正義感の強い少年だ。それは仲のいいエドワードが一番よく知っている。だからこそ。
「大丈夫だっ」
ピットの足が止まった。
「アルに言っててくれ、遅くなるって!」
宿の場所は、昨日伝えた。
この状態のマスタングに、錬金術師でもない一般人のピットが関わったら、どうなってしまうのかわからない。
それに、マスタングはどうやらピットにはいい感情を抱いてはいないらしい。エドワードですら、恐ろしいと感じるのだ。こんな男に、ピットを関わらせるわけにはいかない。
そんな、エドワードの焦った様子が伝わったのか。
引きずられながら声を張り上げるエドワードに、ピットは一瞬の躊躇の後、確かに頷いた。
司令部を出て少し走った所に、鎧が立っているのが見えた。
マスタングが声をかける前に此方に気がついたアルフォンスが、振り向く。
「大佐」
声代わりを迎えていない高いボーイソプラノ。がしゃんと、鎧が軋む。
「アルフォンス」
「大佐、どうしてここに?休憩ですか」
傾げた首。表情はわからないが、純粋に疑問を抱いているようだった。
普段と変わりない少年の様子に、初めて胸の奥底からじわりと湧いてくるもの。考えずともわかるその感情に、握り締めた拳が固くなるのを感じた。
「僕、今司令部に行こうと思ってて。兄さん、お話し終わりましたか?」
マスタングはいつも、報告にきたエドワードを抱いていた。壁一枚挟んだ、執務室の向こう側で。
だからだろう、関係を持ち初めてからエドワードはアルフォンスをあまり司令部には連れてこなくなった。
行為の最中、扉の向こうに弟がいる事実に耐えられないと苦しむ姿にひどく興奮して、隣にいる弟に聞こえるようにといつも以上に酷く抱いて無理矢理声を上げさせた記憶も新しい。
部下に指示し、食堂にアルフォンスを連れていっていたことをエドワードには知らせずに。
『私が君との関係を弟に知られるようなことをすると本気で思ったのか、大した自信だな。そんなこと、私のほうから願い下げだよ』
呆然と目を見開いたエドワードを見下ろし、そう嘲笑ったのだ。
ああ、駄目だ。マスタングは頭を振った。
思い出したくもない記憶が次々に出てくる。エドワードの姿はどんな時でも鮮明だ。
いつもそうだった。気付けばエドワードのことを考えていた。気に入らない存在だから頭から離れないのかと思っていたが、これこそが恋情の証だということに、どうして今の今まで気が付かなかったのか。
「アルフォンス、鋼のは」
そこまで言ってから口を閉ざす。なんと言えばいいのかわからなかった。
ずっと、脅して身体の関係を迫り、傷つけ、挙句のはてに髪を切ってしまったなどと、言えるわけがない。
アルフォンスは、聡い子だ。弟にマスタングとの関係がバレないように、エドワードはアルフォンスの前ではいつも笑っていた。ずっと、神経をすり減らしていたに違いない。
それがエドワードの精一杯だったと言うのに、それにずっと嫉妬して、子供じみた真似をしていた。
エドワードが隠したがっている事実を、マスタングの勝手な懺悔の念から口から出すことは憚られる。それを聞かされた時のアルフォンスとの衝撃と、エドワードの苦しみを思えば。そんなこと、エドワードは望んでいない。
罪を告白することは、正直でいて、最大の逃亡だ。裁かれたいと、許されたいと願っている証拠だ。
背負うこと諦め投げ捨てるなんてできない。これ以上、エドワードを裏切りたくはなかった。
「鋼のが、いなくなってしまったんだ」
「いなくなった?」
「ああ」
この様子だと、アルフォンスはエドワードにはまだ会ってはいない。
あの時門番にエドワードがどちらへ行ったのかを聞くのを忘れた。焦っていて、エドワードの存在以外を忘れていたのだ。これほどまでに、狂おしいほどに、誰かを想うのは初めてだった。
初めてだったからこそ、自分の気持ちを理解することができなかったのだろうが。本当に情けない。
「あの、大佐」
妙に歯切れの悪いマスタングに、アルフォンスは何か気がついたらしい。
「間違っていたらすみません、失礼なことを言うようですけど」
がしゃんと、鎧が首をかしげた。
「兄さんと、喧嘩、しましたか?」
「喧嘩」という言葉を使いはしたが、失礼なこと、という前置き付きだ。
アルフォンスの前でも、マスタングはエドワードに冷たい態度をとることを止めなかった。あえて、弟の目の前で侮辱し、叱りつけたこともある。それも些細な理由で。
アルフォンスはそんなマスタングに反抗するでもなく、ただ黙って二人のやり取りを眺めていたのだが。
聡い子だ。エドワードに何かしたのかと、言葉外に問うているのだということはマスタングにもわかった。
「ああ……」
拳を痛いほどに握りしめる。今日エドワードはマスタングに組み敷かれながら、ずっと拳を握りしめていたのを思い出す。血がでほどに強く。今日だけではない、彼女は犯されながらいつも拳に爪を食い込ませていた。
きっと、今マスタングが感じている痛みとは比べ物にならないほどにつらく、苦しかっただろう。
「私は鋼のに、酷いことをしてしまったんだ……ずっと」
唸るような声。俯いて下を向く。マスタングの懺悔に、アルフォンスは何も言わなかった。
「大佐」
少しの沈黙。それを破ったのは、耳に響くような優しい子供の声。
「兄さんは、大佐のこと信頼してます」
どんな怒りの言葉が飛んでくるのかと身構えていたマスタングは、思いがけない言葉に拍子抜けして、アルフォンスを見上げた。
「は?」
「兄さん、大佐のこと好きですよ」
「ま、まて、何を言っているんだ君は。鋼のが、私を?」
ハボックにエドワードが好きだと自覚させられた時とはまた違う衝撃に、声がどもる。好き、という言葉に、深い意味はないだろう。それでも、エドワードに好かれるようなことをした覚えのないマスタングは大いに狼狽した。
「ありえん。君だって見ていただろう、私が鋼にどんな態度を取っていたのか」
「はい、見てましたけど」
素直に肯定してから、アルフォンスは小さくううんと唸り、空を見上げる素振りをした。
何か、思いだしているのだろうか。
「髪」
「―――髪?」
ぽつりと落とされた言葉に、マスタングは身体をこわばらせた。
髪、その単語は、今一番マスタングを動揺させる言葉だ。
「姉さん、昔、一緒に修行していた時かな。ずっと男になりたいってよく言ってて」
唐突始まった昔語りの真意がつかめず、マスタングはアルフォンスを見つめた。聞き間違いでなければ、今アスフォンスはエドワードのことを「姉さん」と呼んだ。普段、彼女のことを「兄さん」と呼ぶ彼が。
「でも、ある時から言わなくなったんです」
「ある、時」
「言わなくなったどころか、それからかな、鏡をちゃんと見て、髪を毎日とかすようになったんです」
髪をとかす。それは普通の少女ならば普通のことだろう。しかし、エドワードは普段は男の恰好をし、言動使いも乱暴だ。体術だって、同じ年頃の少年少女よりもはるかに抜きんでている。女でいるよりも男として旅をしたほうが楽だと公言している彼女は、弟にも自分を「兄」と呼ばせる程の徹底ぶりだ。そんな彼女が、年頃の女の子のように髪をとかしているだなんて。しかも鏡を見ながら。初耳だった。
そこで、ふと脳裏を掠めたものがあった。エドワードの解かれた、流れるような金の絹糸。昨日見かけた姿ではない。そうだ、あれは目の前だ。マスタングの目の前で、エドワードが髪を揺らしながら歩いていた。
それはいつのことだったのだろうか。確かその時初めて、エドワードの髪の美しさに目を奪われたのだ。
「大佐は覚えてないかもしれませんけど、姉さんがいっつもしてる髪ゴム、大佐から貰ったものなんですよ」
「―――なんだって?」
聞き間違いかと思って、マスタングは聞き返した。
私から貰ったもの?なんだそれは。
「国家試験受けに来た時、姉さん髪ゴム無くしたみたいで。その時大佐が買ってくれたんだって、前に話してました」
その言葉に。先程よりも鮮明に、当時の記憶が甦ってきた。
流れる金髪、この色ならばこの子に似あうなと思って買った、赤いゴム。
「その時からなんです、姉さんが男になりたいなんて言わなくなって、髪の手入れもちゃんとするようになったのは」
『せっかく長い髪なんだから、きちんとまとめなさい』
綺麗な髪なのだから、という本音を口にすることができず、その代わりに、ぶっきらぼうに小さな手のひらに乗せてしまったそれ。
そうだ、あの時。私は、エドワードに。
「私は」
マスタングは口を押えた。こんなにも爽やかな空の下で、とてつもない吐き気に見舞われた。
鋼の。君は。
「私は、馬鹿だ」
君は、どんな気持ちであの髪ゴムを手に取り、毎朝、髪を編んでいたのか。
先程、自分の口から零した言葉をもう一度舌にのせる。違うのは、場所が室内ではないということと、己の愚かさをはっきりと自覚したことだ。
エドワードに惹かれていることを認めたくなくて、記憶の底に封じこめてしまった記憶。
思い出せばあっさりと、胸に落ちてくる。エドワードを好きだと自覚した、あの時のように。
部屋を出る前に手に取ったもの。無意識に胸ポケットに入れ持ってきた赤いゴムを握りしめる。
切り取ったエドワードの髪と共に、ゴミ箱に投げ捨てたそれ。
どうして彼女は、今でもあの髪ゴムを身に着けていてくれたのだろか。ただの惰性だろうか、いや、自分を容赦なく扱き下ろす男から貰ったものなど、普通は捨てるだろう。
マスタングならばそうしている。それに、エドワードは不愉快に感じたら、きっぱりと相手を切るはっきりとした思考の持ち主だ。きっと、あの赤いゴムも直ぐに叩き落とされていたに違いない。
それなのに、酷い裏切りをし、信頼を虫ケラのように踏みにじられてもなお、彼女はそれを使い続けた。
その理由を、知りたい。エドワードに聞きたい。聞かなければならない。
自意識過剰だと言われるかもしれないが、もし、もしも。
彼女が髪ゴムを使っていた理由が、マスタングの予想通りのものだったのなら。
違うかもしれない。彼女は実は正義感が強く優しい人間だから、他人から貰ったものを捨てきれないだけだったのかもしれないけれど。
それでも、もしも、そうであったのなら。
私は、取り返しのつかないことをエドワードにしていたことになる。
「大佐、僕は宿に戻りますから」
再び思考の渦に巻き込まれていたマスタングの耳に、反響したアルフォンスの声がじわりと染み込んだ。
「兄さんに会ったら、宿で待ってるって伝えてください」
兄さんと、呼び方を戻して背を向けた大きな鎧を見上げる。連れて帰ってきてほしいとはアルフォンスは言わなかった。本当に、姉思いの聡い子だ。エドワードの世界の中心はアルフォンスで、アルフォンスの世界の中心はエドワードだ。そんな二人の世界を壊してやりたいなどと、馬鹿なことを考えていた自分が恥ずかしい。
彼女の視線を少しでもいいから此方に向けてほしくて、ない隙間を抉じ開け無理やり体を捩じ込ませた結果、エドワードを泣かせてしまった。
エドワードに、真実を聞かなければならない。
目を逸らしてはいけない。たとえ、真実を知った時とてつもない後悔と苦しみに襲われることになったとしても。
マスタングもアルフォンスに背を向けた。必ずエドワードを連れて帰ると心に誓いながら。
そう心に、誓ったはずなのに。