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大海原。人間達の間では、広く大きな海というのはそんな言葉で呼ばれているらしい。
大きな海の、原っぱ。原っぱというのは見たことはないが、魔女の話によると植物というのが地面一面に生えている様子だという。海の中でいうワカメやサンゴが生い茂る様と似たようなものだろう。それならばあながち間違ってもいない。
海というのは広い。人間の世界に原っぱなんかとは比べ物にならないくらいに。
だからこそ、不思議な存在がいてもおかしくないのだ。

海の名前​

【第一章】月の宴 Ⅰ


「エドー」
「お、ウィンリィ」
「もう、何やってんのよ!こんな遠くまで来て。潮の流れがはやくなるからはやく帰ってきなさいって、ばっちゃんに言われてたでしょ」
幼馴染の大きな声に、エドワードはもぎり取った海藻を手に振り向いた。金色の髪が、水の中でふわりと漂う。
「わりぃ、でももちょっとまってくれ」
「何してるの?海藻なんて集めて」
「別に集めてるわけじゃねえよ、ちょっと研究のために」
「研究研究って、あんたね」
呆れたように腰に手をあて、はあ、とため息を零す幼馴染にエドワードは苦笑した。ぽこりと浮いた沫が海の一番高いところまで昇ってゆく。ウィンリィの泡は小さく細かい。それは彼女が少しだけ早口だと言う証拠だ。人によって零れだす空気の大きさが違うということが、幼い頃はとっても不思議だったっけとエドワードは海藻を胸元の貝殻に詰め込んだ。
「しょうがねえだろー、先生がここらの海藻取ってこいって言ってんだから」
「先生って、魔女の…イズミさん?」
「ああ」
「……気をつけてよ?」
伺うようなウィンリィの言葉に苛立ちを覚えることはない。他の人魚達と違ってウィンリィはエドワードの意見を尊重してくれる。エドワードが暇さえあれば魔女の住む洞窟に通いつめていることにも、眉を顰めはするが非難したことは一度もない。結局のところ、ウィンリィはエドワードに甘いのだ。本当に血のつながった姉妹ではないが、立派な家族だとエドワードは思っている。
「大丈夫だって、先生は厳しいけど悪い魔女じゃねえよ」
「そんなことは、アンタ見てればわかるわよ」
エドワードが先生と仰いでいる魔女と出会ったのは11歳の頃だ。行ってはいけないと大人人魚達から口を酸っぱく言われている魔の洞窟に尾びれを踏み入れ、そこで黒い髪をした綺麗な女魚と出会ったのだ。その時は弟のアルフォンスとウィンリィもいたが、それ以来魔女のいる洞窟に熱心に尾びれを運んでいるのはエドワードだけだ。
周囲には内緒だが、弟も結構頻繁に通っているのだがそれはここにいるウィンリィと、親のいない自分達を養ってくれているピナコばっちゃんしかいない。
魔女に興味を持つ変人と噂されている姉の世話をして、そうなんですよねぇなんて言って周囲を巧みにあやしながら実際のところ自分も行っているのだから、アルフォンスは相当のやり手だと思う。本人は処世術に長けているだけだとしらっとしているが。
「そんなことはいいからとにかく帰ろう?海行きがあやしくなってきたよ。嵐が来るかもしれない。あんまりひどい流れだと泳ぐのも大変なんだから」
「ウィンリィだって前に一人で飛び出して波に流されて、海藻にへばりついてわんわん泣いてたくせに」
「アンタを探しにいったんでしょーが!!」
べしっと頭を叩かれて、胸元の貝殻に詰め込んだ海藻が水中に零れた。
「わっ、おいこら!」
ウィンリィはエドワードと違って見目も麗しくて綺麗で、一見すると繊細な女魚に見えるが実のところえらく凶暴だ。直ぐに手がでる。エドワードも大概感情的だが、まだエドワードのほうが冷静に辺りを分析する能力に長けていると思う。本人に言えばこっぴどく叱られるだろうが。
「せっかく集めた貴重な海藻が!」
「いいからはやく帰るわよ」
「あ~もう……」
激しくなってきた潮の流れにそって、ぐんっと上へ巻き上がってゆく海藻を集めようと手を伸ばした時、その先に見えた小さな黒いぶったいにエドワードは首を傾げた。あれは―――。
「なんだあれ、船か?」
「船?」
つられてウィンリィも上を見上げる。差し込む光がほぼなくなった海の底から、小さく規則的な形をした影が見えたり隠れたりしている。
「クジラじゃないの?」
「馬鹿言え、鈍いクジラがあんな激しい動きするかよ」
言うやいなやエドワードは尾びれをぐんっと砂に叩きつけ、勢いよく上昇する。
「ちょ、ちょっとエド!」
「ちょっと見てくる!お前は戻ってろ!」
「水面は危ないから出ちゃだめって言われてるでしょ!?」
「危ないのはオレじゃなくて、あれだ」
「はぁ?ちょっと、エド!」
わけがわからないというように眉を顰めたウィンリィにもう一度先に帰っているように促すと、エドワードは叩きつけるような波の流れに逆らうように尾びれを振った。思ったよりも水面付近の流れが激しい。海の底では嵐、というものが来ても少しだけ水流がはやくなるだけで済むのだが、水面はそうもいかない。たまに大きな波に巻き込まれ叩きつけられたり、水面付近に堕ちてきた落雷に感電し魚たちの命が奪い取られてゆくところを見てきた。今もだ。ぐんぐんと上へ向かっていくにつれ、昏く漂う水に小さな魚たちの死骸がばらばらに散っているのが見える。こんなところにいたら自分も危ない。しかし、エドワードは人魚の中でも体力があり、尾びれも固く強くしなやかだ。そんじょそこらの波になんて負けないと自負している。雷のびりりとした鋭い感覚に顔を顰めながら、エドワードは海の天上を目指した。
(あれだ……!)
近づいていくにつれ、大きくなってゆく黒い塊。何度か見たことがある。人間が海を渡るために使う船だ。大きな船底が、激しい波にゆられて大きく傾いたり上下に動いたりしている。人間は人魚と違って鰓呼吸ができない。海の中に叩きつけられでもしたらものの数秒で死んでしまうと聞く。どうやら水面は非常に大きな嵐に見舞われているようだ。もしかしたらこのままでは―――
「……ぶはっ!」
ざばんと水面から顔をだす。目を開けることもままならない程の強い風に煽られ、エドワードは再び海の中に沈みそうになった。だが尾びれに力を入れてなんとか堪え、目を開ける。
海の上は、予想通りの酷い有様だった。悪夢の化身のような真っ黒な空から大粒の雨が降り注ぎ、年若いクジラほどの大きさの船を容赦なく攻撃している。化け物のようにうねる波が船を押し上げまた叩きつけ、きっと船の中は酷い惨状になっているだろう。今にも壊れそうとはこのことだ。そもそもこんな広い海に船で挑もうとすること自体が馬鹿だ。嵐なんか来てしまったら勝てるわけがないのに。海で生活できぬ生き物が何を対それた事をやっているのか、そんな怒りさえもわいてくる。しかし、今はそんな事を考えている暇などない。
流れてくる多くの流木にぶつからぬようなんとか避けながら、船から放り出されてしまった人間がいないか辺りを見回す。軽く海の中に潜って探ってみても、幸い人間らしき生き物は見つからない。遠くの空も少しだけ晴れ間も見えていることだし、この分であればあと少しだけ耐えれば船が沈没することはないだろうと安心した瞬間。
(……ん?)
揺れ動く船の欄干に、黒い影が見えた。小さく動くその塊は、どうやら人間のようで。
(こんな嵐の中外にでる馬鹿がいるとは)
何やら指示を出しているであろう人間は、どうやら船を守ろうと尽力しているようだ。暴風雨によって正確な顔は判別できないが、おおかた、どっかの国から持ってきた煌びやかな宝石などに執着しているのだろう。人間という生き物は、船を使い自国とは別に大陸に赴き金品を強奪しあうと、何よりも欲深く愚かな生き物であるとエドワードは他でもない先生から教わっていた。時には人魚を捕え、不老不死になれると意味のわからない戯言を信じその血肉を貪り喰らうともいう。まあそれは、あくまでも他人から聞いた話で、確証はないのだが。
(っていうか、やばくないか?まだ波も大きいのに……)
ぐらりと船が傾いた。大きな波が、動く小さな塊に向かって襲いかかる。
「―――危ない!」
エドワードが危惧した時は、もう遅かった。小さな人間は抗う術もなく波にのまれ、濁流のような海に引きずり込まれていった。
「チッ!」
ざぶんと、人間が落ちた方向めがけて泳ぐ。さすがのエドワードも強い波に押し戻されそうになりながらも、水をかきわけ前へ進んでゆく。遠くに、人間の足らしきものが見えた。咄嗟の異常事態にパニックになっているのだろう。上も下もわからないのか、無我夢中で水を蹴っているのが見える。
「ばかやめろ!空気が無くなるだけだ!」
しかし、海の中ではエドワードの声は届かない。力尽きたのかゆっくりと沈みはじめた身体は、少しだけ近くで見ると思いのほか硬そうで大きかった。それ故に浮かび上がることなく、どんどんと海の中へと沈んでゆく。
細切れの木々や巻き上げられた石が体中に当たり、小さな傷を作ってゆく。それでもエドワードはかまわなかった。無我夢中で、昏い海に吸い込まれてゆく身体めがけて突き進む。
やっとのことで、大きな腕を捕まえた。考える暇もなく人間の唇に唇を重ね、鰓から取り込んだ酸素を口から力の限り注ぎ込む。しかし、それは人間の肺に届くことなく、ぽこりと大きな空気の沫となり人間の口元から零れ出た。だめだ。尾びれをぐんと逸らし、渾身の力で大きな身体を肩に乗せて、昇ってゆく丸い空気を追い越す勢いで水面に向かう。
二度目の水面。まだ波は荒い。人間の口が海の上から出るように配慮し、どこかに休めるところはないかと辺りを見渡した時、波に押されて遠くにいってしまった船から何かが身を乗り出すのが見えた。金色の髪がきらりと輝く。こちらを凝視し大きく口を開けて何かを叫んでいる。海に飛び込もうとしている大柄な人間を、別の人間が抑えている。きっと、今エドワードが抱えている人間を助けようとしているのだろう。
その姿を見て、エドワードは人間と口を聞いては行けないという人魚界においての掟を破ってしまった。
「陸地に、向かえ!」
出来る限りの大声で、叫ぶ。船の欄干に足を乗せていた人間の動きが止まったように見えた。
「陸地に連れて行く!嵐が収まったらこい!」
相手の動きを確認している余裕はない。エドワードは重い人間を抱えたまま、人間の国がある陸地に向かって泳ぎだした。船が漂っている方は依然として激しい波が荒れ狂っているままだ。雷も鳴り響き、流木も多い。それならば、波が少し落ち着いた陸地側のほうへ向かうほうがまだ賢明だ。エドワードは急く気持ちを抑えながら、なんとか冷静に、素早く尾びれを動かした。
「おい、死ぬなよ!」
肩に担いだ人間の耳元で大声を上げる。
「待ってるやついるんだろ、生きろ、人間!」
エドワードの声は大きくてかなわないと、人魚の友人たちによくからかわれたものだが、この時ばかりはエドワードは自分の声が大きくてよかったと思った。ここまで腹から叫んでいるのだ、きっと、意識のないこの人間にも届く。届くはずだ、届いてほしい。
エドワードは自身の胸元にある鈍色を握りしめ、行ったことのない、雨風の隙間から見える陸に向かって突き進んだ。







いつか陸に上がってみたいとは思っていたが、こんな形で上がることになるとは思いもしなかった。
「これが、人間か」
エドワードは、水を吸って重くなった人間の布をとってやり、冷たくなった体にぺたぺたと手を添え温めてやっていた。
「いい体してんのに、だっせえなあ海で溺れるだなんて。海には酸素もいっぱいあるってのに口でしか呼吸できないなんて、人間は大変だな」
始めて上がった陸地に感動を覚える暇もなく、エドワードは先ほど海の中でしたように男に酸素を送り続けた。尾びれを使って必死に乗り上げた岩場はゴツゴツしていて、激しく体を動かせば鱗が数枚はがれてしまいそうだ。けれどもそんなことには構わず、人魚にもある心臓を力の限り叩き刺激しながら何度も何度も唇を重ね、命を送る。人間が息を吹き返すのははやかった。ごほっと海水を吐き出し、微力ながら力も強く動きはじめた人間の肺にエドワードは大きく胸を撫でおろした。その時の脱力感をどう言い表すことができるだろう。あと一歩遅ければ消えてしまったかもしれぬ儚い命が、無事に救われたのだ。ぴとりと、人間のむき出しの胸元に耳を添え、ゆっくりとだが弾む鼓動に早まっていたエドワードの鼓動のほうが落ち着いてゆく気がした。
「これが本物の足……ってやつか」
呼吸はしているが、人間はまだ目覚めなかった。嵐は去った。はるか遠くに、先ほどまで大きく揺れていた船も見える。あの時は気が付かなかったが、思いのほか立派な船だ。平均的な大きさのクジラとほぼ同じぐらいなのかもしれない。ウィンリィが間違ったのもうなずける。
陸地に来いと伝えたつもりだったが、本当に聞こえたのかはわからかった。けれどもどんどんと大きくなる船の影に、どうやら思いは伝わっていたのだと知る。この男は仲間に見つけられるのも時間の問題だろう。ともあれ、こんな硬い岩場に瀕死だった人間を一人で置くのは気が引けて、エドワードは人間の体温を上げ介抱してやると同時にその身体を観察することにした。
「すげぇ、やっぱり、本物の人間も足は二本あるんだな……」
人間の身体に興味があるなんて変わっていると言われるが、エドワードは論理的な思考をすることが大好きだった。女人の友人たちのように綺麗な貝殻や真珠を集めて指輪やネックレスを作ったり、人間が海に落とした宝石類や可愛い海藻で身体を着飾ったりするよりも、どうして海の水の流れははやくなったり遅くなったりするのかとか、どうして硬い石や柔らかな石があるのだとか、どうして太陽の光は海の中にはいるとぼやけるのかだとか、そんな事を一人でずっと考えているほうが好きだった。もちろん綺麗な物を貰えるのは嬉しい。けれども、純粋に綺麗だな、で終わらないところがエドワードだ。綺麗なものがどうして美しく見えるのか、何で構成されているからこんな輝きを見せるのか、毎日そんなことを考えていれば日が暮れるのははやかった。
そんなエドワードでも唯一アクセサリーとして身に着けているのが、「鋼」でできたネックレスだ。海の水によりだいぶ色が変わってきてしまったそれだが、エドワードは大のお気に入りだった。皆に全然綺麗じゃないと相手にもされないこの鋼は、太陽にかざすと、海の色と重なってわずかに緑色になる。エドワードはそれを綺麗だと思っていた。
キラリと鈍色に光る欠片を見つけたのは、ある海の凪いだ日だった。かつては鋭くとがっていたであろうそれは水に晒され汚れていたが、エドワードは何故かそれが気になった。持ち帰り、先生のところに行って聞いてみれば、それは人間が船から落したものだろうと言っていた。きっと、剣の欠片であるろうと。鋼を拾ったあたりを散策してみれば、所々に加工された木の板らしきものの残骸が落ちていたので、きっと人間が海の上を渡るために使う船が沈んだ時のものだろう。
人間が作った複雑に入り組んだ難破船は、幼い頃エドワード達子人魚にとっての格好の遊び場だったが、以前エドワードは、そこで崩れかけた人間の死骸を見つけたことがある。

それは、とても恐ろしい形相をしていた。友人たちは恐れ慄き、逃げだした。こわかった。もう難破船なんかにいかないと。しかし、エドワードはまた違う反応を見せた。確かに恐かったが、それと同時に悲しかった。

人間というものは、海の魚を取り、時には私利私欲のために人魚さえも襲い喰らう化け物だと幼い頃から教わってきたが、そんな恐ろしい人間という生き物が、あんな風に成すすべもなく海に晒され、微生物に分解され、静かに死に絶えてゆくのだと知って、エドワードはショックを受けた。人間も人魚と同じ、ただの生き物であるという事実は、エドワードにとって衝撃的なものだった。
そこからだ、エドワードが、『人間』という異種族に興味を持ち始めたのは。
だから、危ないから出てはだめときつく注意されているが、何度が水面にも顔を出したし、いつか海と大地が交わる陸を見に行ってみたいとも思っていたのだ。

それが叶うのが、まさかの不可抗力で今日だとは思ってもいなかったが。
「硬いな、やっぱり人魚の尾びれとは全然違う」
こつこつとした人間の足に触れながら、徐々に温かくなってきた皮膚を確認しその顔をのぞき見る。

この肌が、いつかの海の底で見たぐちゃぐちゃにな人間の死骸のようにならなくてよかったと、心の底から思えた。
「おーい」
小さな声で、人間に呼びかけてみる。長い睫だ。どうやら、この人間はどうやら人魚でいうところの「雄」であるらしい。

先生から学んだ情報によると人間の雄は「男」と言うらしいが、布を脱がせた時に見えた下腹部に存在していたあの大きなものは、やはり精を放つ生殖器だろう。女人とは違う形だ。
エドワードは人間の男の頭を尾びれの上に乗せ、優しい手つきで濡れた前髪を払ってやった。珍しい、黒い髪の男だ。いや、人魚の世界では珍しい色だが人間の世界では普通の色なのかもしれない。肌は抜け殻になってしまったサンゴのように真っ白になっていた。相当苦しかったのだろう。

海の中でも、長い時間は無理だが陸上でも呼吸ができるエドワードにとって、「苦しい」という感覚はエドワードにはよくわからなかった。それでも、あのもがきようだ。蒼白な顔を見なくとも、随分と大変だったらしいことはわかる。なんだか余計に可哀想になってきて、頬にはりついている海藻も取ってやる。すると。
「ぅ……」
ぴくりと、男の瞼が動いた。じっとその動きを見ていると、痙攣したように何度か小さな瞬きを繰り返した後、すっと黒い瞳がのぞいた。月明かりに照らされた黒い真珠のようなぬばたまは、海の綺麗で鮮やかな色に見慣れたエドワードでさえも素直に美しいと思える色で。
「……よォ」

 

 

 

 

 

 

 

 


ぱさぱさとまたたく睫に、水滴が溜まっている。これでは開けずらいだろうと唇で吸ってやれば、人間の男はまだ夢現の世界にいるのか、エドワードの動きを不思議そうに目で追った。ぱくぱくとわずかに開閉する唇から、小さな呼気が漏れる。
「まだしゃべんな、苦しいんだろ」
指先で紫色に変化してしまった唇を静かに撫ぜれば、力が抜けたのか、静かに閉じられた。

黒い瞳は、ぼんやりとエドワードを見上げていた。
「理解できるかわかんねえけど、一応説明しておくぜ。海で溺れたアンタをここまで運んだ。大丈夫だ、アンタの仲間を呼んでやる、アンタは助かったんだ」
先程よりもすぐ近くに、先程嵐に揉まれた船が近づいてきているのが見えた。

思考が定まらないのか、黒い瞳を彷徨わせている男に微笑みかけてから、エドワードはすぅっと息を吸った。


口ずさむ歌は、エドワードの故郷に伝わる伝統的な歌だ。

一説には、人魚の歌は人間の脳を麻痺させ引き寄せるという話があるが、試したことはないので信義の程は確かではない。

ただ、もしも噂が確かであれば、ざざん、と波の上を這ってくる船員にも、もしかしたら陸地でこの男を探しているかもしれない家族にも届くかもしれない。


人魚が誰かに恋焦がれ、その切ない想いを海の果てへ向かって届けようとする歌。

 

小さい頃に母親が子守唄変わりに歌ってくれた歌だ。この歌を聞くと不思議と心が凪いだものだ。まだ現状が掴めていないこの男の心にも、少しでもあたたかい何かが、届けばいいと思った。



 



にんぎょはこがれる どんなおおきなクジラよりもおおきなおおきなこのきもち
にんぎょはいのる とどかぬおもいが 波にのってかなたまでとどくことを
にんぎょはかなしむ つくりかけのサンゴのいえが 石のとびらが 真珠のなみだが 波にのってかなたまでとどくことがないことを しっているから
おさかなさん あなたはたびのとちゅうなの?
どうかとどけてこの想いを その綺麗なうろこにのせて
おさかなさん あなたはちいさなからだがうらやましい
どんなに小さな砂のすきまにも あふれるおもいのかけらをとどけることができるのだから
とどいてとどいて、あなたの名を だれよりもはやく だれよりもつよくおもうから

にんぎょは歌う どんなおおきなクジラよりもおおきなおおきなこの声で
にんぎょはいのる とどけとどけと あかい月のした しんじゅのなみだをかみしめて
にんぎょはわらう つくりかけのこの恋が こころが あなたとひとつになって ひろい海のかなたをこえたばしょに、とどいたことを しったから



 




綺麗な半分の月が、見える。

歌い終わったエドワードは、ふと手をひかれ視線を降ろした。じっと月の光に照らされた黒い瞳がこちらを見ていた。反射して、真珠のような輝きを放つそれが綺麗で、エドワードもじっと男を見つめた。
「君、は……」

きゅっと、手を引くそれに力がこもる。初めて耳にした人間の声は、とても低くて静かで、凪いでいた。すっと心に染みわたってゆくような音色だ。誰かの声で、こんなにも心の奥底から安堵感を思えたのは、母の次に初めてだ。
ふいに、どこか遠くからおーい、おーいと声が聞こえた。不思議な明かりがゆらゆらと暗闇の中を彷徨っているのが見える。エドワードの歌に気が付いて、誰かが男を探しに誰か来たのだろう。
「他の人間が来たみたいだぞ、たぶんアンタを探してる。あとは自分でなんとかしろよ」
きゅっと掴まれていた腕を優しくふりはらい、男の頭を静かに固い地面の上に乗せる。まだ呼吸と意識が戻ったばかりなのだ。無碍にはできない。まってくれ、と小さく動いた口と、ゆっくりと伸ばされた指先に苦笑して柔らかな頭部をぽんと叩く。弟によくやってやるその行為に、男はゆっくりを目を見開いた。
「じゃーな、人間。もう船から振り落とされんじゃねえぞ」
明りが近い。エドワードは「ここだ!」と大きな声を上げてから身をひるがえした。腕で岩をひっつかみ、ずるずると体を動かしバシャンと、海の中に沈む。

人間の雄がどうなるのかは気になったが、もうそろそろ戻らなければならない。鱗の一枚一枚ががむずむずと、何かに引っ張られているような、突つかれているような感じがする。きっと、今頃家族に『名を呼ばれ』、探しまわされているはずだ。水面に入ってしまった今男の姿はもう見えなかったけど、水しぶきの隙間から月とは違うぼんやりとした明りがすぐ傍に見えたことに心の底からほっとし、エドワードはそのまま尾びれでバシャンと波をたて、海の中へ沈んでいった。
 



あのまま手当をしてもらって、長く生きられるといい。
人間の生は、人魚のそれよりもはるかに短いと聞く。短い命だ、せめてできる限り長く生きてほしい。

エドワードはぐりんと海底へと背をむけた。殆ど届かなくなった月の光に、先程見た男の黒い瞳を思い出す。

暗いようでいて、月明かりに照らされてぼんやりと灯るその色が、エドワードは嫌いじゃなかった。始めて出会った人間の男。まともに何かを話したわけではないが、君は?と問われた声は低く身体を這うようで、それでいて心に染みわたるような気がした。

エドワードの直感は当たる。なんとなく、初めてにしてはいい人間に出会えたのではないかと思った。


今晩は、優しい夜になった。

 

エドワードはたゆたう半月に背をむけて、静かな海の底へと潜っていった。



 




この時、エドワードと人間が出会っていなければ。
エドワードが男を見捨てていれば。
あのようなことは起こらなかったのかもしれない。
きっと、全てが変わっていた。


この出会いが、エドワードと人間の男───ロイとの、全ての始まりだったのだ。

 


「エド!!」
キーンと、耳鳴りがしてエドワードは耳を抑えた。が、その手を思い切り捥ぎ取られて顔を背ける。

しかし相手はそれを許してくれなかった。
「こっち向きなさい」
「だから、悪かったって言ってんだろ」
「納得できるわけがないでしょう?!アンタはいっつもいっつも!」
「アル~、助けてくれ」
「残念だけど、今回ばかりは無理だよ」
人間を助け、海の底にある自分の住処に戻った時エドワードに待ち受けていたものは容赦のない叱責の嵐だった。これは、さっき地上で受けた嵐よりもすごいものだと思えるくらいの。
どうやら、エドワードと離れた後ウィンリィはエドワードを追いかけようとしたが、とてつもない波の強さで追いかけることも叶わず泣く泣く帰ってきたそうだ。弟のアルフォンスも蒼白になり、なかなか帰ってこないエドワードに痺れを切らした二人が、待ちなさいとなだめすかせるピナコばっちゃんと軽く押し問答をしていた時だった。

エドワードがひょっこりと顔をだし、わりいわりいと対して悪びれる様子もなく戻ってきたのは。
「僕だって怒ってるんだからね」
エドワードの傷の手当をしながら、乱暴に薬を塗ってゆくアルフォンスも、言葉の通り大層ご立腹のようだ。
「勝手に水面に行ったまま戻ってこないわで、とうとう人間に捕まったのかと思ったよ。まあ、姉さんの事だから一度は捕まったほうが身に染みて、二度と危ない事しなくなるんじゃないかって思ったけどね。っていうか思ってるけどね、今」
いつもは柔和な微笑みさえ浮かべている最愛の弟の顔は、静かに無表情だった

あの怒れるウィンリィですら、普段は温厚なアルフォンスの変わりようにびくつき様子を窺っている。
「あ、あのー、アルフォンスさん……」
弟に向かってさんづけなんて、初めてした。
「『名前を呼んで』もなかなか反応してくれないし、帰ってきたら帰ってきたで傷だらけだし。水面はそんなにはしゃぎまくって傷を負ってしまう程愉快な場所だったんだ、ねえ、姉さん?また明日も行くの?楽しそうだね、そのまま帰ってこないつもり?」
すっと上げられた口角は冷たい水の中にいるエドワードの背筋が冷えるくらいの代物だった。

ぎりぎりと掴まれたままの腕が痛い。エドワードはついに降参した。
「オレが悪かったです……」
「思ってないでしょ」
「思ってるっつうの!」
「じゃあちゃんと、ウィンリィに謝んなさい」
これでは、どちらが年上だかわかったものではない。とは思いつつ、全面的に心配をかけた自分が悪いことは理解しているつもりなので、眉間に皺をよせている幼馴染に向き直ってしっかりと頭を下げる。
「ごめん、ウィンリィ」
「本当よ、心配したのよ」
ぎゅっと抱きつかれてエドワードは苦笑いをした。小さい頃に両親を亡くしたウィンリィは、同い年のエドワードを失うことを何よりも恐れている。それは、アルフォンスもエドワードも同じだ。この小さな家族が、エドワードにとって何より大きいもので尊いものだった。それを人の命がかかってるとはいえ一時でも蔑ろにしてしまったことは、己の反省すべき点だと思う。
「手当は終わったのかい」
「ばっちゃん」
たばねた髪を頭部でぎゅっと縛り付けた老魚が、水煙草を吸いながらすっと近づいてきた。
「ごめん、心配かけて」
「もう慣れっこさ」
「はは……」
下にもなく言われて、エドワードはずんと沈んだ。砂が目にはいって少しだけ痛い。
「ちょっと姉さん、そんなところで寝ないでよ。波にさらわれちゃうよ?寝てる間に水面までいっちゃうかも、まあ本望だろうけど」
「悪かったって!」
「で、人間と会ったの?」
「え」
唐突な質問に、エドワードは顔を上げた。そこには、先程よりは強張りが解けた弟の顔があった。とはいっても、眉間の皺は先ほどと同様にひそめられたままだったが。
「船が沈んじゃうか心配であがったんだよね。誰かいた?」
「あ、あ―――いや、大丈夫だったぞ。大荒れだったけど、船も沈没しなかったし」
「それにしては長い時間遊んでたみたいだけど……?」
長い時間遊んでいた、のではなく、人間を助けていたからだ。しかしそれを言うわけにもいかず、探るような弟の視線に、エドワードはそわそわと頬を掻いた。
「いや、水面とか久しぶりで楽しくてよ、いろんなもん浮いてたし、魚達もはしゃいでたし、波もたけえし」
「人間に、姿を見られたりとかしてないだろうね」
「ないない、誰もいなかったから」
はは、とふざけたように笑っても弟の顔は晴れなかった。
「……ふうん」
絶対信じてないな、これ。無我夢中で人間を助けるために尽力したが、このことは弟にも誰にも言えない。

人間を助けた。一見すれば美談だが、人魚の世界では人間と関わり合うことがタブーとされている。過去に一度、人間に捕まって帰ってこられなくなった人魚がいるという噂も人魚界に伝えられている。アルフォンスも、好奇心旺盛な姉に逐一人間には気を付けて、と言っていたのだ。無駄に不安を煽って心配させる事はできない。
「本当になんにもねえんだって……って、あれ?」
「どうしたの、姉さん」
何の気もなしにふと胸元に手を添えた時に異変に気が付いた。見れば、いつもはそこに下げられているものがない。エドワードが大事にしている、あの鋼のネックレスがどこにもないのだ。
「ない……」
「あら、ないって、あの地味なネックレス?」
「地味いうな!お前だって鋼好きなくせに」
「失礼しちゃうわ!私が好きな鋼はね、綺麗に加工されていくあの過程!あの鈍色が削られ綺麗な銀色に光った時の衝撃といったら!もちろん鈍い色の鋼自体も好きだけど、そもそも鋼というのは加工が」
語りだしたウィンリィの鋼熱を右から左に流しながら、エドワードはあたりを見回した。しかし、見える範囲にはどこにも落ちていない。ふらっと帰ってきた道筋を軽く追ってみても、海底の砂が静かにゆれるだけだ。もしかして、先程の騒動の最中にどこかに落としてしまったのだろうか。嵐に染まり激しくざわめいた、この広大な海の中で?
「嘘だろ……」
大事にしてたのに、とがっくりと肩を落とした姉にアルフォンスは優しく肩を叩いた。
「今は夜だし、また明日探そう?太陽の光があれば反射して光るでしょ?」
あの鋼は、もうほとんど錆びついていて光るどころか黒ずんでいる。アルフォンスもそんなことはわかっているのだろうが、エドワードを気落ちさせないために優しい言葉を選んでくれる。さっきまでしんとした怒りに満ちていたはずなのに、さすが、できた弟だ。エドワードと一つしか年が離れていないなんて思えない。
「まぁでも、姉さんが危険な目に合わないために、その鋼が犠牲になったのかもね」
けれど、最後にそんな事をさらっと付け加えられてエドワードはますます肩を落とした。
「これに懲りて、もう無茶はしないこと、いいね?姉さん」
「わかったよ……」
エドワードはこれ以上の言い合いを避けるべく(反省もしていたが)、目をそらさずにしっかりとうなずいた。そんな3人を静かに見守っていた老魚が笑った。
豪快に吐き出された水煙草の気泡が、夜の海の中に溶けていった。


 

 



次の日から散々探し回ったが、残念なことにエドワードお気に入りのあの鋼のネックレスは見つけられず仕舞いだった。

ウィンリィも弟も一緒になって探してくれたが、広い海だ。そう簡単に見つかりっこない。しかも、あの日は嵐でなおかつエドワードは水面に出ていた。激しい波にのまれどこかに流されてしまった可能性も大いにある。他の宝石類と違って光り輝くものでもない。見つけることは、不可能に近かった。
「やっぱりねえか……」
あんな汚れてしまった鋼の欠片など、誰からみても目に留まるものでもない。けれど、初めてエドワードが人間が使っていた難破船の中で見つけたものだ。一人の人間の、亡骸と共に。戒めのような、思い出のような。何があっても手放してはいけないと思えるほど、とても大事なものだったのに。アルフォンスと同じ事を言うつもりはないが、あの鋼は犠牲になったのかもしれない。エドワードの危険ではなく、エドワードが助けた、あの人間の命の代わりに。
そう思えば諦めもつく。命に比べれば、あれほど小さな錆びた鋼なんて取るに足らないものだ。
(あと探してねえのは、あそこか)
残るは、人間世界の入り口だ。エドワードが人間の男を助け上げた場所。ゴツゴツした岩場が並ぶエドワードが初めて入った陸地。もうあそこしかない。けれども、
(でも、アルに絶対陸地には行くなって言われてるしな……)
もし、たかが鋼のネックレスのためだけに危険を冒してまで陸地に上がったとバレてしまえば、長い長いお説教が始まることだろう。昼間は、アルフォンスとウィンリィがいる。あの出来事からもう何度も日は上ったけれども、彼等はエドワードが妙な事をしないように常に目を光らせているように思う。先生に頼まれていた珍しい海藻集めだって、結局はウィンリィも手伝ってくれることになったのだ。もしも抜け出せるとしたら、夜中しかない。少しの間だけだ。朝になる前に戻る。

 


(そんなに長い時間いるわけじゃねえし、大丈夫だろ)
ばっと探して、それでもなかったら潔く諦めよう。そう心に止めて、エドワードは平然を装いながら夜になるのを待った。

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