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嘘だというのはもちろんわかっていた。

張り付けたような笑みに、甘ったるい声。それのどれもが男の本当ではないということに、出会った時から気がついていたから。

『君が好きだよ』

馬鹿な人間だと思った。面白い玩具が手に入ったから遊んでみよう。そんな魂胆がまるでみえみえなのに、甘いマスクと吊り上げた唇で囁く軽い愛で、それを覆い隠そうとしている強かな大人が。そんな見え透いた嘘で自分を騙せると本気で思っている、愚かな大人が。

『私の恋人に、なってくれないかな』

断られることなんて微塵も考えていない、傲慢で、しかし優雅に差しのべられた大きな手。

それを振り払うことなんて、簡単にできた。ふざけるな、馬鹿にしてんじゃねえと、声を張り上げて怒鳴ることも。

それをしなかったのは。できなかったのは、ひとえに弟のためだ。

多くの女性を手玉にとり、彼女を寝取られた男は後を絶たないと聞く。

冷酷かつ冷徹、気に入らない人間相手には微塵も容赦しないとも。

まだ知り合って間もないころ、噂に聞いた男の素性は散々だった。

道を示してくれた恩義はある。少しの信用も。でも、信頼することはできなかった。

 

もしもここで断れば、切り捨てられてしまうのかもしれない。

この男が今まで気に入らないと捨ててきた、他の人間と同じように。

 

元の体を取り戻す。夢を達成させるためには、どうしてもこの男の後ろ楯が必要だ。情報だって、自力で探すのにも限界がある。それに自分達の重大な秘密、弱みを握っているのは、他でもないこの男だ。例え気まぐれに思いついた下らないお遊びの一つであっても、それを拒むリスクはとてつもなく高い。その時は、そう思えた。

だから、エドワードの中に、選択肢なんて存在していなかった。

『……わかった』

うやうやしく伸ばされた大人の手に、至って平静に己の手を重ねた時の男の顔を、エドワードは一生忘れることはないだろう。

『ありがとう、嬉しいよ』

優しく微笑む顔。落ちたな、と、雄弁に語る漆黒の瞳に含まれていたのは、確かな冷笑。そして、打算。そう、打算だった。男がエドワードに目をつけたのは、自分の手駒として動かせるに値する人間だと、男自身がエドワードを見定めたからにすぎない。

『恋人』とやらになれば、自分の想い通りに動くだろうと、自分の容姿と手練手管で可愛がれば付き従うだろうと目論む大人の顔。

それにエドワードは気がついたというのに、エドワードの瞳の中に交じっていた失望と軽蔑と嫌悪の色に、目の前の男が気づくことはなかった。

 

だから。

 

きっとこれからも、気付かれることはないだろうと、思っていたのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鋼、の」

まさか目の前で、こんな神妙な顔をする男の姿を見ることになろうとは。

エドワードは、いつもより顔が引き攣っている男を、まじまじと見つめた。

「さっきの話しは、本当か」

心なしか、顔が青白いように見えるのは気のせいだろうか。

「本当なのか」

もう一度、同じ言葉を繰り返す男から視線を外し、ふんぞりかえっている少女を伺う。

悪びれた様子もなかった。ここまで華麗にしてやられると、いっそ尊敬するくらいだ。

 

 

 

 

男の言った、さっきの話。

それは、今エドワードの目の前にいるマスタングを横から睨み付けている少女、ウインリィとエドワードとの会話のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休息を取るためにとった宿に、幼馴染みの少女が突然訪問してきたのは少し前のこと。

仕事の都合でイーストシティに来ていたという彼女は、部屋に入ってくるなり、話があるのと彼女らしからぬ暗い表情で語りだした。その思いつめたような表情にエドワードは、ああ、やはり知られてしまったんだなと事実を受け止め、ここにアルフォンスがいなくてよかったと思いながらウィンリィに向き合った。

「マスタングさんと付き合ってるって本当?」

重々しく開かれた唇から発せられた内容に、エドワードは思わず苦笑してしまった。

まあな、と静かに返したエドワードは次の瞬間、弾けるように荒げられたウィンリィの声を真正面から受け止めた。

「あんた、騙されてるのよ」

わなわなと震える唇。エドワードの大事な幼馴染は、大層ご立腹らしかった。

それもそうだろう。もしも自分がウィンリィの立場であったら、エドワードは彼女の相手をタコ殴りにしていただろうから。

憤りを隠さない彼女の口から語られた話の内容は、至って単純だった。

今日ウィンリィが仕事の依頼を受けるためにイーストシティに訪れ、空いた時間で喫茶店でお茶を飲んでいた時、彼の有名なロイ・マスタングが私服姿で女連れで入ってきたこと。そして、そこで聞こえてきた会話に愕然としたこと。

 

 

 

こんなところ見られてしまったら、貴方の可愛い金色の子猫ちゃんに怒られちゃうわよ。

──大丈夫ですよ、あの子なら今はここにはいない。それに、あれとは遊びですよ。ままごとのお付き合いだ。手を出したこともありません。

ひどい人ね、あんな可愛い子をたぶらかして。

──あれが構ってほしいと寄ってくるものでして。なんたって鋼ですからね。美味しい餌を与えなければ。

本気にひどい人。いつか刺されるわよ。

──なに、あの子は従順ですよ。私に心底惚れているのでね。

どうせ、私のことも遊びなんでしょう。

──まさか、そんな恐ろしいことを言わないでください。貴女の類いまれなる美しさに、あれが叶うはずもありませんよ。

 

などなど、よくもまぁそこまで鮮明に覚えているものだとエドワードが感心してしまうほどに、ウンリィは事細かに会話の内容をぶちまけた。そして、大きく息を乱しながら一言。

あんた、本当にあんな人のことが好きなの?と。

その優しい幼馴染の歪んだ顔に、エドワードはまたも小さく苦笑してしまった。

 

 

 

 

 

町で、ウインリィが喫茶店に入っていく姿を見かけたのは本当に偶然だった。

仕事のために近々イーストシティに来るという話は聞いていたので別段驚かなかった。

暫くはここの宿にいるから、着いたら連絡をくれと電話越しに伝えたことも記憶に新しい。

しかしその直後に、見知った顔の男が清楚な女性を伴ってその店に入っていくのが視界に入ってきた時には心底驚いた。というよりも焦った。

マスタングは、彼が関係を持つ女性たちの前でエドワードを下げる発言をするのが日課だ。

あんな子供に本気になるわけがないと笑う。いつものことだ。

これから彼があの綺麗な女性とどのような会話をするのか、そしてその後どこに行って何をするのか。男の呆れる程に単純な行動パターンは手に取るように熟知している。もしもそこに幼馴染がいれば、未来は見えている。

この限りなく正解に近い予想が当たれば、全てを理解した幼馴染はエドワードのところに乗り込んでくるだろう。しかし、あの店に入って男と、その愛人と鉢合わせするのも嫌だった。

男の、いわゆる浮気現場に偶然出会ってしまった時はいつもその後か朝に女ものの香水やらの匂いを纏わりつかせたマスタングに呼び出される。そして、彼に(マスタング曰く)不機嫌な表情をしているらしいエドワードは「一番は君だよ」と甘く囁かれながら、唇を執拗に貪られるのだ。

別にアンタが誰とセックスしてようがどうでもいいお好きにどうぞ、なんて本音は言えないのでされるがままになっているエドワードは、口紅の独特な味が染みついた男とのねばっこいキスの気持ち悪さに吐きかけた経験があるので、一番安全と言える行動に走った。つまり、身の保身である。

ウィンリィには悪いが後でちゃんと説明してわかってもらおう。もしかしたらエドワードの予想は外れるかもしれない。そもそも近い席に座るとも限んないしな、うん。そう心の中で頷き、通行人に道を案内し終え戻ってきたアルフォンスを引っ張り宿に帰り、万が一のためにアルフォンスに用事を頼み外に出させた。そして、暫くしてからの幼馴染の突然のご来訪。

予想通りに進んでしまった展開に、苦笑を禁じえないのは当たり前のことだろう。

「ウインリィ、落ち着けって」

「落ち着いてなんかいられないわよ、アンタ遊ばれてるのよ?」

自分は本当にいい幼馴染をもったなあと思いながら、鬼の形相で睨みつけてくる彼女を眺めつつ、椅子に座る。

「お前って本当にいいやつだよな」

「なにはぐらかしてんのよ」

「ごめんごめん、で、なんだっけ?」

「だから、あんた遊ばれてるのよ、マスタングさんに!」

「だろうな」

「は?」

「アイツは、物珍しいオレっつーオモチャで遊びたいだけだよ」

ずずっと紅茶を飲みながらエドワードは淡々と返した。

ウィンリィは一拍置いて考え込んでから、エドワードに向き直った。

「どういうこと」

「ん?別に、そのまんまの意味」

温かな紅茶にほっと溜息をつく。あのロイ・マスタングという男は、いつもされるがままの自分を見てほほ笑んでいた。どうやら、まだ年端もゆかないエドワードを自分のいいように弄ぶという行為に、とてつもない程の快感と優越感を感じているらしい。始めに交際を申し込まれた時は男が自分で遊びたがっているということは理解したのだが、その理由はわからなかった。

その時エドワードはまだ12歳だったので、男が実は幼児愛好家で、しかし軍人という立場故それを公にし遊ぶこともできないためちょうどよく現れた守備範囲内のエドワードを摘まみ食いしてみたいだけなのかと思っていたのだが、3年間と男の側にいるうちにそれは大きな間違いであるということに気が付いてきた。

どうやら男は幼児愛好家等ではなく、目つきも口も態度も悪く、しかし錬金術の才だけはあるクソガキ、「エドワード・エルリック」自身で遊びたいらしいのだ。

エドワードが男から体を求められたことは今までで一度たりともない。気まぐれに肩を抱かれたり、唇を奪われたりとその程度だ。いつだったか、男の何人目かの愛人のご婦人との会話を偶然にも聞いたことがあるが、その時マスタングは『まさかそんな。あんな男とも女とも見分けがつかない貧相な体ではそのような気もおきませんよ』と明言していた。交際を始めてから3年もたつのに、男がエドワードに手をださない理由がこれだ(もちろんそれはエドワードにとって喜ばしいことではあるが)。

つまり結論として、男は幼児愛好家などではなく生意気な小娘を支配することで何かしらの欲求を満たしそうとしている、どうしようもなく駄目な大人であるということだ。

そう論理的に説明してやると、ウィンリィはぽかんと口を開けた。

驚くよな、わかる。エドワードは抽出時間が長すぎて苦くなってしまった紅茶をずずっと吸った。

「なによ、それ」

「まあ、そういうことだから」

「……まあって何よ、あんたはそれでいいの?」

「別に?どうでもいいからな」

「どうでもいい?」

「アイツが誰と何しようが、オレ、別に関係ないし」

関係ない、これは本心だった。だって別に、彼のことを好きではないのだ。

「エド、あんた、マスタングさんのこと好きじゃないの?」

「はぁ?オレがアイツを?冗談やめろよ」

これには本気で嫌な気分になった。屈辱だ。気色わりィ、とわざとらしく身震いする。

自分自身に興味を持たれているのであれば、いくらエドワードの年かさが上がったところで意味がない。エドワードはさっさと成長して男から範囲外通告を受けて捨てられることを希望していたのに、今ではそれは儚い夢と散った。エドワードは、男が自分に飽きるまで待たなければならないのだ。それが大変で仕方がない。そこまで言い切ると、ウインリィはなんとも言えない奇妙な顔をした。その顔に妙な引っ掛かりを覚えつつ、エドワードは言葉を続けた。

「でも残念ながら、まだ飽きてくれてないっぽいんだよなぁ……」

「……そんなに、そんなに離れたいって思ってんだったら、なんで付き合ってるのよ」

「だって断ったりしたら、何されんのかわかんねえだろうが」

「つまり?説明して」

「だってさ、オレらの弱み握ってんのアイツだぜ?後ろ楯止められたりしたら、オレら行き場ねえじゃん」

カップに残った紅茶をさらに一口飲む。もうここまで来たら、全部ぶちまけてしまいたくなった。

恋というものに、今更何か甘酸っぱいものを期待しているわけではない。むしろこんなものだろうと思う。

好きでもない男と付き合うことに何の感慨も抱きはしないが、男の部下にも、ましてや弟にも本音を言うことができず胸の内に毒を溜めこんでいくのは正直面倒臭かった。心が限界という程ではないが、そりゃあ、鬱憤は溜まる。毎度、あのシニカルな薄い笑みに見下されるたび腹立たしくて仕方がなくなる。こんなどうすることもできない愚痴を受け入れてくれるのは、きっとウィンリィだけだ。

マスタングが、彼が関係を持っている他の女性に、エドワードは自分に心底惚れていると言いふらしていることは知っていた。そんな現場を何度も間近で目撃してきたから。

そして、実際問題その通りマスタングはエドワードに好意を寄せられていると勘違いをしているようだった。彼の機嫌を損ねると後々面倒なので、エドワードは今まで特別それを否定することもせずに接してきたし、イーストシティに行けば必ずデートなるタダ飯にありつけるので(不本意ながら、マスタングの紹介してくれる店の料理は絶対旨い)、秘密の関係だから誰にもバラしてはいけないよと言うマスタングとの約束(という名の命令)も律儀に守ってもきた。そう、別に処女を奪われたわけでもない。せいぜい奪われたのはキスぐらい、恋人とは名ばかりの関係だ。

「もしアイツの意に背くようなことして、軍事裁判にかけられちまったらどうすんだよ。アルなんか研究所送りだぜ?」

「それは」

「アイツの機嫌損ねて資格取り上げられたら元も子もねえし。最低な野郎だけど一応、上官だし」

「……それじゃあエドは、逆らったら何されるかわからないから、付き合ってるっていうの?」

「うん」

あっけらかんと答える。誰にも言えなかったんだけどさ、とぽろりと漏らす。

「浮気されても、いいの?」

「浮気ぃ?浮気なんて腐るほどしてるからなあアイツ、別にっていうか……むしろそん中の一人と真実の愛とやらを見つけだして、さっさと結婚でもしてくれたほうがありがてえんだけど」

それはいつになることやら。

やれやれとため息を零しながら、エドワードは茶色い液体が少しだけ残っているカップの底を見つめた。もう残り少なかった。

「じゃあ、じゃあエドは、マスタングさんのこと、嫌いなのね?」

「……嫌いっていうか、それ以前に興味ないな。まあでも、軍を辞めたら二度と関わりたくねえけど。ああいう男、そもそもタイプじゃないし」

だって、オレの態度が悪くなると照れてるって勘違いするような男だぜ?ちゃんちゃらおかしい、ただのアホには興味ねえもん。そこまで言ってやればウィンリィは黙った。

自分の恋愛における好みのタイプというものを、しっかり自覚しているわけではない。

アルと元の体に戻るということで精一杯で、そんなことを考える余裕がないのだ。

しかし、マスタングのような男でないことだけは確かだった。マスタングは軍人にしては線も細く整った顔立ちをしているとは思うが、彼に対してときめいたりもしたことがない。甘い言葉を囁かれても、何も思わない。キスをされても心躍らない。むしろ不快だった。

「いや、ま、別にだからと言ってどうなるとかはないから安心しろよ。アイツがどっかの令嬢と結婚する頃には、オレたちはもう元の体を取り戻してる。そうでなくともいつか振られるだろうし、そうなればさっさとおさらばだって」

残った紅茶を全て飲み干した。可愛らしい柄の入った底に、そういえばマスタングの家にもこんなカップが一つだけあったなあと思い出す。ま、どうせ可愛い物好きの愛人のために用意したものなのだろうけど。

曝け出すだけ曝け出して、やけに気分がスッキリしている。ここまで言ってしまっても尚、思いを吐露してしまったことに後悔はなかった。それどころかもっとはやくにこうしておくべきだったとすら思う。

だが、唯一気になるのはウィンリィだ。優しくて正義感の強い彼女が、エドワードの状況を憂いてエドワードの代わりに傷ついてしまうのは困る。エドワードの都合で愚痴のはけ口にしてしまったのだ。きちんとフォローも入れておかなければ。

「あ、別に気にすんなよ?こんなの誰かと付き合ったっていう経験にすらなんねえよ。別にどうってことない、ノーカウントだ」

からっと笑いつつ、カップを備え付けの小さなテーブルに置き顔を上げる。

エドワードの大事な幼馴染は、予想通りにそれはそれは複雑な顔を──していなかった。

「──エド!」

急に大きな声で名を呼ばれ、しゃきんと背筋が伸びた。

「……、っはい?」

「エドは弱みを握られてるから、仕方なく追従してるのね?」

「うん?」

「はっきり答えて、大事なことよ」

「え?あの、ウィンリィ」

「してるのね?」

ぐいっと近づいてきた顔にのけぞる。見慣れているとは言え、ウィンリィは同い年ながらとても綺麗な顔をしていると思う。昔から男言葉を使い、喧嘩っぱやくいたずらばかりしてきたガキ大将のエドワードなんかとは違って、はるかに女性的だ。曲線を帯びた丸みを帯びた身体に、高い声も。もしもウィンリィのような綺麗な女性だったらもしかしたら彼は──そこまで考えて首を振った。何かよからぬ方向に、思考が行き着きそうだった。

「あ、う、うん。まあ弱みっつうか、そうなる可能性が捨てきれないから、っていうかその」

「じゃ、本音を言えば、本当は今直ぐにでもマスタングさんから離れたいのね?」

「え?」

「離れたいの、ね?」

「……お、おう」

「じゃあ、エドはマスタングさんの事、本当の本当に、好きじゃないのね?」

「ウィンリィ……?」

確かめるような彼女の言葉──誘導尋問のようなそれ──に不安になったエドワードは、小さく彼女の名を呼んだ。

「答えて、好きじゃないのね?」

鋼の、となれなれしく肩を抱いてくる面倒臭くていやらしい男の顔を記憶から追い払う。

本当に嫌だった。『私のことがそんなに好きか』と囁かれ、とりあえず頷きやり過ごすのも。見知らぬ女の香水をまとわりつかせる男の傍も気持ちが悪かった。信頼はしていなかったが信用はしていたのに、付き合ってみないかなんて、お試しの玩具のように扱われて。打算目的で自分を見下ろす冷たい黒い瞳からずっと離れたかった。好きになんて絶対、ならなかった。なるわけがなかった。

「……ああ。あんなきたねえ大人の打算でオレみたいなガキ一人を搾取しようとする人間なんて、心底願い下げ。少なくともオレは、あんな大人にはなりたくねえ」

「ふうん」

「で、なんだよ。何を言わせたいんだお前は」

「だ、そうですけど?」

「ん?」

エドワードは戸惑った。彼女は入ってきた時とは打って変わって元気な様子で、少しだけ開いていた扉に向かって声をかけたからだ。そこには誰もいないはずなのに。そう、誰も。ん?よく見ると何か、影が……

「もう入ってきてもいいですよ!マスタングさん」

「──────、……ほあ?」

 

そりゃぁもう、変な声が出た。

その時の衝撃を、エドワードは一生忘れないと思う。

なぜなら、きいぃと地を這うような唸り声を上げて開かれた扉からのそりと出てきた黒い男は。

『ありがとう、嬉しいよ』

そういって優しく微笑み、落ちたな、とエドワードを見下しながら雄弁に語った漆黒の瞳を持つ男──エドワードの表面上の恋人──ロイ・マスタングその人だったからである。

しかも、今まで見たことのないほどの蒼白な顔で、立ち尽くしたまま。

 

 

 

 

 

 

 

「鋼の」

部屋に入ってきた男──今現在エドワードとお付き合いなるものをしているロイ・マスタング大佐は、長身の体をふらりと揺らした。

「さっきの話は、本当か」

──図られた!

ばっと立ちあがり、ウィンリィに顔を向ける。はめられた、まんまと幼馴染の思惑に。

ウィンリィは、それはそれは綺麗な笑みを浮かべていた。それこそ大輪の花が咲くような笑み、だ。先ほどの消沈していた姿とは180度違う。大した演技力だ。

「て、てんめ……っ」

ふん、とそっぽを向いた幼馴染にエドワードは何も言えなくなった。というよりも、今ウィンリィに向かって怒鳴り散らすよりも対処しなければならない人物がいたのだ。一呼吸だけおいてから、目の前に立ちつくす男に視線を移す。茫然とした黒曜石と目があった。エドワードの苦手な目だ。なんてこった。これはあまりにも予想外すぎた。

「本当なのか」

「た、たいさ……」

平静を装おうとした声は残念ながら上ずってしまった。これでは動揺していることがバレバレだ。まずい、これは明らかにまずい。

「あの、その」

それ以上言葉が続かず、沈黙する。いつもは饒舌であるはずのマスタングも口を開く様子がない。たった数秒間で空気が倍以上に重くなってしまった。

「まったく……はいはい、あたしが説明します」

ずずいっと前に出てきた幼馴染の顔色は、立ちつくす二人と違ってとても明るいものだった。

「まずは謝る、ごめんねエド。勝手にこんなことしちゃって。あたしさっきの店でね、マスタングさんに詰め寄ったのよ」

「詰め、詰め寄った?」

エドワードの視線に気が付いた彼女は、ニヤっと口元を吊り上げた。

「うん、そう」

まるで、いたずらが成功したかのようなその笑みにエドワードは確信する。ああそうか。エドワードがウィンリィの様子にに感じていた違和感の正体はこれだったのだ。ようやく合点がいった。これは、笑いだしてしまいそうになるのを必死でこらえている噴き出す寸前の顔だ。

「このことをエドワードに言ってやるってね。そしたらこの人、エドは私に惚れているから私が何をしても何も言わない、もし仮にこのことを言っても、エドは黙って私を受け入れるだろうって言いやがっ……言ったのよ。あたし腹立っちゃって。だって、エドいっつもマスタングさんの話する時、いやっっっっそうな顔してたもの。付き合ってるなんて、何かの間違いだと思って。うん絶対間違いだと思って」

「いやっっっっそう」という部分に力を込めて、ずらずらと事の顛末を述べるウインリィの顔は澄んだ青空のように晴れやかだった。今日はあいにくと曇り……というかもう夕方なので、その対比にくらくらする。

「それじゃあ、実際エドに聞いてみましょうってなったの。エドがマスタングさんと付き合っているのか、仮に付き合ってたとして、浮気するようなマスタングさんをエドは受け入れているのかどうかって」

ねえ?とウィンリィがマスタングに片目を向けると、彼は何か言い淀み、言葉を発することなくきゅっと唇を閉じた。おかしい、てっきり怒涛の如く責め立てられると思ったのに。やはり最初に見た時の蒼白さといいどことなく顔色が悪いようにも思える。死人とまではいかないまでも、青白い……ような。

「まあ、実際聞いてみたら?本当にエドはマスタングさんと付き合ってるって言うし、あんたもマスタングさんの浮気とか、ちゃんと受け入れてるものね。エドにとってマスタングさんは、ま───ったく興味もなくて、どうでもいい存在だから」

「……ウ、ウィンリィ」

もうバレてしまったことなのだから止めようもないのだが、エドワードは思わずウィンリィを止めた。エドワードの目の前にいる男が今にも倒れそうな程にふらりと傾いたのが見えたからだ。

しかし、彼女の暴走は止まらない。エドワードを大事な家族として扱ってくれる情の熱い幼馴染は、ことさらエドワードのこととなると容赦がない。ねちねちと言葉の隅々にまで皮肉やら侮蔑を込めて暴言を吐き捨ててくる。それはもう、マシンガンの如く。

「結局はあたしの負けってことよね、まあでもいいわ!エドは別にマスタングさんと、好、き、で!付き合ってるわけじゃないらしいし。まーそうよね!こんな顔だけの性格性悪で腹黒な大人なんてエド好きにならないわよね!ぜんっっぜんエドのタイプじゃないし!あースッキリした!」

「好、き、で」「ぜんっっぜん」の部分もまた殊更に強調し、くるっと踵を返しさっさと帰り支度を始めるウィンリィにエドワードは口が開きっぱなしだった。言葉の通り、ウィンリィはたいそうスッキリとした顔をしていた。可愛い顔がさらに可愛くなっている。

「じゃああたし帰るね、まだ買ってない工具とかあるし。またねエド、そのうちマスタングさんはエドに飽きるだろうから……ああ飽きるっていうか、エドが元の体に戻ったらエドが捨てる?まあどっちでもいいわ。最終的に別れることは確定なんだから。年頃になったエドに興味あるって同年代の子結構いるから今度紹介するわね、どっかの誰かさんみたいに歳も取ってなくて好青年で若くて強くてカッコよくてエドとかなりすごく最高にお似合いでエドのどタイプみたいな子……あの、邪魔だからさっさとどいていただけませんか、すごく邪魔、ほんと芋虫みたいに邪魔」

前者はエドワードに、そして後者は未だ扉の前で棒立ちになっているマスタングに向かって放たれた。肝が冷えた。芋虫に対して失礼だろう……っていやいや違う、マスタングはウィンリィが明言するようにそこまでクソな男ではないが、自尊心だけは山のように高い。そんな彼にそのような敵意剥き出しの態度を取れば、もしかしたらウィンリィにもよからぬ被害が及ぶかもしれない。しかしそんなエドワードの不安をよそに、マスタングはウィンリィに対して何の反応もしなかった。ただひたすら、部屋に敷かれているカーペットを凝視しているようだった。そのうち穴があきそうだと思った。

「後は好きに二人で話してね。アル、ほら行くよ!」

「え、あ、うん」

「え?!」

マスタングを押しのけながらのウィンリィの一言に、エドワードは、いつのまにか帰ってきていたアルフォンスが扉の外で待機していたことを知った。

「ア、ぁああアル!?」

「ご、ごめーん姉さん……」

ちょこんと覗く鋼色の頭。大きな鈍色の手が、扉を所在なさげに掴み心配そうに此方を見つめていた。一体いつからいたのだろうか。もしかして、マスタングと共に扉の外でエドワードの吐き出すマスタングに対する悪口やら毒やらを聞いていたのだろうか。ウィンリィのことだ、あり得る。ということは、最初から最後まで。

「私が引っ張ってきたのよ、ちょっとおもしろいことになりそうだから来てって」

「ちょ、ちょっとウィンリィ……確かに面白かったけど」

「え、あの……ちょ、お前……」

「じゃあね。あ、マスタングさん、さっきの人待ってるって言ってましたよ、はやく連絡してあげたほうがいいんじゃないですか?」

ばったん。嵐のような勢いで閉められた扉。

無情にも、がっしょんがっしょんと遠ざかってゆく足音。

本当に帰ってしまった。

暴風雨に晒された後に残るのは晴天。だがここは室内なので、どんよりした空気だけが白々しく残っているだけだった。

怒涛の展開にろくに言葉を紡ぐこともできなかったエドワードは、同じく口を閉ざし、閉められた扉の側ででくの坊のように立っている一応は恋人に視線を向けた。

「あの、大佐」

「……」

「あの~~」

マスタングは先ほどから一言も発しなかった。怒りもしない。なんだか、表情にも覇気がないような。

てっきりよくも私を馬鹿にしてくれたなと憤慨し詰め寄ってくるものだと思っていたのだが、いつもは我が物顔でエドワードを扱ってくる男は珍しいことに部屋に入ったところから一歩も動かなかった。それどころか固まったまま動かない、彫像か。不思議とどこか愁傷にも見えてエドワードは逆に身構えてしまった。

「──大佐?」

何かが妙だ。訝しげに声をかけると、マスタングは大きな体をほんの僅かだがびくんと震わせた。思わず体を引く。なんだ?こんな恋人(表向きは)の姿は初めて見た。相手がしゃべらないため仕方なく口を開いたはいいもののそれ以上の言葉が出てこなくて困った。何をどういえばいいのかがわからない。

「だ、大丈夫か?なんか具合悪そうだけど」

とりあえず、体調面を心配してみる。しかしマスタングはやはり答えない。どうしたものか。逃げるわけにもいかず、視線をうろうろと彷徨わせていると。

「鋼の」

「お、おう」

男がやっと口火を切った。

「さっきの話は、本当か」

「さっき、て」

「君の話は、全部聞いていた」

──ああやっぱり!

エドワードは思わず天を仰ぎそうになった。

幼児愛好家だの駄目な大人だの気色悪いだの見習いたくないだのもう弁明のしようがないほどにありったけの罵詈雑言を吐き捨ててしまった。今のところ怒っているような印象は受けないが、プライドの高いこの男のことだ、その実腸が煮えくりかえっているのかもしれない。いや、きっとエドワードの本心を知って怒りを通り越して殺意を覚えているのかもしれない、きっとそうだろう。

軍人として冷静で冷淡な部分はあるが、残忍な男ではないことは今ならわかっている。案外普通の男だ。しかし、自分に惚れてたと高をくくっていた女が自分を見下していたと知ったらどうなるか。

エドワードのことなど意にも解さなければそれでいいのだが、今の状態を見ているとそれなりのショックは受けている様子だ。このままだと資格を剥奪され、さらには軍法会議にかけられ拘束されてしまうかもしれまい。そうなれば、あれよあれよといううちにアルフォンスはどこかの研究所に引き渡され、エドワードは重罪人としてさっさと銃殺刑だ。どうする、どうする。

このままこの国にいるのは危険だ。逃げるか。

「鋼の」

そうだ!アルフォンスを連れて国外逃亡をしよう。かくなる上はそれしかない。リンに頼み込んでシンに行き、そこで賢者の石の研究をしよう。大国であるシンにまで亡命すればさすがの軍でも追っては来られないだろう。

いやでも、そうなったらリゼンブールが危ない。弟以外に、ウィンリィやばっちゃんまで人質に取られたらもう成す術は……

「鋼の!」

そこまでつらつらと逃亡の段取りについて頭を巡らせていたエドワードは、マスタングの大きな声に弾かれたように顔を上げた。びくりと、目に見えて怯えたエドワードに、マスタングは僅かにたじろいだように見えた。おかしい、なぜ驚いたエドワードに驚くのか。しかも一歩どころか二歩ほど引いたエドワードに向かって所在なさげにすっと手を出し、さ迷わせてから、また下げるという謎の行動を何回か繰り返している。奇妙すぎて傍によりたくない。年端もゆかない娘に怒りに任せて手を上げることはさすがのマスタングでも躊躇うのだろうか。そう思えば、少しだけ混乱していた思考が落ち着いた。

「……私は、怒ったりはしない」

「え」

「君の資格を剥奪したり、アルフォンスに危害を加えたりも、しない」

「は?」

「だから、本当のことを言ってくれ。私は君の本心が知りたい」

呆けたようなエドワードの視線から、マスタングは逃れるように横を向いた。露骨な逃亡だった。今まで彼がエドワードから目を背けたことなど一度もなかったのに。そこでエドワードは気づいた。マスタングは激高しているのではない、動揺しているのだ。何に?エドワードが、自分を好きではないと知って?

「嘘だろ」

「嘘じゃない、本当だ」

「本当の本当?」

「ああ、私は何もしない……そんなに、私は君に、君たちに危害を加えるような男に見えるのか」

「あ──っと、いや……」

言葉が濁る。本当は、エドワードにだってわかっている。国外逃亡などと一瞬は考えたが、エドワードやアルフォンスの命を奪うなどはこの男はしない。おふざけのような「交際」ではあったが、マスタングが意外と良識人であることも今は知っている。ただ、それなりのたしなめというか、よくも騙しおって小娘め、と手痛い制裁くらいは食らうかもしれないとは思っていた。

「あ──、ちょっと思ってる」

それに、女に関してマスタングはてんでだらしがない。情報を得るために繋がっている女も数多くいるだろうが、元来女好きな性分なのだろう。エドワードのことも手籠めにし思うがままに操っていると思い込む思考回路の持ち主なのだ。そう思えないというのが無理な話だ。

エドワードの一言にマスタングの頬が引き攣った、ように見えた。

「え、あ、ごめん」

申し訳ないとは微塵たりとも思わなかったが、つい謝る。

「いや、いい……いやそうではなくて」

ふー、とマスタングが大きく息を吐いた。長いため息だった。なんだか一気に年を取ったように見える。怒り過ぎて疲れてしまったのだろうか。

「……何も、しない。私は君たち姉弟が不利になるようなことは。だから正直に言ってくれ──頼む、から」

「は?」

びっくりした。頼む、だなんて。

これまで、マスタングがエドワードに向かって何か頼みごとをしたことがあっただろうか、いやない。

彼らしからぬ言動と行動にうろたえていると、ここでようやく初めてびたりとマスタングと目があった。今まで見たことがないほど紳士的な瞳だった。恐ろしいまでに真っすぐだ。口元はいつもの張りつけたような笑みもなく、一文字だ。彼なりに緊張しているのが手に取るようにわかった。

「わ……かった」

引き寄せられるように頷く。ここは正直に話したほうがよさそうだ。散々悪口を言った手前今更弁明などできるはずもないだろうし。

エドワードの態度に、マスタングはしばらく視線を逡巡させた後意を決したように顔をあげた。

「聞きたいことが、いくつか、ある」

「……うん」

「私と、付き合った理由は」

​「アンタに告られたから、それが命令だと思ってたから」​

「本気だとは、」

「思ってなかったよ、だって本気じゃなかっただろ」

「……」

「アンタが打算でオレに近づいてたことには気づいてた。当たり前だろ、オレを見下す目がそう言ってた。自分に惚れるように仕向ければ駒として扱うのが楽だ、ぐらいに考えてたんだろ?」

「そ……うだと思うか」

「違うのか?オレが正直に話すんだからアンタも正直に話せよ。もう一度聞くぜ、違うのか?」

「……」

「だからオレは大佐に従ったんだ。そうじゃないと別の方法で手駒にされると思ったから」

マスタングは答えなかった。少しだけ泳いだ目。それが答えだ。

「オレ、従順じゃなかった?なるべく逆らわないようにはしてた……つもりだったんだけど」

「いいや、君はすごく……私のために、動いてくれていた。私が触れても、君は、逃げずに」

「だろ?耐えることだけは得意なんだよ」

そこだけは自信を持って断言できる。深く頷く。オレはよくやってきたと思う。3年間泣き言一つも漏らさずに。

「……」

「大佐?」

「好、きでもない男に触れられて、よく耐えられたものだな」

「まあ、タダ飯の対価だと思えば」

それだけが唯一の救いだったとも言える。確かに飯は美味しかった。特に肉系に外れはなかった。最初は入るのもはばかられるような洒落た店なんかに連れていかれもしたが、付き合いが長くなるにつれ旅から旅の連続のエドワードに少しでも体力をつけさせるためか、普通の店でがっつりとした食い物を腹いっぱい食べさせてくれた。そんな彼の少しばかりの良心には感謝している。

「……、す、好きでもない男とよくキスができたものだな」

「え?そこは気合で」

「……」

「いや正直言うと何回か吐きそうになったけど、臭くて」

やべ、つい本音が。積年の恨みが出た。でも確かに女物の香水の臭いはどうしても耐えられなかった。怒られるかな、と首を竦めたがマスタングに怒る気配はなかった。それどころか彼はますます俯いてしまった。石に押し潰されているみたいだ。あれ、こいつってこんなに縮こまってた奴だったっけ。

「……​最後だ」

想像していたよりもずっと小さな声だった。本当にどうしたのだろうか今日は、覇気がなさすぎる。

「お、おう」

「君は、私のことが……好きか」

「全然」

頬を掻きながら答える。ここまできたらもういいかと思って即答してしまった。

当たり前だ、自分のことを好きでもない男をなぜ好きになれるのか。

と、ここで予想外のことが起こった。ぐしゃりとマスタングの顔が歪んだのである。これには驚いた。は?と呟いてしまった。まさに目が点だ。あのロイ・マスタングが、泣く子も黙るロイ・マスタングが、軍の左官として上に立つ指揮官のロイ・マスタングが、子どものように泣き出す一歩手前のような顔で座り込んでしまったなんて。

「た、大佐?なに?え、どうしたんだ」

崩れ落ちるようにへなへなと地面に座ったマスタングに、いよいよ具合の悪さが最高潮になってしまったのかとかけよる。

「大佐?おい」

勇猛果敢なこの男が地面に手をつくなんて滅多にないことだ。これはただ事ではないとマスタングの肩を支える。

細かな振動が手のひらに伝わってきて彼が震えていることを知った。もしかしたら熱でもあるのかもしれない。額に触れるためそっと手を伸ばそうとしたら手首をがしりと掴まれた。強い力だった。

「ひゃっ」

「わ、」

「え」

「別れるか」

ぱちりと瞬く。

「なら、別れるか、私と」

「え、いいの??」

びしり、と腕を掴んできたマスタングの手の力が増した。

──それは願ってもいない提案だった。3年間今か今かと待ち望んでいたお別れの言葉に顔が輝く。

きっかけは唐突だったが、マスタングのこの愁傷な態度から見るに少なからずエドワードに対して悪いとは思っているはずだ。ということはあれだけの罵詈雑言を浴びせたエドワードは無罪放免のまま、マスタングとの恋人関係を解消できることとなる。つまり、これで悶々とした日々とはおさらばということだ。

これで、やっと自分を女として見ないマスタングと離れることができる。駒としてエドワードを扱おうとするマスタングと関わらなくて済む。マスタングに対する失望と軽蔑と嫌悪に苛まれなくて済む。もう、振り回されなくて済む。他の女の臭いをまとわりつかせたマスタングに傷つかずに済む──傷つく?

「オレはもちろんいいぜ。じゃあ円満にってことで。あ、鍵とかいつ返せばいい?今手元にあるからちょっとまっ──」

さっそくトランクの中を漁ろうと立ち上がったら、捕らえられたままの腕を強く引かれた。

 

「……よくない」

 

地を這うような響きだった。勢いよく顔をあげたマスタングに睨みつけられる。

「いいわけあるか」

「え、は、なんで」

じりじりと詰め寄ってくるマスタングの怒りに満ちた形相に数歩後ずさる。が、すぐさま強い力で引き戻された。彼にこんなに乱暴に扱われたことなど今まで一度もなかったので、少しだけ怯えてしまう。

「確かに私は君を、利用しようとした、そのために君と付き合おうと思った、初めは君をそのような対象としては見ていなかった。だが、だが」

「何いって……って、おい離せ、腕千切れるッ」

「私は、君以外の人間に部屋の鍵を渡したことなんてないんだ」

「へ?そうなのか?」

「食器だって、他の日用品だって、君の分だけを揃えていたんだ」

それは寝耳に水だった。本気で大事に想っている人間には渡せないものなのだろうか。まあ確かに殺風景だったしな、お世辞にも女受けする部屋とは言い難いし。そこそこ部屋数はあるにしろ、わりと普通のアパートだし。軍の高給取りなんて噂されてる男だから見栄くらい張りたいよな。せめて一軒家とか。哀れみを込めて頷く。エドワードのためにと揃えていたものだって、ままごとのお付き合いにそれっぽさを出したかっただけのことだろう。それくらい改めて言われなくともわかる。

「いや別にもうそんなことどうでもいいけど、鍵返すし…」

「……私は君と別れないぞ」

「はあぁ?なんで」

これにはさすがに引いてしまった。というかマスタングの勢いに飲まれてしまった。言っていることが無茶苦茶すぎる。あれだけ愁傷に怒らないからなんて言ってたくせに、結局はこうして怒りに満ちた顔でまだエドワードを利用しようとしているのか。なんて奴だ。
​「アンタなあ、いい加減にしろよ。男とも女とも見分けつかねえような女なんていい加減捨て時だろ」

「、違う」

酷い言葉に身に覚えがあるのか、マスタングが痛そうな顔をした。それはオレのほうだっつーのに。これにはエドワードもさすがにキレた。

「何が違うんだよ、オレがもうこりごりだって言ってんだよ。恋人が待ってんだろ、さっさと連絡取ってホテルでもなんでもしけこんでこいよ!」

「私の恋人は君だ」

「じゃあさっきの女はなんだっつーの!少なくともお相手さんはアンタのこと恋人だって思ってんじゃねーの?」

押し黙ったマスタングに畳みかける。

「あのさ、別にアンタに何人女がいようとどうでもいいから、恋人なんて履いて捨てるほどいるんだろ?別にアンタと付き合わなくとも駒ぐらいにはなってやるからもう別の玩具見つけろよ。もう十分オレで遊んだだろ、なに、まだ足りないの」

「違う!」

びりびりと鼓膜まで突き破るような大声に驚いた。いつも飄々としているあのマスタングが、怒鳴った?というか、キレた?

「な……にが違うんだよ、オレはもう解放されたいんだよ」

「玩具だなんて、思ったことはない!」

「は?最初はそう思ってたくせに!」

「……君になんと言われようと別れない、私は別れるつもりはないぞ!」

「だからしつけえな、なんでだよ!オレはアンタのこと好きじゃないって言ったろ!」

瞬間的に激高した男にぐん、とさらに腕を引かれた。殴られる、と一瞬だけ思った。けれども気が付いたら目の前には張りの効いたシャツがあった。ごわごわした布が顔に当たってふが、と豚のような声をあげてしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

いつのまにか立ちあがっていたマスタングに抱きすくめられていたからだ。しかも今までのような羽を啄むような優しい接触ではない。かき抱くような、どこにも逃さぬよう腕の中に閉じ込めるようなそんな激しい抱擁だった。こんな風に抱きしめられたことなど今まで一度もなかった。鼻の中にまだギリギリ恋人関係の男の体臭が入り込んでくる。いつものように他の女の臭いはしない。ある意味で慣れ親しんでしまった臭いだったから不思議に思った。なんで?と考えてから納得する。そうか、ウィンリィと真相を確かめるとか言ってここに乗り込んで来たんだもんな、今日は例の女性とホテルに直行はしなかったのか。こいつ、今日はオレを優先したのか、そっか……そう思えば、自分を包み込んでくる腕の温かさも、マスタングの匂いも嫌なものだとは思わなかった──なぜ、だろうか。

 

「私が……君に惚れてるからだ!!」

 

 

「え」

耳に入ってきた言葉に目を剥いた。それどころか目玉が飛び出るかと思った。いや嘘だろ?

「え、は」

「私は……君が好きで!」

「え…は?ちょ」

聞き間違いか?今オレに惚れてるとかなんとかよくわからない単語が聞こえた気がした……と恐る恐る逞しい腕の中から逃れようとすれば、さらに強く抱きしめられた。ぐえっと潰れる。密着しすぎて息をするのも大変なくらいだった。少しだけ湿った呼気が耳元で震えて、それがマスタングの吐息であることも信じがたかった。だって、マスタングのこんな荒々しい呼吸なんて聞いたことがない。

「……きだ、好き……ッ」

「な、ななななんだ、なんだよ」

いつもの軽い台詞では決してなかった。そこらへんの女の肩を抱いて甘く囁くような愛してるよ、とは温度も違う。

「別れたくない!君が好きだ……君が私を嫌いでも、君が好きだ!」

柔らかくはない、むしろ激しい。しかしその必死さに彼の全てが詰まっているように感じられた。

「本気で、好きだ、……大好きだ……!」

搾り取るようにかき抱かれる。耳に心地よい低音が体の中に入ってきた途端、ぽっかりと空いた穴が全て満たされていくようだった。

何が大好き、だ。子どもか。しかしそんなムードもへったくれもない幼子のような叫びに、確信できるものは確かにあった。

「出だしを間違えたことは謝る、君への気持ちを認められなくて、浮気をしていたことも、謝る。全て私の勘違いだったこともわかった。わかったから、もうしないから、二度としない、だから……!」

顔を見なくともわかってしまった。3年間もこの男と付き合ってきたのだから。服の隙間からちらりと見えたマスタングの耳たぶが赤くなっているのがその証拠だ。

こいつ、本気だ。本気でオレに惚れてやがる。マジか。

──正確に理解してから、ぶわっと顔全体が熱くなった。顔だけじゃない、身体中が熱くてたまらなくなった。触れ合った所から心臓が飛び出してしまいそうなくらいの勢いだ。どくどくと鼓動がうるさい。さすがのエドワードでもわかった。自分の身体が今にも踊り狂ってしまいそうなときめき、これは歓喜だ。喜びだ。

なんてこった。オレは今、マスタングに告白されて泣きたくなるほど喜んでる。そんな馬鹿な。

自分で自分の気持ちを疑いたくなった。だって信じられない。よりにもよってこんな男を?嘘だろ?一体いつから?もしかして初めから?

だから最初に告白された時、裏切られたと思ってショックだったのか?好きな人、だったから?そこらへんにある石ころのような扱いを受けて、悔しかったのか?哀しかったのか?

そんな馬鹿な。

「……は、え……アンタオレのこと、好き、なの」

「ああ……好きだ、すき」

嘘だろ?あのマスタングがオレに惚れてる?今でも信じられない。こんなに必死になって、別れたくないとオレに縋り付くほどに?オレのこと駒としか見て来なかったやつがなんで?いつから?全然気が付かなかった。だってマスタングはオレのことなんて好きじゃないって言いふらしていたし、女遊びも止めなかった。オレなんて女じゃないって嘲る態度ばかり。デートと呼べるほどでもない逢瀬なんて東方司令部に立ち寄った時の年に数回ぐらいで、彼の家に行ったことも数えるぐらいしかない。同じベッドでなんて寝たこともない。いつだってエドワードは客間だ。こんなんで本気で惚れられてただなんて誰が信じられるか。

「い、いつから」

「……確かに、最初は利用するつもりだった。でも気が付いた時には……」

「女遊び、しまくってたじゃねえかよ」

「、だから、謝る……君の気持に胡坐をかいていたんだ……」
「オレ、アンタの家に行った時いっつも、客間だったじゃん」
「本気で手を出したくなるからだ、未成年にそんなことできるか……謝る、謝るから……」

 

いやその未成年にキスとかしてたじゃんアンタ、と突っ込みそうになったが、好きになって貰えるよう頑張るから、別れたくない……と囁かれてしまえばもう何も言えなくなった。その声は今にも泣きそうで、惨めったらしかったからだ。

そしてオレも、気持ちに気づいてしまえばもう認めるしかなかった。

マスタングはエドワードが好きで。そして、エドワード自身もマスタングが好きで。

──なんだこれは。なんだこのバカらしい展開は。つまりあれか、最初は遊ぶつもりで手を出してみたけど、次第に本気になってしまって。で、後に引けなくなって今に至ると、そういうことか?

そしてそれに気づかず、オレはオレで一人で傷ついて?

「ふ……」

 

わなわなと唇が震え出す。今のエドワードが、自分を必死に抱きしめる現恋人に向かって吐き出せた台詞はたった一つだった。嫌悪感の代わりに増した、怒りと腹立たしさと憎らしさに最大級の愛を込めて。

「ふっざけんなよこのクソ野郎!絶対別れてやる!!」

積年の恨みは、とても深かった。

力いっぱい振り上げた膝は見事に男の急所にめり込んだ。

崩れ落ちた男に向かってもう一発とお見舞いした拳が鋼の右手じゃなかったことに、心の底から感謝して貰いたいくらいだった。

 

 

 

 

 

 

「バカよねあの二人、顔見ればお互い好き合ってることなんて一目瞭然なのに」

「まあね」

​「エドのタイプって昔から年上だったしねえ、ほっぺ真っ赤にして近所のお兄さんに懐いたり」

「まあ姉さんの本音聞いてだんだん顔面蒼白になっていく大佐は見ものだったけど、気は全然晴れないよね、よくも人の姉に……」

「大丈夫よ、簡単にハッピーエンドになんかなりゃしないから」

「そうかなあ」

「エドの性格わかってるでしょ?あれはかなり……根深い女よ。しかも結構拗らせてるわよ、傷つけられた分これからねちねちした嫌がらせを始めるわね、たぶん。あのねアルフォンス、女の初恋は重いのよ」

「……大佐、姉さんに謝り倒して口説き落とすまでどのくらいかかるのかな」

「さあね、でもそうね、なんだかんだ言って」

アルフォンスは、んーと背伸びをした幼馴染に視線を移した。

「あと1マイルとか、そのぐらいじゃない?」

「それは長いの?短いの?」

「全速力で走れば一瞬よ」

肩をすくめて笑う二つの影が、暗い夜道に伸びていた。

​悠遠まであと1mile

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