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​愛、キスの続き。

「私のものになりなさい」

昼下がりの執務室。椅子に座った男は、静かにそう言った。

「いやだ」

「これは決定事項だ。たとえ君が嫌がろうとも、この決定は覆らない」

「……ふざけんなッ」

湧きあがった憤怒のまま、机に置かれていた紙の束を腕で振り払う。

ぱらぱらと散った紙の隙間から、感情の見えない男の顔が見えた。

それがなお一層腹だたしくて、エドワードは悲鳴のような声を上げた。

「オレは、アンタのものにはならないッ……」

 

3年前、エドワードがまだ12歳だったころ、この場所で、この男に乱暴された。

その時のことはよく覚えている。忘れるはずがなかった。

報告書を提出するために来ていた東方司令部。男と自分以外誰もいない執務室で、いつも通り報告をしていたはずなのに、気が付いたら床に引き倒されていた。

わけもわからず目を白黒するしかないエドワードに対して、押し倒した張本人はいきなり、『抵抗しなければ、優しくしてあげよう』と残酷な言葉を口にした。

まずされたことは、機械鎧である右腕の破壊。とは言っても、実際破壊されたわけではなく、接合部分の神経が走る部位を男お得意の焔で焼かれ、無理やりもぎ取られた。

ぶちぶちと、神経を身体から糸のように引き抜かれる痛みにエドワードは大きな悲鳴を上げてもんどり打ったが、男は手を止めなかった。それどころか、些細な抵抗すら許さないとでもいうように痛みにのたうつエドワードを床に押し付け、腕を引き抜いた。

何故このようなことをされているのかが理解できなかったエドワードは、痛みで途切れそうになる思考を叱咤しながら身体全体で抵抗した。

そんなエドワードを、男は拳で殴った。抵抗を止めるまで、何度も何度も。

容赦のない大人の力で打ち据えられ、ぐらぐらと揺れた視界に映ったのは、男の、心からの嬉しそうな顔。

こんな酷いことをしているのにも関わらず笑顔を絶やさない男に、エドワードは心からの恐怖を感じた。

 

―――狂ってる。

 

殺すのか、と問うたエドワードに、男は笑って、愛してあげるんだよ、と言った。

その後のことはもう、思い出したくもない。

ひどく痛む頬と下腹部。立ち上がろうと少しだけ力をこめれば、どろりとした何かが腹の奥底から溢れ出た。

それが男に吐き出されたものだなんて、考えなくともわかる。

放心するエドワードの体をふきながら、投げられた男の言葉はより鮮明だった。

『エドワード、私のものになりなさい―――愛してあげよう』

その言葉を聞いた時、面白くもないのに笑いが込み上げてきた。なんて、傲慢な男なんだ、と。

そして引き攣るように喉を震わすたびに子宮から零れ出る男の残液が、ひどく惨めだった。

 

それから男との、惨めで屈辱的な関係は続いた。

エドワードの秘密を守り、弟の身の安全を確保する代わりに体を求められれば、エドワードに抗う術などなかった。

マスタングは契約だと言ったが、これは立派な脅迫だった。

男はエドワードの都合など一切考えずに、いつもエドワードの体を好き勝手に扱った。

どんなにエドワードの体調が悪く熱が出ていようとも、男はエドワードを貪ることは止めなかった。

少しでも拒否しようものなら、いつでも飛んでくる拳に、いつしかエドワードも抵抗することを止めた。

自分を暴力的に抱く男に、情など湧きようもない。

男に蹂躙されるたび、男に口づけられるたび、ひたすら憎んで憎んで、憎んできた。

次第に男の暴力が無くなり、『愛してあげよう』が『愛してくれ』に変わるようになっても。

エドワードのマスタングに対する心が、変わることはなかった。

 

いつか全てが終わり自由の身になった時、真っ先に男を糾弾してやる。

そう思うことで、ずっと狂いそうになる自分を抑え、耐えてきた。それなのに。

 

「誰が、アンタと結婚なんかするかよっ」

生身に戻った右手で、己の服の裾を掴む。返上した銀時計の話があると言われてきてみれば、唐突に籍をいれるように言われ、目の前が真っ黒に染まった。

「オレは、もう鋼の錬金術師じゃない、ただのエドワード・エルリックだ!アンタの狗でも駒なんでもない。もうアンタの命令は聞かない」

「それは間違いだよ鋼の。君の秘密は私が握っている。君は一生私の狗で在り続ける、死ぬまでな」

「――――」

「私のものになりなさいエドワード。いつまでも駄々を捏ねるようなら、私にも考えがあるぞ」

そうだな、まずは手始めに、アルフォンスか。

声色を変えることもせず、心底どうでもいいことのように、放たれた言葉。

瞬間的に湧き上がったのは確かな憤怒だった。

しかし、次の瞬間にはそれは掻き消えた。

生身の右腕がダラリと下がる。

変わりに訪れたのは、怒りだとか、憎しみだとか、そんな安っぽい感傷ではない。

湯水のように体の奥底から溢れてきたものは、ただひたすらの、虚無だった。

「なんで、だよ……」

しわがれて、弱弱しい声。喉がからからに渇いていた。

「なんで、なんでだよ、なんでオレなんだよ」

まるで自分のものじゃないくらいに、震える声。

「アンタ、国軍大佐だろ。アンタに惚れてる女、沢山いるんだろ。より取り見取りなんだろ。なのに、なんでだよ、なんでオレみたいなガキにこだわるんだよ……」

それは、今までずっと、思ってきたことだ。

始めの頃こそ乱暴だったが、後半、特にエドワードがマスタングを拒まなくなった辺りから、マスタングが手を上げることはなくなっていった。

静かにしていれば、男が逆上することはない。エドワードは自分を殺し、ただひたすら人形のように抱かれ、マスタングが自分に飽きるのを待った。しかし男は飽きるどころか、エドワードをさらに求めるようになった。

乱暴ではないが強引に抱かれ、激しく中に注ぎ込まれる。

そんなことを、もうずっと続けてきた。

「なんで、なんでだよ、なんで……!」

限界だ、たくさんだ。これ以上は、もう。

 

「君だからだよ」

 

ふいに、頭上から落とされた言葉。

ゆっくりと顔を上げる。いつのまに傍に来ていたのか、黒く濡れたように光る海の底のような瞳が、そこにあった。

「君だからだ」

全ての感情を殺した瞳が、エドワードを見据える。

重く圧し掛かる、男の声。

エドワードは、捕食される寸前のような意識を、なんとか繋ぎ止めた。

唾を飲み込み、喉の途中で詰まった息を、ゆっくりと吐き出す。

「……オレは、アンタを好きには、ならない」

ままならない思考のまま、頭をゆっくりと降る。男の視線から逃れるように。

「アンタのものにはならない、なれない―――絶対に」

殴られるかもしれないと思った。しかし、唇は震えることなく動いた。

始めてここで犯された日のことを、昨日のことのように覚えている。

忘れられない。あの時感じた、体中を苛む恐怖を、痛みを。そして、男に対する憎しみを。

いくら男の態度が軟化しようが、変わらない。今だって、男に近づかれただけで体は小刻みに震えている。あの時の光景が、頭の中一杯に広がって、侵食してゆく。

自分ではどうしようもない。それだけが、エドワードの唯一だ。

「―――わかった」

一拍の間の後、降ってきた言葉に思わず顔を上げれば、眼前に広がる、無骨な指先。

鍛えられた、男の手。

何度もエドワードを打ち据えた、マスタングの大きな、手。

 

――――殴られる。

 

反射的に閉じた視界。条件反射のように固くなる体。

しかし、次の瞬間ふわりと香った男の体臭に、目を剥いた。

抱きしめられている。そう理解した時には、さらに力を込めて抱きすくめられ身動きが取れなくなっていた。

目の前に広がる青。大きな体に覆い被さるれるように抱きすくめられ、エドワードの体が強張った。

マスタングは怯えるエドワードを気にすることなく、折れんばかりに腕に力を込めてきた。

「は、離せっ」

なんとかマスタングの腕の中から逃れようと体を捻るも、強い力で抑え込まれ、全く抜け出せる気配がしない。

それどころか、抱え込まれるように抱きつぶされ、かかとが地面から浮き、動きを完全に封じられる。

まるで、エドワードの全てを奪うように。

ますます濃厚になる男の匂い。エドワードが苦手な、男の愛用しているコロンと、少しの汗の匂い。

それは、エドワードにいつもの情事を思い出させた。

あの、指の一本でも抵抗することすらが許されない、苦痛の時間。無遠慮に体じゅうを這いずり回る、男のざらついてぬめる舌や、固い指先。

瞬間的に襲ってきた恐怖に、背筋が、急激に冷える。―――いやだ。

「離せっ!離せ……!」

いやだ、いやだ。もう沢山だ。もう自由になりたいんだ。

力の入らない指先で、エドワードは男の軍服の胸元をなんとか掴もうとした。

しかし、固い素材に瞼を擦られ、ちりとした痛みに視界がぶれる。

「私のものにならなくても、いい」

痛みは聴覚を刺激し、耳元で男の声になった。

「私が君のものになろう」

「――――」

きっぱりと言い切られた言葉。耳朶に吹き込まれたテノールに、エドワードの体の全ての機能が凍る。

「君が私のものにならない代わりに、私が君のものになろう、死ぬまで」

思考も、呼吸も、止まる。

エドワードは抵抗をやめ、目の前に広がる暗い青を凝視した。



 

男が、エドワードのものになる?

なんだそれは。

何を言っているのか、この男は。

なんだそれは。

―――馬鹿じゃ、ないのか。



 

飲み込むことのできない酸素が、喉に詰まり、ひゅ、と苦しげな音をたてる。

視界が歪む。突き刺すような痛みが、じわりと鼻の奥を刺激する。目を開けていられない。

痛みに押し出され、溢れたものが、布に染み込み広がる。

目の前の青が、じわじわと濃紺に変わってゆくのを、エドワードはどこか他人事のように見ていた。

―――どうして。

「アンタ、は、それでいいのか……」

苦しい、声を出すことすら、今のエドワードにとっては一苦労だ。

エドワードが吐き出した小さな声は布に吸い込まれた。しかし男の耳には届いたらしい。ぴくりと揺れた体が、その証拠だ。

―――どうして。

まるで見えないなにかにぎりぎりと締め付けられているかのように、胸が痛い。

そこから派生した痛みが体全体に響いて、指先にまで染み渡る。

震え、押し返す力もなくなった指先が、かり、と虚しく濃紺に皺を作る。

「いやじゃないのかよ……」

―――どうして、この男はこうなのだ。

「オレは、アンタのこと愛さない……愛せないって、いってんだ。つらく、ないのかよ……苦しくないのかよっ」

締め付けられていた胸が、心が、本流となった激情に飲まれて、はじけ飛ぶ。

私が君のものになる、なんて。どうして。

受け入れて貰えないことなど、わかっているはずなのに。

「なんでだよ、なんで……!」

どうして、そこまで。

縋りつくように握り締めた指先は、男の服に、わずかに食い込んだ。








 

恐ろしい男だと、ずっと思ってきた。心の底から、憎いとも。

急に、無理矢理体を暴かれて。

悲鳴をあげた。何度も何度も。こんなことをするマスタングが理解できなくて、怖くて、許せなくて。

裏切られたと、思って。

やめてくれ、とすすり泣き懇願するエドワードを押さえつけ、その身を貪ってきた男。

何度も殴られて、突き飛ばされて、体には痣が絶えなかった。

朝日の昇るベッドの上で、エドワードの隣で眠る男の首に、手をかけてやろうと思ったことも数えきれないほどある。体の奥を揺さぶってくる男に命令され、その広い背中に腕を回した時、そのまま刃物に変えた右手で心臓を突き刺してやろうとも。それなのに。

「オレは、無理だ……っ」

いつから、だろうか。

エドワードの白い肌に浮き出た赤紫色の痣に、懺悔するように何度も口づける男から、目が離せなくなったのは。

抵抗をやめ、男の言いなりになったエドワードを犯しながら、顔を歪める男を見るのが苦しくなったのは。

人形のように抱かれ、疲弊し、張り付いた髪を振り払う気力もないエドワードの髪を、優しい手つきですくうその指先に、心の奥底が締め付けられそうになったのは。

血の味のしない、苦い口づけ。その数が多くなれば多くなるほど。

ただの恐怖というのには浅く。

怒りというのには脆く。

困惑というのには遠い。

痛いほどに寒くて熱い、どうすることもできない感情に、翻弄された。

「無理なんだ、もう、苦しいんだ……!」

ただひたすら、ロイ・マスタングという男の存在が、哀しい。

惨めだった。あれだけ非道なことをされたのに、愛してやりたいと、少しでも思ってしまう自分が。

それでも、どうしても愛してあげられない自分が、どうしようもないほどに、苦しくて。

マスタングが、哀れでならなくて。

もう沢山だった。男に愛を乞われるのも。それに答えることができないことも。

なにもかもが、いやだった。

「離せよ!オレは、オレにはもう、無理だ……っ」

なぜ、自分なのだろうか。なぜ、ここまで執着されなければならないのか。

そう問うたエドワードに、君だからだと、迷いなく答えた男。

エドワードがマスタングに何かをしてやった記憶はない。ただ彼の推薦を受けて国家資格を取った。それだけだ。それだけの関係だった。それなのに、マスタングの視線はいつもエドワードに向けられている。

エドワードが視線を逸らし、他に目を向けることを良しとしない。

マスタングの恐ろしいまでの執着が、感情が、エドワードの歩みを妨げる。

自分は、きっと死ぬまでそれに答えてやることができないのに。

自分の存在のみを求められる。それは、とても簡単でいて、それでいてとても罪深い。

エドワードには、耐えられなかった。

「もう、終わりにしたいんだ……!」

悲痛な叫びが、狭い室内に響き渡る。

長いとも短いともいえない沈黙。震えるエドワードをじっと抱きしめていた男は、ゆっくりと口を開いた。

「苦しい」

ぽつりと落とされたその一言に、エドワードは口を歪める。

「君に見て貰えないことが、つらくて、苦しい」

「……なら、もう、やめてくれ。解放してくれ」

「それでも、手に入らないよりはましだ」

「もう、沢山だ。もう、」

「できない」

手のひらで顎をすくわれ、上を向かされる。

深い漆黒の瞳が近づき、齧りつくように口づけられる。

「ん…ふっ……んん」

水で溺れる者が、あらんかぎりの力で酸素を求めるように。

エドワードの全てを食い尽くすように、唇を求められる。

滲む視界。力づくでおしこめられた舌先が、歯を割り裂き、緩く粘膜を吸う。

「う、ふっ……う、ぅ」

角度を変えながら、奥に奥に侵入してくるそれ。

かき回され、溶かされ、喰らい尽くされる。吐息も、希望も、理性も、何もかも。

もう何も残っていない。そう思えるほどに、全て、この男に奪われてきてしまった。

「は、ん……」

舌が、ぬるりと出ていき、マスタングの唇が端を舐めながらそのままエドワードの頬にうつる。

瞳から零れ出たものをざらりとしたそれで舐めとられる。

「い、やだっ……」

一滴たりとも残すまいと這う舌に、男の執拗さを肌で感じて、背筋が震える。

顔を捻りながら、マスタングを押しのけようと、僅かに動かせる両手で男の体を押し返そうとするが、次の言葉でそれは止まる。

「エドワード、抵抗しないでくれ。君を、傷つけたくない」

そういいながら震える吐息を吐き出す男に、心の奥底がしん、と凍った。涙が、また零れ落ちる。

「私のものにならなくてもいい。私が君のものになる。だから側にいてくれ。抵抗しないでくれ。離れないでくれ」

重く苦しい言葉が、淡々と、しかし確実にエドワードの体にのしかかる。

「君が私を受け入れないのなら、私はどこまででも非道になる。私を受け入れるまで、何度だって君を殴り、犯す。それができる男なんだ、私は」

エドワードの顔にキスを落としながら、男は静かに言葉を紡ぐ。自虐的でもなく、事実を述べるように、淡々と。

「だからエドワード、私を、拒むな」

真っ直ぐに、エドワードを見降ろす闇の色。

震えもしない、男の声色。マスタングの中で、今言ったことは全て決定事項なのだろう。

エドワードを苦しめてまで、自分のものにしようという、暗く、固い決意。

なんて傲慢で、身勝手な想いなのだろうか。

マスタングの言葉通り、きっと、これからもエドワードが拒めば、その拳は容赦なく振り降ろされるのだろう。エドワードめがけて。

エドワードを逃がさないために、支配するために、服従させるために。

もしも逃げ出そうものなら、きっと。

霞む視界の中、マスタングが再び顔を近づけてくる。

再び、塞がれる唇。

塩辛さが口内にじわりと広がって、エドワードは目を閉じた。

―――ああ。

一体、どこの誰が言ったのか。口づけは、幸せの味がすると。

涙の味しか、しないじゃないか。

床に散らばった書類の上に強引に横たえられながら、エドワードは震える指先の力を、抜いた。













 

マスタングは、狂っている。

この男は、エドワードに狂っている。

人が人に狂う様を、エドワードはかつてこの部屋で、身をもって体験した。

そして、それは今も続き、終わることなくエドワードを苦しめている。

しかし、マスタングは気が付いているのだろうか。

エドワードに手を上げるたびに、その手のひらも赤く腫れ上がっていることを。

エドワードの体を切り裂くたびに、男の心も切り裂かれていることを。

覚悟をもってエドワードを苛めば苛むほど、マスタングも、深い海の底へと沈んでいっていることを。

それとも、それでもいいと、思っているのだろうか。

どちらにせよ、終わることのない哀しい連鎖が、飽きることなくエドワードとマスタングを包み込んでいることに変わりはない。

 

エドワードは、覆い被さってくる男の背後に広がる、白い天上を見つめた。

美しく輝く白い色。全てはここから始まった。

エドワードの視界が、黒く染まるのはもうすぐだ。

いつか、この哀れな男からの口づけが、苦しくなくなる日が、くるのだろうか。

血の味も、涙の味もしない、ただひたすらの、幸せのキスが降ってくる日が。












 

それはきっと、どちらかが破滅した時、なのだろう。

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