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「マーメイドになりたい」
「は?」
長く深い口づけから解放され、エドワードがため込んだ唾液を飲み下し吐息を吐き出した時だった。

目の前の男が妙なことを言い出したのは。
「マーメイドって……人魚?」
「ああ、人魚だ」
なんてことなく、いたって普通の顔のまま言葉を返した男をまじまじと見つめる。
よくみると目の下に少し隈がある。執務室に入った直後に抱きすくめられ(というかのしかかられ)、有無を言わさずソファに押し倒され唇を貪られていたため気がつかなかったがもしかしたら徹夜明けだったのかもしれない。

固い椅子に寝そべり列車に揺られながらも爆睡してきたエドワードは、マスタングの白い額に生身の手のひらを乗せてみた。いつもと同じ、少しだけ冷たい彼の体温。

熱は、ないみたいだな。
「別に、疲れているわけではないよ」
「嘘つけ、隈すげえぞ」
心配を行動で示すエドワードがおかしかったのか声を出して笑われ、いささかむっとする。

こちらは心配しているというのに。旅に出ていた間殆ど連絡を取れずじまいだったことに少しの罪悪感を感じていた。赤い石の情報が入ってきたのは西部のど田舎で、アルフォンスとあまりの自然豊かさに顔を見合わせたほどの土地だった。働かざるもの者滞在するべからずと言った団結力のある村人達にコキ使われ大変だったというのに、よりにもよって電話は村長の家に一台しかなく、しかも常にお年を召した村長の奥方がいるときた。

人前で恋人の甘い声を耳元で囁かれて平静を保っていられるほど、恋愛慣れしたエドワードではない。申しわけなかったが、ここ一ケ月マスタングの声をろくに聴けなかったのである。

マスタングの部下の一人である金髪の軍人いわく、ここ一ケ月、案の定彼の機嫌は酷いものだったらしい。そんな理由もあっての今の現状だ。

離れていた恋人の頭の中身が心配にもなるのも、当たり前のことだろう。

「オレは心配してんだぞ」

「わかっているよ、すまない」

笑いながら首に顔を埋められたものだから、細やかな呼気が皮膚にかかりくすぐったい。
「ちょ、おいっ」

背後にまわされた手に力がこもる。ますます密着する冷たい唇と、熱い吐息。じわりとした拘束から逃れようと身を捩れば、さらに強い力で抱きすくめられた。しかしそれもすぐに弛緩する。エドワードが逃げないと判断したためだろう。
「ああ、エドワードの匂いだ」
すう、とエドワード首筋周辺の空気を吸い込んだ男は、満足げに吐き出した。
「……変態くさいぞ、アンタ」
ぞわぞわと、首の皮膚を通して沸き上がってくる何とも言えない熱を押さえ込むように冷たく言ってみれば、君にだけだ、とこれまた一途な返答が返ってきた。背筋がかゆくなるようなくさいセリフを吐かれるのはいつものことだが、慣れたとはいえ、やはり気恥ずかしさはぬぐえない。
「んで、なんだよ」

少しだけ赤くなってしまった顔を隠すように、マスタングにそっと身を寄せた。

短く切りそろえられた、さらさらとした髪からただようふんわりとしたコロンの香り。

久しぶりにかいだ男の匂い。エドワードが一番落ち着く香りだ。
「あんた、なんで人魚になりたいって?」

どうせ下らない理由なんだろ、とエドワードが軽口をたたくと、「ずっと、君のことを考えていたんだ」と思いのほか真面目な声色が返ってきておや?と思った。こういう時、マスタングはエドワードの軽口に合わせて優しく語りだすのが常だったからだ。
「……うん?」
少しの、不思議な空気。促すように軍服の袖をきゅっと掴めば、撫でてくれとばかりに大人は頬をすりよせてきた。無精ひげの、少しだけざらっとした感触。やはり徹夜続きだったのだろう。身支度を整える暇もないほどの忙しさだったのだろうか。

「それで?」

そんな恋人に苦笑して、望み通りに男の頭を撫でてやる。顔は見えないが、きっと目を細めているに違いない。
「もう、頭の中が君一色で、どうしようもないくらいで」
いちいち照れていたらキリがないので、静かに次の言葉を待つ。
「そしたら、マーメイドになりたくなった」

「まて」
思わず待ったをかけてしまった行動は間違いではないだろう。明らかにぶっとんだ話に、エドワードは男を撫でていた手を止めた。マスタングを静かに引きはがす。
多少疲れているようだが、男の表情はいつもと変わらない。そう見えたのだが。
「意味がわからない」
マスタングの妙ちきりんな発言は、今に始まったことではない。

この男は、普段はこの国の国軍大佐として冷静に物事を判断する切れ者で、その手腕は優秀そのものであるのだが、たまに不可解な言動や行動をとる時がある。

部下達いわく、エドワードの不在に伴い男の思考回路も一般的見解から遠ざかる、らしいのだ。初めは、そんなことと取り合っていなかったのだが、こうも噂が耳に入れば嫌がおうでも信じざるをえなくなるというものだ。

エドワードが旅に出ている間夜中にエドワードを求めてパジャマ姿で外を歩きまわっていただとか、時間がある時はエドワードの写真を一日じゅう眺めているだとか(どこで手にいれたのか)、エドワードが触れた物を集めてコレクションにしているだとか、エドワードに似せた人形を作り毎日話かけてるだとか、暇さえあれば空想のエドワードと会話しているだとか、エドワードを褒めた下士官を左遷したなどなど。嘘が誠かわからないような噂の数々にさすがのエドワードも困惑した。(ちなみにコレクションの件は本当だった。隠し扉の奥に集められていたそれに気が付いたエドワードが全て焼却させた。下士官の件ははぐらかされた)。
今回、エドワードが東方司令部を離れていた期間は、約2か月だ。前にエドワードが旅のため男から3か月ほど離れ帰ってきた直後は、有無を言わさず速攻で家に拉致され拘束(というなの監禁)を受けた。耐えきれず部屋から出ようとするとめそめそと嘆き挙句の派手には半狂乱になる男を置いてはいけず、食事と用を足す以外はベッドの上で過ごすはめになった。解放されてからもしばらくは足腰が立たず、ろくに歩くこともできず散々な目に合わされたのも記憶に新しい。
だからこそ、今回も前回と同様に何日間か人権を剥奪されることをわりと本気で覚悟していたのだが、司令部に着いた瞬間自宅に連れ去られるわけでもなく、おかえりと抱き締められソファでキスを迫られるという存外普通な対応に拍子抜けした。やはり一部の噂は噂にすぎなかったのだと、つい先ほどまで安堵していたのだが。

「君のことを考えていたら、マーメイドになりたくなるだろう、普通」

さも当然とばかりに返された言葉に軽い目眩を覚える。だめだ、やはりとち狂っていやがった。

執務室に向かう途中ですれ違った大人達がエドワードを見た瞬間、救世主がきた!とばかりに顔を綻ばせ喜んでいたのも納得だ。理解不能な上司の相手は、部下もきっと大変だったに違いない。
「なんねえよ普通、っていうかなんで人魚なんだよ」

こめかみを抑える。男の口からマーメイドという言葉が出てくることの違和感には目をつぶろう。
「君はマーメイドを知らないのか」

「アンタ馬鹿にしてんのか、綺麗な声で男を誘惑するっていう想像上の海の化け物だろ」
「見も蓋もないね」

小さい頃、父親の書斎にあった本に乗っていたマーメイド。長い髪を風に揺らし岸壁にその身を横たえ、ぽかりと空洞のような瞳を開き、ぞっとするような笑みを浮かべたまま美しい歌声で船を沈める魔性の化け物。海を実際に見たことがないエドワードにとって、その姿はとても印象的だった。
「で、なに。マーメイドになりたいって、アンタ男を誘惑したいわけ」
「恐ろしいことを言わないでくれ」
さもおぞましいことを聞いたとばかりに顔を歪めた男は、急に引き剥がされたことが不満だったのか再びエドワードに抱きついてきた。片時も離れる事を許さないとする力強い腕を振り払う気にもなれず、諦めて体の力を抜く。好きにさせておこう。
「人形は、魚と人間の半分だろう」
「う、ん?」
「魚はエラ呼吸、人間は肺呼吸だ。つまり、その狭間にいるマーメイドはきっと、間を取ってエラで酸素を取りいれて口から放出できる」
「…………はあ」

―――ダメだ、もう理解できない。

そもそも伝説上の生き物の呼吸方法などを大真面目に語っている今の現状が理解できない。

錬金術師は科学者だ。この男も科学者だったはずなのに。なんだって人魚などというファンシーな物の話になっているのか。
「もし私が人魚になって君を海に引きずりこめば、君は息ができなくなって、死ぬ」
「おい、まて」
急に訪れた不穏な空気に思わずまったをかける。場の空気的にあまりにも不釣り合いな死、という単語に、まじまじとマスタングを見あげる。至近距離にある彼の顔は先ほどと代わらず穏やかだが、静かに揺れている。

暗い海の底のような漆黒の瞳にじっと見降ろされて、ぴ、と背筋が伸びた。脳裏に浮かんだのは、マスタングの大きな手によって海の中へと引きずり込まれる自分の姿だ。水しぶきをあげ、伸ばした手すら月に届かず静かな波紋に沈んでゆく。食われる。本能的に、そう思った。
「私はエラ呼吸ができるから死なない。エラから酸素を取り入れて、口からそれを放出することができる私は、君を救うことができる唯一の人魚だ」
「……」
「私の口から、君の中に酸素を送るんだ」

じわじわと冷えていく、背筋。しかしそれ以上に、それよりも目の前の恋人の頭が心配になった。エドワードを見ているようで、見ていない黒。今気がついたのだが、今のマスタングの瞳は、以前彼の自宅にかっ攫われた時と全く同じ色をしていた。

「……大丈夫か」

そっと、額に手をのせる。本日二度目。左腕は彼の腕ごと抱きかかえられているので、使えるのは機械の右手だけだ。これでは体温を測ることさえできやしないが、今のエドワードの狙いは熱があるかないかの有無ではない。

落ち着けと、言葉外に伝えたそれは届いているのかいないのか、固まったように張り付けられた笑みは変わらない。

「肺から吐き出された呼気には酸素も含まれるが少ない。とても苦しいだろう。だから君は死にもの狂いで必死に、深く、私と唇を重ねるしかない」
「あのさ」
おずおずと手を離す。先程からこれだけ密着しあっているというのに、服越しに伝わる彼の肌は水に濡れているかのように冷えたままだ。じっとエドワードを見つめながらしゃべる彼の視線に耐えきれず、下を向く。

が、ぐっと顎を捕まれ上を向かせられる。乱暴な動作ではないはずなのに、捕まれた顎から冷たい熱が肌にじわじわと染みてくるようだった。
「君は私と口を離せない。死ぬまで」
唇が、触れあいそうな距離。ぬるい呼気が唇にかかったと思ったら、ちゅ、と唇の形をなぞる様に浅く重ねられる。舌を絡めるでもない一瞬のそれは、いつもよりはるかに短い口づけのはずなのに、自然と息が切れた。

喉の奥が、絞られているかのように苦しい。

「あの、な、大佐」
何か言わなければと、喘ぐように口を開けば、マスタングの笑みが深まった。空洞のような瞳はそのままに、口角だけを釣り上げるその姿は、エドワードがかつて本で見た人魚の姿と酷似していて。

口内にたまった唾を、こくりと飲み込む。

「―――ひゃっ!」
しかし、そんな張りつめた空気は一瞬で途切れた。

脇腹にあやしく添えられた指先が、細やかに動き始めたからだ。

「こんな風に、私に体をくすぐられても」
「ちょっ、わ……っ!」
耳元に直接吹き込まれた甘い音色が脳内に響きわたる。かくんと力抜けてしまいそうになる体を叱咤し、慌てて身を捩る。しかし、服の上から体を這う指は止まらない。
「変なところを触られても、まさぐられても」
するっと下がったそれが、コート越しに臀部を不埒になぞり、さらにはその奥の、際どいところを掠めた。

「ひっ……おいコラ、変態!」

真昼間から、しかも人が行き交う職場でなんてことをしてくるんだ。そんな意味も込めて肩を叩いても、力はまったく緩まない。それどころかますます強くなる。

「舐められても、噛みつかれても」
見せつけるよう舌を見せてきた男に慌てるも、止める間もなく首筋をぬるりと舐め上げられて「ぎゃぁああ!」と大きな悲鳴が漏れた。もちろん、宣言通りに軽く噛み付かれもした。

「だぁああ!痕つけんなばか!せっかく人が真面目に心配したっていうのに……!」
「突っ込まれても」
臀部の割れ目をなぞっていた指が下がり、くにっと指先が浅く埋められて、びくびくと腰が跳ねた。いつも、酷使されている所だ。
「ちょっ、ふ、あっ」

じん、とした感触に甘い痺れが広がる。刎ねる体も押さえつけられて、まるで自分が魚にでもなったようだ。

「体が水にふやけても、魚に襲われて傷を負っても」
「大佐っ」

「体の一部が欠けて痛みに苦しんでも」
「ちょ」
「血におびき寄せられた虫に寄生されても、欠けた部分から水がしみこみ体が腐りはじめても、腐敗によって体がぱんぱんに膨らんでも、瞳が濁りはじめても、内側から溶け始めても、手足の肉がめくれあがっても」

―――はっと、抵抗を止める。気が付いた時にはもう、マスタングの顔は見えなかった。

「顔から皮膚が剥がれおちても、髪が抜けおちても、魚に体の肉という肉をついばまれても、露出した頭蓋骨すら微生物に分解させられはじめても、体が蝋のように柔らかく固まっても」

押さえつけてくる力も、もう強くない。それなのに、硬直したかのように体が動かなかった。
「君の魂が体から離れても、もう君の姿が肉塊ですらなくなっても、原形を留められなくなったとしても―――何が起きようとも」
マスタングが離れる。重さが消えた、はずなのに。腕が上がらない。重い。見えない水圧に押し潰されているかのように。ぱしゃんと、耳の奥に広がった水音に耳鳴りがする。深い深い、海の底にいるみたいだ。
「私とずっと、キスをし続けるんだ」
かさかさに乾き、薄く空いてしまった唇を、硬い指先になぞられる。長旅でささくれた唇の皮すらもいとおしむかのように、細胞の一つ一つを体に染み込ませるかのように何度も、端から端までを往復される。

「死ぬまで、いや、死んでからも」
細められた瞳は、眩しいものに遮られたかのように、遠い。
「ずっと、一緒だ」
ずっと一緒。だなんて、子供じみたセリフ。

誰よりも、命の軽さと重さを知っている人のはずなのに。

「鋼の、私は」
知っているからこそ、なのだろか。
「私は、―――マーメイドになりたい」

 

 

もう、軽口など叩けなかった。

マスタングに、どこか超えられない部分があることには気が付いていた。同じベッドで寝ていれば、魘されたように起き上がる。そしてエドワードが側にいることを確かめ、安堵し、縋りつくように抱きしめて瞼を閉じ、眠りにつく男の姿をもう何度も見てきた。震える腕を何度も擦り上げても、ずっと冷たいままで。

ずっと一緒だと思っていた母親は、呆気なく逝ってしまった。命は儚いものだと、マスタングは知っている。もちろんエドワードも。それでもきっと彼は自分よりも、もっと身近に、そして多くの命が燃え尽きるのを、その体一つで感じていたはずだ。


エドワードが旅に出ている間、眠れないのか、夜中に外を歩きまわっているだろう彼は。

エドワードの写真をずっと長め、側にいると自身に思い込ませているだろう彼は。

エドワードの存在を感じたくて、エドワードが触れたものですら捨てることができない彼は。

エドワードに似せた人形を作って、寂しさを紛らわせているだろう彼は。

エドワードとの記憶に縋りついているだろう彼は。

エドワードを奪われると不安になって、なりふり構わず行動する彼は。

司令官である時の彼とは程遠い、いや、それも全てひっくるめて、とても弱い人間であると。

 

「オレは嫌だね」

こぽりと吐き出した空気は、マスタングの顔にぶつかったらしい。静かに目を開いた男にむかって、胸の奥からふつふつと感じる湧き上がる怒りと憤りを、吐き出す。

「オレは、そんな長い時間アンタとキスなんてしたくない」

当たり前だ。だってそんな事をしたら、話すこともできなくなるし、食べることさえもできなくなる。周りの仲間達と手を取り合うことでさえも。何よりエドワードには叶えなければいけない夢がある。自分の足で前に進まなければならない理由がある。水の中に沈み込んで潮の流れにぽやぽやと浮遊しているわけにはいかないのだ。

それはこの男も同じだろう。部下を従え、上を目指さなければならない。過去の苦痛をその身に抱え、責任という名の真実に目を背けず、国という強大な力に立ち向かわかなくてはならない。

「生きるため。そんな理由のために、アンタとキスするなんでごめんだ」
マスタングが本当はわかっているということなんて、わかっている。
「オレはアンタが好きだから、アンタとキスしたいから、する」

薄く空いている唇に、自分のそれをぶつける。勢いあまって革のソファに倒れ込んだ男の上に圧し掛かる。

経験がほとんどない自分にとって、相手をリードするというのはとても難しい。今だってそうだ。自分から舌を差しだし絡め取るだなんてことはできない。技量もなにもない。幼い子どものように拙く唇を重ねる。でも、それでよかったと思う。真っ直ぐな気持ちを、相手に伝えることができるのだから。
「ん……」

艶めいた言葉など何一つ思いつかない。ここから、自分の溢れでる感情が少しでも伝わればいいと思った。

どのくらいそうしていただろうか。そっと、唇を離す。

目の前にある、エドワードの愛しい顔。その頬を、ゆっくりと包み込む。背中に回った逞しい腕に、力がこもった。

「そんなに、アンタが人魚になりたいっつーなら一緒になってやるよ。来世でな」
人間であれば、きっと人魚よりもはやく死に絶えてしまうから。

「オレは、アンタと生きたい。アンタと水の中で生きたい。水の中でも生きられる体を手にいれて、アンタと水中ライフ満喫したい。死んだオレの亡骸にすがらせるつもりなんてこれっぽっちもねえからな。一緒に生きて、生き抜くぞ」

随分と間抜けな顔をした男の上で、ふんぞり返る。わざと、口角を皮肉げに上げて。

馬鹿な事を大真面目に語る大人になんか、こんな表情で十分だ。同情なんて柄じゃない、労わるような、痛みにみちた顔なんて絶対にしてやるものか。

一緒に堕ちてやることのほうが簡単だろうけど、それを選んでしまったらエドワードは自分じゃなくなる。

それこそ、水にふやけて腐った死体そのものと成り果ててしまうだろう。

「水ん中じゃあアンタどうせ無能だろうからな。オレが死ぬ気で守ってやるよ」

生身の手のひらを、男の胸元に添える。マスタングの体を包む青い軍服は、天を突きぬけるような碧空の証だ。

決して、暗い水底の枷なんかじゃない。そう、エドワードは信じている。信じていたい。

「つーかよ、今から死ぬこと考えてどうすんだ。オレも、それにアンタも、生きてるのに」

とく、とく、と。静かに、そして確かに胸を震わす心臓の音が、手のひらを通して血管に入り込み、体全体に広がってゆく。身体が冷たかろうが、罪深かろうが、生きてる。それが全てだ。

「……ああ」

ずっと黙ってエドワードの啖呵を聞いていた男は、胸元に添えられたエドワードの手首を柔らかく掴んだ。

「そう、だったな」

ぎゅっと、手のひらを包み込んできたそれに力がこめられる。エドワードも軍服を掴む腕に力を込めた。しわくちゃになってしまったって、どうでもいい。今なによりするべきことは、たった一つだ。

薄くはった水面から引き上げるようにひっぱると、緩慢な動作ではあるが、マスタングは起き上がった。

「​君がいれば、きっと、水の中でも明るいだろうな」

穏やかに、空洞のように暗がりに淀んでいた瞳には確かに光が戻っていた。それを生気と呼ぶのかはわからないが、やっと、彼が、月の光差し込む水面に上がってきたのは確かだった。

随分と緩んだ頬を、力の限りつねってやる。いたいよ、と言いながらも拒む様子を見せない大人に、エドワードも自然と笑みが零れた。

「じゃあ来世ではよろしく頼む。私は君の後ろで縮こまっているとしよう」

「でかい魚が来たらアンタを盾にするからな」

「本当に?」

「嘘だ馬鹿」

二人顔を見合わせて、額を重ねる。そのまま優しく抱きしめられて、今度こそエドワードは全てを預けた。

ふってきた唇は相変わらず冷たいままだったけど。

痛いほどの体の重さは、すでにかき消えていた。

水のように流れてくるキスと、熱い吐息の合間に息を吸う。

喉を通り肺の奥まで染み渡るそれに、やっと全てが満たされたような、そんな気がした。

 

マーメイドが鰓肺呼吸

陽の光が届かないところになんて、連れてってなんかやるもんか。

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