魔
法
が
解
け
た
ら。
長い眠りから覚めた時。
決して解けることのない魔法をかけよう、と大佐は言った。
だから愛した。
「じゃあさっさとやってよ、オレはできないからさ」
自分でも驚くほどに、冷ややかな声色だった。
こんな冷たい声自分の口から出るとは思ってなくて、場違いにもついつい感心してしまうほどだ。
「もう直ぐでアイツが率いる部隊が突入するはず。たぶんこういう時に真っ先に先陣きるのはアイツだから、確認しなくても大丈夫だろ。わかってると思うけど黒髪の男だからな、間違うなよ。まあ、アイツも迂闊に焔だせねえと思うぜ。ここは粉塵舞ってるし、焔を出すとしたらまず俺の姿と位置を確認してからだ。そこを狙え。入ってきたところでこの塵に紛れて囲めば、蜂の巣にはできなくとも、脳天に一発ぶちこめるんじゃねえの」
まあ保証はできないけど、と、後ろに縛られた手にゆったりと体重をかけ、一息にいい放つ。
両腕は欠けることなく無事だ。こんな鎖直ぐに外すこともできたが、オレはそれをしなかった。
捕まったのは不可抗力だが、ここまで逃げ出さないでいたのはわざとだ。どうしても、確かめたいことがあったから。
「まあどうしてもそれが難しいんだったら、オレを餌にしろよ。声明は出したんだろ?オレ子供だし、腐っても部下だから見殺しにはできないと思うぜ。オレは、アイツがどんな風に部下を誘導するのかわかる。だてに数年間部下やってねえからな。だからさ、アイツの目の前でオレの体のどこでもいいから傷つけて、焦ったアイツが出てきた瞬間予想もしてなかった死角から──ダダダダーン、だ。どう?」
ぽかんと、武装した男達がエドワードの言葉の羅列に唖然としている。
昨晩、あの人と散々体を重ねたのは他でもないオレだ。
二人して汗だくになって、体を絡めて、中にこれでもかというほどにぶちまけられて。
でも、そんな激しい夜を過ごしたことがウソみたいに、今心は凪いでいる。あの男がテログループに囲まれて、一瞬のうちに血を吹き出しながら倒れこむ姿を想像する。
たった一人の子どもを守るために、彼が命を落とす。オレを見つめながら、彼が崩れ落ちていく。
なんて焦がれる未来だろうか。でもわかってる、アイツがそんなヘマをするわけがない。決して訪れることのない未来、心の底から渇望しても無意味だ。けれども。
「なあ、どうする?」
オレの体を這いまわる、あの武骨な手。
容赦のない焔を繰り出すくせに、甘く優しく、激しくオレを求めるあの指先。そして、触れられたところから止めどなく溢れる、痛みに満ちた感情。
「時間がないんだ、さっさと決めろ。やるならオレも手伝うぜ」
彼の傍で生きていくために、無理矢理蓋をしていた感情があった。
身体の奥底で膨れあがり続けたそれは、幾度となく繰り返される魔法の言葉で消し去れるほど簡単じゃなかった。オレはちっぽけな子どもだ。蓄積された虚しさに見て見ぬふりできるほど、できた人間でもない。満たされない心に、体の全てが引きちぎれそうな痛みを覚える、弱い人間だ。
オレをそんなふうにしたのは、彼なのに。
オレに、魔法をかけてくれたのは彼なのに。
「何迷ってんだよ、焔の錬金術師をやれるチャンスだぜ?なあ、頼むよ。早くアイツを───アイツを……」
こんなこと、言ってはダメだ。取り返しがつかなくなる。他人にこんな恐ろしいことを提案できる自分が、怖くてたまらない。でも、もう自身の心を偽ることはできなかった。
こんな素人如きの寄せ集めテロリストたちじゃ、彼を傷つけることなんてできやしないってことも、わかっているのに。
でも、それでも、だからこそ。
突き放されるくらいならいっそと、思ったんだ。
魔法が解かれる前の、今ならば。
もしもこの時、オレが背後の気配に気づいていたら。
聞かれているなんてわかっていたら、こんなこと言わなかったのに。
後の祭りだと気づいた時には、オレは爆風と共に地面に叩きつけられていて。
衝撃にくらくらする重い頭を動かした先で、黒い瞳に見下ろされていた。
爆風にたなびく青い軍服が、場違いなほどに鮮やかで。
こんな時だというのに、見惚れてしまった。
───アルフォンスごめん。お前を置いてきた上に、こんなこと仕出かして。
オレは本当に自分のことしか考えられない、大バカものだ。
決して解けない魔法をかけよう、と彼は言った。
だから愛した。
****
「エドワード」
「ふっ……ぁ、あ、あ、ん」
「愛してるよ」
男に望まれるままに、足を開く。
求められることがこんなにも嬉しいと、何度も自分に言い聞かせながら。
「君は?」
「あっ、ぁあ、……」
軋むベッドに揺られながら、ただひたすら従順に、体の奥を強く穿たれる感覚を受け止める。
私の前では素直な君が可愛いよ、なんてキザな台詞を、いつまでも覚えているのはオレのほうだけなのだろう。彼にとっては、きっと言い慣れた言葉に過ぎないのだから。
「君は?」
覗き込んできたのは、情欲の灯った瞳。ぎちりと、繋がった部分が熱くなる。
薄らぐ視界で見つめ返す。たとえこの一瞬だけだとしても、その熱い焔を絶やしたくない。望まれるまま、男の望んでいる言葉を口にする。
「おれ、も」
魔法の言葉を、口にする。
「おれ、も、愛してる」
すっと男の瞳が細められた。あ、くる。身構える間も無く大きなグラインド。圧迫感が強くなる。苦しくて、気持ちいい。
「大佐、愛してる……好きだ、すき」
「ああ、エド、エドワード。愛してるよ」
───嘘つき。愛してると言うのなら、どうしてオレを苦しめることばかりするんだ。
オレに魔法をかけたくせに、オレに、信じさせたくせに。まだ、信じているのに。信じたいのに。
「あ、おく、奥……っ、ぁあ、あ、ふか、ふかいぃっ……」
口にはできない言葉を飲み込み、嬌声に変える。
切なげに喉を鳴らせば、深く深く繋がされた。体いっぱいに男を感じ、体の内側から、彼一色に作り変えられていく。体が裂けていくようだった。たまらず縋り付く。いつものように抱きしめ返されて、触れ合った頬が切なくなる。
満たされているはずなのに、苦しい。
この固い手が、この匂いが、この優しい顔が、この逞しい身体が、甘い吐息一つでオレをここに縛り続けるこの男が、憎くてたまらない。
身体を巡る、熱い快感が瞬く間に呪詛に変わる。その呪詛に蓋をして、魔法の言葉を口にする。自分の心を守るために。この言葉を口にできている間は、悲しいことなんて何も起らない。
心がどんなに、崩れていったとしても。
「大佐……愛してる、よ」
私もだ、と顔で笑った男に、口づけられる。教え込まれたまま口を開く。我が物顔で、口の中に絡みついてくる湿った舌が気持ちよくて気持ち悪い。吐きそうだった。心地よい快楽と、胸に突き刺さる虚しさがどんどんと増していく。相反する想いに苛まれながらも、離れていく厚い舌を必死に追いかけてしまう自分が嫌だ。
どうしてオレは、こんな風になってしまったんだろう。
いつからだ、離れられなくなったのは。
いつからだ、弟すらも置いて、この男に会いにくるようになったのは。
いつからだ、弟よりも、この男を優先したいと思うようになったのは。
いつからだ、体を重ねてる瞬間だけは、弟のことを忘れられると安堵するようになったのは。
いつからだ、全て投げ出してしまいたいと、この男に縋りつくようになったのは。
いつからだ、彼がいなければ何もできないと、心の全てを預けてしまうようになったのは。
いつからだ。
「エドワード」
オレを呼ぶ、この苦くて甘い声に包まれたまま、眠りにつきたいと願うようになったのは。
いつからオレは、こんな人間になり下がってしまったんだろう。
決して解けない魔法をかけよう、と彼は言った。
それからもう、3年の月日が流れていた。
****
大佐の機嫌が悪いこと。それは何よりも耐えがたいものだった。
一言で表すと「恐怖」。突き放されることがとても恐ろしかった。
今まで縋り付いていた全てが、終わってしまうような気がして。
「悪かったって。いや、だってコイツら長らく追ってたお尋ねものだろ?」
味方になる振りでもすれば、一網打尽にできるかと思ってさ。
なるべく不自然にならないよう、ん~と背伸びをする。軋み、震え始めた体には見て見ぬふりをした。
けれども、いつものように笑ってみせても大佐の顔は晴れなかった。それどころか、より一層顔から温度が消えた気がする。その顔は苦手だ。見ていたくなくて、へらりと手を払う。
「なんだよ、怖い顔して。っていうかさ、オレごと吹き飛ばすなんて酷いじゃん。傷ついたらどうしてくれんだよ、嫁にいけなくなるだろ。なに、アンタ貰ってくれんの?」
引き攣りそうになる頬を小生意気に歪めてみせる。大佐はまだ、笑わない。
笑ってよ、と手を伸ばす、が、その腕をぱしりと掴まれた。明確な拒否だ。静かに、足場から世界が崩れていく感覚に飲まれそうになって、怖い。
「いってぇよバカ、離せって」
力を込めても、手は離されなかった。時間が立つにつれ、したたか打ち付けた背中が悲鳴を上げ始める。じんじん、じんじんと、苦痛が大きくなっていく。骨折れたかも、なんておどけて見せれば、初めて大佐の表情が強張った。
「なんだよその顔は。大丈夫だって愛してるぜ大佐」
冗談めかして、精一杯の笑顔を見せたつもりだったのに、大佐を纏う空気が一瞬にして変わった。
ぶわりと、何かが吹き荒れたようにも見えた。
喉が凍り、背筋も凍った。おかしい。いつもなら「愛してる」とさえ囁けば、優しく抱き締めてくれるのに。私もだと、頭を撫でてくれるのに。
「たい、さ」
オレの怯えが伝わるたび、無表情に徹していた大佐の表情筋がひび割れていく。
どうしてだろう。愛してる、は魔法の言葉だ。どんな苦しみからも守ってくれる強い盾だ。安らぎと嘘に満ち溢れた歪な関係が、これからもずっと続いて行くために必要不可欠なもの。
それなのにどうして。何故、効かない。
「たいさ、あのさ」
「自覚は」
「え」
「自覚はないのか」
「は?なんの」
首を捻れば、ますます大佐の眉間の皺が深くなった。それはもはや歪みに近かった。黒々とした瞳が大きく広がっていく。ぞっとする。見たことない顔だ───怒ってる。
不機嫌ともまた違う。大佐が怒っている。公衆の面前で、オレに対して、怒っている。
「た、いさ……───や!」
有無を言わさぬ力で引っ張られた。つんのめるように歩かされる。冷静を振舞っていた思考が、一瞬にして弾け飛んだ。いやだ、こわい。今の大佐はいつもの大佐じゃない。
愛を誓えば優しく愛を返してくれる、大佐じゃない。
「来たまえ」
「はな、離せよっ」
「話がある」
話がある。単純でいて、心を凍り付かせる静かな一言に唇が青ざめた。足先から震えてくる。
「やっ、やだ、いやだ離せ……!」
必死に足に力を入れ、歩くことを拒む。が、それすらも許して貰えなかった。
どんなに抵抗しても大佐の力は緩まない。掴まれている手を叩いても離れない。体格差に成す術もなく、どんどん引っ張られていく。もとより、地面にしたたか打ち付け、力の入らない不安定な両足では大の大人に敵うわけもなかった。
「大佐」
「中尉、その残党どもをぶちこんでおけ」
「ですが」
「いいから……大丈夫だ」
大きく広い背中を見上げる。
こちらには一切振り向いてくれない。大佐の顔が見えない。大佐の部下達の、哀れむような視線が視界を過ぎる。縋るように目を向けてもみな目を伏せるばかり。どうして誰も助けてくれないんだ。こんなに嫌がっているのに。こんなに、大佐は怒っているのに。
「乗りたまえ。手当が先だ」
「いやだっ、なんでっ」
がむしゃらに暴れたが無駄だった。背中を押され、開いたドアの向こう、車の奥へ押し込められる。バタンと背後でドアが閉まった。絶望が増す。
逃がしてくれる気なんてないんだ。
その瞬間全てを悟った。大佐は全てを終わらす気だ。かちかちと歯が噛み合わない。胸の奥底で溜まりに溜まっていた痛々しい感情が荒れ狂う。
「く、くるな!」
伸びてくる大人の手を拒み、這うように車の端に逃げ込んだ。
身を縮こませて、顔と耳を腕で覆い接触を拒む。もっと怒られるかもしれない、突き放されるかもしれない。それでもこわかった。拒まれることが怖かった。
「鋼の、話を」
「くるな、くるなよっ、話なんてない、聞きたくない」
「まずは手当をさせてくれ。あそこではできない」
「なんで、なんで、いやだ、怒らないで、怒らないでくれよ!」
「鋼の、落ち着け」
「違う、オレは違う、あれは、本気じゃ、ない!オレは……!」
黒く塗り潰され始めた脳裏にするべきことはすぐ浮かんだ。抵抗する自分を腕の中に囲おうとする大人に、自ら縋りつく。目を見開いた大佐に伸びをして、強く唇を押し当てた。こうすれば私の機嫌はよくなるよと、前に教え込まされた通り、薄く開いた隙間に舌をねじ込む。
「ん、ん」
音を立てて啜る。これをすればきっと。が、直ぐに引き剥がされてしまった。なぜ、と呆然とし、躍起になって大佐の唇の端から零れる唾液に舌を這わせる。
「……やめるんだ」
「ん、ん……いさ、たいさ、しよ、なあ」
「やめなさい」
鋭い一言と共に、頭を振ってオレから逃れた大佐に、愕然とする。
「ど、して……」
こんなこと、今までなかった。
どうして、どうして受け入れてくれないんだ。これじゃあ足りないのか。いつもしていることはことごとく拒否される。何が足りないんだ。これ以上何が。
視界が滲む。混乱する思考に、呼吸すらも断続的になっていく。血の気が引く。前が見えなくなる。自分が今、どこにいるのかさえわからなくなって。
「鋼の、聞いてくれ。私は」
いやだ聞きたくない。
心の中で叫び、大きな体に体当たりする。よろめいた彼に乗り上げるように、下半身に這いつくばり、顔を埋めた。
全く膨らんでいないそこを揉み込み、服の上に舌を這わせ、何度も舐める。土と、少しの汗、服越しに伝わる大佐の味。オレだけの、大佐の味。
「愛してる、大佐、愛して……」
愛し、愛されるためになんでもやった。大佐はオレが奉仕すれば喜んだ。
オレが嫌がらなければ、従順でいればいるほど大佐はオレを側においてくれた。だからどんなことをされても、何をされても受け入れた。咥えて舐めしゃぶって大きくなってから、オレの頭を固定して好きに腰を打ち付けるのが、大佐が特に好む行為だった。抉られる喉奥は吐きそうになるくらい苦しいし、顎が壊れそうになるくらい痛んだけど、大佐が喜ぶなら何度だって口を開いた。奉仕を要求されれば、どこでだって舐めたし咥えたし股を開いた。痛い時もあったけど耐えた。
見たいと言われれば大佐の前で自分を慰めもした。トイレでも、執務室でも、仮眠室でも、薄汚い宿でも、路地裏でだって。
異物を入れられて、何時間も放置されたことだってある。でも、最後は大佐が戻ってきて、頑張ったねと褒めてくれるから。ご褒美をあげようって、気持ちよく抱いてくれるから、なんだってした、何にだってなれた。頑張れた。
従順な君は可愛いね。
一生懸命に後を追いかけ、縋り付くオレの頭を撫でてくれる手のぬくもりから、逃れることなんてできなかった。
求めれば求めるほど、愛してると囁いて貰える。愛せば、愛される。魔法が強固になっていく。キスをしてくれる。オレの全てを許してくれる。包み込んでくれる。オレの望む大佐が得られる。オレの大佐がここにいる。
手放したくない、大佐を愛してる。オレだけの大佐がいなくなってしまったら、オレは。
オレは?
「やめなさい!」
大声に肩が跳ねた。と同時に肩を掴まれ上を向かされる。そこには、先ほどと何も変わらない険しい瞳があった。いや、それどころか、先ほど以上に皺が深く刻まれている。大佐の目じりも、僅かに赤くなっていて。
大佐の大声なんて初めて聞いた。機嫌が悪い時だって、許して貰えるまでじっくりいたぶられるだけで声を荒げられることなんてなかったのに。
「や、だよ」
よろける。これすらも拒まれてしまえばあとはもう八方塞がりだ。正解が見えない。でも見えたところでもうどうしようもない。大佐はきっと、決めてしまっている。
「なん、で」
そんなに怖い顔をして。オレを見るんだ。
「なん、で、のに……っ」
こんなに頑張ってるのに、ここまでしているのに。どうして。
「愛してるって、いってるのに……なんで!」
魔法をかけ続けているのに、なぜ。
何か、堪えきれないものを吐き出すように、大佐が低く唸った。近づいてくる大きな体。追い詰められ、そのまま乱暴にかき抱かれる。いつもは安心する大佐の匂い。でも今は背筋が凍るだけだ。肩越しに見えた窓の外に手を伸ばすが、少しも身動きが取れなくてドアノブを掴むことさえできなかった。こんなに骨が軋むほどの抱擁は、初めてだった。
「鋼の」
「き、聞きたくな」
「落ち着け、エドワード」
「あんなの、嘘だ、アンタを殺すなんて、そんなの」
「わかっている」
「……愛してる、愛してる大佐……ほんとう、ほんとうなんだよ」
「……」
私もだ、と大佐は答えてくれなかった。昨夜は答えてくれたのに。
もうダメだ、魔法が解けかかっている。終わりになってしまう
「た、たいさ……たいさ」
きっとこの震える体から、大佐にも伝わってしまっている。
大佐の命を奪ってしまいたいという願いが、本当は本心だったことも。
逃げることを諦め、大きな背中に縋りつく。
捨てられたその先を考えたくなくて、ぎゅっと目を瞑る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしない、しないから」
「鋼の」
「お、オレ、なんであんなこと言っちまったのか、ごめんなさい、オレ、オレ……!」
「落ち着きなさい、大丈夫だから」
「だって、だって!」
「大丈夫だ、……エドワード」
強く名を呼ばれた。大佐の腕に力がこもる。
いつものように乱暴に押し倒して貰えると思って、嬉々として背中に力を入れたが、一向にそうされる気配はなかった。
大佐は何も言ってくれない。長い時間、ただ強く体を抱きしめられるだけだった。情事の時よりも、もっと深く。
「た、いさ」
声を出すのも、恐ろしかった。でも、声を出さないのも恐ろしかった。
恐る恐る声をかける。頬をすり寄せてもすり返してくれない。
「オレを、て、手放す、の……?」
数秒、大佐は押し黙った。そして大きく肩を上下させて、ゆっくりと一呼吸。
「愛している……」
静かに耳に吹き込まれたのは、ずっと渇望していた言葉だった。でも、無意味な言葉の羅列でしかない。じわじわと胸に広がっていくのは温もりではなく虚しさだけだ。
───違う、望んだのはそんな答えじゃない。愛してるなんて、そんなの。
手放すと、同義じゃないか。
昨夜も、大佐は愛してるといった。甘やかな石鹸の香りをまとわりつかせて。
オレと会う前誰といたんだ。数年間蓄積された、聞けない言葉が痛みに変わる。
いつもなら最後まで我慢することができるのに、今はどうしても耐えきれなかった。
「……は、はは」
呼吸すらも震えて息が続かない。愛してる、数え切れないぐらい与えられてきた言葉に、もう重みはない。
いや、もしかしたら初めから重みなどなかったのかもしれない。ずっと気が付かなかっただけで。
それに今、気付かされた。
「嘘、つき」
さらに深く、肩口に大佐に顔が埋められた。大佐にしては雑な手つきで、大きく背を撫でられる。
嘘じゃないと、言い訳でもするつもりだろうか。
「嘘つき、大佐……オレ以外としてるくせに……オレだけの魔法使いだって、言ったくせに……!」
息を飲んだ男に憎らしさが増した。
関係の始まりを覚えているのは自分だけ。大佐はあんな子どもだましな台詞、忘れていると思っていた。
『君だけの魔法使いに、私はなれる』
今思い出したのだろうか、それとも覚えていたのだろうか。後者であったなら。どんなに残酷な人なのだろう。
脳裏の片隅にぽつんと残る記憶の蓋が、開き始める。
『大丈夫だ、私が君に魔法をかけるよ』
ここまでオレを弱くしたのは、アンタのくせに。オレをこんなふうにしたのは、貴方のくせに。
「ずっと、知ってた、オレ……ずっと。昨日だってわかってた」
3年前だ、大佐から魔法をかけられたのは。
『愛しているよ、エドワード。君だけを』
言葉と大きな体全てで、何も信じられなかったオレの唯一になってくれた。魔法をかけてくれた。蜜のように甘い魔法を。
頭が鋭く痛みだす。優しかった大佐の言葉たちが胸に刺さり、真っ黒な毒が溢れて心が痺れ始める。
『私が傍にいる限り、君は一人じゃない』
嫌だ。大佐の肩口に顔を埋める。息を吸えば大佐の匂いが肺いっぱいに広がった。いつもは安心する匂いなのに震えが止まらない。地面の底が抜けどこまでも落ちてしまいそうな恐怖に、視界が滲む。
「魔法、解かないで、頼むから……っ」
一人になりたくないと、嫌いにならないでと叫ぶ。大佐は何も言わなかった。ただ抱きしめ返してくるだけだ。
「ごめん、アル、ごめん……オレ、オレ」
弟の顔がよぎる。大佐に会いたくて、招集命令だってさ、そんな嘘を吐いてまで置いてきた弟。
今頃一人で、本でも読んでいる。オレを心配しながらも、オレに迷惑をかけまいと一人で待っている。もうこんなことをするのは何度目だろうか。弟はオレの嘘を疑いもしない。
例え疑われたとしても、オレは大佐のために弟を置いていくだろう。そんな予感がする。
オレは酷い人間だ。何よりも優先しなければいけないことは、弟の体を元に戻すことだというに、こんなになってもまだ大佐のことしか考えられない自分が嫌だ。死に物狂いで大佐に追い縋ろうとする自分が嫌だ。
弟が一番大切なのに、弟よりも大佐の腕に触れたい、溺れたい、抱きしめられたいと願ってしまう自分が嫌だ。
「解かないで、解かないで大佐、なんでもする、なんでもするからぁ」
ただ、大佐を愛してるだけなのに。
どうしてオレは、こうなってしまったんだろう。いつからオレは、こんな人間に成り下がってしまったんだろう。
誰よりも愛さなければいけない弟をないがしろにして、毎日を生きている。口ではいいことを言っておきながらも、罪よりも、償いよりも、大佐の傍にいられる方法を考える。
大佐と同じ青の空を見上げながら、全部忘れて、ずっと大佐と一緒に居られたらどんなにいいだろうと考える。
弟が隣にいる時だって、一人じゃないはずなのにいつも孤独だと怯えてしまう。
自分の意識の外側から、何かおぞましい化け物に追い詰められているような気がして、大佐を求めてしまう。
今だって、大佐の愛が潰えてしまう絶望に耐え切れず縋り付いてしまう。無様だ。最低だ。弟の体が黒い手に粉々に砕かれ消えてゆく夢を見ておきながら、泣きつくのはいつも大佐だ。
大佐に抱いて貰えないと寝られない。大佐から離れられない。大佐が傍にいないと何も見えない。
犯した罪も、過去も今日も明日も明後日も、弟も母さんも、ニーナさえも──ニーナ?
お兄ちゃん遊ぼう。
ぞっと、開いてはいけない記憶の蓋がぽっかりと開いたような気がして、かぶりを振った。
オレがニーナを、殺した。
オレがもっとはやくに気づいていれば、ニーナは死なずにすんだのに。
壁に散った、肉片と血液。自分の白い手袋がどんどん血に濡れて。黒い雨で、何も見えない。
「あ、あぁ、あ、ニーナ」
『君に、私の愛をあげたい』
「解かないで、お願い、と、解かないで……こわい、こわい」
『一人にさせたくないんだ。側にいたいんだ。君にもうつらい思いはさせたくない。私がずっと傍にいる』
「たすけて……助けて大佐、たいさ、ニーナが」
「大丈夫だ」
空気が薄い。苦しくて、慈愛に満ちた優しい大佐の声に縋りつく。
背に回った大佐の手に力が増して、鼻の奥がつんとした。
大佐が好き。それだけなんだ。離れないで、傍にいて、オレの愛を拒まないで。
大佐がいなければ。オレだけの大佐がいなければダメなんだ。
だって大佐が、オレを見つけてくれた。大佐だけが、オレを必要としてくれた。
大丈夫、大佐の傍にいれば怖くない。大佐はオレを守ってくれる。離れたくないんだ。大佐がいなくなってしまったら、暗闇に食い殺されてしまう。
大佐が全てなんだ。大佐が魔法をかけてくれたんだ、大佐は、オレが一人ぼっちにならないための魔法使いなんだ。オレだけの、たった一人の。
───あれ、一体どんな、魔法だったんだっけ。
「泣くな、エドワード」
大佐の一言で、オレは自分が泣いていることに気が付いた。嗚咽が零れる。一体いつから。記憶の扉から溢れた漆黒の靄が、だんだんと視界を覆い始める。
怖い、大佐に捨てられることが。愛してもらえなくなることが。魔法が解けてしまうことが。そうなってしまえばきっと全てが終わってしまう。全てとは何だろうが。わからない、頭が痛い。何か恐ろしいものが近づいてくる。父親にも、母親に愛されなかった哀れなオレに、弟に憎まれ続ける哀れなオレに、黒い悪魔が近づいてくる。
怖い、助けて。大佐が傍にいれば、大佐の魔法があれば、怖くないのに。
振り下ろされる金属。そぎ落とされた肩の肉。氷のように寒くて暗い部屋。
笑いながら駆け出すニーナ。鬼ごっこをした、あの庭で。似顔絵の描かれた画用紙。オレとニーナと、アルがいて。
見たくない、目を瞑る。大佐が、オレを──
「悪いのは私だ、君のせいじゃない……だから」
君が殺した。
一人ぼっちで可哀想なエドワード。直ぐ傍で暗闇が囁いた。これは、誰の声だろう。
「……泣かないでくれ」
大佐の声が震えている理由も、オレにはわからなかった。
****
「大佐、エドワード君は」
ノックは3回。副官であることはわかっていたので、振り向きはしなかった。
副官の声は、残酷なまでにいつも通りで、静かなままだ。
「まだ起きない。疲れていたのだろう」
「そうですか。アルフォンス君もここに向かっているそうです。明日の朝には着くかと。どんなことがあったのかは、詳しくは伝えておりません」
「ああ」
泣き疲れて腕の中で眠ってしまったエドワードを医務室に運び、手当をしてから日も暮れ、窓の外は暗がりだ。ぐっすりと眠っている。朝方まで無理をさせたからだろう。
そもそも、もう無理だと息も絶え絶えになっていたエドワードを抱き潰すことをしなければ、疲弊したエドワードが捕まることもなかった。全ては私のせいだ。
「大佐は、どうするおつもりですか」
「今日は、私もここに泊まる」
「そうではありません」
手厳しい物言いに苦笑する。が、笑みにはならなかった。頬が引き攣っただけだ。虚しさが体中に広がり、椅子から立ち上がることさえ危うい。エドワードもずっと、こんな気持ちだったのだろうか。
「どうすれば、いいのだろうな」
「答えはもう出ているのでは?」
きっぱりとした副官の台詞は、脳内で思い描いていた私の言葉と全く同じだった。
そう、答えは出ている。エドワードをこれ以上苦しめないために、私が取るべき行動の最たるもの。
決して解けない魔法をかけよう、と私は言った。
そうして彼女を手に入れたのは、もう3年も前になる。
初めて見た時から、この金色の少女に興味があった。ただ手に入れたいと思っていた。これまで経験してきたお優しい恋とはまた違う、勝気な瞳を歪ませて屈服させたい、そんな歪んだ劣情だった。
元より抱くつもりで家に誘った。エドワードは、静かに着いてきた。
精神を安定させるためだ、と飲み物にまともな思考を奪う薬も混ぜておいた。仮に激しく抵抗されたとしても、強引に体から落とせばいい、まだ12かそこらの子どもの性なんて簡単に引きずり出せる。予想通り、エドワードは驚くほどに素直に陥落した。
『君に、魔法をかけようと思うんだ』
『まほう?』
『そうだ、魔法だ。君が一生、一人ぼっちにならないための魔法。聞いてくれるかい?』
『え……』
ベッドに押し倒した時、用意していた言葉を囁けばぴたりと動きが止まった。
目を見開いた子供に、ほくそ笑む。そっと近づき、小さな瞼にキスをした。
落ちろと、残酷な祈りを刻み付ける。
この時のエドワードは、とても脆かった。
長く共に暮らした少女が、実の父親に合成獣にされた。そして、もっとも凄惨なやり方で殺された。
エドワード自身、なんら非の無い事件に巻き込まれ殺されかけた。石畳に座り込み、傷だらけで涙を流していた少女はとても幼かった。心身ともに疲弊している少女を手中に収めるなど、造作もないことだった。
『愛しているよ、エドワード。君だけを』
動揺し、震え始めた子どもが逃げられないよう優しく抱きしめる。小さな体を強引にベッドに縫い留め、瞼の上にエドワードを落とす言葉を吐き続けていく。逃がすつもりなど毛頭なかった。
『これが魔法だ。決して解けない魔法。私だけは、ずっと君の傍にいる』
『なに、いって』
『君を愛しているよ、誰よりも』
『なに、大佐、そんな嘘……』
『嘘じゃない』
『嘘だ、そんな、の』
『なぜ?』
『だ、って』
『だって?』
『……』
『話してくれないか』
『……オレ、は、愛されない、から』
『誰に……母親に?』
びくんと、エドワードは目に見えて狼狽した。予感が的中し、内心で笑う。
母さんは、オレを通して父親を見ていた。どんな会話の流れだったのか、いつだったかエドワードがそう零していた。少年のような態度で強がるその金色の瞳の奥に、酷く寂しそうな哀愁が秘められていたことには気付いていた。
予想が当たればあとは、使うだけだ。
母親に愛されていなかったのかもしれないという、怖れ。
犯してしまった、後戻りできない罪の重さ。
自分のせいで、弟の体を夜も眠れぬ鎧にしてしまったことへの罪悪感。
理想の母親を作り出すことができなかった絶望。
あんなに傍にいたのに、救えなかった小さな命。
理由もなく、身勝手に奪われそうになった自分の命。
死への、狂いそうになるほどの恐怖。
要素は十分だった。
エドワードは孤独に覆われた、愛に飢えた子どもだった。姉として、必死に弟に献身する彼女は庇護に飢えていた。守ってくれる大人がいないという事実は、利発で情の深いこの子にとって、どれだけの苦しみだろうか。うまくエドワードの恐怖をあぶり出せば、効率よく手に入れられると確信していた。
『大丈夫だ、私が今君に魔法をかけた。私が傍にいる限り、君は一人じゃない』
『ひと、り』
『そうだ、君は一人じゃない、私がいる』
『……魔、法なんて、ない』
『そうだと思うか?君だけの魔法使いに、私はなれる』
『あんた、科学者のくせ、に』
『錬金術では、人も、人の心も作れないだろう』
『どういう、いみ……大佐』
『等価交換なんて、私達の間には必要ない。そういっても君は信じないだろう?だから魔法をかけてあげるんだ。ほら、こうやって』
『わかんない、大佐、あっ……、なに、なにする』
『君はただ黙って、私に愛されていればいい。私には君だけだ。ああ、エドワード……愛さずにはいられない、こんな、可愛い君を』
『ひっ……!?や、め、やめて、』
『やめてしまったら、君は一人になってしまうよ』
『……、え』
『一人にさせたくないんだ。側にいたいんだ。君にもうつらい思いはさせたくない。私がずっと傍にいる。そうすれば君は一人にならない。なあエドワード、私に君の願いをかなえさせてくれ。そうすれば、決して解けない魔法をかけてあげよう』
君が、私を求める限り。
等価交換など必要ないと口にしておきながら、等価を強制する。この浅ましさに、熱と苦痛と、薬に侵されていたエドワードは気づかない。気づかせない。
『もう君を、一人にさせない。愛してるよ。だから私にこの身体を、開いてくれ』
『や、やめ、……こわ、こわい、どけッ、て、』
『怖がることはない、簡単だ。私を受け入れればいいだけだ。そうすれば君の願いを叶えてあげられる。いつか君が、弟に憎まれ一人ぼっちになったとしてもね』
『そ……』
『そんなことあるはずがない?私にはそうは思えない。君だって、本当はそう思っているんだろう……?』
『あ、』
『怖いんだろう、弟をあんな体にしたのは、君だものな』
『ぁ、お、オレ……オレは』
『わかるよ、だってこんなにも君を愛しているんだから』
『……ぁ゛ッ、いた、痛い……!?たいさ、いたい』
『痛いか、可哀想に……だから私が傍にいる。もう痛いことも起こらない』
『ぅ、ぁ、あ、いたい、し、したくない、や……あぁ、』
『困るな。我慢して貰わないと君を愛せない。愛したいんだ、エドワード。君は私に愛されたくないのか?いつか弟にも見捨てられて一人になった時に、私が必要じゃないのか』
『、あ、あ、アル』
『そう、君を恨み、いつか君を捨てる弟』
『ぁ……』
『君に、私の愛をあげたい。弟の代わりに』
『あ、い』
『そう、愛だ。エドワード、君がお母さんから貰えなかった、愛だよ』
『……ぁ、あ、母さん』
『そう、母さんだ……ニーナも、お母さんがいなかったね』
『……ニー、ナ』
『かわいそうに、もうニーナは大人になれなくなってしまった』
『あ、ぁああ、オレ、オレ、にーな、を』
『殺した』
優しく囁く。エドワードの瞳が、どろりと濁った。
『君がもっとはやくに気づいていれば、ニーナは死なずにすんだのに』
『あ、ぁあ、』
『殺してしまったね、君のせいでニーナは……』
『ちがう、オレじゃな、オレ、は、』
『君のせいだ』
『……あ、』
『君がニーナを殺した』
『違う、ちがう』
『違わない。君のせいで、ニーナは死んだ』
『ちが、』
『君が殺した。わかるだろう?』
『……あ、オレが……ニーナを』
『そう、いい子だ。でも大丈夫だエドワード。君がどんな罪を犯しても私だけは君から離れない。君が例え、元の体に戻れなかったとしてもだ』
『オレ、オレ……ニーナ』
『ニーナだけじゃない、父親にも捨てられ、母親にも愛されなかった、一人ぼっちで可哀想なエドワード……弟すらもあんな体にして、地獄に落として……そんな君を愛せるのは、私だけだ。そうだろう?』
『ぁ゛、───ぃ゛ッ』
言葉で脳を犯し尽くした。エドワードが逃げられないように。
組み敷いている間、エドワードは終始怯えていた。もとより、正常な思考ができない程傷付いていた子どもだ。
何度も涙を拭って愛を囁き、恐怖を煽り、私だけは君を何があっても守り愛する。
そう繰り返せば、心を作り変えるのにそう時間はかからなかった。一晩中かけて教え込んだ。
エドワードの負の感情を掬い取り、怯えさせ、それを甘く包み込んだ。弱い抵抗だ、ことさら力を振るう必要もない。優しく、優しく、丁寧に抱いた。
数度目の挿入で、エドワードは私を受け入れた。
『たいさは、オレの……魔法使い、なの?』
『そうだよ、君だけの魔法使いだ。いい子だねエドワード、従順な君は可愛いよ』
穏やかに笑ってやれば、微笑み返すようになった。親に従順なひな鳥のように、愛していると言えば、愛してると返すようになった。抱き締めれば、抱き締め返すようになった。キスをすれば、自ら口を開き答えた。
手に入れることができた確実な愛を、子どもは手放すのを恐れ、私から離れられなくなった。
薬の効果か、精神上の問題か。私の酷い行いを自分の望むままに解釈して。魔法なんて、子ども騙しな言葉を信じ込んだ。
全てがうまくいった。エドワードの母親など取るに足らない。エドワードはあっという間に私の物になった。
エドワードの体をいいように扱い、心無い『愛』という言葉を使い嘲笑する私に、微塵も気が付かないままに。
エドワードは、私に愛されなくなることに怯えた。
私がいれば、私を愛せば、私と身体を繋げば、孤独にはならない。幸せでいられる。私によって作り出された愛を本物だと信じ込み、私を求めた。私の機嫌が悪ければ、どんなことでもやった。狗のように腰を振りさえもした。乱暴に扱っても、逃げるそぶりさえ見せなかった。それどころか、怒らないで、ごめんなさい、捨てないでと、と普段の強い姿勢をかなぐり捨てて私に縋りついた。弟にさえも見せていないだろうその幼い仕草に興奮を覚えた。私が少しでも離れるそぶりをみせれば、足すらも舐めしゃぶる少女に征服欲が満たされた。
人として、最低な行為を働いていることはわかっていた。けれども止められなかった。私を求めて崩れていくエドワードに対する嗜虐心が日に日に増した。私の欲望に応えようともがくエドワードに、満足していた。
心の弱い愚かな子だと、馬鹿にすらしていたのに。
「……中尉」
「なんでしょう」
「君は、気づいていたか」
エドワードが私に壊されていることを、優秀な副官は途中で悟った。
何をしているんですかと、怒りに満ちた顔で詰め寄られたのはかれこれ1年程前のこと。しかし気が付いた時にはもう、エドワードはもう戻れないところまできていた。
私とエドワードを引き離そうとすることは、エドワードの拠り所を壊すことを意味する。だから彼女は、エドワードに心を砕きながらも、私の傍にずっといた。
「気づいて、いたか」
エドワードが、私の裏切りに気づいていたことを。
ため息一つつかない副官は、やはり私よりもできた人間なのだろう。
「大佐はいつ気がつくのかと思っていました」
本当に、手厳しい。恥ずかしくて口にすることなどできないが、私は昨日の今日まで、エドワードが思い悩んでいたことに気が付かなかった。従順なエドワードに酔っていた。エドワードを見ているようで、見ていなかった。エドワードは私を、ずっと見ていたというのに。
「そうか」
副官が私に言わなかった理由は、ひとえにエドワードのためでしかないだろう。私に伝えたとしても、私はエドワード以外の体を求めることを止められなかったはずだ。
「そうか……」
エドワードが小さく呻き、ころりと顔を動かした。汗の張り付いた愛し子の前髪を払う。眠りに落ちた顔は、いつまでたってもあどけない。私に食い潰されなければ、この子はどんな人間に成長していただろうか。
「自業自得ですね、大佐」
「……ああ」
「エドワード君は悪くありません」
「わかっている」
改めて言われずとも、十二分に。
望んだ結果に苦しめられることになるとは、エドワードを初めて抱いた頃は思いもしなかった。
深く考えずに手を出した。使いがってのいい駒として動かせるようになるという打算もあった。これまでの恋愛ゲームと同じように、飽きたら捨てればいいとさえ思っていた。けれども、飽きるどころか、気づけば私の方からエドワードにのめり込んでいた。私に真っ直ぐ愛を向ける子どもを、愛らしいとさえ思うようになった。
いつからだろうか、強引に作り上げたエドワードの愛に、私のほうが痛みを覚えるようになったのは。
必死になって私を求めるエドワードに、心の片隅がじりじりと焼かれ始めたのは。
エドワードを手に入れてから1年にも満たない頃、私はようやく自覚した。
エドワードを愛し始めてしまったことに。
エドワードに本当の意味で愛されたいと、自分自身が願い始めていることに。
きっと気が付かなかっただけで、初めからエドワードに惹かれていたのだ。
全てを理解してからは、私に愛を乞うエドワードの存在がただただ痛かった。
壊れた機械のように愛してると繰り返す子供は、私が望むままに作り上げたエドワードそのものの姿だ。愛おしくて仕方がないと同時に、虚しさが募った。エドワードを裏切るようになったのは、その頃からだ。
切っ掛けは些細なことだ。飲んでいる時に誘われた、それが金髪の女だったとかそんなものだ。壊れる前の、素のままのエドワードに愛されていると錯覚できる女性たちとの遊びは、魅惑的だった。私に縋る可愛いエドワードを抱き、エドワードの代わりの女を抱く。終ったあとは虚脱感に包まれても、気づけばそれの繰り返し。最初はエドワードが不在の時、それからだんだんとエスカレートして、昨夜も。
テロリストに縛られていたエドワードは、泣いていた。その金色の瞳から、大粒の涙を流していた。
当の本人は少しも気づいていないのか、表情だけはいつも通りのままで。エドワードの心からの叫びを、私は聞いた。
『何迷ってんだよ、焔の錬金術師をやれるチャンスだぜ?なあ、頼むよ。早くアイツを───アイツを……』
興奮したエドワードは、彼女らしくもなく、既に控えていた私たちに気づかなかった。
『オレだけの物に、してくれよ……!』
その瞬間、理解した。裏切っていたことに、気づかれていたことを。ここまでエドワードの崇高だった人格を、失墜させていたことを。
───堪えることはできなかった。エドワードに当たらぬよう焔を繰り出す。
こんな痛々しいエドワードの姿を、もう誰の前にも曝け出せなかった。これ以上エドワードを落とせなかった。エドワードを手に入れた頃の私であれば、エドワードの代わりように体中が打ち震えただろう。誰よりも人の死に敏感だったエドワードを、他者の死を願うまでの愚か者に仕立て上げたと。私と同じだと、喜びのあまりエドワードの元に駆け寄り、蔑み、偽りの愛を誓ったはずだ。私は君だけのものだよ、と。そしてエドワードは嬉しそうに笑い、私の手を取って縋り付くのだ。
けれども、そんなことはもうできない。これ以上壊せなかった。愛おしさの前に憐れみが立ち、哀れみの前に愛おしさが立つようになってしまった今では。
オレを手放すのかと、車の中でエドワードは泣いていた。
『潮時か』と、今朝がた、眠るエドワードの髪を梳きながらそう呟いた。それを聞かれていた。だからこそ、エドワードは今日爆発したのだろう。自分以外の女の影がちらつく私に、苦しみながら。
深い暗闇に突き落としてしまったエドワードを掬い上げるために、私は彼女の足を掴むこの手を離さなければならなかった。
「……震えていた」
解かないで、魔法を解かないでと。私に縋った彼女は。
「泣いていた」
爆風に煽られ地に伏した時も。なんてことない風を装ってへらへらと笑みを浮かべながら、その両目からは止めどなく雫が零れていた。自分の涙にも気が付かないほど、エドワードの精神は限界に来ていたのかもしれない。
追い詰めたのは、私だ。エドワードは心の奥底で、私の与えた残酷な魔法に、傷ついていた。
「わかっているのなら、その顔をはやくなんとかしてください、書類が溜まっています」
「私の背中は今、空いているぞ」
「撃つ価値もないですね。そんなに贖罪が欲しいのならばアルフォンス君に怒られてください」
「はは、あばらの数本は覚悟しておかねば」
「……彼は、エドワード君が悲しむことはしません」
貴方と違って。言われていないが、確実に言われたであろう言葉を深く飲み込み咀嚼する。みっともない大人になり下がった私を裁くのは、張本人であるエドワードしかいない。しかし、エドワードにそんなことはさせられない。
私ができることはただ一つ。自分で自分を裁くことだ。
「大佐、今後のために、しっかり決めてください」
書類をデスクに置き、副官が足早に下がる。わかっている。
「作られた想いであれ、エドワード君は貴方が……好きなんですよ」
最悪の捨て台詞と共に、パタンと閉じられた扉。青白い顔で眠る彼女の顔を、ぼんやりと見つめる。
魔法という名の洗脳は、3年たって確実なものとなった。エドワードの盲目的な愛も、執着も全て私に向かっている。全て望んだ通りになった。そう仕組んだ。エドワードの感情を、無理矢理作り上げた。わかっている。私がしたことは人体錬成となんら変わりない。体か、心かの違いだ。
作ったものには、作った者の責任がある。母親を作ったエドワードが、そうであるように。
決して解けない魔法をかけよう、と私は言った。
エドワードは私を信じ、愛した。
長いようで、あっという間の3年間だった。魔法を解く方法は、私だけが知っている。
エドワードから本当の意味で愛されるためには、全てを終わらせ、また一から始める必要がある。
終わらせた先に待つものは、私の望む世界ではないだろう。
エドワードはきっと、私とは違う道を歩む。そんなことはわかっている。けれども。
こうまでされてもまだエドワードは、私を信じている。腐っても、私はエドワードのための魔法使いだ。
ならば、私がすべきことは、やはり一つだ。
うん……と、エドワードが首を捻らせた。長い睫毛が、静かに震え出す。
愛しい金色がぱちりと開き、私を真っ先に捕らえるのはあと数秒後だろう。
やっと、長い眠りから覚める愛しい子どものために、力の入りにくい足を奮い立たせ、腰を上げる。
「……か、なぃで……」
──か細い声に、たまらず唇を噛みしめる。痛ましい魔法は、ここから始まった。
魔法を解こう、エドワード。
金色の前髪を柔らかく払い、エドワードの瞼に強く、口づけた。
何度も何度も、刻まれた呪いのような祈りを、掬い取るように。
うっすらと開かれた蜂蜜色の瞳に、愚かな私が映り込む。
醜い私を見つけても、エドワードは無邪気に目尻を緩め、笑った。
震える唇で、たいさ、と。心を込めて私を呼ぶ声は、いつもと同じ温度で。
それが悲しくて、嬉しくて、とても愛おしくて。私にはエドワードしかいなくて。
「誰よりも君を、愛してる」
私はエドワードだけの魔法使いだ。
だから今度こそ。
「……君を、解放するよ」
最後にもう一度だけ、魔法をかけよう。
他でもない君のために。
今度こそ決して解けることのない、解放の魔法を。
愛してマンマと対になるような話。無印設定です。