
「飲み込みなさい」
言葉と共に、軽く頬を叩かれた。
「いいから、飲み込むの」
「……」
軽く叩かれただけなのに、エドワードの体は横に大きく傾いた。
たった一本腕がないだけで、人の体はこうも平行感覚がなくなるものなのか。
何年間も人体について弟と勉強を重ねてきたというのに、こんなことすら知らなかったなんて。
自分は、本当に、馬鹿な子供だった。
「アンタって、ほんとバカね」
そんなエドワードの気持ちを代弁するかのように、金髪の幼なじみは眉根を寄せた。
そして、怒鳴った。
「駄目よ!」
ばん、とテーブルを叩く。
小さな体のどこにそんな威力があるのか、テーブルの上に乗ったコップが、いとも容易く横に倒れて、床に水が広がった。
「ちゃんと、食べなさい!」
「……」
「アンタが食べなかったら、アルは死ぬわ!」
「……」
間近に顔で迫られてもなお言葉を返さないエドワードにじれ、ウィンリィはテーブルの上にある少ないパスタをフォークでひっつかみ、エドワードの口許に近づけた。
「ほらっ、口開けて!」
「……っ」
むっとするトマトの濃厚な匂いに、吐き気が込み上げてくる。
もうずっとこの調子なのだ。
やっぱり、無理だ。
エドワードは目の前に迫り来るパスタから逃げるように、体をずらした。
「む、りだ」
「なんでよ」
「……食べれ、な」
「そんなはずないわ」
ぐっと、パスタが近づけられる。
「もう、4日間も何も食べてないんだから、食べれないはずないわ」
人間は、お腹がすく生き物なんだから。
そういいながら、ウィンリィはエドワードの口にさらにパスタを近づけた。
人間、人間、人間。ウィンリィの一言がエドワードの頭の中で反芻される。
人間って、なんだ。人間、俺が。
誰、が?
「人間じゃ、ない……」
「は?」
「人間じゃ、ない、んだ」
「……」
「俺が、……俺がっ……!」
言葉を最後まで言い切ることが出来ず嗚咽を漏らし始めたエドワードを、ウィンリィは冷めた目で見下ろした。
「それって、アルのこといってるの?」
ウィンリィの一言にびくりと震えた小さな肩は、肯定の証だ。
「アルフォンスの体を人間じゃなくしちゃったから、何も食べられない体にしちゃったから、アンタも食べられないって?」
小さな肩は、いまだ震えている。
「ふうん……」
かたりと、ウィンリィはフォークをテーブルの上に置いた。
そして。
「……っの、バカ!!」
エドワードの胸ぐらをつかみあげ、パスタが入った皿を、そのままエドワードの顔面に叩きつけた。
「ぶっ……!」
予想だにしていなかった幼なじみの行動に、エドワードの体はなす統べなく大きく傾いた。
足が両方ともあればそれだけは防げたのかもしれないが、いかんせん今のエドワードには片足しかない。踏ん張りが効かない体は、そのまま床に転げ落ちた。
人間の体は、軸がないだけでこうも簡単に崩れるものなのか。そんなことも、エドワードはこの時初めて知った。
本当に、馬鹿だった。
「バカ、バカっ、大バカ!」
エドワードに馬乗りになったウィンリィは、パスタを手でひっつかみ、エドワードの口の中にそれを押し込んだ。
「うっ、ぐ」
血のように赤いトマトが、ウィンリィの手を、エドワードの口を汚す。
途端に沸き上がる嘔吐感からエドワードはなんとか逃れようと身を捩ったが、ウィンリィはそれを許してくれなかった。
「このバカ!!」
自慢の美しい髪を振り乱しながら、咳き込むエドワードを押さえつけ、ウィンリィはパスタをなおもエドワードの口内に押し込み続ける。
「だからよ!」
「げほっ、けふっ」
「アルが食べれないから、変わりに、アンタが食べるのよ!!」
濃厚な赤が、床を汚す。
「アンタが、アルを食べるのよ!」
何度も何度も、押し込まれては吐き出して、捩じ込まれては吐き出して。
先ほど床に散った水にそれが混じり、エドワードの金髪に赤が散った。
「食べなさい!エド!」
細切れになったパスタは、まるでできのわるい肉片のようで。
もう顔なんて、ぐちゃぐちゃだ。
「アルを、食べなさい!!」
荒い息だけが、静かな部屋を支配する。
夕時の静けさが、似合わない家だった。ウィンリィの両親が亡くなってからも、エドワードの母親が亡くなってからも、この家で、一緒に食事をしていた。
ウィンリィとエドワードの下らない言い合い。
ばっちゃんの大袈裟なため息。アルフォンスの、笑い声。
煩かったけれど、つらいこともあったけど、いつだってここには、温かい時間が流れていて。
それを壊してしまったのは、紛れもない自分自身で。
「私は、許さない、からね」
どのくらいの時間が過ぎたのか。
エドワードの吐き出してしまったパスタが、乾いて床に引っ付きはじめたころ、ウィンリィがぽつりと言葉を溢した。
「諦めるなんて、許さない」
エドワードの目をみて、真っ直ぐに。
「アンタが諦めたって、あたしはアンタを諦めない」
エドワードは、ウィンリィから視線を外せなかった。
爛々として、鬼気としたその瞳からこぼれ出る透明な水滴に、込み上げる吐き気も忘れ、吸い込まれる。
彼女が泣くのなんて見慣れているはずなのに、外せなかった。
「さっきも言ったでしょ、アンタが食べなきゃ、アルが死ぬって」
ゆっくりと、ウィンリィに抱き起こされる。先ほど床に引き倒された激情はどこにいったのか。その動きはひどく穏やかだ。
温かい手が、エドワードを包み込む。
エドワードの顔はトマトや鼻水や唾液や吐しゃ物やらなんやらで汚れに汚れていたが、ウィンリィの顔も大概だった。もちろん、トマト以外で。
「エド、―――食べて」
そのまま、エドワードの肩にぽすんと乗っかってきた小さな頭は、小刻みに震えていた。それが自分の震えによるものなのか、ウィンリィの震えなのかは、エドワードにはわからなかったが。
確かにわかったことは、自分は本当に愚かで、大馬鹿者だったということだ。
「ウィン、リィ」
小さな声しか、出せなかった。
しかし、掠れて噎せてみっともない声だったけど、ウィンリィの耳には確かに響いたようだ。
ゆるゆると顔を上げた彼女の頬には、赤い液体が付着していた。
エドワードの肩に身を寄せた時、ついてしまったのだろう。
ああ、汚してしまった。
自分のせいで彼女が汚れてしまうことは、とても苦しかった。
「汚れて、る」
「もうべちゃべちゃよ、アンタのせいで」
「う、ん」
小さく俯く。
何も、言葉が出てこなかった。
「でも、いいの」
ふわりと、笑ってくれた笑顔はいつも通りの彼女の笑顔で。
「いいのよ、エド」
そう言いながら、彼女は床に落としたパスタを皿に移した
「でも、もう食べられないわね、これ」
「......」
パスタとも呼べない代物になってしまったそれを見つめながら、エドワードは小さく俯いた。
そして、ゆっくりと左手を伸ばして、床に散らばるそれを口に含んだ。
「ちょっと」
「食べ、る」
慌てるウィンリィを押しとどめて、口に含む。
じゃりっとした感触は、きっと砂だろう。
不安定な体で、床に手をつき、散らばった欠片をかき集めて。
それでも、何度も何度も咀嚼する。そして、喉を動かして、飲み込む。
「エド」
「食べる、よ」
吐き気は、いまだに体を苛む。
きっとこれからも、そう簡単に消えてはくれないだろう。
それでも。
「アンタって、―――ほんとバカね」
傾く夕日に照らされて映し出される、彼女の笑顔。
鼻をすすりながら笑顔を見せてくれる彼女の顔を、もう二度と、曇らせたくはなかった。
「また、作るから」
ぽつりと、水滴が、湿った床に落ちる。
いつも通り、お前は相変わらず泣き虫だな、なんて言葉を言ってやりたかったけど、
「何度だって作るから、エドのために」
涙を流しているのはお互いさまだったから、エドワードはその言葉を、砂の味がするパスタとともに飲み込んだ。
「ってこともあったなぁ」
「いきなり物凄い音がして何事かと思ったら、ウィンリィ姉さんにのし掛かってるんだもん。いやあ、怖かった」
「ウィンリィは拳で語る女だからな」
「なんか言った?」
「「いえ何も」」
「ちなみにアンタたち、今日のお昼はパスタよ!」
「ええいきなり?アル、食えんのかよ」
「だいぶ体も戻ってきたし、大丈夫だと思うよ、ありがとうウィンリィ」
「アルはほんといい子ね、どっかの誰かさんと違って」
「おい」
「いいのよ、今食べられなくたって」
「何度だって作るから。アンタ達のために」