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「優しいって……」

別にエドワードは、男の言う優しい気持ちがあるからこそ、ここにとどまっているわけではない。どちらかというとあるのはやましい気持ちだ。ただこの人間の男に興味があったのだ。もちろん大切なものではあるが、たかがネックレスごとき、本当に命の危険を感じ逃げたければ捨て置いて逃げればいいだけの話だ。それをしないのはエドワードの判断だ。人間を知りたいという探求心という欲望に忠実に、行動しているだけだ。

海の名前​

【第一章】月の宴 Ⅰ

男の水面に反射し光る真摯な眼に見つめられても、なんといえばよいのか。さすがのエドワードでもわからなかった。ここは素直に、ありがとうと賛辞の言葉を受け入れればよいのだろうが、あいにくとエドワードは相手の言葉を素直に受け取るという生き方をしてこなかった。ましてや、家族以外で、エドワードを優しい、と称する奴がいるだなんて。しかもそれが人魚ではなく、異種族の人間と来たものだ。エドワードは頬を掻いた。

「アンタって変わった人間だな。それとも人間ってのはみんなそうなのか?」

「それは私の台詞だとも。人魚というのは君のように優しい人ばかりなのかな」

「……オレは別に、アンタの機嫌を損ねると、ネックレス返して貰えなさそうだから」

「はは、悪態は君の十八番なんだな。わかったよ」

結局、ふいと顔を背け吐き捨ててしまったエドワードだったが、男は怒るでもなく笑った。目じりを深めるその笑い方がなんだかこそばゆくて、エドワードはますます口をへの字に曲げてしまった。

 

 

エドワードと人間の男の会話は、予想外に長く続いた。相変わらずネックレスは返しては貰えなかったが、男との弾む会話は以外と面白くて、エドワードは相手が異種族であることも忘れ男の語る『人間の世界』とやらに没頭した。

海で暮らす人魚の世界よりも狭い地上での生活だが、話を聞く限りでは様々なものが発達しており、食糧も豊富らしい。調味料というものを使用して、自分好みの味に料理するようだ。そしてなによりエドワードが目を輝かせたのが、人間の世界にある『文字』だ。紙と呼ばれる真っ白な薄いものに文字を書き、その紙を相手に渡し考えや想いを伝える。また、文字が沢山書かれた紙を一つに束ねて、本というのを作るようだ。本には様々な種類があって、人々はそれを読み、物語などで娯楽を得、時には歴史を学びその他の勉学にも励む。

人間はそうして、様々な知識を増やしていく。なるほど、知識が豊富で、思考が難解になるわけだ。エドワードが増やしてきた知識といえば、もっぱら師匠から教わったことばかりだ。もちろん言葉によって。もしも、本という楽しそうな道具を海の中に持っていけたら最高だと一瞬喜んだが、紙は木でできているため水の中にいれれば直ぐに滲んで溶けると諭され、かなりへこんだ。

「ぬか喜びさせやがって……」

「人魚の世界では、文字というものはないんだね、以外だよ」

「ねえよ、全部口頭で相手に何かを伝える。文字なんてものを岩場に掘ったって直ぐに水で削れるし、直ぐに藻が繁殖して見えなくなるから、発展しなかったんだろうな。歌だって、海の物語だって、全部母さんから聞いたんだ」

「へえ、君が私に歌ってくれた歌は、人魚の間では有名な歌なのかい?」

「ああ。昔から人魚の世界にある伝統的な歌だ。そりゃ、生息する場所によって歌は異なるけど、オレんとこの海辺ではこの歌が主流。相手がどの歌を歌えるかによって、どこの海峡から来た人魚なのかとかがわかるんだ」

男が小さく頷く。興味津々ともとれるそれに、エドワードは得意になって話を進めた。

「親から子へ、子が成長して子を成せば、また親から子へ伝えられていく。人魚が死んで海に還っても、伝えられたものは次世代に残る。そうやって、海は、世界は回っていく。一は全、全は一だ」

「……一は全、全は一?」

「師匠から教わったこの世の理だ。ま、アンタにはまだ早いと思うぜ。なんせオレなんて理解するのに随分かかったんだからな」

「なるほど、わかった。ではこれは宿題にさせて頂こうか」

宿題?首をひねったエドワードに人間の男は口角を上げた。あ、いやな笑みだ。何かを含んだ漆黒の眼差し。じとりとねめつければ男はどこ吹く風といった体で髪をかき上げて、笑った。

「……アンタはどうして、あんな嵐の日に船に乗ったんだ?」

「うーん、金銀財宝、宝物を探しに」

「嘘だな」

「どうしてそう思う」

「アンタは、金に執着するような人間に見えない」

男は初めて声を上げて笑った。青い、布───男曰く、これは服というらしい───の上に羽織った紺色の布が、潮風に煽られてはためく。

「それは、褒めてくれているのかな?優しいね」

「妙だなって思っただけだから!」

どうして、全ての会話をそういう方向にもっていこうとするのか。まだ男と話し初めてから時間はそこまでたってはいないが、男はかなり軟派な性格のようだ。エドワードには馴染みのない性格だ。弟だって幼馴染のウィンリィが好きなくせに、女の人魚にも優しい言葉を投げかけいい顔をすることもあるが、この人間の男ほどあからさまではない。弟曰く、ウィンリィに害が及ばないように、との配慮らしいが。

「君は可愛いね。初々しくて」

「だから……なんでそういう」

エドワードは若干引きながら男の続く言葉を待った。しかし、男はそれ以上のことを答える気はなさそうだ。

「へえ、ああそう、そうやってはぐらかして教えないつもりか」

「教えるも何も、嘘は言っていない。探しにいったら、予想外の嵐に見舞われたというわけさ」

「イヤらしい奴……等価交換だって言ってもかよ」

「等価交換?」

男の肩眉が、くっと上がる。

「そ、等価交換の原則。師匠から教わった掟の一つ。一のもからは、一のものしか生み出せない。一のものを得たら、一のものを返さなければいけないんだ」

「ふむ、つまり、私の命を助けてくれたお礼に、私も君に何か返さなければいけないわけか……」

男は、顎に指をあてて一瞬思案した。黒い髪が、さらりと男の眉にかかる。淡い月の光に、それはよく映えた。まるで人型に彫られた精巧な石の置物のようだと、エドワードは一瞬男から目が離せなくなってしまった。

「……そ、そういうこと。だから、本当のことを──」

「わかった。では命を助けてくれたお礼に、素敵な夜をお届けしよう」

男に見入ってしまったことがなんだか気恥ずかしくて、エドワードが数秒、男から目を離したのがいけなかった。

「ぎゃあ!」

「君、色気のない声はやめたまえよ」

「何すんだてめえ!変態!」

あっという間に近づいた男の顔。一瞬にして鼻と鼻が擦れた。男の長い睫毛が、ぱさりと瞼にかかる距離。

「離しやがれ!」

「変態とは、失礼じゃないか」

がっちりと掴まれた腰は思いのほか強い力、逞しい腕に引き上げられ、固定された。ぐいっと引っ張られた腕は、男の顔の横を通って伸びている。手首をがっちりと掴んだ男の手のひらはゴツゴツしていて、人魚の雄と同じくらい角ばっている。本気で力を込めても、びくともしない。エドワードは心底驚いた。先ほども男に捉えられた手首が若干赤くなってしまったが、この分だよ紫色になってしまうのではないだろうか。

「近い、近いって!なんだよ!離せって!」

「───しぃ。静かに」

幼子を嗜めるように、唇の上にふってきた冷たい吐息に、エドワードは息を飲んだ。暗がりに、覗かれる。まただ、吸い込まれるような夜の海が、息もできないほど近くにある。男はこんな時でも、薄い笑みを崩していなかった。

「いい子だ。夜の逢瀬は、密やかにしなければならないだろう?」

「なに、いってん、だ」

「命を助けてくれたお礼は、命でしか返せない。けれども私の命を君にあげるわけにはいかないからな。代わりに、私の体と心を」

ゆっくりと、エドワードの腰に回った腕に力が込められてゆく。徐々に傾いていく体。後ろに引き倒すために、負荷をかけられる。男の笑みは深まるばかりだ。よくわからないが、このままでは地面に押し倒されてしまいそうだ。さきほどまで見入ってしまった顔が目の前にあるだけでもこそばゆいというのに、このままだと顔と顔とがくっつきそうだ。弟とも、ここまで顔を近づけたことなど子供の頃以外ない。エドワードは激しく脈打つ鼓動に押し上げられるまま、掴まれていない左手で男の胸元を強く叩いた。しかしそこも岩のように固くて、エドワードは男に触れた自身の手のひらがだんだんと熱くなってゆくのを感じた。人間の男の体は、とても筋肉質で固い。静かに、とたしなめられたことも忘れて、エドワードは再び叫んでいた。

「なんだよ体って!人魚は人間なんて喰わないっていったろ!」

「そういう意味ではなく。わかってるのだろう?麗しい人魚姫」

「なにをだよ!」

声を張り上げている間にも、エドワードの体はじりじりと後ろに倒されてゆく。もちろん腕はびくともしない。かろうじて水に浸かっている尾びれで岩をびちびちと叩けば、男が、掴んだエドワードの細い腕に頬を擦り寄せた。

「……いい匂いだ」

緩い接触にぞわっと毛穴が開く感覚というのを、エドワードは初めて体感した。男の、人魚の雄の爽やかな潮の匂いとも違う、飲み込まれそうに圧倒的な独特の匂いが鼻を掠め、エドワードの体が一気に火照った。暑くもないというのに。体中の血管が沸騰しそうだ。

なんだこれ、なんだこれ。自然と近づいてきた男の薄い唇が、もう、こんなに近くに。

「……なんだ、脈はありそうだな」

その一言に、ついにエドワードは切れた。すうっと細められた黒真珠に、品定めするような軽薄さが滲んだのが見て取れたからだ。この短時間で男から何度か感じることがあった、どこか冷え冷えとした空気感。エドワードは鈍感だが、バカにされたということだけはわかる。

「───ばっか野郎!脈あるに決まってんだろ!オレは死んで、ねえ!!勝手に殺すな!あと姫って言うな!!」

ぶちん、の代わりにばしゃん。このぶんでは自由な左手で攻撃したとしても男は離れまい。勢いを乗せて、渾身の力で尾びれを振り回す。

嵐の渦にも負けず、この死にかけてた男の体をも背負いながら、陸地まで運んだ勇猛果敢な尾びれだ。どこまでも伸び、どこまでもしなる。掻きだした水の抵抗にも負けず、空を裂き男の横っ面に一発お見舞いする。端正な顔が尾びれに叩かれ大きく歪み、「は?」と呆けたまま勢いよく横に倒れ伏した男は、地面に肩をぶつけてそのまま動かなくなった。

大声を出し、ぜえはあと息を乱したエドワードは尚も男に罵詈雑言を並べようとしたのだが、呼吸が止まっていたあの時と同じくピクリとも動かなくなってしまった男の姿に慌てた。最悪の展開がよぎったのだ。まさか殺してしまったのだろうか。

「お……おいアンタ」

人間の寿命は短い、人魚よりもはるかに。逞しい体だと思っていたが、まさか殴られるだけでこうなってしまうとは。

「だ、だいじょうぶかよ」

おそるおそる、倒れた男に手を伸ばす。すると。

触れる直前、男の肩が揺れ始めた。くつくつと、喉を低く震わせながらそれは体へと伝ってゆき、痙攣するほど酷いのかとエドワードが慌てて男の腕を掴んだ時には、男は完全に笑っていた。

「ああ、痛い」

少しだけ赤くなった頬を撫ぜ、痛みに目細めそれでもなお微笑む様は、はたから見て異様な光景だった。

「アンタなんで笑ってんの……」

うへえ、と顔を顰めたエドワードに、男はゆったりと上体を起こした。たまたま転がった場所が潮だまりだったようで、零れ落ちた小さな布と服の袖が若干濡れている。小石を払いつつ、エドワードに軽く目配せする視線に、エドワードが身構えていたような怒りはなかった。

「そんな顔をしないでくれ、私にそういう趣向はないんだ」

ばさりと、男の両手に叩かれ、はためいた黒く長い布。

「そういう趣向?」

「女性に殴られて喜ぶような男、という意味だよ」

男が唇を拭った。血は出ていないな、と小さく呟くあたり、痛みはそこそこ強かったらしい。それなのに、男の白い頬は緩んだままだ。

「喜んでんじゃねえかよ」

「別に、喜んではいないよ」

「笑ってるじゃん」

「いや、それは……」

エドワードの頬が引き攣り始めるのが面白いのか、男は前髪をかき上げ、また笑った。

「いやいや、女性に殴られたのが初めてだったもので。しかもそれがこんなに小さな人魚のお姫様、いや、お嬢さんだとは……面白い体験をした」

心底面白そうに、男は口元を抑え今度は体全体を震わせた。人魚に叩かれたことを、面白い体験と称する人間にエドワードは困惑した。バカなのか。人間らしく複雑な感情の入り混じった瞳をしているくせに、実のところこの男はバカなのだろうか。

「いい拳───ではなくて、尾びれだ。恐れ入ったよ。勇ましいな。私の部下に迎えたいくらいだ」

するりと、男の手のひらが茫然と男に触れていたエドワードの手を撫ぜた。ごく自然なその動きに、エドワードは先ほどとは違う悪寒を感じ、男の手を思い切り振り払った。

「───触んな!この軟派野郎」

「そんなに怯えないでくれないか」

「怯えてねえよ!」

「わかったわかった、今日君を口説くのは止めておこう。その雄々しい尾びれの餌食にはなりたくないからね。私の体は固いから、君の美しい尾びれを傷つけてしまっても困る」

殴られた頬を赤くしておきながら何を言っているのか。

降参だ、と手を挙げた男を警戒しつつ離れる。尾びれの半分を、再び水に浸す。表面上は一貫して涼し気だが、ころころと変わる人間の男についていけない。時折見える氷の張った水面を彷彿とさせるな瞳と、とろけるような甘い瞳。そして、静かで、月の雫を夜に浸したような漆黒の瞳。どれが本当の人間───いや、この男なのか。

「そういえば君の名前を聞いていなかったね。勇ましく勇敢な人魚のお嬢さん。お名前を、教えて頂けるかな?」

「……アンタに、名乗る名前なんてない」

怒鳴り過ぎて肺呼吸も苦しくなってきた所だ。今度は腕を掴まれないように、海に下半身を完全に浸し、岩の陰から男を覗く。

「やれやれ、完全に信頼を失ってしまったようだ。では私から名のろう。私の名は」

「まてよ」

鋭い静止に、男は口を噤んだ。

「アンタの名前は、聞けない」

「……なぜ?」

「人魚は、真名を教えてはいけないんだ。人魚の真名は相手を縛り、縛らせてしまうから」

人魚は、お互いの真名を知らせない。例え耳にしたとしても、それを口にしてはいけない。それが暗黙のルールだ。その気のない相手を縛れば、お互いが苦労する。そんなことをする奴は、人魚界から追放される。だからこそ、家族や近しい人以外は、通り名で呼び合うのが普通だ。

エドワードが周囲からこそこそ呼ばれている通り名はせいぜい、「生意気な金色尾びれ」といった所だろう。まあ、アルフォンスだけは昔から少々変わった性格をしており、周囲に自分の真名を簡単に他人に教えるので、面と向かっては「アルフォンスの姉」と呼ばれることが多い。もちろん、アルフォンスは自分の真名を相手に与えても、相手の名をしろうとはしないが。また、海の底まで落ちてきた人間界の不思議な機械等にも目がなく、手入れして回るウィンリィは、あの美貌と優しさと活発さとで有名なので(もちろん妙な趣味でも)「機械好きのお嬢ちゃんの幼馴染」と呼ばれることもある。

人魚界において、相手を真名で呼びまた呼ばせる時は、相手と心を通わせる時、つまり、生涯をお互いと添い遂げると決めた時に限る、

「人魚同士なら、お互いの理性が効くからなんとかなる場合が多い。だから、これまでやってこれた。でも、人間相手ではわからない。人魚に名前を呼ばれれば心が引っ張られるかもしれない。それは、アンタも困るだろ。オレだってまっぴらごめんだ」

男は、エドワードをじっと見つめている。最後口を開きそうになった男を、エドワードは止めた。

「だから、アンタの名前もなるべくなら知りたくない。無意識に、オレがアンタを縛ってもまずい。もう会うこともないだろうし」

たかが一度だけの邂逅なのだ。人間の男とこんなに長く会話できたことはエドワードにとっても楽しいことではあったが、それ以上でもそれ以下でもない。あとは別れるのみ。人間はこれからも人間の世界で暮らし、人魚は人魚の世界で暮らす。交わることは決してない。今回は、本当に異例な出来事だったのだ。

「……わかった」

諦めたように神妙に頷いた男に、エドワードは安堵した。が、それは束の間だった。

「では私の事は大佐とでも呼んでくれ」

「はあ?たいさ?」

「ああ、私は国を守る要人でね、大佐の地位にいる軍人だ、だから大佐と、呼んでくれ、これなら大丈夫だろう?」

「いやだから、別にアンタのことどう呼ぼうが、どうせ」

もう会わないんだからと、エドワードは半ば呆れ気味に返答しようとしたが、男はなおも言葉を畳みかけてきた。

「君のことはなんと呼べばいいだろうか。可愛らしい人魚の姫君と呼べば、君は恐ろしく怒るだろう?」

エドワードの尾びれにちらりと視線を投げ、男は逞しい腕をさすって肩を竦めた。わざとらしく、怖がるふりをして。

「おい人間の男」

「人間の男、ではなく大佐だ。さあ、その唇で私を呼んでみてはくれないか?」

「アンタなぁ!」

「私は別に、本当の名前で呼ばれたってかまわないんだ。君になら縛られてもいい。むしろ、縛られたい。どうだろうか、君に叩かれたお詫びに、名前を教えてくれないだろうか。等価交換の原則、だったかね」

「なぁにが等価交換だ!アンタが変なことしてきたからだろーが!殴られるようなことするアンタが悪いんだろ!」

「君があまりにも愛らしいものだからつい、ね。驚かせて悪かった。そうだな、ではやはり君に似合う名前を考えねば……えーと」

「いやだから、話聞けって。別にオレをなんて呼ぶかなんて決めても意味な」

「思いついたぞ」

閃いた、と芝居がかった動きで指を鳴らした男に、エドワードは頭を抱えたくなった。なんなんだこの男は、本当に。何故こうまで、エドワードをかき回すのか。強気で話を進めてもまるで聞きやしない。おい、と苛立ち紛れに尾びれで岩肌をぺしぺし叩いていたエドワードはぴたりと岩をいたぶるのを止めた。他でもない、元凶である男の一言によって。

「鋼……はどうかな」

「───鋼?」

きょと、と目をしばたたかせる。

「ああ、私がもう一度君と巡り合うことができたのは、この鋼のネックレスのおかげだろう?」

いつのまにそこに入れていたのか、男は胸元に空いた服の穴から錆色のそれを取り出し、透かすように月に掲げた。月明かりに、透けるはずなどないというのに。

「この強く真っ直ぐな硬さを持つ色は、賢い君によく似合っている。どんな宝石よりも美しい」

懐かし気に、細めた瞳。ふと、月に濡れた水面が男の瞳に映った、ような気がした。先ほどまでのからかいじみた微笑みは鳴りを潜め、真っすぐに、鋼の欠片を見つめている。その横顔の、なんと───なんと、静かなことか。

「だから、敬意を表して君をこう呼びたい」

男と、視線が合った。

「鋼の人魚、と。どうかな?」

 

 

 

 

鋼が好きなんて、変な金色尾びれ。

お前、未だにそんな錆びたやつ首にぶらさげてるのか?

宝石の一つでも見つけて、そんなものさっさと捨ててしまいなさいよ。

ああでも、雌らしさの欠片もないあなたには、似合ってるかもね。

 

言われっぱなしのエドワードではない。これまで、どんなに心無い同郷の人魚たちに言葉をぶつけられても、蹴散らしてきた。時には尾びれが出た。そんな雄勝りなエドワードに、今では面と向かって意地の悪いことをいう輩はいない。もちろん、全てが全てエドワードを嫌煙しているわけではない。そんなのは一部の人魚たちだ。その人魚たちも、決して悪い奴というわけでもない。ただ、貪欲に知識を求める、人魚らしくない価値観と思考を持つエドワードを、持て余しているだけだ。それはエドワードにもわかっている。けれども、幼い頃に言われ続けてきた言葉は蓄積され、今でもエドワードの心の奥底で燻っている。雌らしくない、雄みたい。だからなんだと気にしていないふりをしていても、やはり年頃になれば、腹が立つものは腹が立つ。人魚の世界に、人間のような深い知識というものは必要ない。なくても、生きていけるからだ。ただ雄と雌が繋がり合い、繁殖してゆく。そして、土地が枯れれば次の土地へ移動する。

海以外の世界の、何にも疑問を抱かずに。

 

 

「……はがね、鋼の、か」

男に言われた言葉を、反芻する。はがね、と震わせた口の中がむず痒い。強く真っすぐな心、どんな宝石よりも、美しいと。バカにされてきたエドワードをそんな風に言ってくれたのは、家族以外で、この人間が初めてだった。扱いずらい人間だが、この短い時間の中で、エドワードに沢山の初めてを、与えられた。男がそれを、意図しておらずとも。

「……うん」

エドワードは、唇をぐっと引き結んで頷いた。尾びれを、ばしゃばしゃと水面に叩きつけたくて仕方がなかった。海の中をぐるぐる回りたくなる衝動を堪えて、男を──大佐を見る。なんだろうかこの感覚は。

鋼の。鋼の人魚だって。なんだか、いい感じじゃないか。

ここの弟がいれば、弟の背中をばしばしと叩いていたに違いない。それほどまでに、じわりと腹の奥から湧き出てきたものは、確かに、歓喜だった。

「……あんがと、大佐」

自然と、男の呼び名が口から零れた。緩む頬にまかせて、自然と笑顔になる。エドワードは地上に上がってから初めてみせた、満面の笑みだった。エドワードは失念していた。つい先ほどまでこの人間にされそうになったことを。エドワードの笑顔に、男が何を想い、どう行動するのかを理解するだけの警戒心を。

男が、エドワードの笑みに呼吸を一つ止めたのを、気づかなかったのはエドワードの落ち度だった。エドワードは無意識のうちに、まんまと餌を与えてしまったのだ。

「……ではこれからは、君のことを鋼のと呼ぼう」

「ああ、いいぜ……、ん?って、違う、そうじゃなくて……、おい!」

言うや否や、くるりと背を向けた大佐に、エドワードは慌てた。出会った時に待ってくれと慌ててエドワードを追いかけようとした姿とは思えないほど、男は足早に去り始めた。

「すまない、そろそろ時間でね。約束があるんだ。遅れたら怒られてしまう」

「、コラ!こっちの約束守れよ!帰るのはいいけどネックレス置いてけ!」

ぴたりと歩みを止めた固そうな足を覆うもの───靴と言うらしい───が、ぐるりと向きを変えた。振り向いた大佐はエドワードの予想通り、優し気で穏やかな薄い笑みを張りつけていた。エドワードにはもう、意地の悪そうな、胡散臭い笑みにしか見えないが。

「また明日だ」

「は?」

「明日の夜、月が一番高く昇る時間、またここに来てくれ」

「明日?何言ってんだ、返せ」

「明日来てくれたら返そう」

「ふざけんなよ、おいアンタ……大佐!」

「来てくれたら」

大佐は僅かに腰をかがめ、エドワードに目線を近づけた。

「もっと人間の世界のことを教えよう。もちろん、『本』付きで」

『本』という単語に、ぐっと言葉に詰まる。エドワードはすっかり、大佐の深い漆黒に弱くなってしまっていた。

「私の命を助けてくれた礼は、一夜だけでは返し切れん」

大佐は、秘め事を語るように指を一本唇に添え、

「素敵な夜は、いくつあってもいいだろう?」

と、飄々と囁いた。エドワードはぽかりと空いた唇が塞がらなかった。なので。

「ではな、鋼の。また明日」

と躊躇なく去って行った大佐の背を、岩にしがみついたまま見送るしか他になかった。

 

 

 

 

 

素敵な夜は、って。自分と会うことが素敵な夜になると、堂々と豪語できるその自信。

散々振り回されたエドワードは、あっと言う間に浜辺から木々の隙間へと消えて行った人間から視線を移した。どのみち、地上で動きまわる人間に、足のないエドワードが追い付けるはずもない。

真上に凛と昇る月に向かって、エドワードはため息と共に、疲労を吐き出した。

 

 

「おかしいだろ、それ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえり、姉さん」

「ひっ!」

背後から声をかけられ、エドワードは飛び上がった。

「ァ、アルフォンス、さん」

「へー、ふーん、そーお。こんな夜更けに、僕の声が届きにくいところまで」

既視感。一週間程前にも、同じようなことがあったような。エドワードが嵐の中、記念すべき地上への初上陸をした日。あの時初めにエドワードの鼓膜をブチ破ろうとしたのはウィンリィだった。しかし、今エドワードの鼓膜を破らんとしているのは他でもない実の弟だ。エドワードは言い訳よりもまず先に降参した。

「違うんだごめんアルフォンスぅ!」

「何が違うんだこのバカ姉!」

強烈な一撃はエドワードの耳朶ではなくエドワードの頭部へ。

予想外の大ダメージにエドワードは頭を抱えた。夜中だというのに大きな声を出してしまった。ご近所迷惑になってしまう。

「いってぇーー!」

「勝手に一人で、出泳ぐのはよしてって、僕言ったよね。姉さん何するか、わかんないから」

尾びれでたしたしと地面を叩きながら、一字一句確かめるように、禍々しい悪魔を背後に召喚している弟は純粋に恐ろしい。しかしそれも全て、エドワードを心配してのことなのだ。エドワードが海で一瞬失踪しかけた(アルフォンス曰く)のは、ついこの間の出来事だ。また姉が妙なことを仕出かさないか、毎日戦々恐々としていたのはアルフォンスのほうだろう。

「ごめん、ほんと……」

人間と長々と会話をしていた上に暫く陸地に上がっていたので、弟の声は届きずらかった。弟に真名を呼ばれていることに気が付いたのは、海に潜って家路を急いでいる時だ。鱗がざわざわすると慌てて戻ってみればそこに弟の姿はなく、もしかしたら子供の頃のように、寝言で無意識にエドワードを呼んでいたのかな、なんてほっとした矢先。背後からぬっとあらわれた弟に首根っこをひっつかまれて、今に至る。

「まさか、ネックレスを探しに行ってたとかじゃないよね。この夜の海で」

微笑みを絶やさぬ弟の背後にそびえたつ悪魔が徐々に巨大になっていくのを感じて、エドワードはぶんぶんと手を振った。ついでに首も捥げるぐらいに振った。

「違う!違うんだ!ちょっと……」

「ちょっと、なに?」

姉の腕をがっちりと掴み上げ引き上げる心優しき弟。身長差も大きくなった。いつから、弟はこんなに男らしくなったのか。小さい頃はよく、怖い夢を見たとエドワードの砂布団に潜り込んできたというのに。

弟の硬い手にふと、人間に腕を掴まれ、身動き一つとれなくなったことを思いだした。もしあの人間が人魚を食う悪い人間であれば、あのまま連れていかれ殺されていたことも考えられ得る。考え無しだったなと、エドワードは改めて反省した。が、本当のことを言うわけにはいかなかった。

「うん、その。尾びれの、調子がさ……ちょっと」

「え」

弟にの背後にそびえたっていた巨大な悪魔が、ひゅるひゅると小さくなっていったのがエドワードには見えた。

「尾びれが?」

「ああ」

「……大丈夫なの?」

「だから、ちょっと危ないかな、って思ったから、いつもの場所で水面に顔出してたんだ。アルに呼ばれることはわかってたけど、不安だったから。でも、大丈夫そうだから戻ってきた、それだけだ、心配すんな」

これを理由にすることは、本来なら一番やってはいけないことだとわかっている。しかし、エドワードは家に戻ってくる最中に、心の中で決めたことがあった。

「最近、多いんだ。あの日に近づいてなくても、変だなって感じることがあって。たぶんこれからもちょくちょくそういうことがあると思う。そん時は心配かけないように、貝殻でも置いていくから、な?」

明日もたぶん、あの陸地へ向かう。先ほどまで会っていた、人間の男──大佐に会いに。

変な、人間だった。軍人の男だと言っていた。それが本当かどうかはわからない。どこか、胡散臭い奴でもある。けれども。

「それ、本当なんだね」

「ああ」

「……僕も、ついていかなくていいの?」

「お前いたってしょーがねーだろ?なんかあったら名を呼ぶから。お前、オレよりしっかりした尾びれしてんだから、直ぐに泳ぎ付けてくれるだろ?」

「そうだけど……でも」

「だーいじょうぶだって!今直ぐどうこうなることはないって、師匠も言ってただろ?」

心配するな、とほほ笑めば、アルフォンスも渋々ながらようやく納得したようだ。明日も、アルフォンスの朝は早い。友達と遠出、という名目の元、偵察をしに行く予定なのだ。体が弱く動けない師匠に変わり、アルフォンスに与えられた役割。エドワードとは別行動だ。

オレも寝るからお前も寝ろ、と頬を撫ぜれば、叩いちゃってごめんね、と抱きしめられた。大きくなったと言っても、やはりまだまだ甘えただ。母親が早くに亡くなってから、アルフォンスの面倒は全てエドワードが見てきた。たった一つ違いだけど、エドワードは姉らしくアルフォンスの背を撫ぜ、その額に何度もキスを送った。そこまでして、やっとアルフォンスはエドワードを解放した。

むやみやたらに動いちゃダメだよ、と釘を刺され、自分の寝場所に戻ってゆくアルフォンスを見送り、ぽすんと背を砂に預ける。さらさらとしたそれが心地よい。今日の寝床はここにしよう。たまには岩じゃなくてもいいだろ。そう思ったら、直ぐに瞼が重くなった。どうやら、思っていた以上に身体は緊張していたらしい。エドワードは、水面に陰る月明かりを見上げた。

髪も、瞳も、漆黒を体現したような男だった。それでいて、瞳は不思議な薄い光を放っていた。凛とした空気感は、まるで夜空に浮かぶ月のようで。

飲み込まれそうだと、何度か思った。引き寄せられるというべきか。これが見えざる引力ってやつかと、エドワードは一人感傷的に納得した。

「明日の夜、か」

日付が変わっていればもう今日だが。正直に言うと、不安もある。ネックレスを返して貰えると男は言っていたが、果たしてそれが現実になるかどうか。

「わっかんねーな」

尾びれを、ぱたぱたと動かし、掲げてみる。砂が夜に舞った。

「でも、人間の世界の知識が増えたら……もしかしたら」

なんの変哲もない金色の尾びれ。けれど、家族にしか言えない秘密が、ここにはある。

「全部、わかるかも」

アルフォンスに言っていたことは本当だ。そこまで頻繁ではないが、尾びれにむず痒い妙な何かが走ることがある。月が満ちてもいないのに。今日は、なんともなかったが。

(そうしたら……)

大佐という人間は、知識が豊富な人間だった。少ししゃべっただけでもわかる。頭の回転も速い。その分、すました表情の下で何かよからぬことを考えている節もあるが。

今のエドワードでは、男の全てを判断することは難しい。しかし、もしもあの大佐という人間の男から。師匠も知り得ないヒントか何かを貰うことができたら。人間の世界の本、とやらを、会っている間だけでも読むことができたら。

(もう、アルとウィンリィとばっちゃんと、離れ離れになるかもしれないって、不安にならなくてもいいのかもしれない)

ネックレスは大事だ。エドワードの、指針を示してくれるものの一つだから。

けれども、もっと大事なことがエドワードにはある。

──また明日、師匠のところへ行ってみよう。

そう決めて、エドワードは今度こそしっかりと目を閉じ、淡い月明かりを自分の世界から遮断した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベッドが軋む。むき出しの脚に衝撃を与えないよう動いたつもりだったのだが、やはりというべきか、女は直ぐに起きた。

「たいさ?」

わざとらしく、舌ったらずなその音色。

甘さと気だるさが混ざった小鳥のような囁き声は、今だ明らかな情欲に満ちていて。

「すまない、起こしてしまったかな」

「……酷い。あたし、明日の昼まで仕事はいってないって、言ったじゃないの」

伸びてきた腕に首を絡めとられる。引き寄せられた先は薄く開いた唇。奪わないわけにはいかない。男は女の頭を掻き抱き、激しく舌を絡めた。寝起きであっても、遠慮はいらない。この手の技巧に長けた女だ。安らぎを覚えるような薄ら寒い口づけなど望んでいるわけではない。もちろん、お互いに。

「ん……」

艶めかしく絡んで来たのは舌だけではない。細い脚が、くびれた腰を押し付けるように臀部に絡みつく。張りのある胸先が、むき出しの胸筋に擦りつけられ、熱を煽る。たった数刻でぐずぐずに蕩け、すっかり男の匂いに染まり切った細い肢体に、下肢に性欲が溜まってくるのは自然なことだった。朝から元気なことだと、自身の欲に自嘲しつつ、着る予定だった服をもう一度手放し、本格的に女の上に圧し掛かった。くすくすと合わさった唇から洩れた吐息のくすぐったさに、男は女の胸に手をはわし、豊満な形をなぞるようにゆったりと揉み始めた。

「帰るんじゃ、なかったの……?」

「可愛らしいお誘いを受けたというのに、そんなつれないことをいう口はこれかな?」

「あたしに何も言わず帰ろうとしたその足、立たせなくしてやってもいいのよ?」

「それは本望だ。一滴残らずここに、搾り取って頂きたい」

「あ……ん、ァ」

指を突き入れれば、胸を逸らして鳴いた。これが演技であろうがなかろうが、男がいなくなった後他の男相手に鳴こうが、事実濡れていることは確かなのだ。ここでは、お互い愉しむのが定石。無粋なことは何も考えず、人肌を求めることができる場所。事実、今日、男を指名したのはこの女の方だ。金を貢いでくれるということの他にも、いろいろと都合がいいのだろう。本気になる輩が多くて困る、と、いつだったか嘆いていたことがあった。

時には情報も貰い、性欲の解消として抱かせて頂いてはいるが、女のけん制の道具として、利用されてもいる。男にとって、一番心地よい関係だ。

「あ、ねえ……」

「なんだね」

「次、新しい子が、入るのよ」

「君が指導する係なのかい?」

「ええ」

こうして、愛撫を施しつつ気軽に会話できるのも利点の一つだ。この女とはもう数年の関係だが、ここまで長く持っているのはこの雰囲気故でもある。

「その子がね、大佐のこと見初めちゃって……、ん、初めてはあなたがいいって」

「それは、困るな」

「どうして?」

「初物は面倒だ。せめて二番目にしてくれ」

「相変わらず酷い男……」

「そこが、君の好みなんだろう?」

胸先を舐めつつ、青い瞳を覗き込むと、粘つくような視線が帰って来た。図星だ。

「そんなことないわよ」

「嘘はよくない」

「せめて、あたしがいるからとか言ってくれてもいいのに」

「君の前だと本音が出る」

「最低ね」

「本当に?」

批難するわりには、女は終始笑顔だ。男に対して、もう女は作り物の笑みは浮かべない。物のように扱われることを好む拗れ切った女とは、相性がいい。金の一つで、簡単に縁も切れる。いつかくる終わりに、駄々をこねることもない。

「最低よ、珍しく遅れて来たと思ったら、キスの一つもしないで」

「それに関しては、いい加減機嫌を直してくれないか」

「シャワー室にこもって、暫く出てこなかったし。せっかく濡らしたのに乾いちゃった」

ふくりと膨れた女の頬のわざとらしさにさえ、心地よさを感じる。ならばと指の動きを執拗には速め、増やしてやれば、待ってましたとばかりにくびれた腰がくねり、艶やかな雫を零した。

「すまない、洗い流すのに時間がかかって」

「何を?」

「ここにくる前に、ずっと外にいたからね」

「貴方の汗の匂い、好きよ……男らしくて」

「私も、私の匂いに染まった君が好きだよ」

「やっぱり、酷い人」

もうそろそろ、と口を寄せれば、そっと頬に触れられた。ちり、とした痛みが女の指先からひびいて、男は笑った。わずかに赤くなっていたことを、今思い出した。女はどうやら、この僅かに腫れた頬が気になっていたらしい。

「大した傷じゃない」

「貴方が怪我をするだなんて、珍しいから」

ふっと笑い、ぶたれたんだと白状すれば、女の目が細められた。

「女?」

静かに嫉妬する演技もお手の物ときたものだ。男はさらに頬を釣り上げた。

「いい魚が、目の前にあったので捌こうとしたら」

「……さかな?」

予想もしていなかったであろう単語に、女は怪訝な顔をした。

「ああ、こう、べしっと」

「……ん、尻尾ではたかれた、とでもいうつもり?」

「活きのいい魚でね」

「もう、……っ、あ、こんな時に」

「魚は嫌いかい?」

「生臭いもの」

本気で顔を顰めた女の頬に、キスを送る。奥まで突き刺し弄りつくしていた3本の指を引き抜き、手早く薄く透明なそれをしっかりと上を向いた自身に被せると、当然の如くひたりと宛がう。

見えない位置で、そっと指先に纏わりついた女の体液をシーツで拭って。

「……貴方は好き?」

「そうだな……」

自ら大きく足を開いた女の、額にへばりついた金色の髪を、払ってやる。この国ではありきたりな、その眩い色。

男は一瞬だけ、かすかに聞こえた歌に引かれ、震える瞼を開けた時に目に入った月のように鮮やかな金の瞳を思い出した。

「今は、目の前にある体の方が美味しそうだ」

女が淑女らしく笑いながら腰を突き出したのと、男が腰を突き入れたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのねえ、大佐」

「なんだ」

「もう朝方なんですけど」

「いかないでと、か細い腕に絡めとられたんだ。男として無下にするわけにはいかんだろう」

「また勝手に軍服なんか着て。ったく、今回は誰のを盗んだんですか」

少し前に死にかけたってのに、とぶつくさ言いながら、コートを脱ぐ手伝いをしてくる大柄な男の忠犬な過保護ぶりに、男は頬を緩ませた。

「今日はどこの店ですか?」

「アンジーだ。尿臭い老害に絡まれて辟易してたらしい」

「言っておきますけど、それ全然人助けとかにもなってませんからね」

「わかっているとも」

本当にわかってるんですか?と肩眉を器用に釣り上げた長身の男に苦笑する。ますます主人に似てきた。長年傍にいると、やはり仕草も移るものなのだろうか。

「新しい子が入ったから降ろしてくれとも、頼まれたんだが」

「はあ?抱いたんですか?」

「私が経験のない女を相手にすると思うか?」

「思いませんね。それなら二番手に回るタイプですよアンタは」

「やはりお前は私の部下だな、ハボック」

ハボックは、じとり、と自分よりも背の低い男を見下ろした。どことなく、その表情は忌々し気だ。

「あのね、あんま町の娘に手ぇださんといてくださいよ」

「孕ませるようなマネはしていない」

そんなへまをするわけがないと、言外に込めながら肩を竦めて見せる。

「そういうことではなく。いや、そっちも大事ですけど」

「相手だとて、私なんて数いる男の一人にしか過ぎんさ」

ハボックは両眉を吊り上げた。

「大佐に本気になる女がいるから、言ってるんでしょ!オレが何度頭下げにいったか覚えてます!?」

「安心しろ、宝石一つで上機嫌になるような女しか相手にしてない」

手切れ金のみでどうにかなる関係しか築いていないというのに、馬鹿正直に頭を下げにいくハボックを、無下にすることができない理由はただ一つ。男が、このハボックという男の真っすぐさを気に入っているからだ。

男にとってハボックは、気の許せる人間の一人でもあった。

カツカツと歩を進め、手袋を外す。速度に合わせ付いてくるハボックにそれを手渡す。慣れた手つきでそれを受け取ったハボックは、ふと嗅ぎなれてはいるが、違和感のあるそれに首を傾げた。

じゃりじゃりと、手袋についている砂。鼻を近づけてみれば、主人が夜中に抜け出した時必ず身にまとって帰ってくる女物の香水。と、それに交じった、僅かな海の香り。

「……潮くさ」

「他に言い方はないのか、浜辺に出たんだ。当たり前だろう」

「手袋を出して?なんか髪も絡まってるんですけど」

「ポケットにしまっていた。が、一度潮溜まりに落ちたんだ。直ぐにしまったが、それの匂いだけはさすがに消せなかったな」

「今日の子と、浜辺デートでもしたんですか」

なんて少年のように純粋なことを、珍しい。とハボックが関心してみせれば。

「残念」

主人が見せたのは、緩やかに頬を釣り上げたいつも通りの笑みだ。切れ長の瞳が、ハボックを横流しに捉える。

 

 

 

「店の女じゃない」

 

 

と、いうことは。

 

 

「……最低って、怒られますよ」

「今日は2度ほど言われたな。お前のも含めると3度目だ。あと、変態とも」

「そりゃ言われますって」

「お前は操を立てすぎる」

「大佐が軽すぎるんですよ!あのね、ストレスが溜まるのもわかりますけどもうちょっとやり方ってもんが」

「私が最低なら、お前はそのまま真っすぐに生きろ、それで均整は取れる。いい子だなハボック」

「なんですかその理論は」

心底呆れた、とため息を零したハボックに、男は軍服を脱いだ。そして、用意されていたものに着替え始める。

 

 

 

 

 

「なに、素敵な夜は、いくつあっても足りんだろう?」

しっかりと前を見据えたまま、大佐と呼ばれた男は扉に手をかけた。

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