
魚達も寝静まり返る夜、エドワードは例の場所へ向かった。
探す時間に多くを費やすため、なるべく早く着くように尾びれを精一杯動かして。
ざぶんと、浅い水面に顔を出す。ゴツゴツした岩肌へ、最新の注意を払って静かに近づく。自分以外の気配は、しない。どうやら人間もいないようだ。ほっと安堵の吐息をついて、浅い陸地をずるずると這う。以前人間の雄を押し上げた所に向かい、よいしょっと岩に乗り上げる。
あたりは暗くて、月明かりしか頼れるものがなかった。
けれども、エドワードは夜目は聞くほうだ。それに、鱗が月の光に反射して、岩陰を照らしてくれる。相手は錆びたとはいえ、鋼だ。もし岩と岩の隙間にでも落ちていてくれれば、キラリと輝いてくれてもいいはずなのだが。
海の名前
【第一章】月の宴 Ⅱ
「やっぱり、ねえか……」
大きなため息は、今度は落胆だった。
だいぶ長い時間探してみたが、やはりどこにも落ちていない。
ものすごく残念だが、これはもう、諦めなければならないのだろう。
たかが、鋼のネックレス。人間を助けた代償だと思えばいい。そう自分に言い聞かせても、やはり切ないものは切なかった。本当に、お気に入りだったのだ。あれ以外のものなど、身に着けたいとも思わない。
「帰るかー……」
しかし、あまりここに長くいても抜け出してきたことがバレてしまう。目に見えてしょんぼりとしながら、エドワードは岩に乗り上げ、空を仰いだ。
こうして頻繁に海の中から飛び出して、月を見ることも暫くはないだろう。エドワード達人魚は、そこまで深いところで生活はしていないが、それでも海の中では月の光もこんなに明るくは届かない。人間を助けるために必死になっていた時は、月をじっくりと眺める機会もなかったが、これも、暫くは見納めだ。輝く月光。月の表面にある、うっすらとした鋼色の粒粒。月は一色だけではなかったのかと、初めて水面に顔を出した時は驚いたものだ。先生曰く、月というのは太陽の光によって輝くらしい。見えない太陽は、見えないだけで反対側にあり、月をずっと照らし続けているのだと、なんとも不思議な現象だ。人魚の中でも本物の月明かりを直に体に浴びたことがあるのは、エドワードだけだろう。
そう思うと、無くしてしまった鋼のネックレスの傷が、少しだけ癒されるような気がした。
「……戻るか」
ばしゃんっと、拗ねるように水面にしぶきをたてる。そして、水の中に映った自分の顔に向かって飛び込もうとした、その時。
「――君」
びくっ、と、体が震えた。次いで、がつ、がつと大きな音。
これはきっと、人間の足音だ。エドワードは素早い動きで体を反転させた。
まさか、まさかまさか。嘘だろう。
飛び跳ねる心臓を抑える。エドワードがいる位置から少し離れた場所。
そこに、人間が立っていた。
月明かりに照らされ、青い布をまとった人間だ。しかも、その姿形は。
忘れようもない、黒い髪に、黒い瞳。
あの嵐の日に、エドワードが助けた人間の、雄だった。
「――ッ!」
一瞬のうちに、海に飛び込む。人間は泳げない。ここにいれば安全だ。すぐに海の中に潜れるように、少しだけ頭を水面から出す。それでも、陸地とは距離を取りながら。
「まってくれ!」
思いのほか切羽詰まった声に、エドワードはぴたりと動きを止めた。そろりと、後ろを伺う。
「頼む、待ってくれ」
固く、強張った人間の声色。あの人間が、人魚であるエドワードに話しかけている。
「いかないでくれ、君と、話がしたい」
ちゃぷん。水の隙間から、人間をうかがう。先ほどよりも近づき、海に落ちない程度に岩に足をかけた人間の雄は、しっかりとエドワードを見ていた。
あの日月明かりの下で見た漆黒の瞳が、真っ直ぐにエドワードの姿を捉えていた。
「その髪の色、顔……君は、あの時私を助けてくれた人魚だな」
エドワードは驚いた。疑問形ではない、肯定だ。どうやら男はエドワードがあの時の人魚であると確信しているようだった。
あの一瞬で、よくエドワードの顔が見えたものだ。というよりも、あの時男は随分と意識が混乱していたようだが、エドワードの髪の色ならまだしも顔も覚えていたとは。人間の記憶力の良さに驚く。
返事もせずに、そのまま海に潜ることはできた。ここにエドワードが探していた物はなかったし、それに何よりエドワードは男とこれ以上触れ合うつもりはなかった。海で溺れていたから助けた、そしてその後も男は死なずにこうしてちゃんと生きていた。その事実さえわかれば十分だった。
けれどもその時、エドワードはどうしてか男から目を逸らすことができなかった。それは、男の瞳が真っ直ぐであったからだ。
無表情、と言うのに近いのだろうか、そこからはエドワード人魚達が怯えるような薄汚い欲望というのは全く感じられない。と、いうよりもどこか不思議な色をまとって凪いでいた。
普通人魚という別種の生き物を見れば、驚き目を丸くしそうなものだけれど。
「……無事、だったんだ、アンタ」
少しの安堵を乗せたエドワードの返事に、男は少しだけ目を見開いた。
何をいまさらそんなに驚いているのか。こちらが言葉を発した事がそんなにも驚くべき事なのだろうか。
確かあの時、エドワードは言葉どころか歌まで披露したはずなのだが。まあなにはともあれ、男が動いている姿を目にして実際ほっとしたのは事実だ。助かったとは思っていたが、あの後も何事もなく、きちんと家族の元へ届けられたのかはわからなかったから。
「ま、アンタを助けたのはたまたまだけどな。あんな嵐の中外に出て海に投げ出されるような馬鹿、ほっといてもよかったけど」
目に見えて安心してしまったことが気恥ずかしくて、口調がぶっきらぼうになる。今思えば、相当の事をしたものだと思う。
何を血迷ったのか欄干に飛び出していった馬鹿な男を、エドワードは必死になって助けようと海の中を疾走したのだ。そういえば、あれほど一つの命を助けなければと必死になったのは生まれてこのかた初めてだった。
母親の時を除いて。
「人間の命は短いんだろう?だったらあんな無茶なことはしないで、命大事にしろよ。死ぬまで生きたほうが絶対いい」
欠けた月が綺麗に映り、しんとはったような水面が微かに揺れた。
かさりと、岩から伸びた長い草が、男が一歩足を踏み出したことによって水面を掠めたからだ。
「……じゃあな」
静かな夜の中、沈黙はわずかだった。もう用は終わった。散々探しても見つからなかったのだが、ここにもないのだろう。それに、その代わりに人間の生存を確認できた。これ以上の長居は無用だ。エドワードは男の視線から体を背けそのまま尾びれを返し今度こそ海の中へもぐろうとしたのだが。
「わっ」
と、間抜けな声がして思わず振り向けば、そこにはいまにもバランスを崩して岩場から海に落ちそうになっている男の姿が。
「……ッあぶねえ!」
ほぼ、条件反射だった。前にこの男が目の前で海に投げ出された瞬間を見てしまったからかもしれない。水面に尾びれをぱ勢いよく打ち付け、素早く前に進む。そして、つんのめるように宙に投げ出された男へと手を伸ばす。
「―――へ?」
と、同時に感じた浮遊感。海の中のそれとは違う感覚に目を向いた。気が付いた時には、強い力で腕を掴まれぐいっと陸に引っ張り上げられていた。上半身はもちろんのこと、鱗に覆われた下半身も岩に乗しあげられ、目の前には人間の服が。
どたんと、倒れ込む。一瞬の出来事。
エドワードはあっと言う間に、逞しい人間の身体の中にすっぽりと収まってしまっていた。
ばちゃんと、かろうじて水面に接触していた尾びれが虚しく海を蹴る。
ぽかんとしたまま顔を上げれば、そこには先程とは売って変わって柔らかな笑みを浮かべた人間が、エドワードを見下ろしていた。
「……捕まえた」
―――得意気な一言に、カッと、頬に熱がともる。
「……てめっ」
騙された。湧き上がる怒りのままに尾びれをばしゃんと水面を叩きつけても、身体のほとんどが地上に出てしまっているため大した威力はでなかった。わずかに飛び散った水滴が、エドワードと男の身体にかかっただけだ。
「騙したな、人間!」
なんとか男の身体から逃れようと身を捩るも、人間の身体はエドワードの華奢な体と比べてもはるかに筋肉質で逞しかった。
あの時はそんな事を気にしている余裕はなかったが、どうやら人間の身体は人魚の雄とさほど変わらずしっかりとした体付きのようだ。むしろこの男は布に覆われた部分から見れば細身のようだが、ぐっと押し付けられる肢体は硬く盛り上がっている。
肩幅も広い。細い腕を一回りも二回りも大きな手のひらで押さえつけられてしまえば、例え泳ぎのうまい、しなやかな筋肉を持つエドワードであっても男の腕の中から脱出することはできなかった。
「離せてめえ!このっ」
「君は、随分とお人よしの人魚のようだ」
大きな手で肩をがっちりと掴まれ、耳元で囁かれエドワードの身体が震えた。
思いのほか近くで聞こえてきた男の声は、エドワードが聞いてきたどの雄の声よりも低く、神経を縫い、直接脳内に入り込んでくるような響きを持っていた。あの時の、ぼんやりとした無防備な声とは違う、相手を取り込むような、そんな声色だ。
「……オレは」
先程感じた腹の底が煮えくり返るような怒りと、耳元に注がれたむず痒さ。その相反する二つの衝動を、渾身の力で口に乗せる。
「自分の命を粗末に扱って、相手の力量を図ろうとする奴が大嫌いなんだよ!」
ぴたりと、男の動きが止まった。わずかに震えてしまった声を相手に伝えないようにしたつもりだったが、男にはしっかりと伝わってしまっていたらしい。
男は、ゆっくりとエドワードの拘束を解いた。きつく抱きしめられていた腕からだんだんと力が抜けてゆくのがわかる。エドワードの腕は、掴まれたままだったけれども。
「すまない、まさかそこまで怒らせてしまうとは」
すまない、と謝っておきながら、男は消沈する様子も見せずどこか驚いているようだった。
「脅かせるつもりは、なかったんだが」
バツが悪そうに視線を少し彷徨わせた男は、君がすぐに帰ってしまおうとするものだから、と、おどけたように肩をすくめた。
「ば、かじゃないのか……そんなことで命投げ出そうとしてんじゃねえよ」
「いや別に、ここはそこまで深くはないし。そう簡単に溺れたりはしないよ」
「泳げもしない人間が何言ってんだッ」
唾を吐く勢いで怒鳴り散らせば、男はきょとんと目を瞬かせた。その表情がどこか幼く見えて、エドワードは怒りも忘れてまじまじと男の顔を見つめてしまった。よく見れば、この男はその逞しい体付きに似合わず、だいぶ幼い顔をしているように思えた。人間の顔と年齢にどれほどの差異があるのかはわからないが、もしも人魚のそれと異なるとしたら、仲間内でも小さ……幼いとからかわれているエドワードよりも若いのかもしれない。
「人間は泳げるぞ」
「は?」
そんな事を考えていたからか、男の言葉に反応が少し遅れてしまった。
「何を勘違いしているのかは知らないがね、泳げるよ、人間は」
「はぁ?嘘言ってんじゃねえよ。だってアンタ海に投げ出された時、泳げなくてバタバタしてたじゃん」
必死に海の水を蹴り上げていたあの姿は、到底泳ぎと呼べるようなものではなかった。
「あれは緊急事態だったからだ、あんな荒波に揉まれても泳げる人間がいたら是非お目にかかりたいものだね。あわよくばご教授願いたいところだ」
「尾びれがないのに、泳げるのか」
「尾びれの変わりにこれを使う」
すっと男が足を立てて、自身の足を指差した。布に覆われた人間の足は折りたたまれた事で盛り上がり、布の上からでもわかるほどに硬くなっている。ためしに解放されていた手でわしっと掴んでみれば、ほどよい筋肉の張りがエドワードの手のひらを押し返した。
何度か揉んでみても、その固さは変わらない。たいした筋肉量だ。もちろん個体差はあるだろうが、水の抵抗に対抗するために発達した人魚の下半身も、人間のそれと大差ないようにも思えた。
「はーそうなのか、すげえ。なんだよ……人間の足もまだまだ捨てたもんじゃねえな」
持ち前の探究心が疼く。目の前に、あれほど興味を持っていた人間の足があるのだ。こんな機会滅多にない。思う存分男の足を観察する。
「なあ、人間の足に鱗はないのか?ないよな、じゃあやっぱり人魚の尾びれのほうが海の中では」
適してる、と言いかけて口をつぐんだ。顔を上げた拍子に、至近距離にあった男と目があったからだ。人間と会話をしてはいけない、人間の前に姿を現してはいけないなんて掟も忘れて、興味の対象である人間の足に没頭してしまったエドワードは男の顔を見て直ぐに手を離した。
先程からこの男は、やけに驚いてばかりいる。
「なんだよ」
「あ、いや」
言い淀んだ男の不可思議な表情に、エドワードはそこでやっと、今まで自分がしてきた行いの無礼さに気が付いた。
「……悪かったな、急に触って」
まさに顔から火が出る思いとはこのことだ。どんな生き物であろうと、急に足を触りまくるなどやっていいことではない。しかも相手は異種族だ。エドワードが急に人間に尾びれを握られ触られたら驚くし、不快だ。そんなことエドワードだってわかっているはずなのに、湧き上がる人間の身体の構造への探究心を抑え切れなかった。これだから、弟やウィンリィに知識欲馬鹿と言われてしまうのだ。
「怒鳴っても、悪かったよ。人間って海に入れば死ぬもんだとばっかり思ってたから」
言い訳臭いが、実際その通りなのだから仕方がない。
「じゃ、オレ帰るから、いい加減手離せ」
何をもって人魚を陸にあがらせるなどという事をけしかけてきたのかはわからないが、男の様子からみても別にとって食おうというつもりではないらしい。辺りに、男以外の気配も感じられない。エドワードは男の大きな胸板を押し返して腕を掴んでくる手を離そうとした。が、いつまでたっても外れない。
「おい!」
「いや、違う、違うんだ」
静かに、人間が首を振る。
「あまりにも、君が警戒心を持たないものだから、驚いて」
「警戒心?」
人間のその言葉に、今度はエドワードが目を見張る番だった。
そうだ、自分は逃げようとしていたのだ。なのに、人間のペースにはまって普通に会話をしてしまった。本来ならば、すぐに海に潜らなければいけないものを。
「人魚を見たのは、初めてだったんだ」
ぽつりと、男が唐突に零した。
「君の、月の光に照らされた瞳がとても印象的で」
エドワードは引っ張っていた腕を止めた。月の光を背後に男の顔を見上げる。黒い髪が淡い光とまじりあい濃紺となり、真っ暗な瞳はこの世のすべての光を吸収しているようだった。それは、エドワードが男を見下ろしていたあの時とはまったく真逆の位置で。
「とても、綺麗だと思った」
手を、胸元まで持っていかれる。微動だにしない男にじっと見降ろされ、エドワードは背筋にじわじわとかけあがってくる何とも言えぬむず痒さに身震いした。
全てを、見透かされてしまいそうな目だ。
「なに、言ってんのアンタ……」
動揺を隠すためにぎっと睨み付ければ、男はふっと頬を綻ばせた。降参だと意味のわからない事を呟いて肩をすくめる。芝居がかったその姿は、かつてこの海で溺れ、死にかけていた男だとは思えない。
「つれないね、人魚なのに」
しょうもない事を言いながら、、なにやら布の間から小さなものを取り出した。
「これは、君のかい?」
―――ちり、と、男の指の下で揺れる鈍色に、エドワードは大きく口を開けてしまった。
「あ」
いま男が手にしているものは、まぎれもなく。
「それ……」
「やはり、君のだったか」
エドワードが散々探し求めた、あの鋼のネックレスだった。
散々探し回ったものが今、男の手の中にある。全く持って予想外すぎる事実だ。まさか、こんなところにあっただなんて。
「どこで、見つけたんだ」
「ここだよ。助かった後にここに来た時に、これが岩の隙間に落ちてたんだ」
ということは、海に戻ろうとした時に落としたということだろうか。確か、他の人間の気配を感じて急いで海の中へ帰った記憶がある。あの時か。
「なんだ、よかった。返してくれ、探してたんだ」
「うん、残念ながらそれはできないな」
「……は?」
さらっと無碍もなく断られて、エドワードはぽかんと口を開けてしてしまった。
「私と話をしてくれ。そうしたらこれを返そう」
にこにこと笑った男は、エドワードに奪い取られないように腕を高くかかげた。頭上でゆれるネックレス。仮にエドワードに足があったとしても、エドワードと男には身長差がかなりあるだろう。そもそも体付きも違うのだ。これでは手を伸ばしたとしても届かない。
「何言ってんだアンタ、子どもか?」
人魚のエドワードから見ても、目の前の男の行動は子どもじみていた。
年上であると思っていたが、やはりこの男はこう見えてまだ幼い人間なのだろうか。
「返せよ」
ムっとして、精一杯背伸びをして取ろうとすれば男は立ちあがった。エドワードに人間のような足があれば飛び跳ねてでも取れるだろうが、こうなるとどうすることもできない。ここはエドワードが上下左右自由自在に泳ぎ回れる海ではなく、這いずってでしか動くことのできない陸地なのだ。
「てめえ!」
「私と話をしよう、小さな人魚姫」
未だに微笑みを絶やさずエドワードを見下ろしてくる男に禁句を口に出されて、ただでさえ怒りのボルテージの低いエドワードはびちびちと尾びれで海面を叩いた。
「小さい言うな、姫もやめろ!っていうかなんだよさっきから話、話って、別に話すこともなんもねえだろうが」
「おや?女の子というのはお姫様扱いをされて喜ぶのではないのかな?」
「人間の常識をあてはめんな!」
「おお怖い怖い、勇ましいな」
「はたくぞ、尾びれで」
「まあ落ち着き給えよ、命を助けてくれた恩人を、何の御礼もなしに帰すほど私は薄情な人間ではないのでね」
面白がるように鋼のネックレスをぶらぶらとふられ、ついにエドワードは怒りを通り越して一気に脱力した。
なんだ、なんなんだこの人間の男は。静かで、冷たい海の底のような目でこちらを見つめていたかと思うと、こうしてひょうきんな、人魚を食ったような態度を見せてくる。
本当にこの男はついこの間、真っ青な顔をして死にかけていた人間なのだろうか。違う人間なのではないか?
しかし、どこからどうみても顔は同じだ。その切れ長な黒い瞳も、薄い唇も。あの時よりは血色も戻っているが、澄んだサンゴのような白い肌は紛れもなくあの時の人間だった。
人間は命が短い故に、感情豊かでその分性格はとても難解で入り組んでいると、いつだったか先生が言っていたが、どうやらその通りらしい。
「アンタ、もしかして本当はすっごくすっごく子どもなの?」
ふいに変わった話題に、今度は男が片眉を上げる番だった。
「いきなりな質問だね。私はもう成人済みだよ」
「いくつ?」
ぴくり、と動いた男のこめかみをエドワードは見逃さなかった。
「……29歳だ」
「にじゅうきゅう!?嘘だろ」
ぴくぴくぴく、どうやら、若くみえるというのはこの男にとって禁句だったらしい。けれどもエドワードは男の地雷なんかよりも男が14も年上だったことに驚きを隠せなかった。全然そんな風には見えなかった。やはり人間というのは、顔と年齢が一致しない生き物なのかもしれない。
「それにしてはガキっぽい顔してんな」
「……君も人の事は言えないのではないかな」
「オレ、まだ15だもん」
「15?……それにしては、ち」
「それ以上言ったら海に引きずり込む」
男を睨みつける。軽い応酬を繰り返してはいるものの、男は未だに手を高くかかげたままこちらを見降ろしたままだ。
「君のような麗しい人魚に引きずり込まれるのも、悪くはないな」
「アンタバカなんだな?わかった、いいから返せ」
「それは承諾しかねる」
さらに鋭い眼差しで男を睨んでも、男は体勢どころか表情さえも崩さなかった。この分だとどうやら本当に返してくれる気はなさそうだ。エドワードは疲れたように岩場に突っ伏した。
なんだか、この数分間で一気に歳を取った気分だ。
「……わかった、わかったよ」
先に根負けしたのはエドワードのほうだった。散々怒鳴ってしまったせいで空気も薄い。人魚は肺呼吸もできるが、鰓呼吸に比べれば全然だ。うまく呼吸をしても1時間も持たない。どうやら、今はこちらの方が分が悪い。エドワードは早々に諦めた。
「話とやらが終わるまで帰らねえから、一旦海に戻させてくれ。そろそろ鱗が渇きそうだ」
「毎晩来てた?本当に?」
「ああ。あれから一週間たったが、毎晩ここに来ていた」
「なんで」
「君に、お礼をいいたくて」
「……さっきも、同じような事言ってたよな」
エドワードは岩に腰かけた人間の雄──男の隣に、ひじをついて身を乗り上げた。お互い、名乗ってはいない。
人魚は気心知れた相手以外に名を名乗ることはあまりしない。名は相手を、人魚自身を縛る。自分と関係が深い相手であればあるほど、『名を呼ばれ』れば体が、心が反応する。だからこそエドワードは、親しい者以外には名を伝えていない。
同様に、エドワードにとっても名を知らぬ人魚もいるのだ。同種ではない人間相手にはどうなるかはわからなかったが、人魚の歌には人間を引き寄せる力があるともいわれているし、用心に越したことはない。互いを縛ってしまえばお互いが困る。だからエドワードも、この人間の男に自分の名を教えようとはしなかった。
ちなみに弟のアルはだれかれ構わず名を教えている。本人いわく、「どうでもいい相手に名を呼ばれたって引っ張られない」だそうだ。大した精神力、我が弟ながら勇ましい。
下半身は海に浸かっているため、陸地に上がって暫くたったが苦しさはない。だからこそゆっくりと男を観察することができた。
よく見なくとも、月明かりに照らされた顔は美しかった。人魚も顔も人間から見れば造形は整っている種族だと言われているらしいが、この人間の男の顔は綺麗というよりも、整然としている。人魚は神秘的だとすれば、この男は清楚。男に清楚という単語は似合わないかもしれないが、そういったほうが正しいような気がした。
闇に近い濃紺の布に包まれた青い布も固く、ごわごわとしている。人魚は布を身体に巻きつける習慣はないが、人間の男の姿を見るに服というのはどうも動きづらそうだ。こんな風に、浜辺の地べたに座りこんでいてもどこか様になっている。人間というのはみなこういう生き物なのだろうか。それともこの男だけなのだろうか。
「助けてくれて有難う。君がいなければ、私は今頃海の藻屑だった」
「うみのもくず?」
海と、藻屑。聞きなれない単語の併用に首をかしげる。一拍置いてから、それは人間が海に飲まれた時の比喩表現である事に気が付いて、エドワードはなんだか心が弾みだした。
人間だ。人間なんだ、今目の前にいる男は、言語も所々異なるエドワードとは違う種族の、人間だ。ずっと話して見たいと思って、まさに焦がれていた人間。エドワードにとって外の世界の象徴。そんな人間と、今向かい合って会話をしている。興奮しないはずがなかった。
「海の藻屑か、なるほど。変な言葉使うんだな人間って」
「……気にするべきところはそこかい?私は今君にお礼を言っているのだが」
「べっつに、いらねえよお礼なんて。さっきも言ったけど、たまたま近くでアンタが投げ出されたのが見えたから助けただけだし。気まぐれだよ、気まぐれ」
人間が海に落ちたのを見た瞬間は肝が冷え、死に物狂いで助け出したことは絶対に言わない。
エドワードの幼馴染がここにいれば、またアンタはそうやって照れて、と苦笑しながら小言を言われるだろうが幸いここにいるのはエドワードと人間の男だけだ。素直にお礼を言われるのなんて、気恥ずかしくてたまらない。
「まぁ、あん時のアンタって唇なんて紫で死骸みたいな顔してたからな。こうしてしっかりした顔見れて安心したのは事実だけどよ」
自然な動作で手を伸ばす。エドワードを会話をしようと屈んでいた男の唇に指先はすぐに届いた。
僅かばかり目を見開いた男の薄い唇を、冷えた指先で触れる。柔らかな食感。あの時紫色になっていた唇は今は綺麗な赤みを増し、たしかな血色を保っていた。するりと頬を指先で掠れば、ピクリと皮膚が蠢いた。夜の海のように冷えていた頬も、今ではすっかり暖かくなっている。よかった。確かに生きている。無事に助けることができた。海のさざ波を背後に、ぼんやりと男を見上げているとふいに腕を取られた。
「わ、なんだよ!」
「それは私の台詞だよ、人魚のお姫様。そんなに私の唇が気になるのかい?可愛らしいお誘いだが、いささか稚拙すぎやしないかな?まあそれも魅力的だがね」
「誘ぃい?別に、もうアンタを海の中に引きずりこもうなんて思ってねえよ。アンタも用心深いな。ただ人間の身体ってどうなってんのかな……って思っただけだ」
ぐっと手を引けば、腕は簡単に外れた。しかし男に手を掴まれたことよりも、目の前の人間の男の身体が気になって気になって仕方がなかった。先ほど無意識に足をもんで男に諫められた事なんて綺麗さぱり頭の中から抜け落ちていた。生きている人間の男だ。むずむずと湧き上がってくる探究心が抑えられない。隙を見て腕を伸ばし、再び唇に触れぐっと押し上げれば白い歯が見えた。
「うぶっ……」
「すげえ、歯もちゃんと生えそろってる!」
むにむにと唇をつまむのに夢中になっているとまたもや男に腕を引き剥がされた。今度は先ほどよりも強い力だ。
「ちょっ、離せよ」
「君ね、人魚の世界では相手に口に指を突っ込むのが挨拶なのかね」
ぐっと腕を引かれる。至近距離にある男は片眉を上げていた。
その呆れるような表情に、さすがのエドワードもはっとする。またやってしまった。初対面の男に向かって物珍しいからといって唇をひっつかむのはいささ度が過ぎた。
「……わりぃ」
じっとこちらを見つめてくる黒から目を逸らす。
「いや、わりぃほんと、オレ気になることがあると見境なくなっちまってさ」
興味のある事があれば他に一切目がいかなくなってしまうのが、エドワードの悪いくせだ。先ほども反省したばかりだというのに。やはり、長年染みついた探求心は些細な事で爆発してしまう。
「よく周りから怒られるんだ。この知識欲バカって。気になることはなんでも解明したいってクセになっちまってるんだよな。アンタって初めて会話する人間だから珍しくって。……無遠慮に触っちまって、悪かったよ」
そろそろ掴まれた腕が痛くなってきた。自分が助けた人間だとは言え、エドワードにとって人間は未知だ。
悪い人間には見えないし、今は普通に会話をしているが、このまま捕えられ陸に引きずり込まれることもあるかもしれない。尾びれで水をはたき大量に浴びせでもすればなんとかなると高をくくっていたが、本来ならばこんな簡単に近づいていい相手ではないのだ。鋼のネックレスは岩場の奥に置かれており、簡単にエドワードが取りに行ける場所ではない。どうしたものかと思考を巡らせていると、ふいに手首のにかかっていた圧力が消えた。
「君、は」
なんとも言えない声色だった。どこか抜けたような、それでいて警戒しているような。
「本当に人魚なのか」
「ああ?」
エドワードは眉根を吊り上げた。なんだそのみょうちきりんな質問は。
「アンタ、これ見えねえの?」
ぱしゃり、冷たい水面に小さな波紋を広がらせる。
「いや、そうではなく。少し意外で」
意外、とはどういうことなのか。じっと見つめてくるエドワードの視線に気が付いたのか、それとも睨み付けるような眼力にひるんだのか、男は、困ったように眉を上下させた。先程から思っていた事だが、この人間の男の動きはどこか芝居臭い。
「なんというか、想像していた人魚と、君があまりにも違うから」
「違う?なんでだよ」
「聞きたいかい?」
面白がるように、吊り上げられた口元。その胡散臭い笑みにじとっと視線を向けると、男はさらに笑みを深くした
。言いたいのならさっさと言えばいいのに、この男はいちいちエドワードに伺いをたて、その反応を面白がっているかのようだ。それが妙に苛立たしくて、エドワードは揺さぶられる探究心をぐっと堪えた。
「別に。っていうか離せ」
「まあそう言わないで聞いてくれ」
かと思えば、強引だ。腕を引こうとすれば、強い力で戻される。距離が縮まった男の瞳は、エドワードがよく見る夜の海にそっくりだった。日の光が届かない不思議の色。昔は、暗い闇の向こうから何か得体のしれないものが出てきそうな気がして恐ろしかったが、成長した今ではそんなこともない。なのに、なぜか今の男の瞳はどこかそれと被った。そこまで近いわけでもないのに、吸い込まれそうな暗い何かが闇の奥に潜んでいるような気がして、尾びれからじわじわと水が浸透していくような薄ら寒さを覚える。
「人間の世界では、人魚というのは欲深い魔物とされているんだ。扇情的な体で色香を振りまき、歌声を使い人間をたぶらかし、海に引きずり込み、長い尾びれで人間を窒息させ貪り喰らい、そして殺した人間から金銀財宝を盗み身体に身に着ける、傲慢で強かで恐ろしい―――化け物だと」
一瞬、男の瞳がけぶったように見えた。けれどもそれは直ぐに暗い闇に戻った。
「おいコラ、聞き捨てならねえな。確かに、難破した人間の船から宝石を取ったりして着飾る人魚もいるけど、オレはしない。それに人魚は人間なんか食わねえよ」
「そのようだね……君は」
「オレ以外の人魚だって同じだっ」
すっと細められた瞳は、どこか訝しげだった。人間を喰らう、などとんでもない噂だ。むしろ人魚のほうこそ捕まったら骨も残さず人間に喰われ、皮膚は剥製にされると怯え、人間との接触を避けてきたというのに。
「ふん……人間だって、人魚を食うって噂だぞ」
エドワードは師事を受ける魔女から、人間は人魚など食べないとは聞いていた。それに、初めて出会った人間の男の様子からも察するに、人間にとって人魚は食料という扱いではないようだ。疑っていたわけではなかったが、やはり、先生の言っていたことは正しかった。けれども、こんな根も葉もない恐ろしい噂を流されておいて気分がいいはずはない。しかも、男はエドワードの話を信用していないように見える。これぐらいのイジワルならば許されるだろう。
「人間が人魚を?」
案の定、エドワードの話を聞いた男は驚いたように目を―――見開いたりはしなかった。代わりに見開いたのは、他でもないエドワードの方だ。
「ああ、あるかもしれないな」
「え!?」
「人魚を食べれば不老不死になるという伝説があるからね。欲の深い人間の事だ、もしかしたら実際に喰らった人間もいるかもしれない。幸い、私の周りにそんな酔狂な人間はいないが」
「人魚、食うのかよ……」
呆然と、しかし、確実にじりじりと後退してゆくエドワードに男はふと表情を綻ばせた。
「冗談だよ。すまない、怯える君が可愛らしくて、つい。確かに人魚の肉に不老不死の力が宿るという言い伝えは存在するが、そんなものは眉唾だ。みなわかっているよ」
薄い笑みを浮かべられても、エドワードは安心できなかった。おかしなマネをされたら直ぐにでも海に飛び込めるように、わずかに身体を男から背ける。
「本当かよ……」
「本当だとも、だからそんなに警戒しないでくれ。私は君を食べたいなんて思わない。例え死ぬ間近だったとしてもだ」
「だって、人間って魚食うんだろ?」
男はここでやっと、わずかに驚いたような表情を見せた。
「人魚は、海鮮類を食べないのか?」
エドワードはゆっくりと首を振った。人魚は、魚なんて食べない。人間の方は食べることはもちろん知っているが。魚は人魚のように知識的な思考を持ってはいないが、一応同じ尾びれを持つもの同士、種は近いのだ。食べようと思えば食べれるのだろうが、魚を喰らう人魚なんて見たことがない。
「アメストリス……この国は、海に囲まれた土地だから海鮮物は主流なんだがね。もちろん動物の肉も食べる。君は……君たちは何を食べて生きているんだ?」
「わかんねえけど……たぶんプランクトンってやつだと思う。あっでも、たまにワカメとかは食べたりするぜ、おやつに」
「海に生息する微生物、ということはつまり、ほぼ食べていないということか」
「無意識の内に摂取はしてる、らしい。自分の感覚ではあんまりわかんねえけど」
「明確に食卓を囲む、という行為はないんだな」
納得したように顎に手を乗せる男に、エドワードは首を傾げた。またも、聞きなれない単語だ。
「食卓を囲む?」
「あ?ああ、頂きますと言ってから命を頂くこと、かな」
「へぇ」
なるほど、命を頂くか。わかりやすい。
「人間って、思ったよりちゃんとしてんだな」
生活の違いはもちろんあるとは思っていたし、そう教えられてもいた。けれど、実際の話を人魚からの噂で聞くのと、人間本人から聞くのではわけが違う。しみじみとそう呟くと、男がそんなエドワードのようすに面白そうに喉を振わせた。くつくつと、エドワードの皮膚を震わすような低い響きだ。広い肩が、細かく揺れている。
「まさか人魚に、そんな事を言われるとは」
「なんだよそれ。バカにしてんのか」
「いや、驚いているんだ。ここまで人魚と意思疎通できるものとは思っていなかったからね。まるで人間のようだ……本当に」
「あんただって人魚みたいだぞ」
「……君の歌が、忘れられなくて」
ぽつりと、頭上に落とされた声がどこか心元なくて、突然の話の転換よりもそちらのほうが気になってしまった。伏せられた長いまつ毛がぱさぱさと震える。そういえばあの時、エドワードは何をしただろうか。たしか男の睫についた水滴が邪魔だろうと思って、唇で吸い取ったのだ。別に、人魚同士はよくやる行為であるから大したことではない。けれど、男の黒い睫を見ているとなんだか急に恥ずかしくなって、エドワードは少しだけ下を向いた。
「人魚の歌というものは、あれほどにまで美しいものなのだな」
男が、流れるように横を向いた。遠い海に思いを馳せるように、すっと細められた瞼。真っ直ぐに通った鼻すじに光が差し込む。以外に太い首回りの喉仏が、わずかに上下した。
「人魚の歌に惹かれてこぞって人間が海に飛び込んでしまうというのもわかる気がするよ」
人魚の歌には、催眠効果があるという。師匠にも聞いてみたが、真偽の程はわからないそうだ。男を助ける際に歌を歌ってみた時に、確かに人間達はやってきた。しかし、あれでは人間達が歌に惹かれたのかエドワードの声に気が付いたのかはわからない。
「いや違うな、人魚というより」
男が、ゆっくりとこちらを向いた。
「君の声が、美しいんだ」
ぴしりと、固まる。
「先程はああいったが、化け物なんてとんでもない。目が覚めたあの時、なんて美しい生き物がいるのかと思ったよ」
目が覚めた時というのは、エドワードの心配蘇生によって男の目が覚めた時の事だろう。尾びれと腹部の境界線に男の頭を置いて、エドワードは男の目が覚める瞬間をしっかりと見たのだ。
「でも咄嗟にわかった、人間ではないとね。こんなに美しい生き物、人間であるはずがないと。濡れた髪と肌が心地よくて、海の女神かと思った。女神が、海に流された私を迎えに来たのかと。頭上にある月よりも、君のその世界中の光が全て凝縮されたような瞳と髪の麗しさに、私は見惚れていたんだ。今まで見てきたどんな宝石よりも君は輝いていて、綺麗で、とても眩しかった。それでも目は逸らせなかった。死にかけたというのに、もう死んでいるかもしれないのに、苦しんでいたことも忘れて私は君に見入っていた。そして君の歌声が聞こえてきて、私は―――」
「お、おい!」
唐突に始まった男の語りに、エドワードは恥ずかしさのあまりに腕を引っ張った。
しかし、男の手は離れない。こんな賛辞の羅列、今まで言われたことなどない。
エドワードは他のどの人魚と比べても地味だ。典型的な人魚は、麗しい容姿に類まれなる美貌。そして女性的な体を持ち合わせている。しかしエドワードの体つきは貧相な事この上なかった。貝殻に隠されている二つのふくらみはどこからどう見ても小さいし、腹周りにはくびれもない。身体だって、木の棒のようだ。
様々な色を反射する鱗も、虹色に輝く他の女性たちと比べても金一色だ。目だって大きいばかりで、鋭く釣りあがっていて性格が悪そうで全然魅力的ではない。むしろいつも睨むなとまわりに怯えられる始末だ。まろやかでたっぷりの髪を水中に漂わせる人魚と比べて、癖のないまっすぐな金色の髪だって特段珍しいものではない。瞳の色も鱗も金というのはエドワードだけだが、これも、さほど目に留まるものでもない。むしろ、様々な色を身にまとう人魚にとって同系色は変わり映えしない。
それに、他の女魚のように沈没した船などで海の中に落ちてきた色とりどりの宝石を身にまとうことにも興味がなくて、むしろ泳ぐのに邪魔だと思っている。唯一気に入っているのはさびた鋼のネックレスだけ。エドワードには綺麗な幼馴染がいて、ウィンリぃちゃんは可愛いのにどうしてエドワードは……なんて馬鹿にされたりもする。つまり、雌らしくないともっぱらの評判なのだ。
それをこの男は、「海の女神」だなんて称する。背筋が冷えるような恥ずかしさに、顔から火が出てしまいそうだった。
大好きな弟だって、自分の姉をそう評したりなんかしない。どちらかと言うと、研究のためとワカメをむしり取ったりする姉を心の中では海の破壊神とでも呼んでいるに違いない。いや実際呼んでいるし、呼ばれたこともある。
「ア、アンタっていっつもそういう事言うのかよ」
人魚の世界でも、こんなにキザな事をいう雄はいない。そういえば、この男は出会った時からそうだった。口調だってどこか命令口調だし、もしかすれば人間界においても何かしらの地位がある男なのかもしれない。
「そんな事とは?」
「はぐらかすなよ、その……薄気色悪い喋り方だ」
「薄気色悪いとは酷いな、本音を言ったまでだよ」
本当に本音なのかと、エドワードは喰ってかかった。
照れていることを目の前の男に悟られたくなくて、ついつい声が大きくなる。
「別に、助けられたからって気い使うのやめろ。しかも、オレみたいなみすぼらしい奴に。海の中でも異端児扱いなんだから」
拗ねたように言ったわけでもないのに、そう聞こえてしまったらしい。
男は面白い事を聞いたとばかりに身を乗り出してきた。からかいの餌を与えてしまったと、エドワードは瞬時に悟る。
「異端児扱い、君が?」
「そりゃ、そうだろ」
「なぜ?どうして君が海の中でそういう扱いを受けているのか理由が知りたいね。みすぼらしいなんて、君には一番似合わない言葉だ」
「だっ……から!そういうのやめろって!」
掴まれた手を解こうとすると、またもや強い力で握りしめられた。
痛くはないが、男のやけに真剣な表情がぐいっと眼前にきて、少しだけ体を引いてしまった。
「ちょっ……ちけえ」
「君以外の人魚は見たことがないから信じることは難しいかもしれないが、私は、君以上に綺麗なものを見たことがない」
漆黒の瞳に覗きこまれて、エドワードは動けなくなった。腕を振りほどくことも忘れ、男の瞳に映る自分の呆けた顔を見つめる。
胸の奥がざわざわと揺らめき、地上にいるのに海の中で揺蕩っているように、それでいて小さな嵐が身体の奥底であらぶっているような、不思議な感覚に支配される。
「宝石を身体中に身に着け、着飾っている人間もこの世の中には大勢いる。けれども君は違う。宝石などに頼らずとも、十二分に美しい。君は人間の私を必死に助けてくれて、介抱してくれた。あの後、仲間から聞いた。君が流れる流木に潰され、傷つけられながらも、嵐の中私を陸まで運んでくれたことを」
仲間。きっと、遠くの船の上から男を追って飛び込もうとしていた人間達のことだろう。男を抱えているため潜るわけにもいかず、打ち寄せるなれない波と重たい男を庇いながらの泳ぎはとても大変で、何度も激しい流木に散々ぶつかった。その時できた傷痕はもうすっかり癒えたのだが、みっともなく泳ぐ姿をどうやら見られていたらしい。
男が、真剣だった眦を下げて薄く笑った。腕にかかっていた圧が、すっと離れてゆく。
どうやら自分は、相当驚いたような顔をしていたようだ。
「急にすまない。驚かせてしまったね。でも今だってそうだろう?君はこうして帰らないでいてくれる。君が落としたネックレスを人質に取ると言う卑怯な真似をしている私に何も言わず、側にいてくれている。嬉しいよ、私を助けてくれたのが君でよかった。海の女神ではなく、優しい人魚の君で」