
わたしはいま、しあわせです
幸福論
○月○日、幸せ230日目。
大きくなったお腹を、後ろから優しく撫でてやる。
すると、金髪の少女はくすぐったそうに身をすくめながら、こちらに顔を向けてきた。
「くすぐったいって」
くすくすと、笑いながらはにかむその姿はとても綺麗で、思わずその顔に見とれてしまう。
「すまない、つい」
「まったくもう」
あんたって奴は、と言いながら、私の手をゆっくりとほどいた彼女は、くるりと体の向きを変えた。真正面からみる彼女のお腹は、ぽっこりと膨らんでいて、小柄な体には随分と重そうだ。
「あっ、いま蹴ったぞ!」
心底嬉しそうに目尻を下げはしゃぐ姿は、数々の苦難を背負い、それを乗り越えてきた猛者にはとても見えなかった。苦しんで苦しみ抜いてきた過去の彼女の姿とは、想像もつかないほどに。
「誰に似てるかな、おれかな、アンタかな」
「もしかしたらアルフォンスかもしれんな」
「アルかあ」
それはいいな、と彼女が微笑む。
「もうすぐだな」
「ああ」
「随分時間かかったよな、予定外だったぜ」
「……すまなかった」
「ははっ、あんだけ歩く種馬とか言われてたのになぁ、あんた」
「まて、それは誰情報だ」
「決まってんじゃん」
「あいつめ……」
さっと脳裏に浮かんだのは金髪で煙草好きの部下だ。あの口だけ達者な部下め、あとで絞めてやる。
「やっと、だなぁ」
ふいに、彼女の口からぽつりともれた言葉には、きっといろいろな感情が込められているのだろう。自分には計り知ることのできない、数多くの何かが。
「ああ、そうだな」
真正面から彼女の腰に、ぎゅっと腕を回す。
両腕にすっぽりと収まるくらいの彼女は相変わらず小さいままだったが、これまでとは決定的に違う。そのお腹は大きく膨らんでいて、命が宿っているのだと確かに感じることができた。
「……エドワード」
「んー?」
ゆるりと、大きなお腹を愛おしそうに撫でている彼女の金色のつむじに声をかける。
「君は今、幸せか?」
目をぱちくりと瞬かせてから、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「当たり前だろ、今までで一番幸せだ!」
本当に、本当に幸せそうに笑う彼女に、抱いた腕に力がこもる。
「そうか」
彼女の、こんな無邪気な笑顔を見たのは久しぶりだ。前にこの表情を見たのは、弟の身体が戻った時と、その前のあの時以来だろうか。夕日を背景に花のように笑った彼女も、戦いを終えて勝利の雄叫びを上げた時の彼女も、思わず見惚れてしまう程に美しかった。
「あ、なあなあ、いつにする?」
ふいに、思い出したかのようにかけられた言葉に、私は思考を遮断させて目の前の妻を見た。
「君が、決めていいよ」
「何言ってんだよ、二人で決めるって約束だろ」
途端にむっと眉間に皺をよせた彼女に、慌てて言葉を繕う。
「わかった、わかった。じゃあ、君はいつがいいんだ?」
折角見ることのできた彼女の笑顔を、消し去りたくはなかった。
「まあおれとしては、予定日の1週間前あたりがいいかなーって」
「1週間前か」
ふと、鮮やかな夕焼け色に染まった窓の外を見る。
「あんたはいつがいい?」
「......やっぱり、この子が生まれてからで」
「駄目、絶対駄目、それだけは却下!その前にする!おれの夢を壊す気か!」
細やかな請求は、最後まで言い終えることなく即座に叩き落とされた。
「二人で決めるって今言ったじゃないか」
ほんの少しだけ不平を込めて返すと、彼女は形のいい眉を吊り上げた。
「それじゃ意味ないだろうが!子供の顔見ちゃったら可愛すぎてアンタ絶対他のことに手えつけらんなくなるぞ。やっぱりもうちょっと後にしよう~後にしよう~って先延ばしにされんのが目に見えてるぜ」
「そんなに私は信用ならないかい?」
「自分の胸に手を当てて考えてみろよ」
じろりと睨み上げ、きっぱりと言い切った言葉に声が詰まる。正にぐうの音もでないというはこのことだった。
「わかった、わかった。じゃあ一週間前でいいよ」
「……ほんとに?」
「なんだ、不服なのか」
「いやだって、アンタもうちょっとないの?もうちょっと遅めにしたいとか、早目にしたいとかさ」
「早目にしたいは無いな。遅くしてくれる気はないのだろう?じゃあ一週間前ならいつにしたってあんまり変わらんさ」
苦笑を込めて返せば、彼女はそれもそうだなと神妙に頷いて、するりと私の腕から逃げ出した。
マタニティのワンピースが風のようにふわりと揺れる。妊娠した直後に、私が彼女に送ったものだった。乳白色のそれは、金色の髪を持つ彼女によく似合っていた。真っ赤なコートを着ながら勇ましく前を歩いていた彼女は、もういない。
「よし、じゃあこの日に決行な!」
壁にかけた小さなカレンダーに、エドワードがううんと唸りながら精一杯伸びをしてペンで大きく丸をつける。
その子供のような仕草に、私は目元を緩ませた。
カレンダーに刻まれた、赤い丸。
それは出産予定日の、ちょうど一週間前の、金曜日だった。
「13日の金曜日って、なんっつーか……」
「いいじゃないか、記念になるだろう」
○月▲日、幸せ238日目。
「なあ、アンタ」
「ん?」
「どこでやる?ここでか?」
「とんでもない、それじゃあ、掃除が大変になってしまうよ」
「掃除って……あんたどうする気だよ」
「それはまあ軍人らしく、盛大に」
「まて、まてまて!」
「なんだ、不満かね?」
「あったりまえだ、後片付け誰がすると思ってんだ!身重のおれにやらせる気かよ!塵も残さないでくれ!」
「えー……」
「えー、じゃねえ、可愛いこぶるなよキモいから」
「酷くないか」
「黙れ三十路」
「じゃあ君はどんなやつがいいんだ」
「ううーん」
「前に行っていたやつかい?」
「どれもぱっとしないから却下。それにめちゃくちゃ時間かかるじゃんそれ。おれ、アンタのぶっ細工なツラあんまり見たくないんだけど」
「酷くないか」
「黙れおっさん」
「泣きそうだ」
「ご愁傷様です、おれ、教育ママになる予定だから」
「それは、是非とも見てみたいな」
「はいはい、御愁傷様です」
○月■日、幸せ240日目。
「なあ、なーあ」
「なんだ、いい方法でも浮かんだか」
「浮かんだ!」
「どんなやつだい」
「あんた、自分で全部やればいいじゃん」
「元々その予定だろう?君の手を煩わせることはしないつもりだが」
「違う違う、そうじゃなくて」
「なんだ」
「焔で」
「ん?」
「あんた、自分の焔使えばいいじゃん!」
「あ――……」
「盛大になるじゃん、ババっと出してパっと華やか!」
「それはそうだが」
「いやか?」
「少し」
「なんでよ」
「こんなことにこれを使うのはどうかと」
「よし決定!」
「まて、まてまて!」
「待たない!」
「だから、二人で決めると前に君が」
「おれ、教育ママだから」
「ええー……」
「可愛いこぶるな、み、そ、じ」
「エドー」
「甘えても駄目、これに決定」
「エド、エドワード」
「火力最大でやれよ!」
○月★日、幸せ260日目。
「おーい、聞こえてるかー?今だけだからな、パパの声を思う存分堪能できるのは」
「ママの声も堪能したいんじゃないか?」
「一番優先しなきゃなんねえのはアンタだろ。ほら、なんか歌えよ」
「私は音痴なんだ」
「おれ、教育ママ」
「……何を歌えばいい?」
「なんでもいい」
「……颯爽とあらわるー愛の戦士ーエドワー」
「やっぱいい止めろ」
「何故だ、まだ出だしだぞ!」
「聞くに堪えないんだよ馬鹿!この子も絶対嫌がってるぞ!」
「そんなのわからないじゃないか」
「……それにしても、この子おれと同じなんだなあ」
「エディ、今話を逸らしただろう」
「大丈夫だぞ、おれが目一杯愛してやるからな~」
「エドワードー私は君のー愛の奴隷ぃー」
「止めろ!音痴!」
「愛の奴隷という題名だ」
「アンタのセンスってほんっと最低」
「酷くないか」
「この子今めちゃくちゃ腹蹴ってきてんだよ。絶対怒ってるって!」
「そうかそうか、パパとママが大好きなんだな。私もちゃんと愛してるよ」
「あんたも今、話逸らしただろっ」
「ほら、君も愛してあげなさい」
「アンタに言われなくとも愛してるっつうの、アルに絶対似てるっていう確信あるし」
「女の勘というやつか」
「どっちかって言うと母の勘だな」
「似ていなかったら?」
○月◆日、幸せ270日目。
「しかし、最近はテロが盛んなんだ。君も出歩く時は気を付けてくれ」
「テロ?またかよ」
「ああ、私のところにも先日脅迫状が届いたんだ」
「は!?聞いてねえぞ」
「言ってないからな」
「なんでだよ」
「まあ、私だけではないからな。他にも多くの司令官に届いているし」
「その慢心が悲劇を生むんだぞ」
「大丈夫だよ」
「アンタ変なところで抜けてるからな」
「心配してくれるのかい?」
「バカ、当たり前だろ、死なれちゃ困る!」
「その言い方はちょっと」
「教育ママなんで」
「……死なないよ、君の夢も叶えていないのに」
「どーだか、アンタは本当に信用なんねえからな!」
「ひどいな」
「自分の胸に手を当てて考えてみろや」
「グウノネモデマセン」
「おれのいないとこで殺されたら殺してやるからな」
「矛盾しているぞ」
「いーんだよ」
○月×日、幸せ290日目。
「場所、どこにする?」
「盛大に燃えるのであれば、家では無理だな」
「そうだな、近場がいいな。おれ、もうあんまり遠くにはいけないし」
「理由も考えないと」
「それはもうバッチリ決めてあるぜ」
「本当か?」
「嘘言ってどうすんだよ……おれを誰だと思ってんだ」
「……愛の戦士エドワー」
「いい加減にしろ!」
「冗談だ。私の愛しい妻だよ」
「……ばぁか」
「本当だよ、他の何よりも代えがたい」
「他の、何よりも?」
「ああ」
「アンタってさ、本当にどうしようもない馬鹿だな!」
「君のためなら、馬鹿にもなるさ」
「……本当に」
「君の望み通りに、私は君に従うよ」
「奴隷みたいに?」
「……ああ、私は、君の愛の奴隷だからな。……もう一度歌おうか?」
「いらねえって!」
「二番もあるぞ」
「……アンタが馬鹿なのはもうじゅーぶんにわかった」
「光栄だね」
「褒めてねえって。なあいい加減、もう決めちゃおうぜ。アンタは」
そう言って彼女は、するりと私の腕から逃げ出した。
マタニティのワンピースが風のようにふわりと揺れる。妊娠した直後に、私が彼女に送ったものだった。乳白色のそれは、金色の髪を持つ彼女によく似合っていた。真っ赤なコートを着ながら勇ましく前を歩いていた彼女は、もういない。もう、―――どこにもいない。
「アンタは、どこで死にたい?」
くるりと彼女が振り向く。夕焼け色の窓から差し込む光を受けて、エドワードの髪がきらきらと光った。誰もが見惚れてしまうような笑みを浮かべる少女に、私は同じように口角を上げた。笑え、ちゃんと。そうしなければ、私は彼女を幸せにすることなどできない。こうなることを望んだのは、こういう結末を作り出したのは、私自身なのだから。
彼女、エドワード・マスタング――旧姓エドワード・エルリック――が壊れた瞬間を私はよく覚えている。暑い夏の日の夕方だった。あの日司令室の窓から見えた空は綺麗なオレンジ色で、そこから緩やかに降り注ぐ日の光は彼女の青ざめた顔を鮮明に映し出した。
絶望と恐怖が驚愕に、そして深い憎悪と苦痛へと変わってゆく様を私は間近で見ていた。長きに渡って彼女を苛んできた苦しみを、一刻でも早く終わらせてあげなければとその時の私は思っていたが、それはとんだ間違いだった。
私の起こした行動は彼女の絶望を終わらせるどころか、それ以上に、彼女の身体の奥底に耐えがたい苦痛を縫い付けただけだったからだ。
彼女の涙を初めてみたあの日、私は私の業と罪の深さを、本当の意味で初めて理解したのだ。
――何もかもが、遅かったのだと。
『愛しているんだ。鋼の』
そう切り出したのは、いつものように彼女の体を思う存分貪った後だった。
服を肌蹴させ、くたびれた様子で、ソファに投げ出された小さな体。宙に浮かんだ、虚ろな瞳。その姿を見た瞬間、今までじわじわと感じてきていた身勝手な罪悪感が、ふいに爆発した。
『すまなかった。いや、すまなかったではすまされないことはわかっている。でも、好きなんだ。君を、愛しているんだ。』
彼女は黙っている。その身体は微動だにしない。
『今更何を言っているのかと、私も思う。君を今まで好き勝手にしてきた私の言葉なんて信じられないかもしれないが、好きなんだ。君を手に入れたくて、体だけでもいいから手に入れたかった』
彼女は黙っている。その身体は微動だにしない。
『なんでもする。君のためならなんでも。君が幸せになるためならなんだって。罵ってくれていい。憎んでくれていい、一生許さなくてもいい。でも、どうか、どうか』
彼女は黙っている。その身体は微動だにしない。
『―――君を思うことを、許して欲しい』
そこまで言い切った後、それまで私の言葉を聞いているのかも怪しかったエドワードがもそりと動いた。そして、宙に浮いていた虚ろな瞳を、ゆっくりと私に向けた。
そして、その目を見て。―――私は自分が、とてつもない愚か者であったことにやっと気が付いた。
『許、す?』
ゆらりと、エドワードが身体をこちらに向けた。
『なに、それ』
ゆらりと、エドワードが身体を起こす。
『オレが、好き?なに、なんだよ、それ』
エドワードが、私の、愛しい人が。
『なんだよ、それ。なんだよ、なんなんだよ。オレ、たったそれだけのことで、アンタに殴られたの?アンタに首締められたの?ごうかんされたの?痛いことされたの?嘘。嘘だよ。そんなのウソだよ、ねえ』
その瞳いっぱいに、涙を溜めて。
『だって、オレ苦しかった。アルを守りたかったから、ずっと、ずっと誰にも言えなくて、耐えてきたのに。苦しくてつらくて、いっぱい吐いたのに。それなのに、ねえ、なに、なにそれ。オレが、おれが、好き、好、き?』
息を、吸う。私は、彼女から目を逸らすことができない。できなかった。
『――――愛してる?』
その言葉を、言った瞬間。
彼女は笑った。部屋が壊れるのではないかと思うぐらいの、疳高い声で。
それは、紛れもない悲鳴だった。
『鋼、の』
『なに、それ、なにそれ!そんな、そんな下らないことで、おれ、アンタに苦しめられてたのかよ、ははっ、はははっ、あははっはははは、』
堪えきれないという風に、エドワードが自身の髪を掻きむしる。
『は、が』
『ははっ、そんな、そんなアンタに、おれは、ずっと、怯えて、ずっとずっと、ははは!――――は』
ふいにエドワードが、側の机にあった書類を、ぶちまけた。置かれていたコップが床に落ち、割れる。入れてあった紅茶が床に散乱した紙切れを濡らす。彼女の涙が、床を濡らす。
『馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい!!』
『―――危ない!』
狂った様に手を振り回すエドワードがふらりと傾き、割れたコップの上に倒れそうになる。そこで金縛りが解けた。とっさに駆けより、暴れる彼女の体を、描き抱く。
『いやだぁっ!!』
『すまない、すまない―――エドワード……!』
『離せ、はなせぇっ!!』
半狂乱になるエドワードを、必死の思いで抱きしめる。暴れる彼女の腕が、指が頬を掠める。
―――苦しめていた。わかりきっていたことだったが、わかっていなかった。自分は、何もわかっていなかったのだ。
なぜ、なぜ許してもらえると思ったのか。
やめて、いやだと喚く彼女を押さえつけて犯した。この執務室で。彼女がまだ12の時だ。出血がひどく痛みにうずくまる彼女に欲情し、何度も何度もその身を貪った。壊れた人形のように揺さぶられる彼女に、ひどく興奮した。
家に呼びつけて、手足をもぎ取り、昼も夜も関係なく気のすむまで犯しつくした事もある。熱が出るまで。
手足を縛りつけ、許してと乞う彼女に、娼婦でも嫌がるようなことをした。
彼女が思い通りにならないと、手を上げていた。彼女にはいつも痣があった。恐怖と痛みと屈辱で、彼女を心ゆくまで支配した。彼女はずっと、私の奴隷だった。私がそう作り変えた。作り変えてしまった。
『いや、いやあ!!』
『すまない、エドワード。すまない、すまない……!』
すまない、すまない、とそんな簡単な言葉しか出てこなかった。力を籠めれば折れてしまいそうな、華奢な体を抱きしめる。関係を強制的に持たせていた時は、もっと小柄だった。未発達な幼い身体に、私は。
さんざん暴れていたエドワードは、しばらくしてから大人しくなった。力なくしゃくりあげる声に、震える身体に、胸がつぶれそうになる。どうしようもない程に、苦しめた。彼女は今まで、何をされても泣かなかった。殴られても、身体を暴かれても、怯える目で私を見つめるだけだった。――それなのに。
後悔が、どっと押し寄せる。彼女の身体を抱きしめながら、私の身体も震えていた。金色の髪に顔を埋めながら、彼女の匂いに埋もれながら、拳を握りしめる。今まで抑えなくてはならなかった衝動を、今頃になって。
『―――なんでも、するって言った』
どれ程そうしていただろうか。空の焼けたオレンジが濃くなり、直ぐ傍に闇の気配が漂う頃、エドワードがぽつりと呟いた。私は縋るように、エドワードの体をさらにきつく抱きしめた。
『ああ、なんでもする。なんでもするエドワード。君が望むことなら何だって。私が君にしてきたことを周りに言ってくれても構わない。私のことを、上に報告してもいい。君にはその権利があるんだ……!』
本当に何でもする気だった。彼女が望むことならば何でも。何をしてでも、何を犠牲にしてでも償いたいと思った。
『俺、おれね、しあわせに、なりたいんだ』
エドワードは幼子のように、鼻をすん、と鳴らした。
『しあわせに、なりたい』
『ああ、ああ、わかった。君が、幸せになれるように、何でもする。何だって』
そう言うとエドワードは、私の体に体重をかけてきた。彼女にこのようなことをされるなんて初めてだった私は、思わずその甘い重みに酔いしれ、エドワードの肩口に鼻を埋め。
『じゃあ、――――死ね』
彼女の口から発せられた言葉に、大きく目を剥いた。
『死ね、大佐』
絞り出すように、放たれた言葉。思わず零れ出たものではない。体の内に染みついた憎悪と、狂気と、苦痛を、ありったけの感情を込めてそのまま体現したような。
『死ねよ、大佐。おれの目の前で』
一つ一つ言葉をなぞりながら、彼女が、エドワードが笑う。
この時私が零した涙は、彼女の黄金の髪に吸い込まれて溶けた。ただひたすらに悲しかった。彼女にそう言われたことに対してではない。彼女に、あれほど命の尊さを知っている彼女に、こんな言葉を言わせてしまった、言わせてしまう程に追い込んだことに対してだ。
『あ、ああ。でもアンタ、おれのこと 好き なんだっけ。じゃあ、おれと結婚できたら、幸せ?結婚して、子供できたら、幸せ?幸せだよなぁ、愛してる女と一緒になれるんだもんな。幸せ、だよな、それが壊れたら、アンタも苦しいかな』
なあ大佐、俺、いい事考えた。無邪気な子供が秘密ごとを親に話すように、静かな声で。
『俺と結婚して子供作ろう。そんで、幸せ一杯の時に、死んで。アンタの幸せが崩れれば、俺たぶん、幸せになれる』
顔を上げた彼女は、もう泣いてはいなかった。
『おれ、おれね、大佐――――幸せに、なりたいんだ』
まるで花が綻ぶように笑ったエドワードは、とても綺麗だった。全てを包み込むような夕日に照らされたその微笑みは、久しぶりに見た、彼女の心からの笑みだった。零れた涙の痕ですら、幻想的だ。こんな時であるのにも関わらず、思わず見とれてしまう程に。
『……わかった、エドワード』
私は、そんな彼女を抱きしめた。エドワードはもう、抵抗しなかった。
全てを委ねるようにすっぽりと治まった小さな身体に、また一つ、涙が零れた。
『わかった、わかった』
零すべきは、彼女の方だと言うのに。私は、どこまでも馬鹿だった。
『君が、望む通りに』
―――大馬鹿ものだ。
全てが終わった後、彼女は赤いコートを捨てた。昔の自分と決別するように、黒い服も、お気に入りだと言っていたブーツも、全て。そんな彼女に、私はいろんな服を買って送った。彼女がそれを全て捨てているということは知っていながらも送り続けた。そして、彼女の望み通りに結婚し、子供を作った。愛しいエドワードを抱けるという行為に、身体は素直に喜んだ。しかし、心はそうはいかなかった。彼女に尽くすと決めた後でも、彼女の顔にはいつも怯えや恐怖の色があったからだ。夜が近づくと、その色は体に出てしまう程に濃くなった。まるで綺麗な夕日が、闇の色に飲み込まれていくように。震える体で、それでも彼女は抱けと私に命令した。怖いだろうに、恐ろしいだろうに、触れて欲しくないだろうに、時には啜り泣きながら、彼女は私に抱かれた。こわい、恐い、こわい。許して。ごめんなさい。助けて。誰か、やだ、いや、と、あの頃と同じ言葉を何度も何度も繰り返しながら。
私は彼女の悲鳴を聞きながら、彼女の身体を揺さぶって、果てた。過呼吸も、彼女は何度か起こしていた。それでも、私が行為を止めようとすると彼女は余計に酷く取り乱した。犯せ、犯せ、と狂ったように乞う彼女に私は気が狂いそうになることも何度かあった。それでも、それが彼女の狙いだったのだ。私に恐怖しながら、私に復讐する。苦しめ、自分の罪に苛まれろ、あの頃の自分の思いを、少しでもいいから思い知れ、と。それこそ身と心を削りながら、彼女は私の眼前に決して許されることのない罪を突き付けた。
行為のあと、私に触れられた場所の全てが汚いと皮が剥けるほどに体を擦る姿に、何度も嘔吐を繰り返す姿に、血が滲むほどに拳を握りしめた。きっと見たことがなかっただけで、彼女は独り同じようなことを繰り返していたのだろう。
何よりも、誰よりも愛しい人を自分自身が苦しめている。そんな自分を殺したい程に憎んだ。しかし今自分を殺してしまえばエドワードが幸せになれない。軋むベッドの上で、まだ死ぬなよと、滲む金の瞳で囁いてきたエドワードを思い出した。まだ、死ねなかった。死ねなかった。エドワードが本当に幸せになれる、その時までは。
真っ赤な服を着ていたエドワードは、今、真っ白な服を着ている。幸せを体現するかのようなその色は、彼女の太陽のような髪によく映えていた。
前を見ながら黒いブーツを鳴らし、勇ましく歩いていた彼女は、白色の絶望と希望をまとって、立ち止まり、振り向く。私がちゃんと後ろにいるか、逃げだしていないかを、確かめるために。
あの頃の彼女は、もういない。どこにもいない。
○月△日、幸せ300日目。出産予定日の一週間前の金曜日。
「よし、と」
最後の用意を終えた彼女が振り向く。ふわりと揺れた絹のような髪とワンピース。綺麗だと、場違いにも思った。
「準備はいい?」
「ああ」
彼女が私から受け取った、最初で最後のプレゼント。私から貰ったこの白で私の最後を見届けるのだと、いつか嬉しそうに話していた。
「最後の確認、アンタちゃんと遺書届けた?司令部に」
「届けたとも。そんなに私が信用できないのかい」
「胸に手を当てて考えてみろよ」
先日、二人で遺書をしたためた。なるほど、やはり彼女は天才だった。全くもって論理に無駄のない遺書が出来上がった。これでは誰も疑うまい。ただ、私の有能な部下達が完璧に騙されてくれるかはわからないが。
ここしばらく精神に病があるように振る舞ってきた。表向きは、今日も有給をつかい家での闘病の真っ最中だ。
「あとはおれの演技力だな、せいぜい悲劇のヒロインぶってやるさ」
「ああ、頼んだよ」
場所は、廃墟となった教会。私の家からあまり離れていないここは、彼女が昔よく訪れていたところだと言う。
何を思って、彼女はここに来ていたのか。祈るべき神など、彼女の中には一人もいないと言うのに。
しかし、神を信じていない私が、これから彼の御元にいくのかと思ってしまうほど、立派な教会であったことは確かだ。
「―――アンタに犯された後、結構ここに来ててさ」
ぽつりと。
「助けて欲しいって、許されたいって思ってきてたわけじゃないけど、もし、もし神様とやらがいるんだったら」
ぽつりぽつりと、言の葉が落ちる。冷たい床に、静かに積もる。私の心にも、重く重く。
「ほんのちょっとでいいから、幸せの欠片分けてくんねえかなあ、なんて」
皮肉下に顔を歪めながら、エドワードは大きくなったお腹を撫でた。
その姿が愛おしくて、苦しくて、哀しくて、私は目を閉じた。彼女は気が付かない。今日エドワードは一度も、私の目を見ていない。脳裏に彼女の姿が浮かぶ。はにかむ様な顔、彼女の泣き顔、苦悶に満ちた顔、恐怖に歪む顔、虚ろな瞳、微笑み、もう思い出したくもないものまで、全て。
「あんたも、可哀想にね。おれなんかと出会ったせいで、ここで死ぬんだもんな」
ゆっくりと重い瞼を上げる。床に視線を向けていたエドワードは天井を見上げていた。ステンドグラスから差し込んだ綺麗な夕焼けがいくつもの色をまとい、、彼女の小さな体を包み込んでいる。守られている。直観的にそう感じた。何に、とは言えない。ただ、守られていると。
「……いや」
哀しい、哀しいと心が叫ぶ。しかしそれ以上に、愛しいものが、世界の全てから祝福されているという事実が、どうしようもなく。
「エドワード。私は幸せだ」
彼女の眼が、私の視線と被る。
「君を、また怒らせてしまうかもしれないけれど、君にとっては、不幸でしかなかったかもしれないけれど」
カツカツと、革靴を鳴らして彼女から離れる。離れたくない、もっともっと、愛したい。死が二人を分かつ最後の時まで、傍にいたい。しかし、私の存在は彼女に不幸をもたらす。彼女を幸せになど、できやしない。
見の内に巣食う苦しみが身体を突き破って彼女に牙を向けないように、できるだけ早く、もっと遠くに。
「エドワード、私は今、幸せなんだ」
君に出会えて、君を好きになって、君を苦しめて、君を愛して、それでも。
カツンと、檀上に上がる。エドワードが私を見ている。あのお腹にいる子も、私を見ているのだろうか。
「エドワード、どうか」
ゆっくりと、指を掲げる。少しでもいい、届いて欲しい。愚かで馬鹿な、私だったけれども。
舞い上がる埃が、硝子の欠片のようにキラキラと光り、彼女の体に降り注ぐ。ああ、エドワード。大丈夫だ。君は、君は祝福されている。
「幸せになってくれ」
世界で唯一の、愛しい人よ。
最初で最後の、自らを焼き尽くす焔を、君に。
キラキラと光る幸せの欠片の中に、一つだけ、一等輝くものが視界の隅に映った。
輝くそれは、私の一番大事なものの体に向けられていた。
考えるよりも先に体が動く。驚愕するエドワードを抱きしめ、その身を庇う。
腹に感じた衝撃と、飛び散る赤。
甲高い銃声が耳に入ったのは、その直後だった。
霞む視界の中で、エドワードが私を見下ろしているのが見えた。
准将!と、叫ぶ、聞きなれた声。しかし、今聞こえてくるはずのない声に、驚いた。
いつも冷静で、滅多に荒げることのないその声は、ひどく焦っていて。他にも聞き覚えのある声が私の周りを慌ただしく飛び交う。テロだ、閣下が狙われた、救護班をはやく、奴を取り押さえろ、仲間は他にいるか、突入しろ!
私に駆け寄るハボック。銃で応戦する、ホークアイ中尉。多くの青い服をまとった軍人が、教会の中で慌ただしく駆けまわる。
「ははは、死ね!ロイ・マスタング!!」
そう声高に叫んだ男が、軍人に取り押さえられるのが見えた。
その光景に、瞬時に理解する。どうやら、テロのようだ。最近、騒がれていた。
それにしても、と自嘲する。よりもよってこんな時に。私は自分で死ぬことすら許されないのか。
今まさに、エドワードを幸せにしてやれる時だったのに。
ぽたりと、頬に何かが落ちた。
温かなそれは頬を滑り耳を伝い、地面に落ちる。何度も何度も、規則正しく。私は、ゆっくりと視線を上へと向けた。
「アンタ、なんで……」
歪んだ金色の瞳が、私を見つめている。
ああ、エドワード。どうして君は泣いているんだ。そんな辛そうな顔で、私の目の前にいるんだ。
君は、君は幸せに、なるはずなのに。
「アンタ、なんでオレを、庇ったんだ……!」
エドワードが、唸るように慟哭した。ひどく痛ましい表情だ。唇も震えて、真っ青になってしまっている。綺麗だった彼女の白いワンピースも、私の血によって汚れてしまっている。こんな時まで私は彼女を汚してしまうのか。自分が本当に情けない。それでも不謹慎だが、赤く濡れた服をまとった彼女は、かつての彼女に戻ったかのようでもあった。
「馬鹿じゃないのか……!」
エドワードが怒っている。ああ、そんな状態ではお腹の子にも触ってしまうよ。その溢れる涙を拭ってあげたくて、私は手を動かそうとした。しかし、動かない。身体がひどく重い。痛みはない。視界が霞む。声が、遠い。エドワードの声が。頭上のステンドグラスから降り注ぐ光が、エドワードの顔を見えなくさせる。ああ、勿体ない。最後ぐらい、エドワードの顔を見せてくれてもいいじゃないか。そんなことすら、私には許されていないらしい。どうやら、神は本当にいるようだ。この私にふさわしい罰を、最後の最後まで、与えてくれているのだから。
救護班、はやく!!と叫んだのは、中尉だ。本当に、今日の彼女は彼女らしくない。
真っ暗な視界。焦がれて止まない金色が、もう見えない。そんな時、殆ど聞こえなくなってしまった聴覚に、愛しい声が、うっすらと滑り込んできた。
しなないで。
―――ああ。ああ、エドワード。
きみは怒るかもしれないけど。
君に出会えて、君を好きになって、君を苦しめて、君を愛して。
私は今、世界で一番、幸せな人間だ。
いとしいあなたはいま、しあわせですか?