
幸福論の前日譚
明日はエドワードが幸せになる日だ。
自分の命よりも大切な少女が、幸せになる日。
いつものように彼女の寝室の扉を開けると、柔らかな輪郭がぼんやりと、暗闇に浮かんでいた。
「エド、どうしたんだい」
電気もつけないで、と言いながらそばによる。ベッドではなく、椅子に腰掛け窓の外をじっと見つめる少女の元へ。
「はやく寝ないと、お腹の子に触るよ」
開いたカーテンの隙間から月明かりがしんしんと差し込んで、窓際のロッキングチェアに座る彼女を灯るように照らしていた。ゆっくりと、膨らんだ腹に添えられた指先は細く、触れれば消えてしまいそうなほどに白い。慈しむように大きな腹部をさするその姿は、まるで聖母のようにみえた。
「エド」
聖母のような、しかし聖母などではない、愛し人の名を呼ぶ。
「なにか、見えるのかい」
喜怒哀楽が激しくて、曲がった事が嫌いで、家族思いで情にあつくて。それでいて少しだけひねくれていて生意気で、とても優しい、私の愛する人に向かって少し離れたところから問いかける。エドワードはじっと、窓の外に広がる静かな夜の暗がりを見つめたまま何も答えない。
「寒くないのかい、冷えてしまうよ」
近場にあったタオルケットを手にとり、傍による。
別に、彼女がこうなるのはなにも珍しいことではない。たまに塞ぎ込むように黙る。周りの喧騒を全て吸い込んでしまったかのように、じっと遠くを眺める。妊娠してからはずっとはしゃいで、毎日のように笑顔をみせてくれるのに、時々時間が止まってしまったかのようにぼんやりと宙に視線を漂わせる時があった。今夜もきっと、そうなのだろう。
心ここに在らず。一言で言ってしまえばそうなのだが、決してそうではないことはわかっていた。何を考えているのかと問われれば答えようがないが、きっと私には一生かけても理解できないものだ。けれど、怒り、哀しみ、憎しみのような単純なものでないことはわかる。現に、その溶けるようなはちみつ色の瞳は、どろりと静かに揺れていた。遠くでもない、それでいて近くでもない。何を見ているのかはわからない。けれど、そこに私という存在がいないことは確かだ。彼女はひとりだった。同じ家に住み、今のように空間を共にしていながらも、エドワードはいつもひとりだった。
その視界に、私を入れてほしいと願っていた頃があった。狂ったように、エドワードを求めていた時期が。消し去りたくとも消えてくれない、消してはいけない忌まわしい記憶の断片。脳裏によみがえるのは、いつも怯えるように私を見上げている彼女の姿だ。鋭い破片はずっと、私に突き刺さっている。けれどもそれ以上に、エドワードの体の奥深くにも突き刺さっている。私などとは比べものにならないほど、ふかく、ふかく。見えるところにも、見えないところにも。腐り、傷んだ破片は私の立ち入ることのできないところで、熟れて腐った果実のように、じくじくと蠢き彼女の全てを苛んでいる。
「かけるよ」
結婚して当初は声もかけずに触れてしまって、酷くエドワードを怯えさせた。もうあんな顔はみたくなくて、触れる時は必ず一声かけるようにしている。何も言わないということは、拒まれていないということだ。手にしたブランケットを、そっと肩にかけてやる。
さらりと、一房の金色が彼女の肩から零れ落ちた。エドワードは、まだこちらを見ない。
「……はやく寝るんだよ、明日は早い。おやすみエドワード」
ブランケット越しに触れていた指先を、離す。エドワードと寝室は別々だ。妊娠する前は情事後たまに同じベッドで寝ることもあったが、エドワードが妊娠してからはほとんど共に寝る事はなくなった。今日も、たぶん離れていたほうがいい。そのまま静かに部屋をあとにしようと、踵を返す。
「……なあ」
と、ふいにエドワードに声をかけられ、足を止めた。こんな時はいつも、何を話かけても言葉が返ってくることはないのに。
「どうしたんだい?」
少し驚きつつ、再びエドワードに近づく。引き留めようと声をかけてきたわけではあるまい。特段の事情なしにエドワードが私を引き留めるなどありえない。何かあったのかと、少しだけ屈んでエドワードの顔を覗き込む。
「もう一枚、ブランケットを持ってこようか」
エドワードを怯えさせないように、努めて静かに言葉を選ぶ。
しかし、エドワードは何も言わなかった。先ほどと変わらずじっと窓の外を見つめているばかりだ。
「エド……」
「なんで」
「なんで?」
「なんで……」
なんで、と繰り返し、それきりエドワードは再び沈黙した。
「どうした、エドワード。寒いのかい?」
決して、そんなことではないということはわかっている。けれどもそう問わざるをえなかった。なにせ、こんな事初めてなのだ。どうしたらいいのかわからない。とりあえず、触れるよ、ともう一度断ってから、促すようにずれたブランケットをそっと直す。
「……なんで」
「うん」
「オレ、ここにいるんだろ」
―――たった、一言だった。たった一言で十分だった。
私の顔から、張り付けた笑みが消えたのは。
なんで、オレはここにいるの。
痛みの全てが詰まったその言葉は、私の心を深々と切り裂いた。
どうして、エドワードはここにいるのだろうか。
胸がつまる。息が苦しい。世界中の痛みが体中にしみ込んでいくようだ。じくじくじくじくと、エドワードの心で育った潰れた果実が、傷口を抉りながら体の奥へ入り込んでくる。
どうして、彼女は今ここで、膨らんだ腹を撫でているのだろうか。どうして、弟と離れたところで、好いてもいない人間の子を孕んでしまったのだろうか。どうして、こんな、世界から隔絶された空間に一人ぼっちでいるのだろうか。
本来ならば、別の未来があったはずなのに。
弟の体と共に手足を取り戻し、故郷で暮らす。異性に恋でもして、夫婦となって、穏やかに、幸せな家庭を築いていく。そんな当たり前の幸せを、どうして私は与えてやれなかったのだろうか。私は彼女の、後見人であったはずなのに。
彼女が好きだった。そのあたたかな気持ちを、大事にすればよかった。同じ想いを返してもらえなくとも、それを欲望として自分勝手に消化することなく大事に大事に、育てていけばよかった。あまりにも遅い後悔。遅すぎた。エドワードが今こうして、一人で過去の茨に捕らわれ続けているのは私のせいであるという事実が、こんなにもつらかった。
「なんで……オレ」
「―――エドワード」
苦しむ資格など私にはない。だからこそ、目をそらさずに顔を上げ続けなければならないのに、足に力を入れていなければ今にも膝裏から崩れ落ちてしまいそうだ。
魘され、夜中に飛び起きる彼女の汗に滲んだ額。声を押し殺し、私から逃れるようにベッドの隅で体を丸める姿。時々癇癪をおこしたように喚きながら、髪をかきむしり耳を塞ぐ華奢な腕。一緒になってからもずっと、エドワードは苦しんでいた。私が傍にいればエドワードはもっと錯乱する。だから私は触れることもできずに、ただずっと、エドワードの爆発した感情が落ち着くまで震える彼女傍にあり続けた。
私が、かつてその小さな体に叩き込んだありったけの悪意は、底冷えするような汚濁となって彼女の中にずっと渦巻いている。きっと、それは彼女の生が終わるまで続くのだろう。
「エド」
もう何度も、彼女の名を呼んだ。免罪符のように。こんなことで、己が仕出かした罪が減るわけでもないのに。それでも、名を呼ばないとエドワードが消えてしまいそうな気がしてならなかった。ただただ幼子が母親を求めるように、私はいつも彼女の名を呼んでいた。
「エド、触れてもいいか」
エドワードは答えない。一瞬迷ってから、そっと、お腹に添えられた手に触れてみる。小さな手のひらはピクリと震えた。けれども、振りほどかれはしなかった。心の中で安堵しつつ、エドワードの顔を覗き込むようにして屈む。
「私の話を、聞いてくれるかい」
冷たい手をそっと包み込む。あんなにひだまりのように温かかった彼女の手は今や、死人のように冷たかった。
「明日は、とてもいい日だ」
体温を分け与えたい。優しく抱きしめたい。その扱けてしまった頬に触れたい。けれどもそれはできない。私の熱は、きっとエドワードを傷つける。特に今のような状態の彼女に対しては。だから、指を強く握りしめた。少しでも、彼女の心に安寧が訪れるようにと、呪いのような祈りをこめて。
「素晴らしい日だ」
震えてしまう私の指先の振動が、エドワードに伝わっていないことを願う。
「素晴らしい日だよ」
真っ白な彼女の横顔に向かって、口角を上げる。笑え。笑うんだ。少しでもエドワードが安心するように。なんたって、明日は特別な日なのだから。
「君が、一番幸せになる日だ」
エドワードが最も幸せになれる日。彼女の幸せを妨げるものが消える日。彼女を不幸にした絶望の象徴が、灰に帰る日。ついに、ついにここまできた。噛みしめるように、しっかりと頷いてやると、きゅっと指先を握り返された。弱い力ではあったがそれが嬉しくて、私もエドワードの手を握る手に力をこめた。
「大丈夫だ。後の事は全て手はず通りにいく」
やっと、エドワードを幸せにしてやれる。あの日からずっとずっと、ただそれだけを想って生きてきた。嬉しいのだ私は。明日という日を待ち望んでいたのは、他でもない私自身だ。
「だから、安心してくれ」
未だ冷たいエドワードの指先。この手に彼女の温度が戻るのは、きっともうすぐだ。
明日さえ、過ぎてしまえば。
「君を苦しめるものは、もう何もないよ」
苦しめ続けた本人がよく言うと思う。それでも、これが今の私の本心だった。エドワードに恋して、愛して、苦しめ続けた愚かな男の本心だった。
「明日になれば、もう何も。だから、安心して眠りなさい」
エドワードの長い睫毛が揺れる。こんな時ですらその瞼に口付けてしまいたい衝動が湧き上がってくる。これほどまでに、狂おしいほどにエドワードを愛してる。
昔はそんなエドワードを前にして感情を抑えることができなかった。エドワードの一挙一動に反応して、エドワードの気持ちを慮ることもせずに自分の欲望を叩きつけていた。もしも抑えこめていたら、何かが変わっていたのだろうか。今とは違う、エドワードが心からの笑顔を見せてくれていた、別の未来が。
―――何をバカなことを。私は自嘲気味に笑った。そんなありもしない未来をつらつら考えたところで、何かが解決するわけでもないというのに。こんなになってもまだ、自分が犯した罪から目を背けようとするなんて。自分の愚かしさにいっそ吐き気がした。
「さぁ、もう寝よう」
浅はかな思考をさえぎるようにして立ち上がる。エドワードの手を促すように軽く引っ張ったが、エドワードは動かなかった。
困った。エドワードを部屋に置いて去ることはできたが、こういう時のエドワードはいつ寝るかわからない。出産間近の妻をこんな隙間風吹き込む窓際に置いておくのは気が引ける。かといって、担ぎ上げてベッドまで連れて行くこともできない。どうしたものかと逡巡していると、おもむろにエドワードが口を開いた。
「なあ、聞きたことあんだけど」
「……なんだね?」
「アンタ、オレのこと抱きたい?」
一瞬、反応が遅れた。
「……え」
冗談を言っているのかと思ったが、ゆっくりとこちらを向いたエドワードの瞳は真剣そのものだった。先ほどまでのどこか虚ろな色は消え失せ、しっかりと私を見つめている。まるで、私の心の奥の思考を読み取ろうとしているかのように。
「なぁ、抱きたい?」
繰り返された質問に、困惑する。なんと答えればいいものか。エドワードからこんな問いかけを受けることは初めてだった。いつもであれば、な鬼気迫る勢いで、「犯せ」と命令をされるだけで終わるのに。
抱きたいか、なんて。まるで、私を試しているかのような。
「オレの事、抱きたい?」
「エド、それは」
「抱きたいか抱きたくないか、二つに一つだ。はやく答えろ」
すごみにも似た気迫を感じて、私は思わず口を閉じた。
抱く、抱く。最後に彼女の体に触れたのはいつだっただろうか。そうだ確か、妊娠が発覚する前の日までだ。家に帰れば明かりもついていない部屋の中で、彼女が妊娠したと告げてきた。闇が差し込む薄暗い世界でポツンと、膨らんでもいない腹部をゆるゆると撫ぜていたエドワードは、泣いていた。その時自分はどうしていたのだろうか、ああそうだ、エドワードに縋り付いたのだ。華奢な体に抱きついて、すまない、すまないと繰り返していたような気がする。しゃくりあげるエドワードの肩に顔をうずめておめでとうと囁けば、エドワードが抱きしめ返してくれたのだ。そういえばあれが初めてだった。エドワードが自分から、私の体に触れてくれたのは。
子を宿す前、エドワードは夜になるとこうして窓の外を眺めていた。私がエドワードに言われた通りに部屋にくると、私のほうを見ようともせずに、「犯せ」と一言だけ命令した。私は、エドワードの言う通りにした。犯すことを拒む私を、エドワードは許さなかった。私に罪を忘れさせないように、捨て身になって私に復讐した。
かつての主従の関係は、夕日に映し出されたあの日を境に逆転した。
私は、フラッシュバックする記憶に震える体を組み敷いた。抵抗する体をねじ伏せ、悲鳴を上げる口元を押さえつけ、エドワードの体をむさぼった。せめて痛くないように、エドワードが少しでも苦しくないようにといくら気を使っても、エドワードは私に触れられること自体が恐ろしいのだろう、ずっと泣いていた。私という存在は、彼女にとって凶器そのものだった。行為が終わった後は、ほっとした。もうエドワードを苛まなくていいと。それでも夜になればまた悪夢は始まった。何度犯しても、犯しても終わらぬ日々。犯しているのに、犯されているようなあの感覚。エドワードとの交わりとも呼べぬような代物は、「抱く」という行為とはずっと、程遠いものだった。
「どうなんだよ」
思考を戻す。射貫くような鋭い視線がそこにはあった。
私が愛した、金色の瞳が。言葉は自然と漏れた。
「抱……きたい」
本心からの声だった。
「抱きたい、君を、抱きたい」
抱きたい、エドワードを抱きたかった。犯すのではなくて、エドワードを抱きたかった。慈しんで、慈しまれて、触れて、触れられて。決して狂乱のような、あの暴力に満ちた交わりじゃなくて、優しい愛情をもって、抱き合いたかった。
「はっ」
吐き捨てられた、エドワードの吐息。
「アンタ……正直だね」
私の愚かな願いは、エドワードに通じたらしい。いや、きっと最初からエドワードはわかっていた。私が、エドワードに恐れられていることを理解していながら、エドワードの体を目で追うことをやめられなかったことを。
ぐっと、唇を噛む。どう足掻いたとしても、エドワードを抱きたい気持ちは変わらない。あの頃と同じように、穢れた醜い欲望は体の奥底でずっと渦巻いている。
けれども。いや、―――だからこそ。
「だから、私は君を抱きたくない」
言葉は、躊躇なくあふれた。
「……どういうことだよ」
身の内に巣食う獣は、いまだに叫び声を上げている。エドワードを抱きたい、これは本心だ。だけど、抱きたくないというのもまた、本心だった。私の、心からの叫びだった。
「言葉の、通りだ。君を抱きたい、だからこそ、君を抱きたくない」
「……意味わかんねぇ」
眉をひそめ、震えるように睨みつけられた瞳は鋭い。こんな風に、エドワードに睨まれるのも久しぶりだった。
もう、バレてしまっているのだろうか。かつてのエドワードに戻ったようだと、こんな状況であるのにも関わらずその爛々と輝く瞳を見つめていたいと思っていることに。
「アンタの言ってることは、矛盾してる」
彼女の肩に乗っていたブランケットが、落ちる。
「最後だから抱かせてくれとか、そういうの、ないの」
最後。その台詞に、ぐっと指を握りしめたのはエドワードの方だった。
苛立っている。苛立たせている。困らせたくないのに、私はずっとエドワードを困惑させてばかりだ。昔も、そして今も。
「……君は、私に触れられるのが、恐いだろう」
地面に落ちたブランケットを拾い、再びエドワードの肩にかけてやる。
「私が君を抱けば、君は苦しむ」
許可なくエドワードに触れたのに、彼女は怯えなかった。
たったそれだけのことにこんなにも喜んでしまうだなんて、私は本当にどうしようもない人間だ。
「君を抱きたい。君が好きだから。けれど、愛しているから、君を抱いて傷つけたくない」
犯したくなど、ないのだ。エドワードが私に抱かれたいと、触れられたいと思ってくれなければ、それはもう「抱く」という行為ではない。今までと同じ、ただの暴力だ。エドワードの恐怖に歪んだ顔は見たくない。
「もう、―――絶対にだ」
笑顔が、見たかった。エドワードの笑顔が。今の私の中にある想いは、それだけだ。愛している、愛している、愛している。だから、笑ってほしい。
「それに、君のお腹には子供もいる。無理は、させられない」
そっと、大きくなった腹部に視線を落とす。この柔らかな皮膚の下には、何にも代えがたい我が子がいる。エドワードが望み、そして望んでいなかった胎児だ。憎い男の子供など産みたくないだろうに、エドワードが宿らせてくれた命。私とエドワードの間にできた、たった一つの大切な命。少しであっても、この子の負担になるようなことは避けたかった。
「だから私は君を抱きたくない。……抱けない」
ながい、ながい沈黙だった。
エドワードをこの部屋で抱いて果てた後、抱きしめることもできずに。
エドワードの震えが収まるまで傍にいた時のような。
「はっ……」
吐き捨てられたエドワードの吐息は、先ほどよりも力がなかった。
「いまさらじゃねえか、そんなの」
エドワードはいま、一体どんな思いで私の懺悔のような言葉を聞いていたのだろうか。
「いまさらだ……」
脱力したように、エドワードが肩を落とした。ブランケットはもう落ちなかった。
「いまさら……いまさらだろ……」
返せる言葉などない。そうだ、いまさらだ。エドワードの言う通りだ。私のこの想いは、本来ならばエドワードを好き勝手扱っていた時に、私が持たなければならなかったものだ。
「おせえんだよ……」
ぐっと、口を引き結ぶ。
「おそい、……もう」
「……、ああ」
「おそいよ……」
―――遅かった。あまりにも遅すぎた。気づいた時にはもう、全てが遅かった。
エドワーが放った破片を享受しながら、私は何度も頷いた。小さく震えはじめた指先を、さらに力を込めて包み込む。これはエドワードの震えだろうか、それとも、私のだろうか。
「変わらなきゃよかったのに」
ぽつりと。
「最低な奴で、いてくれたらよかったのに……」
ぽつりと、エドワードの言葉がおちる。冷たい床に静かに積もる。
「アンタがずっと、最低な奴のままだったら」
私の心にも、重く、重く。
「そうしたら、オレ、は……」
エドワードの泣き顔、苦悶に満ちた顔、恐怖に歪む顔、虚ろな瞳、歪んでしまった哀しい笑顔。これは決して過去のことではない。一つも変わることなく、今も私たちの心の中で傷み続けている。
「オレは」
「エドワード」
くっと、エドワードの手を引く。はっと見開かれた瞳にうつるのは恐怖ではなく、驚きだった。かしずき、柔らかな手の甲に顔を傾ける。乾いた唇に、じわりと染み込むエドワードの感触。
忠誠を誓う奴隷のように、私はエドワードの手に口づけた。
ゆっくりと唇を離す。たった一瞬にも満たない接触に、泣きたくなるような幸福感を覚えた。
「迷わなくていい」
もう震えてなどいない、エドワードの指先。顔を上げる、そこにはエドワードがいた。
確かに、エドワードがいた。昔と何も変わらない、エドワードが。
「私は最低な人間だ。何も変わらない、身勝手で馬鹿な男だ。それは君がよく知っている。今までも、そしてこれからも」
ほろりと、エドワードの頬から落ちた滴には気づかないふりをした。
エドワードもきっと、気づいていないだろうから。
「私は、君の心を殺した。そしてきっとこれからも、殺し続けてしまうだろう」
どうか、気づかないでいてほしい。エドワードが夢見る、幸せな未来のためにも。
「君の望むとおりにしてくれ。君に誓うよ、いつまでも君の幸せを願っていると。たとえ、明日が過ぎ去っても」
そっと、エドワードの手を離す。
「私に縛られないでくれ。私の想いは、君には関係ない。私を踏み抜いていってくれて構わない。君は君のままで、これからも、前に」
言葉が詰まった。前に。前に、なんだろうか。明日の夜からエドワードは、この部屋に一人きりなる。正確に言えば一人ではない。お腹の子と、エドワードの傍にいてくれる誰かと。それはエドワードの家族か、それとも私の部下か。
明日からもここに座って、大きくなった腹部を撫で今日のように窓の外を眺めているかもしれないエドワードを想う。どうか誰かの優しさが、エドワードを包み込んで温めてほしい。私では、たとえ天地が逆さまになってもエドワードを癒してやることはできないから。
どうかこの指先が、もう二度と冷たくならないように。
「……アンタって、ほんとに」
月明かりに照らされたエドワードの頬が、きらりと光った。
「どうしようもない、馬鹿だな」
「……歌でも歌おうか?」
その涙を拭ってやりたい気持ちをこらえて、おどけてみせる。
肩をすくめた私に、エドワードはいつも通りやめろ、とは言わなかった。
ただ静かに笑って、首を振る。絹糸のような金色が、ゆれた。
「せめて、二番にしてよ」
―――ああ。泣きたくなるような幸せというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
夜であっても眩しい太陽を見上げる。エドワードはいつだって、眩しかった。それは今でも変わらない。変わらないのだ。きっと、最後のその瞬間まで。
「……仰せのままに、エドワード」
ハンガーにかけられたマタニティのワンピースが、隙間風に煽られてふわりと揺れた。
エドワードの幸せの門出を、祝福するように。
幸福前夜
これは、とある穏やかな夜の日の、お話