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幸福論のエピローグ

 

 

眩しい。


す、と視線を動かす。
窓の外に広がるのは雲ひとつない晴天、そして突き抜ける青から注ぎこまれた明るい日差しが、白い室内を照らしている。

この病院に入院してから、もう一か月たつ。あれだけ不調だった体は見違えるように元気になった。毎日のように繰り返していた嘔吐もなくなった。周囲が心配になるくらい痩せ細っていた手足も、以前のようにとまではいかないまでも、だんだん筋力がついてきた。
手足を取り戻してから1年と数か月。死んだように生きてきたこの一年間が、まるで嘘のようだった。精神面の上での負担が少なくなってきたからだという医者の言葉は、きっと本当だ。目に見える世界も、今は静かに、安らいで見える。
何もかもが変わった。あの日から。

ずっと、暗闇の中にいた。
闇から逃れるために目を瞑り耳をふさいで、何もかもを意識の外に追いやって。ただひたすらに相手を責め、憎んできた。あの時から今までずっと。それが、エドワードの生きる術だった。







赤い夕日の差し込む執務室で、告白された男の恋情。
愛しているんだと静かに告げた男に、始めに込み上げてきたのは、どうしようもないほどの虚しさだった。
やめてくれ、と懇願するエドワードを押さえつけ、壮絶な笑みのままエドワードを犯した男。
怖かった。苦しかった。痛かった。死んでしまうかと思った。この悪魔のような男に殺される。確かにそう思った。
まだ何も受け入れたことのない場所に、猛った男が入り込む。仰け反る身体を押さえつけ、男は容赦なく腰を押し入れてきた。エドワードの悲鳴も、懇願も、全てを無視して。
『いやだ……ぃやッ…やめてっ…やっ──あぁああああ!!』
足を大きく割りさかれ、身体の奥の奥を熱した鉄棒で刺された感覚に、絶叫した。脳天まで痺れるような痛みに、身体が震えた。
冷たい床に張り付けられた両手首は少しも動かすこともできず、自由のきく指先は虚しく床をかきむしるだけだった。まさか錬金術で拘束されるだなんて、考えもしなかった。こんなことを、されるだなんて。
抵抗しようと足を無我夢中で動かせば、何度も、腹部に落ちてくる拳。マスタングからしてみれば軽い力だったのかもしれない。けれどもまだ発育途上の体に、男の拳は重すぎた。ずちゅずちゅと、肉壁を抉る音。室内に充満する鉄の臭い。息をするのもつらく、霞む意識の中、暴れる足を力づくで押さえ込まれ、何度も引き抜かれては差し込まれる肉棒。大の大人に容赦なく貫かれて、まだ身体も出来上がってない幼い身体は悲鳴を上げた。セックスという名の暴力を身体に叩きこまれた。
あの後、止まらない出血に動くこともできず、床に這いつくばるエドワードを見下ろしたまま落とされた男の言葉を、忘れたことなど一度もない。

『私はこれから会議がある。床を拭いてから帰りなさい』

服をただし、身も凍るような黒い瞳でエドワードを一瞥し、何事もなかったように部屋を後にするマスタングが信じられなかった。
痛みに呻くエドワードを、のたうつエドワードを、虫のように踏みつけ蹂躙し、捨て置いた男。本当に、玩具にされた。エドワードの苦痛など顧みられず、いいように使われた。愛情など欠片もない。マスタングの性欲と嗜虐心を満たすためだけに、自慰道具のように扱われ、痛めつけられたのだと。
嘘だと、思いたかった。
床に散った赤とねばつく白を、コートの裾で何度もぬぐいながら、これは現実じゃない、痛くなどない。だからほら、床はこんなにも綺麗だ。何もなかった。何も、と、呪文のように繰り返して。
力をこめた途端、下腹部からどろりと溢れでるそれに哀れな妄想が散って、涙が零れた。腹にちった大きな青い痣から視線を逸らせなかった。決して泣くまいと、心に決めて軍に身を投じたというのに。弟のために生きると、心の底で誓ったはずなのに。体を蹂躙された事実に、決意など簡単に瓦解した。
殺されてはいない。こんな怪我、これまで旅の途中で何度も負った。死ぬようなものでもない。でも心は殺された。みじめだった。みっともない嗚咽が聞こえてきて、誰の声だと思ったら自分だった。ぽたりぽたりと落ちるそれが赤と混じりあい、夕暮れに照らされてぬるく光った。血と体液で濡れた袖で、何度も目元を拭った。腫れたそこに涙が滲みた。涙と共に心の痛みも流れてくれればいいものを、泣けば泣くほど、増すばかりで。
苦しかった。男の道具として扱われた自分の身体が。人間ではないと、言われたようで。

あの時の苦みを、哀しみを、忘れたことなどない。
忘れることなどできなやしなかった。

それ以降、ことあるごとに身体を求められた。全てマスタングの望むまま、意のままだった。機嫌一つで、手足を縛られ口では言えないようなことも沢山された。家畜のように扱われた。いや、この時のエドワードは家畜以下だった。されてないことと言えば、他の人間と交わらせられることぐらいだ。どうしてこんなことを、と悲鳴のように問えば、楽しいからだとマスタングは答えた。答え通りマスタングは楽しそうだった。獣のように食って掛かり、毎度懲りずに抵抗するドワードを組み伏せ、征服感に酔いしれていた。エドワードは彼のストレス解消の道具だった。中に吐き捨てられた欲の冷たさに、身体の内部から腐ってしまうのではと恐れた。
熱がでた時もあった気がする。あれは、抵抗することに疲れてしまった頃だ。従順になったエドワードがつまらないからと、いつも以上に責め立てられて。朝まで貫かれ続けた。この頃には気が狂いそうになるほどの快楽も強制的に覚えさせられて、喉が潰れるほど苛まれた。
女になったなぁ、鋼の。
マスタングの上に乗って腰を振っていた時に吐き捨てられた言葉だ。エドワードを女でいることを強要しているのは他でもないマスタングだ。マスタングが中に出すまで、命じられた通り壊れた機械のように腰を回し続ける。自分の胸先を弄りながら。そんなこと、決して好きでやっているわけじゃない。それなのに、植え付けられた快楽に喘げば嘲るようにそう言われる。お前が自分から、私を求めているんだと。屈辱だった。
無理矢理しゃぶらせられ、飲むように指示されるのが一番嫌いだった。弟と旅をしている時でさえ、味が喉の奥に引っかかっている気がして。食道を通ったマスタングのそれが、胃の中で吸収されていく。自分の体を構築する血肉となっていく。おぞましかった。
見えないところに増えていく痣が、いつもじくじくとうずいた。マスタングは計画的な大人だった。手をあげるのはいつも服の上から隠せる場所。エドワードが直ぐに発たなければならないときは加減をし、そうでない時は容赦をせずにエドワードに手を奮った。
周りに知られないギリギリの範囲で、エドワードを苛み、支配し、徹底的に服従を強いられた。エドワードはマスタングの女ではなく、ずっと、マスタングの性奴隷だった。

男に触れられた体が、いつも汚く思えた。何度嘔吐を繰り返し、身体をかきむしったのかわからない。食事も、あまり喉を通らなくなった。男に抱かれた日は特に顕著だった。食べても食べても吐いてしまう。するべきことは沢山あると言うのに、身体は痩せ、ほとんど身長も伸びなかった。それでも鏡を見た時、眼だけは爛々と光る自分の顔が滑稽だった。町で軍服を見かければ圧し掛かる男の体温を思いだし、過呼吸を起こした。震える身体をさすってくれる弟に、申し訳なさで一杯になった。もっと強くありたいのに、身体はそんな思い全てを裏切る。マスタングを前にして、いつものように勝気でいられた試しがない。
悪夢のような3年間だった。マスタングが恐くて堪らなかった。でも、それを認めることも苦しかった。憎悪でいつも恐怖を隠していた。
男が怖くて、憎くて堪らなかった。それなのに。







『愛しているんだ、鋼の』
耳を疑った。
『すまなかった。いや、すまなかったではすまされないことはわかっている。でも、好きなんだ。君を、愛しているんだ』
──愛してる?
『今更何を言っているのかと、私も思う。君を今まで好き勝手にしてきた私の言葉なんて信じられないかもしれないが、好きなんだ。君を手に入れたくて、体だけでもいいから手に入れたかった』
──身体だけでも、手に入れたかった?
『なんでもする。君のためならなんでも。君が幸せになるためならなんだって。罵ってくれていい。憎んでくれていい、一生許さなくてもいい』
──憎んでくれてもいい?許さなくてもいい?
『でも、どうか、どうか。君を思うことを、許して欲しい』







いつものように蹂躙され、疲れはてた体に落とされた言葉に、暫く動くことができなかった。一番最初に漏れたのは、乾いた失笑だ。苦しかった。ずっと、奴隷のように虐げられて。それなのに。
愛してる?愛してる女を、犯すのか。愛してる女に手をあげるのか。
身体だけでも手に入れたかった?ぼろぼろになるまで苦しめておいて?
許さなくてもいい?心の中で何度も罵って憎んで、憎み疲れてしまうほど擦り切れてきたのに。許せるはずなんてないのに。
君を思うことを、許してほしいだなんて。ずっと思い続けていたいだなんて。
今更何を。身体も心も今にも壊れそうなのに。そんな、面白くもない馬鹿げた話が。
ゆっくりとマスタングを見る。

黒水晶を眼孔に嵌め込まれた人間の男。生きている、生き物。

その黒い宝石に込められた力に、悟った。本気であると。
どうしてか、マスタングはあろうことか本気で、エドワードを求めていた。
絶句した。嘘だろうと恐れ慄いた。
何を勘違いしているんだ、この男は。どうしてそんなに、付き物がとれたような、静かな瞳で見つめてくるのだと
最近抵抗しなくなったから?命令通り従順に動くようになったから?犯されている時、素直に嬌声をあげるようになったから?言われなくとも、自分から足を開くようになったから?すり寄るようなマネをするようになったから?抱きしめられても抱きしめ返すようになったから?キスをされれば自分から舌を絡めるようになったから?体を重ね終わっても、同じベッドの上で当たり障りのない会話をぽつぽつするようになったから?
すべて茶番だ。教え込まされたことをしていれば、酷いことはされないということを覚えたからだ。3年という歳月で、犯されることに身体は慣れた。でも心は慣れていない。身体が受け入れるようになったからといって、決して、心がマスタングを受け入れたからではない。ましてや愛してるわけでも。
──もしかして、エドワードがの心が受け入れたと、勘違いをしているのか。いやまさか、そんなはずはない。自分が仕出かしてきた非道を理解しているのなら、そんなこと思いもしないはずだ。
信じられない面持ちでマスタングをもう一度見る。エドワードはこの時、マスタングに縋った。しかし、マスタングの瞳はエドワードの希望とは程遠いものだった。
エドワードを、真っすぐに信じている目だった。
その瞬間エドワードは崩れた。失笑が消えた。
砕け散った心を、何度も死に物狂いでかき集めてきた。誰にも踏み荒らされないように。今でもそうだ。それなのに、エドワードが必死にかき集めている砕け散った破片を、マスタングは踏み荒しながら近づいてくる。しかも、踏まないでくれ、壊さないでくれと叫ぶエドワードの声にも、自分が踏み潰した欠片たちにも気づきもせず、地面に這いつくばり破片を集めるエドワードの前にひざまずき、自分勝手な愛情を押し付けてくるのだ。
君を愛している、と、エドワードの涙を指先で拭い、両手を広げて。エドワードが飛び込んでくるのを、待っている。砕けたエドワードの残骸の上で。
マスタングは、エドワードの苦痛など微塵も理解しちゃいなかった。
予感はあった。自分を見つめるマスタングの瞳に、いつもとは違う熱がこもり始めた時から。けれども見ないふりをしていた。そんなはずはないと、自分の考えを否定した。否定していたほうが楽だった。憎しみと恐れ以外の感情で、旅を煩わせられたくなかったからだ。
虚しさが広がった。開いた口を、なんとか塞ぐ。マスタングの前で息すらしたくなかった。
こんなふざけた男に、怯えてきた自分の惨めさを呪う。飽きたとただ一言だけ吐き捨てて、手放してくれたほうがどれほどよかったか。
いつかは過去であったと、踏み潰してやることさえできたかもしれないのに。
こんな、男のために。こんな、男のせいで。
この男の信じる愛、など。そんな下らないことのために、オレは、今まで。
全てを、壊され続けてきたなんて。








その後のことはあまり覚えていない。気がつけば男に抱き締められていた。
喉が痛い。そういえば、ひたすら叫んでいた気がする。すまないとすがり付くマスタングが気持ち悪かった。肩に染み込む涙すら、服ごと捨ててしまいたかった。
死ね、と、零れ落ちた言葉はまるで自分の声ではないようにどす黒く、低い。こんな言葉、今まで誰にも言ったことなどない。それでも呪詛は止まることを知らず、口から溢れた。
死ね、死ね、死ね。不思議と、そうしているとなんだか心が軽くなってきた。溜まったものを吐き出す心地よさに包まれた。
目の前で血を吹き出しながら息耐えるマスタングを想像して、唇が歪んだ。誰かの死を想像して喜ぶなど、初めてだ。けれども罪悪感など何もなかった。この男はエドワードを幸せにしたいといった。ならば、今すぐにでも。
そこで思い付いた名案に、笑みが零れた。そうだ、こうすればいい。こうすればきっと。オレは幸せになれる。復讐できる。
絶対に、なかったことになんてさせてやらない。
『オレと結婚して子供作ろう。そんで、幸せ一杯の時に、死んで。アンタの幸せが崩れれば、オレたぶん、幸せになれる』
幸せになれる方法は、こんなにも簡単に側にあった。
全てを包み込むような夕日に照らされ、マスタングの顔が醜く歪んだ。きらりと光る涙すら心地よかった。エドワードをゴミクズのように見下していた男が泣いている。黒い瞳が、儚く揺れている。こんな男のこんな哀れな姿を見れるだなんて。このまま時が、止まってしまえばいいのにとさえ。
『……わかった、エドワード』
抱きしめられ、肩口にマスタングの息がかかる。湿ったそれに嫌悪感はあったものの、抵抗しようとは思わなかった。だってこんなにも、嬉しくて仕方がない。自分が自分じゃなくなったみたいだ、心が軽い。けれども重い。全てを委ねるように男に体重をかける。
『君が、望む通りに』
真っ赤な夕日が、まるでこれから起こり得る幸せを、祝福しているように見えた。


赤いコートも、黒い服も、お気に入りのブーツも、全て捨てた。全てが終わった今、するべきことは決まっていた。
妊娠するまで、マスタングに自分を抱かせた。マスタングはエドワードに従順だった。マスタングはエドワードに逆らえなかった。いや、逆らわなかった。
覆い被されれば、今までされてきた恐ろしい行為がフラッシュバックして、自分の意に反して身体は震えだした。よく締まるからと、首を絞められて中に出された事。罵詈雑言を吐き捨ててしまって、頬を張られ口の中が切れたこと、思い出したくもない様々な出来事が、頭の中に溢れて肌が粟立った。
身体を重ねる行為そのものが恐ろしかった。覆い被さってくる誰かの体温、蒸れる身体。無遠慮に押し入られる感覚。全てが気持ち悪くて、行為をするたびに吐いた。
マスタングがいなくなっても、自分はきっと、これから誰とも身体を重ねることはできない。その事実になぜだか涙がでた。過呼吸を起こすたび、あの頃のよう絶望に満ちた悲鳴が思わず口から溢れてしまうたび、つらそうな表情で行為を中断しようとするマスタングに虫唾が走った。今までは、エドワードがどんなに懇願しようが泣きわめこうが止めなかったくせに。どうして今になって、這いずり逃げようとするエドワードを何度も引きずり降ろしていた手は、今や壊れ物を触る様に優しい。エドワードをどこまでも慈しみたがるマスタングが、許せなかった。許されないことだと思った。エドワードはこんなに憎んでいるのに、憎まれていることを受け入れようとするマスタングが憎かった。
『犯せ、犯せよッ……』
そんなことが、許されると思っているのか、今更自分だけ、苦しみから逃れようとするなんて。オレをここまで陥れたのはアンタのくせに。なんのために、アンタと結婚なんて茶番、したと思ってるんだ。
『犯せっ……!』
子供さえできれば、解放される。はやく、はやく、オレは、幸せになりたいんだ。
そう言えば、マスタングは唇を噛みしめ、エドワードを抱いた。
頬に降りかかる汗の冷たさも、震えるエドワードの身体を押さえつけ体を貪ってくるマスタングも、恐怖や憎悪の感情の奥底には、途方もないほどの歓喜があった。自分の犯した罪に苛まれ弱っていくマスタングの姿が、嬉しかった。男を苦しませるためだけにこの身を捧げる行為。気分がよかった。胸糞悪いくらいに。


いつも、嵐と静寂の中にいた。
ぼうっとしていて、気付けば一日経っていることもあった。時々意識が途切れることもあった。目が覚めればマスタングが怪我をしていた。何かをした、でも覚えていない。マスタングは悲しそうに、大丈夫だと言っていたけど。
ずっと、暗闇の中にいた。エドワードはきっと、壊れていたはずだ。
壊れていることにも気付かないほどに、壊れていた。
楽しい日もあった気がする。何が楽しかったのかはわからない。悦びと狂気にもがき続け、逃げることのできない汚泥に足をとられ、沈みゆく日々だった。
光などどこにもなくて、闇から逃れるために目を瞑り耳をふさいで、何もかもを意識の底に追いやり、見えないように蓋をした。ただひたすらに相手を責めた。身勝手に絶望を終わらせようとした彼が、憎らしかった。
そして、願っていた胎を宿して。
あの日を、迎えた。










甲高い悲鳴のような泣き声に、はっと思考を戻す。
エドワードのベッドの脇、小さな籠の中で眠っていた赤ん坊が目を覚ましたらしい。
あわててベッドから降り、駆け寄る。
「ごめんな、考えこんでた」
慣れた手つきで抱き上げると、さらに悲鳴が大きくなった。耳をつんざくような痛苦が流れてくる。
まるで、1年前の自分自身のようだった。
「あー、よしよし、なんだ、ミルクか?」
背中を優しく叩きながら、声をかける。それでも止まないなき声に、思わずため息が零れる。数か月前に生まれた我が子は2200gと少々小さかったが、元気な産声をあげてくれた。茶色い髪に、黒い瞳。顔立ちは、この子の父親に似ている気がする。
「お前は、元気だな」
赤ん坊はよく泣くというが、この子は常に泣いている。看護師も、この数か月で匙を投げたぐらいだ。
「会いたいのかな……」
ぽつりと呟く。ここまで必死に泣くのには、なにか理由があるような気がしてならない。
窓に視線を移す。青く広がる青空が、エドワードを見下ろしていた。眩しさに、目を細める。
遠くに、命を繋ぐような小さな雲が、一つだけある。
「なあ、この子、泣き止まないんだ」
吸い込まれるように窓際へ向かう。庭には親子だろうか、父親とおぼしき病院服を纏った男が、小さな子供を抱きしめていた。傍には、そんな二人を幸せそうに見つめる女性の姿が。
太陽の下で、笑う家族。
あたたかな外の世界とは裏腹に、この部屋は狭く、静かだ。
甲高い泣き声だけが、壁に反響し続けている。
「……アンタのせいだぞ」
窓に額をこつ、とぶつける。ヒヤリとしたガラスが冷たかった。
目をこらし、窓を見つめる。反射した光を瞼に焼き付ける。






窓に映る、もう1つのベッド。

こんな乞うような赤ん坊の悲鳴を聞いても、起き上がらないなんて。
「アンタ、一生起きない気なのか」
窓ガラスから離れ、エドワードは自分のベッドの隣の、大きなベッドを目指す。そこの縁に立ち、赤ん坊を抱え直し、未だしゃくり上げる赤ん坊の柔らかな頭を撫でてやる。
「アンタ、それで、幸せだったの」
ぽつりと呟いた小さな言葉は、誰にも拾われることなく、綺麗なシーツの上に落ちた。
綺麗なシーツの上に溶け込むように置かれている白い腕。その腕を辿ると、少しだけ痩せた頬が見えた。すこしは皺になればいいものを、乳白色のシーツは撓むこともなくまっ白だ。それもそうだろう、ベッドの主が微塵も動かないからだ。

あの時、マスタングを貫いた弾は体を貫通し、出血多量でマスタングは死に絶えるはずだった。でも、そうさせなかったのはエドワードだ。
医療班が到着する前に、錬金術を使ってマスタングの傷を塞いだ。無我夢中だった。
溢れ出る赤、冷たくなる身体。開かれない、瞼。止まらない冷や汗を気にすることもなく、かつて培った人体錬成の知識を総動員させた。以前自分に鉄骨が刺さった時、傷を塞いだあの感覚を思い出しながら。
不思議だった。少し前まで、あれほど全身全霊をかけて、この男の消滅を願っていたのに。
ただ、マスタングをいきながらえさせたい。その思いだけに突き動かされた。マスタングしか見えなかった。目の前で死に絶えゆく男の生還だけを願った。
改めて、瞼を閉じている男──マスタングを見る。閉じられた瞼はぴくりとも動かない。エドワードが何を話かけても、何をしても、その瞳は固く伏せられたままだ。腕も動くことなく、シーツに皺を作ることもない。あれだけエドワードを求めていた腕が、微塵も。
その姿は、エドワードが最後に見た男の笑顔と重なった。 あの時、エドワードを庇い暴漢の弾丸に打ち抜かれたマスタングは、エドワードを見上げながら、静かに微笑んだ。その凪いだ表情に、エドワードは愕然とした。
──何で、今、そんな顔をするんだ。
今まさに、死の淵にいるのに。その死を強制した相手を愛おしそうに見つめるなんて。理解できなかった。
『しなないで』
こぼれ落ちた言葉は無意識だ。熱い雫と共に溢れ出たそれは、確かに男の耳に届いたらしい。目を見開いたマスタングは、確かに笑った。エドワードの一言で、全ての苦痛を忘れてしまったかのように。無邪気な顔で、幸せそうに。
真っ新な子どものようなそれに、目が眩んだ。それは、これから死に逝く者の顔ではなかった。
まるで、今から生まれくる者のような、無垢で、純粋な顔だった。
痛いだろうに、苦しいだろうに、自分のたった一言で、笑む男。

死すらも凌駕する想いの深さなど、見たくなかった。

この男がそんな感情を持っている人間だと、認めたくなどなかった。
エドワードは自分の感情すら、認めたくなかった。
死というのは身近な存在だった。幼馴染の両親が逝き、母も逝った。弟の体も持っていかれた。その時と同じ、心の底が冷えるような絶望感と恐怖感をこの男に対して感じている自分を、認めたくなかった。
この男が逝く時、エドワードは幸福であるはずなのに。そうでなくてはならないはずなのに。だってそのために、彼と一緒に暮らしてきたのに。どうしてこんなにも、光を失っていく瞳に背筋が凍るのか。
マスタングが遠くなっていく。それとは反対に、エドワードの淀んでいた意識ははっきりとしてくる。
きっとこの時、エドワードは戻ってきた。汚泥から抜け出し、光の満ちる世界に還ってきたのだ。
マスタングの、死の臭いと引き換えにして。











朝、目が覚めて真っ先にすることは、男の体を拭いてやることだ。
病院服を脱がし、温めたタオルで体をふく。タオル越しに胸元に触れ、肩に触れ、脇に触れ、細くなってしまった腰に触れる。夜中に汗をかくのか、朝になると男の体はわずかにしめっていた。
命の火が消えかけた時のマスタングは、幸せそうだった。だというのに、今エドワードの前で眠っている彼は、全然幸せそうには見えなかった。眉間の皺も、深い。いつもどんな夢を見ているのだろうか。
エドワードを犯していた頃の過去の自分でも見ているのだろうか。自分自身を罵り、止めようとしているのだろうか。それとも、殴られ痛々しく床に這いつくばるエドワードに追いすがり、懺悔でもしているのだろうか。傷だらけで冷えたエドワードの体を、必死に抱き寄せ温めているのだろうか。
どちらにせよいい夢ではないだろう。少なくとも、今のマスタングにとってば。

ふああ、と赤ん坊が仰け反った。
エドワードの乳房に夢中になってむしゃぶりついていたはずが、もういらないと顔を背けている。
死の淵をさ迷うマスタングを横目に産まれた赤ん坊は、エドワードの母乳を糧に、日に日に大きくなっている気がする。
慣れた手つきで抱えなおし、背をトントンと叩く。
大きなゲップをした赤ん坊は飲み疲れたのか、泣くことをやめてうとうとし始めた。
刺激しないよう静かに籠に戻し、柔らかな額に口づける。赤ん坊特有の、ふわりと香る甘やかな匂いに心鼻腔に満ちる。頭を撫で続けていれば、赤ん坊はむにゃむにゃと柔い唇を動かし、そのまますうっと瞼を閉じた。
規則正しい小さな寝息を乱さぬよう、そろそろとそばを離れる。
火が付いたように泣く子だが、寝付くのも早いのだ。マスタングがこの子を見れば、君に似ていると言うのかもしれない。どちらかというと、似ているのは彼のような気がする。マスタングは意外と寝付きがいい。この子の寝顔は、月明かりの下で深い眠りに落ちた彼の寝顔とそっくりだ。少しだけ空いている、間抜けな口も。
寝顔だけじゃない、手の動かし方も、薄い唇の形も、細い眉毛も。全てが彼を彷彿とさせる。エドワードが近づけば、嬉しそうにすんと鼻を鳴らす仕草も。小さく笑った時に目尻にできる皺も、記憶の中にいる彼と同じだ。
見たことのない、マスタングの心からの笑顔を想像する。きっとこの子が浮かべるものとよく似ているのだろう。笑い皺もきっと、3本だ。
静かにマスタングが眠るベッドの傍の椅子に、腰かける。
彼はまだ、目覚めない。ふうと息を吐き、腕に顎をのせベッドに体重をかける。二人分の重さを受けて軋むベッドに懐かしささえ感じた。あんなに恐ろしく、緊張する音だったのに。
マスタングと暮らしていた1年間は、エドワードにとって夢の中にいるような出来事だった。
腹を抱えたくなるほど愉快な時もあった、眼球がねじ切れそうになるほど哀しい時もあった。喚き散らしたくなるほど苦しい時もあった。いつも心が不安定で、現実味がなかった。ただ、マスタングだけはずっと傍にいた。彼は、エドワードといる時もずっと孤独だっただろう。今夢の中にいる彼も、孤独なのだろうか。



『どうしたんだ、エド』
『怖い夢でも見たのか』



ベッドの上で、恐ろしい暗がりに飲み込まれそうな夢を見た時、エドワードを起こすのはいつだってマスタングだった。側に彼しかいないので当たり前なのだが、そんな時彼はいつも同じように、声をかけた。そして、触れてもいいかと伺いを立ててから、ふとん越しにエドワードの背をそっと撫でるのだ。


『大丈夫だ』


とんとん、と。落ち着かせるように優しく。エドワードの呼吸に合わせて。エドワードが眠りに落ちるまで、何時間も。
恐ろしい夢を見させている張本人のくせに、そんな悪夢を取り除こうと、エドワードを慰めるのも、彼だった。
優しかった。あの日までの1年間、マスタングはとても優しかった。
それが見せかけだけのものでなかったことは、共に暮らしていたエドワードが一番よくわかっている。
マスタングはいつも、エドワードを慈しんでいた。情をもって接してくれていた。
彼は毎日地面に這いつくばって、彼自身が踏み潰してきたエドワードの心の欠片を、拾い続けていた。
自分の手がどんなに傷ついても、ひとつひとつ丁寧に、零すことなく。
彼が尽力してくれたお陰で、今はもう砕けた欠片のほとんどは、エドワードに戻ってきてしまった。
だからこそエドワードは今こうして、とても凪いだ気持ちで彼の傍によりそうことができるのだ。

けれども、全てではない。
あと一つ欠けているとすれば、それは。


「……大佐」
汗ばんだ額にくっついた前髪を、払ってやる。
「アンタ今、どこにいんの」
青白い瞼はまだ開かれない。何度エドワードが声をかけても。
共に暮らしていた時は、エドワードが少しでも名前を呼べば飛んできたのに。
毛布の隙間から覗いている指先に、そっと手を重ねてみる。マスタングの指は、先ほどまで触れていた赤ん坊に比べてとても硬かった。それがまるで死後硬直のようで、エドワードは背筋に走った冷たい悪寒に、唇を噛みしめた。
これまでは、マスタングにエドワードから触れることなどあり得なかった。けれども今は、苦も無く触ることができる。緊張もしない。彼が寝ているからだろうか。いや、きっと彼が目を覚ましていたとしてもできるはずだ。そんな確信がある。
冷たい手を両手で握りしめ、祈るようにこつんと額を当てる。
寝入ったエドワードに、マスタングがよくやっていたように。強く強く、目を閉じる。
この皮膚の下にある血管には、まだ温かな血が流れている。それだけが救いだった。
絶対に愛せないと思った我が子の目の色に、嫌悪感も屈辱感も絶望感も、抱いたことはなかった。
マスタングと自分の血を分けた子どもがこの世に生を受けたという事実に、苦しめられることもなかった。
この子がいる、と、慰めにさえなっていた。

もう、認めるしかない。
付き物が落ちたように澄んだ心に残ったのは、幸福ではなかった。
エドワードが望んだ、泣きたくなるほどの幸せは、ここにはない。
きっと、彼が全て持って行ってしまったに違いない。
だって、彼が最後に見せた笑顔はあんなにも、幸せそうだったのだから。
「さっさと、返せよ……バカ大佐」
けれども、あれが彼の心からの笑みだったとは、どうしても思えない。
だから、はやく返してほしい。
待ち続けて、オレがしわくちゃのお婆さんになってしまう前に。








****








名を呼ばれた気がしてゆっくりと目を開ければ、そこは教会だった。苔のむした廃墟が眼前に広がる。どこか、懐かしさを感じさせる光景だ。
ひらけた視界に、色とりどりの光が瞬くステンドグラスが映っていた。少しだけ赤色の混じった光。夕暮れ時。すっと息を吸えば少し埃っぽい。なんとなく、よくここを訪れていたような気がした。おぼろげな記憶に、柔らかな既視感が浮遊する。
ふと、視界の隅に青い影が揺れた。夕日に焼かれた虹色に、何かが包まれていた。青い軍服と、さらさらと風になびく黒い髪。
見たことがある人。そうだ知り合いだ、ロイマスタングだ。
輝き落ちる硝子を通した光に、今にも吸い込まれてしまいそうなほどの透明さで、彼は天井を見上げていた。男にしては白かった肌も、淡い光のせいでいつも以上に際立って見える。マスタングはいつも堂々としている権力を持った男だ。そんな強い人間が、こんな廃れた場所にたった一人でいるなんて。周囲を見回しても彼の部下たちの気配はない。軍服というなら仕事中だろうに。
妙な光景だ。
何度か目を擦り、話しかける。

「何やってんだよ」

ぴくりと背に組んだ手を震わせたマスタングからの答えはない。いつもなら直ぐに此方に視線をよこす黒曜石の瞳は、じっと天井を見つめたまま微動だにしていなかった。エドワードの声が聞こえていないはずはないだろうに。

「こんな所で、一人で。誰か待ってんの?」
「……誰も、待っていないよ」

数秒後にやっと返された返答に、どうしてかほっとしてしまった。思った以上に、この光景に違和感を覚えていたらしい。

「嘘つけ、さっきオレの名前呼んだのアンタじゃねえの?」

ふつりと、再び口を噤んだ男を見つめる。そう、誰かに名前を呼ばれて、エドワードは目を覚ましたのだ。よく耳になじんだ低い声だった。

「オレを呼んだのは、アンタだろ?」

見たところこの教会にはエドワードと彼しかいない。だから、エドワードを呼んだのはきっと目の前にいるこの男のはずだ。それ以外考えられない。だが、マスタングはやはり答えなかった。おい大佐、と呼び掛けても、こちらに視線すら向けない。彼と出会ってから、彼はまだ一度もエドワードを見ていなかった。まるで、エドワードと目を合わせることを恐れているかのようだった。
この質問に返事が来ることは諦め、頭をかく。怒る気にはなれなかった。

「……アンタ、いつからここにいたの」
「……さあ、いつからだろうか、自分でもわからないんだ」
「ずっといたの?」
「たぶん」
「ふうん、いつまでいんの」
「いつまででも」
「なんだよそれ、ずっとそこにいる気かよ」
「どうだろうね」

のらりくらりとはぐらかされる。
目を細めた彼は、より一層夕焼けに飲み込まれ、溶けていってしまいそうに見えた。なんだか儚い。儚いなんて、いつも堂々としている軍人に対して変な例えだが、それ以上に今の彼の姿を現す言葉が見当たらなかった。

「もしかして、動けねえの?」
「いや、そういうわけではない」
「じゃあなんで」
「大丈夫だ、エドワード」

静かに、遮られた気がする。

「私のことは気にしなくていい。はやく帰りなさい。待っている人がいるのだろう?」

待っている人。そうだ、自分には待っている子がいるのだった。
マスタングは別に、どこか怪我をしている様子でもないし、彼の言う通りきっと大丈夫なのだろう。エドワードは踵を返し、さっさと廃れた教会の扉に向かって歩き出そうとした、のだが。



『迷わなくていい』
──ぞっと、背筋に震えが走った。
『私に縛られないでくれ。私の想いは、君には関係ない。私を踏み抜いていってくれて構わない。君は君のままで、これからも、前に』
なんだ、どこからか声がする。これはマスタングの声だ。
『エドワード、どうか、幸せになってくれ』



唐突に脳裏で飛び散った鮮やかな赤が、脳裏に浮かんだマスタングを汚した。ぱっと振り返る。マスタングの姿が見えた。赤い視界を、強く擦って目をもう一度開ける。先ほどと同じ位置に、青い軍服姿の男が佇んでいた。周囲の世界も、淡い夕暮れのまま。一瞬の出来事だった。
なんだったのだろうか、今の白昼夢は。
なんとも言えない焦燥感に苛まれる。じっと目を凝らす。今マスタングは、別の世界にいるみたいだった。彼は階段を挟んで壇上に立ちすくんでいたが、そこに、何かエドワードや他人を拒む境界線があるように見えてならない。それに、先ほどマスタングは。
エドワードのことをエドワードと呼んだのだ。鋼の、ではなく。
どうしてか心の奥がざわざわとする。見えているはずなのに、何も見えていないかのような。言葉では言い表せない気持ち悪さだった。ぎゅっと、右腕を握りしめる。柔らかな感触に、何かを思い出しそうになる。

「……なあ、降りてこいよ、そこじゃ話しずらいだろ」

声を大きくして語りかけたのは、不安を拭い去りたかったからだ。
そんな寂しい場所に一人でいる男が、気になってしょうがなかった。

「それは、できない」
「なんで」
「できないからだ」
「だからなんで」
「私のことは気にしなくていい。帰りなさい、エドワード」
「……嫌だね」

とつとつと、静かに続いていた会話が止まった。しんと、静寂が訪れる。
途切れた言の葉が落ち、冷たい床に静かに積もり広がっていく。傾生きだした夕日に照らされ、廃墟の内部がじわじわと赤く染まり始めた。彼が指先から生み出す焔に、包まれているみたいに。
ふいに、おぼろげな記憶が断片的に脳裏に蘇ってきた。命を奪って生きてきた、と語りながら、マスタングが何かを撫でている光景だった。愛おしそうな表情で、苦し気に目を細め、何度も何度も手を動かして。
何に手を添えていたのだろうか。そうだ、あれは確か。

「……こわいの?」

エドワードの膨らんだ腹に、だ。

「こわいの?大佐」
「ああ、こわい」

躊躇なく頷いたマスタングは、どこか小さな子どものように見えた。いつもそうだ。マスタングは、エドワードの前では道理を知らぬ子どもに成り下がる。関係を強要していた頃も、それが解消された後も。君に甘えていたんだと、マスタングはいつも、後悔していて。

「何が、こわいんだ」
「……君が、不幸になることが」

え、と。続くはずだった言葉を、エドワードは飲み込まざるを得なかった。
だって彼があまりにも。
綺麗に、とても綺麗に笑ってみせたものだから。



「私がここにいたほうが、君もあの子も、幸せだ……」



果てない空を彷彿とさせる、遠い笑みだった。
笑った時の目じりの形が、似ている気がした。ずきんと、頭が痛くなる。記憶の蓋が開いて行く。
マスタングは誰かに似ていた。誰にだろうか。そうだ、思い出した。マスタングの言う小さな小さなあの子に、似ているのだ。愛の形というにはあまりにも哀しい、けれども、エドワードにとっての宝物に。
ふいにこみ上げてきたものは、膨大な記憶の束だった。
叫びたくなる衝動を堪え、静かに呼吸をする。感情の一つ一つと、襲い掛かる記憶の波を抱きとめる。
本当は、初めから気付いていた。今エドワードがここにいる理由も。マスタングが遠い場所にいる理由も。
彼は今檀上にいる。彼が自らに火を放とうとしたその場所から少しも動かない。エドワードの命令を、遂行するために。エドワードを守るために。
手に力がこもる。握りしめたスカートに皺ができる。エドワードは今、白いワンピースを着ていた。マスタングに買い与えられた、マタニティのワンピ―スだ。
彼を苦しめるためだけに、エドワードはこれを着続けた。最後の、あの瞬間まで。

「……オレは、逃げてた」

脚が、鉛のように重かった。もう機械鎧ではないはずなのに。
力を込め、なんとか苦しい一歩を踏み出す。
いつのまにか、穴だらけのステンドグラスから差し込んだ夕日が、床一面に広がっていた。

「憎んで、憎み疲れて、自分の子供さえ利用した。自分の子供を、復讐の道具にしようと、した」

広がった赤色が、ワンピースの裾に反射する。あの時と同じだ。床や壁のみならず、倒れ伏した男の身体に触れた時、真っ白なワンピースはあっと言う間に赤に染めあげられた。どんどんと吸収されていく赤。消えていく命の灯。溢れて止まらぬ傷口を必死になって抑えた手のひらも、赤だけになって。

「なにも、考えてなかった」

震えそうになる足を叱咤し、一歩づつ、真っすぐに進んで行く。
耳に響くのは慣れ親しんだ靴音。見なくともわかる、今自分が履いているのは、旅をしていた頃のあの黒の革靴だ。こんなものもういらないと、マスタングの目の前でエドワードが投げ捨てたもの。その時の彼の表情に、泥のように苦い満足感を覚えたのは、もう1年も前のことだ。あれからもう随分と、時が過ぎてしまった。今はただ、苦いだけだった。

「生まれたあの子が、母親が父親を殺したなんて知ったら、苦しまないはずがないのに」

ゆっくりと、彼との距離を縮めていく。少しでも、交わることのなかった時を埋めることができたら。

「命を、私利私欲のために弄んだ……」

命を、自分の勝手で作り出そうとしていたあの頃と、同じことをしてしまった。

「君は悪くない。私のせいだ」

すぐさま飛んできた否定の言葉は重く、真摯だった。
唇を噛みしめる。マスタングの声色は相変わらず淡々としていたが、それは他でもないエドワードのためだ。マスタングは、エドワードの一挙一動に傷ついているくせに、それを隠し通そうとする男だった。エドワードは傷つかないように、エドワードが悔やまぬように、エドワードが罪の意識に苛まれないように。何も言わずに、ただエドワードの激情を全て受け入れていた。
いつからか、そんなマスタングの姿をまともに見られなくなった。醜く淀んだ自らの優越感に耐え切れなくなった。
ふと正気に戻った時、自分を強く抱きしめているマスタングの体温のあたたかさに安堵する自分を受け入れたくなくて、目を瞑って背け続けてきた。
狂っていれば憎み続けていられると、怒りという甘えに酔いしれて。

「私が、君を追い込んだ」
「……ああ、そうだな」

マスタングは残酷な男だった。それを否定することはできない。けれども、エドワードだって残酷な人間だった。エドワードを幸せにするためにと、エドワードから離れていった彼の軌跡を追えば追う程、彼にしてしまった仕打ちが突き刺さってくる。彼はどんな気持ちで、この道を歩いたのか。

「大佐、オレはもう、わかってる」

壇上に向かう階段の一歩手前で、足を止める。

「オレはアンタの謝罪からも逃げて、逃げて、逃げて……逃げ続けてきた」

傷つけられて、傷つけて、傷つけて、傷つけていくならば、果ては一体、どこになるというのか。
自分だけの世界に閉じこもって、何も見えない、聞こえないふりをして。彼が抱いていたであろう身と心が引きちぎられるような激痛にすら、気づかないふりをして。

「……私もだ」

ぽつりと落ちた独白に目を向ける。
エドワードの逃走の果てに、銃弾の雨を享受した男は、俯き、足元を見ていた。
あの時は、倒れていく彼を支えることもできなかった。

「私も、逃げていた」

けれども、今度彼が倒れそうになったら、エドワードは迷うことなく手を伸ばすだろう。

「君が逃げていたというなら、私も同じだ」

他でもないこの人を、抱きとめるために。

「私は君から目を背けていた。君は謝罪といってくれたがそれは違う。逃げていたんだ」

いつのまにかマスタングは、腕を解いていた。手を組む力さえ、もうないのだろう。

「死ぬというのは簡単だ。私が死ねば、君は苦しむ。私が死んだあとで君は私を殺してしまったと苦しむ」

階段の下で舞い上がった埃が、硝子の欠片のようにキラキラと光る。
一滴一滴床に落ちたそれは、赤い床に吸い込まれていった。どうしてか、目の奥が熱い。自分は泣いているのだろうか。それとも、泣いているのはマスタングなのだろうか。

「君はそういう人間だ。気づいていたのに私は……わたしは」

マスタングの語尾が、小さく震えた。

「楽なほうに、逃げたんだ」
「──たいさ」​
「……私は生きるべきだった。死を甘受するのではなく、生き続けるべきだった。それが私の、本当の償いだった」

階段に足をかけ、一段あがる。エドワードは自分の意思で、見えない境界線を越えた。
自分が揺らしたワンピース──いや、赤のコートが舞った。解いていたはずの髪はいつのまにか三つ編みに戻っていた。やはり下ろしているよりも結んでいたほうがずっと自分らしい。
彼だって、きっとそう思うはずだ。

「大佐」

もう一段、階段を昇る。マスタングが僅かに身じろぎをした。

「駄目だ、来てはいけない」

マスタングの声に、焦燥が混じる。あの夕日差し込む執務室で、マスタングは残忍な世界を終わらせた。そして、涙を流したマスタングを殺し、再び狂気に満ちた世界に彼を引きずり込んだのはエドワードだ。ならば、終わらせるのもエドワードのはずだ。終らせなければならなかった。
他でもないマスタングと、自分のために。二人の未来のために。

「大佐」
「駄目だ」

拒絶の言葉を振り払い、階段を上がっていく。革靴で、夕日を踏みしめる。
とん、とんと。三段目、四段目、五段目──六段目。やっと、辿り着いた。
手を伸ばせば届く距離に、視線を背けたままの彼がいた。

「駄目だ、来ては」
「なんで」
「もう時間がない。もう、遅いんだ……すまない」

君が好きだから君を抱きたくないと、狂ったエドワードの前で彼は迷いなく答えた。
あの時は、もう遅いと思った。あまりにも遅すぎたと。もう戻ることはできないと。
けれども、今は違う。まだ戻れる。だってエドワード自らの意思で、彼の傍まで来ることができたのだから。

「そんなの、オレがなんとかする」
「駄目だ……君が、苦しむ」

何度も首を振り続ける幼い仕草が、抱っこしてほしいと駄々をこねる時のあの子の姿に似ていて。
こんな時だというのにやはり親子だと、つい笑みが零れそうになってしまった。

「大佐、アンタいま、幸せ?」
「……ああ、もちろん幸せだ。君が幸せなら」

嘘つき。そんな顔をして。一体誰が、信じるというんだ。

「オレ、幸せじゃないよ」

ばっと、マスタングが顔をあげてエドワードを見た。怯えている顔だ。エドワードが幸せでないことを、恐れている顔。いつだって彼は、エドワードのことばかりだ。

「オレ、幸せじゃないよ。幸せの欠片を、アンタが持っていっちゃったから」

初めて重なった視線を逸らされないよう、もう半歩だけ近くによる。もうこれで遠くない。だらりと下がったマスタングに手を伸ばし、強張る腕にそっと絡ませる。
びくりと震えた手に愛しさを感じた自分自身を、もう否定することはしない。

「返してくれよ。あとひとつ分、足りないんだ」

マスタングの腕を、自分の胸まで引き寄せ、両手で抱きしめる。もう二度と、離さないように。

「アンタも、だろ?」

ぬくもりを分け与える。もう独りで、冷たくならないように。
エドワードの言葉に、マスタングの指先が小さく震え始めた。揺れる漆黒の瞳は、動揺に揺れていた。

「ダメ、だ」
「何が」
「許されない」
「……誰に?」

そんな人、いないよ。そう囁いて胸に抱いた手をゆっくりとさする。くしゃりと、マスタングの顔が歪んだ。

「あのな、あの子似てるんだ。アンタに。顔も、目も、匂いだって。アンタに会いたいって、毎日……泣いて、る」

唐突に、ぐらりと世界が傾いた。予感はしていたが、ついに来てしまった。身体がひどく重くなって、視界が霞んでいく。泣いているからではない。マスタングの言ったようにもう時間が迫ってきているのだろう。足元がおぼつかなくなる。自分の声すら遠くなっていく。頭上のステンドグラスから降り注ぐ光が、マスタングの顔を見えなくさせる。
まってくれ、もう少しだけ。

「オレ、があやしても……なかなか泣き止まないんだ、だからはやく、歌ってあげて、よ」

愛の戦士、エドワードと。あの、くだらない歌を。あの子が腹の中にいた頃から聞いていた歌だから、きっと喜ぶはずだ。視界が、どんどんと白くなっていく。それでも、腕に抱いた彼の手は離さない。もう絶対に、離れたりしない。

「アンタを、待って、る」

頼む、お願いだ神様。もしも本当に、いるのだとしたら。

「死なないでって、言った言葉は、嘘じゃない……」

あと少しだけでいいから、時間を。

「オレを、幸せにしてくれるって、約束、だろ……?」

最後にひとつだけ。どうしてもマスタングに──大好きなこの人に、伝えたいことがあるんだ。

「帰ろう、あの子のところ、に……大佐、オレとあの子を幸せにしてよ。そんで、さ」

本当に伝えたい言葉を。どうか、届いて。どうか、どうか。

「幸せに、なろう、みんなで。大佐……アンタも、幸せになって」

もう自分を、許してやってくれ。
握りしめていた手に、力がこもった。握り返されたのが、感覚でわかる。
そのまま強く引かれた。ぼすんと、慣れ親しんだ匂いに包まれる。この感触は久しぶりだ、味わうように背に腕を回し、固い背中に縋りつく。背に回った手は、あたたかかった。
顔に当たってくる服がチクチクと痛かったが、そんなものはどうでもいい。もう視界は真っ白で、何も見えないけれど、そんなのもどうだっていい。だって、胸が締め付けられるほどの安らぎを受け入れた先にあったのは、熱いため息を零してしまうほどに、優しい世界だったのだから。


「いいの、だろうか」
「……うん、いいんだよ」
「私が幸せになるには、君の存在が必要、で」
「うん、うん……うん」
「いいのだろうか、君の傍に。君とあの子の傍に、帰っても、いいのだろうか……」
「いてよ、オレたちの傍に。帰ってきて、大佐」


どうしてもっとはやく、互いが大切だということに気づかなかったんだろう。
二人揃って、気づくのが遅い。まったくバカな夫婦だよなと笑えば、さらに強く抱きしめられた。
ぽたりと、ぽたりと、頬に何かが落ちてくる。温かなそれは頬を滑り耳を伝い、地面に落ちた。何度も何度も、規則正しく。一か月の間、焦がれていた黒曜石はもう見えない。ぽつぽつと降ってくるマスタングの声も、もう小さくて聞こえない。ただ淡いゆりかごに包まれるようなぬくもりだけが、傍にあった。
遠くから、甲高い泣き声が聞こえてくる。希望に満ちた、あの子の声が。
泣き声に答えるように、足元が静かに崩れていく。
はやく帰ってきてほしいと、あの子が泣いてる。エドワードと、マスタングを求めてる。お父さんとお母さんを、求めている。
なぁ大佐、アンタにも、聞こえてるかな。
聞こえてるなら、きっともう、大丈夫だよな。
ゆっくりと目を瞑る。ぴたりと抱き合って、二人揃って、眩い光の中に落ちていく。
そんな時、耳元に熱い唇が触れた。
殆ど遠くなってしまった聴覚に、求めていた愛しい声がはっきりと飛び込んできた。




君と生きていきたい、と。




オレも、と答えたかった。けれども、もう声帯を震わせることすら叶わなかった。
だから言葉の代わりに、エドワードは自分を抱きしめる大きな体を、強く強く抱きしめた。

あの子の元に帰る、その瞬間まで。








****





どうやら、先に目を覚ましたのはマスタングのほうだったらしい。



「……はよ」



ぼんやりと焦点の合わない黒曜石は、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、エドワードをじっと見つめていた。どこか茫然としているよう見えるのは、まだ自分が夢と現実のどちらにいるのかがわかっていないからだろう。現実だ、と知らせるために握りしめていた手に力を込める。弱弱しい力で、握り返された。それでもう、十分だった。
「ぇ、……、ど」
「……なんだよ、その声。さっきまで流暢にしゃべってたくせに」
一か月振りに目を覚ました男の声は、とても皺がれていた。声を出して笑う。いい男が台無しだ。
「なんかオレね、夢見てた気がするんだ。アンタの、ゆめ」
身体に響かぬようにゆっくりと、マスタングの胸元に頭を乗せる。
皮膚を通して、確かな鼓動が伝わってくる。これまでの、どこか止まってしまいそうな細い音とは違う。帰ってきた。ほうっと息を吐き出す。やっと、やっと。息が、吸えた。さっきまで、マスタングと会話をしていた、気がする。確か、同じ場所にいたはずだ。夕日と、色とりどりの光の元で。しかし、先ほどまで見ていたであろう夢を思い出そうとすればするほど、どんどん記憶が霞がかっていってしまった。つい先ほどまで脳裏をしめていた夢の欠片が、一秒ごとに遠くへ消えていってしまう。
「……ねえ、アンタも、オレの夢見てた?」
静かに、マスタングの瞼が瞬いた。数秒の後に、マスタングはエドワードから視線をそらさず、はっきりと頷いた。随分と、ぎこちない動きだったが。
「そっか……」
するすると抜け落ちていく淡い夢は、とても優しいものだった。マスタングもそうだったのだろうか。もしかしたら、同じ夢を見ていたのかもしれない。少しでも記憶に残しておきたくて目を瞑る。が、既にいくつかの欠片も、跡形もなく消えてしまっていた。だが、不思議と悲しいという気持ちはなかった。むしろ満ち足りていた。だって、今は夢よりも大事なものが、目の前にあるのだから。
「……おかえり、大佐」
眩しそうに目を細めたマスタングが、乾いた唇を震わせた。ただいま、と。
一か月間も意識を失っていた上、倒れた拍子にマスタングは口内も損傷していた。きっと以前のようにしゃべれるようになるまで、それなりの時間がかかるだろう。歩けるようになるのも、まだまだ。
でも大丈夫だ。一緒に、乗り越えていく。
「ん?なに?」
ふと、マスタングが唇を動かし始めた。はくはくと、何か言葉を発しようとしているみたいだ。
伝えようとしていることがあるのかと、そっと耳を寄せてみる。
至近距離にある深い黒曜石に見とれながら、掠れた言葉を一つづつ掬い取る。















たった三言目で、しゃくりあげそうになって、喉が詰まった。
湧きあがる愛しさを堪えきれなくなる。マスタングが全部言い終わる前に、エドワードのほうからマスタングの唇を塞いだ。ぱちくりと目を大きく開いたマスタングの目に映った自分は、止めどなく涙を零していた。
繋がった唇の隙間から、笑いの呼気が漏れる。なんだか今日はずっと、泣いてばかりだ。
でもいいか、この人の前でなら。


「……オレも、アンタを愛してる」

​先手を打たれて、マスタングは一瞬呆けた。
いつも言われる方だった。だから今度は、エドワードが言う番だ。大佐に愛されていることは、もう十二分にわかっている。手を伸ばす。汗ばんだ髪をかき分け、まだまともに動けないマスタングの代わりに、頬を両手で包み込んでやる。額をくっつけて、お互いの瞳を細部まで覗き込む。マスタングが震える腕を動かし、おそるおそるエドワードの手に自分の手のひらを重ねてきた。ぬくもりが、手のひらを通して伝わってくる。鼻を擦り合わせれば、指の間に指が絡みついてきた。マスタングが、鼻をすん、と鳴らした。喜びが、肌を通して広がっていく。ひたりと寄り添った体温に熱が灯る。生の証だ。マスタングがエドワードの傍にいて、エドワードがマスタングの傍にいる。二人揃って、帰ってきた。
と、その時、壁がひび割れそうになるほどの大きな泣き声が聞こえてきた。はやく二人で抱きしめて、と、乞うように。待っていたんだよ、と、少しだけ怒っているように。
目を合わせる。先に微笑んだのはどちらが先だっただろうか。これでやっと、家族が、揃った。
「ほら、待ってるって、言っただろ?」
そうだ、な、と。マスタングの唇から零れた呼気は、熱気を帯びて湿っていた。
今にも泣き出しそうなほどに緩んだ目尻は、エドワードが想像していた通りのもので。
「……3本、だ」
​濡れた目尻を指でなぞる。
「笑い、じわ。さんぼん。やっぱり似てる」
やっと見れた。貴方の本当の笑顔。
泣きたくなるような幸せというのは、こういうことを言うのだろう。
きっと、マスタングも同じ気持ちでいるはずだ。
エドワードも、本当の笑顔を彼に見せているはずだから。
「大佐、オレ、オレね」







​アンタに出会って、アンタに傷つけられて、アンタを傷つけて、あの子を授かって、アンタに愛されて、アンタを、愛して。随分長い道を、歩いてきたけど。
オレは今、世界で一番──







「……幸せ、だ」






いとしいあなたはいま、しあわせですか?


 

 


幸福の軌跡

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