「君はなぜ泣かない」
そういった男を、エドワードは思い切りぶん殴りたくなった。
「君は、いつも自分の中に全てを溜めこみ過ぎる。そんなに、私達は頼りないか?こうみえても私達は大人だ。君の涙をこの大きな体で覆い隠すことだってできる。この指で、拭い去ってやることも。弟の手前、君が自分に枷をかけていることなんてわかっているが。なあ、鋼の。私は見ていられない。君のような真っ直ぐで幼い女の子が、唇を噛みしめて零れそうな涙をいつもいつも塞き止めようとしているその痛ましさが。ああほら、噛みしめるな、傷がついてしまうよ」
いつもの執務室。幸か不幸か、ここには他の人たちはいない。弟のアルフォンスも。しかしそれは男が仕組んだことだ。
男が急に部下や弟を部屋から下げさせたのには何か裏があると思って身構えていたのだが、男は強張るエドワードの間にいきなり跪き、べらべらと口を開き始めた。何をそんなに興奮しているのか、その顔は上気し、瞳も熱を帯びていた。いつもの男らしからぬ反応に、エドワードは驚き、そして男とは反対に急速に冷めていく己の熱を自覚した。
「君の可愛らしい唇に傷がつくだなんて、私には耐えられないんだ。なあエドワード、一人で意地をはるな、強がるな。つらい時ぐらい、私に寄り掛かってはくれないか?先ほどもいった通り、私は大人だ。君の小さな体を支えてやることぐらい、造作もない。だから」
興奮している様子の男は、何度も何度もエドワードの禁句を口にしていることすら気が付いていない様子だ。しかし、エドワードの機嫌が急降下しているのはわかっているようだ。
口を閉ざし、自分と同じ目線の男を睨み付けるエドワードの前で、男は慌てて手を振った。
「いつもとは言わない。君が、耐えられない、と思った時だけでもかまわない。君の、君たちの願いが叶う時まででいい。その、どうか私を、君の側にいさせてくれないか。君の安らぎになりたい。私は、君が欲しいん」
そこまでが、エドワードの限界だった。
「泣くな、みっともない」
いつのことだったのかは、鮮明に覚えている。まだ、国家錬金術師になりたての頃だ。あの男の、蔑みと侮蔑と嫌悪のこもった瞳に射抜かれたのは。
「これだから、子供は嫌なんだ」
舌打ちすら聞こえそうな、冷めた声。エドワードは、男が心底エドワードを不愉快に思っていることを瞬時に理解した。まだ零れていない涙が、ひゅっと瞳の奥底に引っ込むぐらいの衝撃だった。
「使えない人間はいらない。突っ立ているぐらいならば下がれ。邪魔だよ、鋼の」
近くにいることですら耐えられないとでもいうように、男は言いたいことだけ言って、俯くエドワードの側を通り過ぎた。軍から支給された黒い革靴が、石畳の地面に流れる赤を無造作に踏み潰す。
無残に殺された女性の死体が、道端に転がっていた。裸で、身体には無数の刺し傷が。眼球はくり抜かれていた。ひどい死に方をしていた。国家資格を貰って直ぐ、イーストシティで起きた殺人事件。たまたまそこに通りかかったエドワードは、手を打つまでもなくもう既にこと切れていた哀れな死体を目撃し、血だまりの中に、呆然とそこに立ち尽くしてしまった。錬成陣の中で身悶える、かつての母らしきものを思い出してしまったせいだ。
憲兵に、連絡をいれたのは姉より先に我に返った弟だ。
そして、彼らの上官が現場に駆け付けた時、エドワードは未だ動くこともできずに立ち竦んだままだった。
後ろから上官かつ後見人の絶対零度の声が掛ったのは、その瞬間だった。
その時のことを、マスタングは覚えていないだろう。覚えていたのであれば、今のような発言がでてくるはずはない。
マスタングはただ単に、そこにいた金髪の少女が目障りだったのだ。せかせかと働く軍人の中で、泣きそうな顔で、死体を凝視する少女。多くの軍人がいる手前、こんなところで泣き喚かれては、この少女を推薦した己の沽券にもかかわる。そこには、少女と違い、死体の一つをみても何の感慨もわかなくなってしまった己に対する憐憫や、腹立たしさも含まれていたのであろう。
エドワードは覚えていた。あの時向けられた、刃物のような男の一字一句を。エドワードの胸を切り裂き、肉と肉の間に植え付けられた嘲りを。幾度となく夜を過ぎても、忘れることはできなかった。
何か事件が起こるたび、現場に駆けつけるたび、マスタングが側に来ていないかが気になった。彼に罵られてしまうのではいかという極度の不安と緊張に苛まれた。
子供でいてはいけない。大人にならなければいけない。そう思うたびに、伴わない心がすり減った。周りの大人の眼が、怖くなった。
でも、それは自業自得であると思ってきた。
マスタングを責めるのは間違っていると。全ては、自分の愚かさや弱さが招いたことで、彼に何ら非はない。
彼は正直に、どうしようもない程に子供である自分を罵っただけだと。
それなのに。
冷めた目で、泣くなといった男は、泣きなさいと言った。
子供は嫌いだと嘲笑った男は、君の小さな体を支えたいと言った。
役立たずはいらないとエドワードを切って捨てた男は、君が欲しいと言った。
湧き上がってきたのは、何とも言えない怒り。そして、理不尽さと、哀しさ。
自分だけでは消化しきれないこれらの感情の全てを、エドワードは己の拳に込めた。
マスタングの頬に一発いれた後、エドワードは男を見下ろした。
なぜ殴られたのか理解できていない男は、殴られた箇所をおさえながらぽかんとエドワードを見上げた。その漆黒の瞳に、あの時に見た女性のぽっかりと空いた眼を思い出す。
この時エドワードは、怒りで涙腺が刺戟されるという感覚を初めてしった。
「は、鋼の」
「うるせえ」
「なぜ、泣いているんだ」
「うるせえ、泣いてねえ」
泣いてない、泣いているわけがない。だって、あの時だって泣かなかったのに。
そう思うのに、溢れ出てくる水は止まらない。止まってくれない。
悔しさに、また視界が滲む。
また、嘲笑われるのではないかと考えたのは一瞬だった。
男は何を勘違いしたのか、少し考え込んだ後小さく頷いた。そして、口をきゅっと引き結んで。
満面の笑みで、両手を広げた。
エドワードに向かって。
溢れる涙は、怒りのためだ。
エドワードは顔を引き攣らせ、ふらつきそうになる体をおさえた。そして、もう一度硬く拳を握り締める。
エドワードが飛び込んでくることを疑わない男は、二度の衝撃をその顔面に受け、固い地面の上を転がった。