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アルフォンス、いつか貴方が大きくなったら、お姉ちゃんを守ってあげてね。

 

母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか。

温かい陽射しが母の栗色の髪を優しく溶かして、そのまま溶けていってしまいそうで、こわくて、思わず伸ばした手を優しく掴んでくれた時だっただろうか。

かさかさに乾いて痩せ細った手のひらが、ゆっくりと、自分の頭を撫でてくれた時だっただろうか。

薄れた記憶ははっきりとはしないが、唯一覚えているのは、あれが母の死の間際であったということだけだ。

 

お願いね、アルフォンス。

お姉ちゃんを、守ってあげてね。

 

姉は、いつだって自分を守ってくれた。

男勝りで、優しくて、強くて。男子にまじって教師や大人にいたずらを仕掛けては、ウィンリィにこっぴどく怒られて。

 

それでもいつだって、その釣り目がちな大きな瞳は、真っ直ぐに僕を見下ろしてくれた。

喧嘩もいっぱいした。僕は全力で姉さんにかかって、いつも姉さんは僕に負けてた。

俺、喧嘩でお前に勝ったことねえやって、姉さんはいつも笑ってるけど。

 

僕知ってるよ。

姉さんが、わざと負けてくれてたこと。

弟だからね、知ってるんだ。

ひねくれていて、周りからは小生意気なガキって言われてるけど。本当は情に熱くて、いつだって僕を一番に考えてくれてること。知ってるよ。

 

姉さんは覚えているだろうか。

上級生に苛められて半泣きで帰ってきた僕を見て、真っ先にやり返しにいってくれたこと。

ぼろぼろになって帰ってきた姿をみて顔面蒼白になった僕に、にっと歯をみせて笑ってくれたこと。

 

姉さんは覚えているだろうか。

上級生に仕返しをされてこてんぱに伸された姉さんに、同じく加勢しようとした僕がこてんぱにやられた時、歩けなくなった僕をおぶって帰ってくれたこと。

 

小さな僕を背負ってくれた、小さい背中。何度も転んで、足取りだっておぼつかなくて、それでも決して僕を投げ出さなかった、優しい背中。

姉さんだって怪我をしてつらいだろうに、そんなこと微塵も感じさせず弟だからと笑ってくれた時、背中越しに伝わる温かな体温と心音に、恥ずかしさと申し訳なさと嬉しさで、僕は泣いてしまったんだ。

 

いつか、この小さな背中を追い越すことができたら。姉さんを見下ろすことが出来るようになったら。力の限り貴女を守るんだって、ずっと思っていたんだ。



 

ねえ、姉さん。

まさか、こんな形で貴女を追い越すことになるなんて、思いもしなかった。

 

今僕は、あの上級生が何人束になったって、簡単に投げ飛ばすことだってできる。

貴女を簡単に見下ろすことが出来る。貴女を簡単に背負えることもできる。

疲れを知らない体は、貴女を背負ったままどこまでも走っていける。

痛みを知らない体は、足がもげようが手がもげようが頭がとれようが、決して死ぬことはない。

 

でも。

でもね。

 

貴女を見下ろすためには、少し体を折り曲げなければいけないんだ。今の首は、ほんの少ししか動かすことができないから。

貴女を簡単に背負うことも出来るけど、この堅く冷たい体は貴女に温もりを与えることができないんだ。

貴女を背負ってどこまでも走っていけるけど、確かに刻む鼓動を貴女に感じさせてあげることができないんだ。

 

そして、僕の足が、腕が、頭がもぎ取れるたびに、貴女の心に錆び付いた鉄の杭が突き刺さることを。

この身体が小さく軋むたびに、貴女の心が大きく軋むことを、僕は知っている。






 

「……ア、ル?」

「あっ……」

 

ふいに呼ばれて、ふと意識を戻す。見れば、横になった姉はまだ赤く色ずいた頬を上気させたまま、目を開いて自分を見つめていた。

 

「姉さん、起きたの?」

「ああ……いま、何時、だ」

「昼の12時前だよ。姉さん大丈夫?身体は、痛くない?」

「うん……」

 

けほ、と姉の口から漏れた声はひどく掠れていて、未だに体調が思わしくないことが見てとれた。その金色の瞳も、今はひどく濁って、虚ろに天上を見上げている。

 

姉が倒れたのは、昨晩のこと。

いつも通りに平然としていると思っていたのに、夕食を食べた後、部屋に戻る途中で急にバタンだ。

慌てた僕はこれまた慌てて姉の額に手を当てたけれど、感触のない手では何の熱も感じることができなかった。そうだったと、呆然としていた時、大きな物音に駆け付けた宿の女将さんに押しのけられた。

 

―――ひどい熱じゃない!

 

はやく部屋に運ぶから、ボケっとしてないで動きなさい!と身体を叩かれた時、があんとなった鎧の音にひどく動揺してしまい、これまた呆然と立ち止まってしまった。

動かない図体のでかい鎧に呆れたのか、女将さんは男衆を呼びつけてさっさと姉を部屋に運んでしまい、はたと我に返った時にはあれよあれよと全てのことが終わっていた。

 

―――ご飯を食べている時から、なんか変だなとは思っていたのよ。

 

近所の医者にも問診してもらい、姉の体温が38度後半であったことにはさすがの女将さんも驚いていたが、姉の額に濡れた布をそっと置きながら、女将さんはてきぱきとした手際の良さでことを進めていく。

 

―――なんか、ずっと動きが挙動不審だったし、アンタと話ながら笑ってはいたけど、食べ物を何べんも零していたじゃない。

 

そういえば、今日はやけにぽろぽろ物を零すなとは思っていた。もう姉さん、子供じゃないんだから、と呆れる自分に、わりいわりいと歯を見せて笑っていたことを思い出す。

 

何度もその手に触れた。零したものをはらってあげた。その身体に触れていた。けど、気づけなかった。

 

―――アンタ、弟さんだって言ったわよね。ダメじゃない、ちゃんとお姉ちゃんのこと見ててあげなきゃ。

 

姉の服を着替えさせたのは女将さんだ。だから、姉の性別については普通に気づかれてしまった。本来ならばアルフォンスがやるべきことだったのだが、今の姉は一歩力の加減を間違えてしまえば簡単に折れてしまいそうで、触れるのにためらってしまっていたのだ。

 

―――すみ、ません。ありがとうございました。

 

弱弱しい声で、部屋の隅から感謝を述べたアルフォンスを軽く一瞥して、何かあったら呼びなさい、と女将さんは部屋を後にした。

残された部屋に響いたのは、静かに時を刻む時計の音と、姉の荒い息遣いだけ。

ひどく緩慢とした動作で、ゆっくりと姉に近寄る。赤く色づいた頬は先ほどよりさらに赤みを増していて、医者からは今晩はひどく苦しむことになるだろうと言われていた。

姉のベッドの頭付近におかれたタライに、水が入っている。ぬるくなったら布を変えて、タライの水も変えなさいね、と言われた女将さんの言葉に頷いたはいいものの、そのタイミングがいつになるのか、今のアルフォンスにはわからなかった。

 

「アル、フォンス……?」

 

掠れた呼びかけに、またもやふと意識が飛んでいたことに気が付いた。

 

「あっ、……どうしたの姉さん、どこか、苦しい?」

「い、や」

 

自分をじっと見つめたまま動かない姉に、アルフォンスは慌てた。昨晩は医者の予想通りにひどいもので、熱にうなされた姉は何度もえづき、何度も吐いた。意識も朦朧としていたらしく、何度も虚空にふらふらと手を伸ばしてはぱたりと落とし、よくわからない言葉を何度も口にしていた。その中に、アルフォンス、と途切れ途切れに自分の名を呼ぶ声も含まれていて、その手を掴んであげたかったが、どうしても握ってやることができずに、アルフォンスはずっと己の拳を握りしめていた。


 

「……ごめん、な」


 

長い時間をかけて、ぽつりと姉が呟いた。

ぎし、と、自分の身体が震えるのがわかる。

 

「なん、で、謝るの」

 

ああ、自分の声が震えている。いやだな。

 

「寝れ、ば、治ると、思って」

「姉さんが、謝ることないよ。僕が気づかなかっただけだから」

「ア、ル」

「姉さんは、悪くない」

「アル」

 

姉の気持ちが、痛いほどにわかる。

感覚がわからない自分に、熱があると、口に出せなかった姉の気持ちが。

倒れ伏した姉に触れた時、熱を感じ取れない自分を見て茫然とした僕に、姉が一瞬顔を歪めた理由が。

女将さんに責められた時、姉が朦朧とする意識の中、うっすらと重い瞼を上げた理由が。

 

「アル、フォンス」

 

貴女が今、僕の代わりに、どれだけ心を傷めているか。

 

「悪かっ、た」

「謝ら、ないでよ」

 

わかる、わかるんだ僕には。貴女が今どれだけ―――

 

「、ごめ」

「―――謝らないでよっ」

 

どれだけ、この荒げてしまった自分の声が貴女の心を抉るか、わかっているのに。

自分の感情を抑えることすらできない僕は、まだまだちっぽけな子供のままで。

守る、だなんて。一体どの口が言っているのか。

 

「謝らないでよ……」

 

ああまったく、自分が嫌になる。

ぽつんと溢した言葉は、自分のものじゃないみたいにがらんどうの体の中に反響した。

しん、と静まりかえった世界に、一人だけ立ちすくんでいるような錯覚に陥る。

そんなどこまでも墜ちていきそうな奇妙な感覚に、アルフォンスが飲み込まれそうになった時。


 

「いや、謝る」


 

凛と、きっぱりとした声が、耳元で木霊した。


 

「アル、フォンス」

 

かしん。

 

「アルフォンス、こっちむけ」

 

かしん。

 

「今回の、ことは、俺が悪かった。俺が、ちゃんとお前に、言わなきゃいけなかったんだ」

 

かしん、かしん。

 

「言わなかった、せいで、お前にも、女将さんにも迷惑かけた……」

 

どこからともなく聞こえてくる、断続的な金属音。

強いていえば、金属と金属が微かに擦れ合うような音は、アルフォンスの体の中に直接響き渡っていて。アルフォンスは項垂れていた首を、体ごと動かした。

真っ直ぐに伸ばされた姉の腕が、狭い視界いっぱいに広がった。

 

「アルフォンス、ごめんな」

 

腕の隙間から除く大きな金色の瞳は熱っぽく潤んでいたが、真っ直ぐにこちらを見上げてくるそれは確かな力強さに満ちていて。

 

「馬鹿なねえちゃんで、ごめ、ん」

 

かしん、かしんと。

何度も姉の手が、アルフォンスを、鎧の頭を撫でる。

何度も何度もゆっくりと、その冷たい手で、愛おしむように。労わるように。

包み込むように。

 

「心配かけた、な」

 

掠れて上ずっているその声は、ほとんど泣き声に近くて。

しかし姉は、決して涙を溢してはいなかった。

泣きたいはずなのに。

声を上げて、泣いてしまいたいはずなのに。

それでも姉は、泣いていなかった。


 

憧れて、憧れて、憧れていた。

姉の強さに、優しさに、全てに。どんな時でも弱音を見せない、その小さくて大きな背中に。

いつか、その背中を追い越すことができたら。姉さんを見下ろすことが出来るようになったら、力の限り貴女を守るんだって、ずっと思っていた。

 

お互い、感覚なんてない。

体温すらも、感じられない。

 

アルフォンスも顔を上げなければ、姉が自分を撫でてくれていたことにも気がつかなかっただろう。今だって、姉がアルフォンスに触れて乾いた音が響くたび、その心には錆びついた鉄の杭が突き刺さり続けているにちがいない。

そんなこと、わかりきっている。僕は貴女の、弟だから。たった一人の家族だから。

 

―――でも。それでも。

 

アルフォンスは、自分の体温のない手のひらを、姉に向かって、伸ばした。



 

アルフォンス、いつか貴方が大きくなったら、お姉ちゃんを守ってあげてね。

母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか。

 

温かい陽射しが母の栗色の髪を優しく溶かして、そのまま溶けていってしまいそうで、こわくて、思わず伸ばした手を優しく掴んでくれた時だっただろうか。

かさかさに乾いて痩せ細った手のひらが、ゆっくりと、自分の頭を撫でてくれた時だっただろうか。

いつだって、僕を守ってくれたのは、優しい手で。

母さんのやせ細った手も、姉さんの太陽のように温かかった小さな手も、握り締めることはできなくなってしまったけれど。

 

「ねえ、さん」

「うん」

「ねえさん」

「アルフォンス」

「うん」

 

「うん……っ」

 

伸ばした手を、優しく握り締めてくれるこの手は、いつだって空っぽのこの心にぬくもりをくれるんだ。

 

「なに、泣いてんだよ、お前」

「別、に、泣いてないよ」

「嘘つけ」

 

泣けるはずがないのに。この身体では、泣けるはずなんてないのに。

アルは泣き虫だな、なんて。

未だ赤い頬でにっと歯を見せる姉さんは、あの日から変わらず、僕の大切な姉さんだ。

 

うん、姉さん。

どこまでも、走っていくよ。

足が捥げようが、手が捥げようが、頭が取れようが。

貴女をこの背にのせて、どこへでも。

 

「ア、ル」

「なあに?ねえさん」

「ふふっ」

 

赤く色づく頬で、姉さんが笑った。

 

「お前の手、冷たくて、気持ちいいや」

 

そっと触れた姉さんの頬は、とても冷たくて、温かかった。


 

守るよ、母さん。

お互い傷つき合うことでしか、前に進めなかったとしても。お互いの心が、軋む手足に、身体に、何度抉られようとも。

今だけはきっと、この冷たい手のひらで、火照った姉の身体を冷やしてあげることができるはずだから。

 

いつだって、守ってくれるのは、







 

ねえ、エドワード、いつかアルフォンスが貴女より大きくなっても、この子のことを守ってあげてね。

 

母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか。

母の膨らんだお腹に恐る恐る触れて、脈打つ命の胎動を感じた時だっただろうか。

揺りかごの中ですやすやと眠る弟の頬に、優しく触れていた時だっただろうか。

 

それとも、だんだんと冷たくなってゆく母の手のひらを握りしめながら、涙を流していた時だろうか。

 

母さんのやせ細った手も、アルフォンスの太陽のように温かかった手も、この右手では握り締めることはできなくなってしまったけれど。

 

なあアル、覚えてるか?

上級生にやられたのが悔しくて、お前の代わりにやり返しにいった時、多勢に無勢でこてんぱにやられた俺を追っかけて、加勢してくれたこと。

怖かっただろうに、痛かっただろうに。

姉さんになにするんだ!って、つかみかかってくれた。

優しくて、強くて、世界で一番大事な弟。

 

動けなくなったお前をおぶって、俺があの家までの坂を上った時、ごめんなさいって涙を流すお前が、どんなに愛しかったか。

背中越しに伝わるお前の鼓動が、どんなに温かかったか。

 

あの時、少し泣きそうになってしまったなんてことは、これから先も絶対に言わないけれど。


 

守るよ。母さん。

お前を苦しませてばかりの、駄目な姉だけど。

お前がどれだけ大きくなったって、この体が尽きぬ限り。

何度この手足が破壊されても、何度心が抉られようとも。

 

アルフォンスの手のひらは、いつだって自分に、温もりをくれるんだ。


 

いつだって、守ってくれるのは、

この冷たい、手のひらだから。

​冷たい手のひら

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