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風狂人の放歌

は聞き間違い

「死にてえー!!」

残業だった。部下はみな帰し、一人で自宅まで帰宅していた頃。猛烈に降ってきた雨に慌てた。今日はなんだか歩きたい気分で、いつもの送迎も断ったのが運のつきだった。いつも自分の直感を信じ行動すればいい方向に向かっていたため、今日も何かいい事があると思ってした行為が見事なまでに真逆に向かった。

苛立ちながら土砂降りの中を走っていた時だ、聞きなれた声が耳に入り込んできたのは。

「あああぁあー!!死にてえー!!」

大きな雨粒。傘も持ってくることも忘れた。一瞬の間ももたず大玉達はびたびたとコートに染み込んでゆく。寒いし、冷たい。指先の感覚もあまりない。それでも、足を止めざるを得なかった。声も足音も存在すらも消し飛ばされそうな豪雨の中、赤いコートを着た金髪の少年が、橋の欄干に手を添え叫んでいたからだ。

「死に、てぇ―――!!」

息を大きく吸い、橋の上で、空に向かって吠えている。今までに見たことがないくらい皺の多い顔をして。こちらには気が付いていない。気が付くはずもないだろう。酷い雨だ。それでもそんな雨にかき消されないほどの大声だった。少年も、きっとこの雨なのだからいくら叫んでもバレないだろうと思っているのだろう。

この通りは自宅までの近道ではあるが、道も舗装されておらず、車も人もあまり通らない。自分だって、視界が掻き消えそうな雨など降らなければこんな道は通らなかった。泥は凄いし足場も悪い。頼んでもいないのにブーツの中に冷たい水が浸入してきてびちゃびちゃだ。おまけに、橋に沿った道筋だから風も強い。案の定、急にぶわっと吹き荒れた風に、少年の身体がよろけた。平均よりも小さい身体だ(本人に言えば爆発し怒り狂うだろうが)、こんな強い風では吹き飛ばされはしなくとも転んで怪我をしてしまうかもしれない。減らず口や嫌味の応酬をする間柄だが、気にかけている部下だ。慌てて近くに寄ろうと足を踏み出した瞬間。

「ぁああああああああ―――!!」

獣のような声を上げながら少年が足を地面に叩きつけた。この土砂降りの中でもがしゃん、と大きな音が聞こえてきそうなほど激しく。がしゃん、がしゃん、がしゃん。少年の小さくて、それでいて無骨な機械の足が、風に負けじと何度も地面に振り上げられる。傍からみれば、その身体の小ささも相まって(重ね重ね言うが本人に言えば怒られる)幼子が駄々を踏む姿のようにも見えるかもしれない。それか、狂人か。なんとも異様な光景だ。

しかし、私にはそうはみえなかった。少年の元来の性格を理解しているからそう思うのかもしれないが、彼にとっては大事な左脚で大地を踏み荒し吠える姿は、なぜかとても。

 

声をかけては、いけない気がした。何も言わずにそのまま立ち去ろう。そう思って踵を返そうとした矢先、ふいに、いままで以上に大きな突風が吹き荒れた。

少年の泥にまみれた赤いコートが、ばさばさと舞いあがる。もちろん私のコートもだ。雨粒や飛ばされたゴミが視界の中に過剰摂取され目を開けていられず、思わず腕で顔を瞑った。そして、風が止んだのを見計らって目を開けた直後だったので。眼前に迫っていた障害物を避け切ることができなかった。

「うぐッ……!」

べたんと、勢いよく顔にぶつかってきたものを、慌てて腕で払い落す。視界の隅でがさがさと新聞の切れ端が風に飛ばされていくのが見えた。くそ、まさか新聞紙に襲われるだなんて。軍人にあるまじきみっともない声が出てしまった。内心で毒づきながら、少年はどうなったのかと視線を欄干のほうに戻すと。

 

 

 

見開かれた大きな金色。そして、震える唇。

まさに呆然、といった表情を浮かべた少年は、私を見つめながらその唇をたいさ、と小さく動かした。弱弱しいその動き。きっと、今の私はとても間抜けな顔をしているのだろう。それでも、私よりも少年のほうがよっぽど間抜けな顔をしているに違いない。

なんということだ。静かに立ち去ろうと思った矢先、見つかってしまうとは。しかも、よりにもよって新聞紙のせいで。今日の天気もろくに書いてない上にこんなところまで役に立たないとは。腹立たしいにも程がある。私はなんと声をかければいいかわからず、降りしきる雨の中金色に輝く少年を見つめた。

 

 

 

ああだから、そんな顔するな。そんな今にも死にたいというような顔。

大丈夫だ。私ははっきりと一連の流れを見てしまったが、聞き間違いだ。

わかっている。全部わかっているから。

 

 

 

君が誰よりも生きたいと叫んでいたことなど、百も承知だ。

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