「もしも君が世界中の人々から愛され守られる存在となれば、私だけは君の敵になるよ。必ず。私だけは君を嫌う。世界で一番君を嫌うのは私だ。君は私に世界で一番嫌われるんだ。わかるかい鋼の。私は君のことが、世界で一番大嫌いだよ」
「…ッ、は……う、ッ」
脳にいきわたる酸素が圧倒的に少なすぎて、目の前の大人の声が聞き取りずらい。
しかし開放はすぐにやってきた。ふっと首への圧力が消えたと思ったら、力の限り太い腕に投げ飛ばされる。
気が付いた時には地面。耳元に移った圧縮された鼓動が、けたたましく鼓膜を叩き、鳴り響いていた。
「……け、ッほ」
首を絞められたのは、初めてだった。だからこそ、妙に頭は冷静で。
見下すような視線がそらされ、男の気配が遠のいていくのを感じる。かつかつと地面を踏みしめる靴音が、離れていく。
まて。まだ。
「ま、……て……ッ」
息も整っていないうちに叫んでせいで、盛大にむせた。男が、足を止めた。
けれどもそれは、決して心配してのことではないだろう。きっと、小さな子供の反撃を、あざけるためだ。
いつものように、無視するでもなく。
それほどまでに、男は少しだけ、冷静さを欠いていた。
何に?
「ま、てッ……」
「死にかけの子供一人、どうとでもなる。それでも声絞り出そうとする心意気は天晴だ」
「聞け、よッ」
首に力をいれて、顔を上げる。そこには想像していたのと寸分たがわぬ大人の顔が鎮座していた。
冷徹な焔が、そこには在った。
「……今、アンタが、いったこと……が」
ひるみそうになる肺を、拳で懸命に押す。空気が、口内から出る。
少しだけ吐息が白い。今日はいつも以上に寒い。かじかむ唇を動かすらけで精一杯だ。
だからこそ、今はそれだけでいい。男のいうように、天晴だ。
「アンタの、本心なら」
それだけで、いい。
「……オレが」
乾いた唾を飲み込む。声が届くだけでいい。
「世界、中から嫌われれば……」
それが少しでも、大人にとっての一撃になるのならば。それでいい。
「アンタは、どうなる……ッ」
絞りだすような血反吐まみれた叫びを、大人は少しだけ、飲み込んだようだ。
ほんの少しだけ、下げられる視線。長いまつ毛の下、伺う漆黒。
ひるんだのかどうかはわからない。
「どうなるのだろうね」
「はぐらかすんじゃ、ねえ……!答えろよ!」
「どうなると思う?」
予想通りの回答。質問という名の答え。きっと男の中で、真実はもうでている。
視線はそらさない。聞きたいのは、その先だ。
「オレを……愛すのか」
こんな薄ら寒い言葉、弟にだって使ったことがない。
静かに目を見張った大人に、気恥ずかしさよりも苦しさが募る。
「真っ直ぐな子供は嫌いじゃないよ。躾がいがあるからな」
「答えろ」
「君は私を見誤りすぎだ。親の教育の賜物か」
口を閉ざす。聞く役に徹する。男は、全てを曝け出すつもりだ。
黒々と燃える瞳の焔が、そう言っていた。
「憎むよ」
それ以外はないとでも、言うように。
「君が世界中から嫌われるのであれば、私はそれの上をいくまでだ」
カツンと、再び遠ざかる足音。
「君が、もうこれ以上ないと思えるほどに。君を苦しませるまで」
青い服が、翻る。今日の男はよくしゃべる。本当に。
「――私以外で、傷つくことは許さない」
低い声は、本気だ。
「これの方が簡単なんだ。特に、君みたいな子供相手には、ね」
最後に、ちらりとこちらを見下ろした男と視線が合う。
緩やかに笑んだ男の視線は、熱かった。
男の放つ熱を全て、注ぎ込まれた感じだ。
まるで、針のように。
――なんてことだ。
静かに扉をしめていった、男の残像をねめつける。
――なんてことだ。どじゃりと座り込む。これを最悪と言わずしてなんと言おう。
――力が抜けた。なんてことだ。
世界中から好かれれば嫌うくせに、世界中から嫌われればさらに嫌い?
なんだこの、一貫していない思考回路は。
いや、違う。一貫していないように見えて、一貫しているのだ。
これが、男の本心だ。
はっと、乾いた笑みが零れだす。喉が痛い。
ゆるりと撫ぜれば、わずかにへこんでる。指の形。
男の想いがここに刻み込まれた。刻み込まれてしまった。
男が言うように、見誤っていたのだ。完全に。
これの方が簡単だって?そうか?違うだろう?
――ちくしょう。
――大佐め、ろくでもねえもん、残していきやがって。
アイツは、ロイ・マスタングは、思っていた以上に。
オレに、イカれてやがる。