
「え……」
気怠い体を起こし、手際よく襟首を正しいつものように仕事を再開した男を見やる。
「いま、なんて」
「だから、今日で契約は終了だ、鋼の。もう君とは寝ない。今までご苦労だった」
ぱらりと、長く節くれだった指が書類をめくった。つい先ほどまで、その指にさんざん疲弊させられていた。口内をまさぐられ、下肢を弄られ、自分の指では届かない、深い深いところまで侵略されて。もう疲れた、もうやめてくれ、そんな言葉は男の唇に全部吸い込まれ、ぬめる舌で中を蹂躙された。文字通り、息をつく暇もないほど激しく求められた。だからこそ、今目の前の男が言った言葉が信じられなかった。
「え、な、なんで……」
「結婚することになった。式は来月だ」
なんてことないように言われた言葉に、エドワードは硬直した。
まるで明日の予定を語るようなその口調には一寸の乱れもない。だというのに、心の奥底を切り裂かれた気分だった。
「アーノルド商会のご令嬢が相手でね。先日見合いがあってトントン拍子に話が進んだ」
ぺらりと、また書類がめくられる。
「数年前から彼女との話は持ち上がっていたのだがね。なかなか忙しくて時間が取れずにいたが、最近情勢も落ち着いてきたし、よい機会だと思ってね。彼女と結婚すればかなり人脈を広げることができるし、彼女の祖父はアーノルド将軍でもあるから出世も保障されるだろう。いつまでも火遊びをしていたら破談になりかねないからな」
エドワードと会話をしながら、男の視線は確かに書類の文字を追っていた。時折難しそうに眉をひそめて何かを書き込んでいる。そういえば、今日中に終わらせなければならない案件があると言っていた。だからこそ今日の情事はいつもより性急だったのだろう。
そう、息をつく暇もないほどに。
「まあ、君にはさんざん遊ばせて貰ったからな。そのお礼と言ってはなんだが、後々口座にいくらか振り込んでおこう。手切れ金だ。3年間、ご苦労だった」
とん、と書類を片付け、すぐさま次の紙の山へ向かう。その間マスタングはこちらを一切見ない。エドワードから視線を逸らしたいのではない。ただ興味がないのだ。今、エドワードがどんな顔をしているかなんて。マスタングの言葉に、エドワードが今どんな思いでいるかなんて。これっぽっちも。
「やはり、終わらないな。これはあとでハボックにでも」
「大佐」
「……ん?ああ、どうした。交渉でもしたいのかね」
交渉、言われなくともなんのことなのかはわかる。手切れ金だ。今まで、エドワードの体をさんざん弄んだ分の。
マスタングの机の脇に置かれた小さな花瓶。敷地内から誰かが摘んでもきたのだろう。
手折られ、哀れなほどに縮まった一輪の花が、隙間風に遊ばれ心元なく揺れていた。
マスタングと関係を持ったのは、エドワードが12歳の頃からだ。
弟の体を研究機関に引き渡さない、エドワード達兄弟の罪を黙っている代わりに、体の関係を要求された。等価交換とも呼べない、性欲処理の道具として。断るすべはなかった。もしもマスタングの要求を飲まなければ、エドワード達は秘密をバラされ軍法会議にかけられ、銃殺刑も免れないかもしれない。エドワード達の秘密を隠していた、故郷にいる幼馴染やその祖母も同様だ。きっと、軍の手が入ってしまう。
エドワードはマスタングと寝た。この3年間で、数えきれないほどに。
好きでもない、しかも同姓の男に犯されて平気でいられるはずがない。エドワードは何度も心を押し殺し、マスタングに蹂躙され続けた。最初の頃はもちろん痛かった。けれど回数を重ねていくにつれて痛みは快楽に代わっていった。エドワードに、マスタング以外の他人とのセックスは経験ないが、マスタングの情事は丁寧だった。でも、時々激しく犯される日もあった。詳しく聞いたことはないが、マスタングの体に染みついた焦げた臭いにだいたいの予想はつく。そんな時マスタングはきまって、全てを食らいつくすように、何かを求めるように、幼子が母親に縋りつくように、エドワードの体の奥の奥を暴いていった。
いつからだろうか。
マスタングとのセックスに、嫌悪以外の何かを感じるようになったのは。
嫌だった。恐ろしかった。初めて犯された時はあまりの衝撃に吐いてしまった。マスタングに触られた部分が汚く感じられて、情事が終わるたびに体が赤くなるまで擦って。
それなのに、いつからだろうか。
ぽたぽたと降り注ぐ汗が、不快ではなくなったのは。
優しく頬を撫ぜる指先が、温かく感じられるようになったのは。何かあるたびに、エドワードを激しく、甘く求めてくるマスタングの首に腕を回せるようになったのは。目が覚めれば、ぎゅっと自分を抱きしめたまま眠るマスタングの腕を、振りほどけなくなったのは。普段司令官として前線に立っている時とは違う、安心しきったような無防備でどこか幼い表情に、額にかかる髪を優しく払ってやれるようになったのは。
玩具としてではなく、性欲処理としてでもなく、もしかしたら。
もしかしたら自分は、大切にされているかもしれない、だなんて。
そんな愚かな期待を、抱いてしまったのは。
「もちろん、君の交渉には応じよう。君のおかげで男の体も以外にいいものだと知る事ができたし、なんだかんだ言って君とは一番体の相性もあっていた。だからこそ、君が最後でよかったよ」
君が、最後でよかった。昨日、マスタングが街中の路地で派手な女性と一緒にいるところを見た。そういえばその時、女性の方が少しだけ名残惜しそうにマスタングの腕にしがみついていた気がする。そんな女性をマスタングは宥め、最後に触れるだけのキスをしていた。
マスタングに、エドワード以外の遊び相手がいるのは知っていた。それがどんな相手なのか、何人なのかは知らなかった。聞くこともしなかった。聞きたくなかった。けれども今の言葉で確信した。最後でよかった。数あるうちの、最後で。
「明日からは忙しくなるし、自分の時間も持てなくなるからな。君が今日来てくれて助かった」
助かった。それは。最後に逢瀬をかわすことができたのがエドワードでよかったと、そういうことではないのだろう。結婚式まで、時間もない。もう、表立って愛人たちと遊ぶこともできない。仕事が忙しく時間のない中で、この密閉された空間で誰にもバレることなく、最後に一回だけ性欲を発散できて、エドワードを使うことができて、よかったと。そういうことなのだろう。
「まあ、私とて君の値段がそんなに安いものだとは思っていないよ。君は一番高くつくだろうね。それだけの事をして貰った。いくらがいい、好きな値段を言いたまえ」
何もなかった。エドワードとマスタングの間には、何もなかった。
エドワードは、マスタングの数ある愛人の中の一人にしか、すぎなかった。
それを、エドワードが勘違いしていただけ。
「鋼の?」
自分だけは特別なのかもしれないと、バカなことを思ってしまっただけ。
「どうした、鋼の」
ぼんやりとした視界に、黒が映った。マスタングの瞳だ。初めて、マスタングの目がこちらを見た。いつも組み敷かれながら、見上げていたオニキスの瞳。顔を上げたマスタングは、最初の頃と何一つとして変わっていない。エドワードに等価交換を強制した時も、初めてエドワードを犯した時も、エドワードにやつ当たるように腰をぶつけていた時も、気まぐれに髪を撫でてきた時も、何一つかわらない。マスタングは、エドワードを体のいい玩具として扱っていただけだ。罪悪感も欠片も抱かず、誰かにバレることも万が一にもない。リスクもない。いつでも遊べる、性欲処理の道具として。
その瞳に、エドワードが向ける分だけの熱量が隠されているのかもしれないと、どうして思う事ができたのだろうか。エドワードだけに、本心を見せてくれた?時々乱暴に抱かれるのは、マスタングがエドワードに甘えていたから?連続して呼び出されたのも、エドワードを欲して貰えていたから?違う、全然違う。そんなものじゃない。エドワードに対してこの男が表情を作らなかったのは、エドワードが他の女性たちのように優しく接する必要がないと判断されたからだ。嫌な事があった日に激しく犯されたのは、ただのストレス発散のためだ。エドワード以外の愛人にはできない乱暴な抱き方が、エドワード相手にはできたからだ。日を空けずに何度も呼び出されたのは、男で、体力もあるエドワードを少し酷使したって壊れないと思われていたからだ。エドワードは物だった。マスタングはただ、使い勝手のいい穴を使用していただけだ。エドワードがセックスだと思い込もうとしていたものは、マスタングにとってはただのマスターベーションにしか過ぎない。そこに、エドワードが必死になって探ろうとしていた情なんてものは一切なかった。
そんなことに、どうして今の今まで気が付けなかったのだろう。
この男はこんなにも、冷たい目をしていたというのに。
いぶかしむように眉を顰めたマスタングは、不思議そうに、手にしていたペンをくるりと回した。
「どうした、神妙な顔だな。君は私から解放されたがっていただろう?もっと素直に喜んだらどうだ」
その瞬間、頭の中がはじけた。
「……ッ」
勢いのままソファから飛び出す。縺れるように机を飛び越え、手元にあるものをがむしゃらに薙ぎ払った。驚きに目を見張ったマスタングの襟首を強く掴みあげて、押し倒す。
一瞬の出来事だった。大きな音を立てながらマスタングが椅子ごと倒れた。カシャンと小さく、何かが割れる音。視界の隅に映った、溢れる水にプカリと浮かぶ一輪の花。
「……ッ、ぐ、!」
地面に打ち付けた頭の痛みに、マスタングが苦悶の声を上げる。その上に馬乗りになり、机の上から落ちる白い紙を手あたり次第ひっつかんで、マスタングめがけて拳ごと振り下ろす。
「な、なにをッ……!」
エドワードの凶行を止めるべく伸ばされたマスタングの腕に、手首を取り押さえられる。それでも渾身の力で振りほどき、落ちてしまった紙やインク入れをぐしゃぐしゃに掴んでマスタングの顔にぶつける。白い手袋が、あっという間に黒く染まった。
「……ッ、止めなさい!」
生身の手のひらが傷む。何度も、何度もたたいた。見の内に煮えたぎる熱を拳に乗せて。
床に転がったペンが視界の隅に映った。砕けるほどの力で掴み、そのまま勢いよく振りかぶる。
「ッ……!」
ひきつるようなマスタングの呼気に、ピタリと、手が止まった。
マスタングの、見開かれた黒。そこに、色が見えた。今までとは違う、揺れるようなそれ。驚愕とも、不安とも、恐れとも違う、これは。
ぶるぶると震えるペン先から、ぼたぼたと黒いインクが落ちてゆく。
「はは、は」
マスタングの軍服の青に。そして、茫然と、エドワードを見上げる、マスタングの顔に点々と。
「あは、はは、は……」
力が、抜ける。体はもう疲労困憊だというのに、なぜか笑えて来た。
この男は来月結婚する。エドワードにしてきた事を綺麗さっぱり捨てて、なかったものとして扱って。エドワードの苦しみも、憎しみも、怒りも哀しみも全部全部、胸が張り裂けてしまいそうな切望へと変えておきながら。
ぱたりと、機械の右腕が落ちた。マスタングの襟元を、すがるように掴む。もう片方の腕も同様に。ぎゅっと握りしめる。しわくちゃになったシャツに、ぽたり。マスタングの頬に、透明な滴が零れ落ちた。ぽたりぽつたりと、絶え間なく。室内であるというのに、まるで雨が降っているかのようだった。
マスタングの憐憫にも似た瞳と目がある。きっと、マスタングは今気が付いたのだろう。エドワードがどうして今、こんな行動をとっているかの理由を。そしてエドワードも気が付いた。自分のこの気持ちの正体を。いや、違う。きっと初めから気が付いていた。けれども、気が付きたくなかっただけだ。自ら心の奥底に押し込めていた、恐ろしい想いの正体に。認めてしまったら、待ち受けているのは破滅しかないと、知っていたから。
「あはは……あはははは」
マスタングが顔を歪ませた。しかしそれは、驚愕にではない。哀れみの体を被った別のものが黒い瞳の中にはあった。エドワードにはわかる。だって、3年間ずっと、マスタングだけを見てきたから。
「鋼の、君……」
噓だろう?とでも言いたげな、細められた瞳。そこに含まれる、煩わしそうな乾いた色。
エドワードの存在を全身で疎んでいる男は、くしゃりと顔を歪ませたエドワードを見て。
勘弁してくれとでも言いたげに、目を逸らした。
「……あは、あはははは!」
喉の奥底からこみあげてくるおかしさに、エドワードは仰け反るように天井を見上げた。
「あははは、あははははははははははッ!」
おかしい。おかしかった。笑いが止まらなかった。
だって、こんな滑稽なことがあるだろうか。
愛されてなかった。始めから。
マスタングに、愛されてなどいなかった。
愛されてなんか、なかった!!
それなのに!!
「あは、あははは、はは……ッ!あはははは、あははは!!」
痛いほどに愛していたのは、オレのほうだった。
エドワードの気持ちすらも否定する、こんな、酷い男に。
飛び散った黒いインクが、マスタングの青い服にしみ込んでゆく。
マスタングは汚れた軍服を捨て置き、すぐにでも新しいものを新調するだろう。
そして行くのだ。自分の妻となる女性と腕を組んで。白い紙の花びらが舞い、祝福の鐘が鳴り響く教会へと。
きっと、マスタングの花嫁が放ったブーケは、誰かの手元へ。幸せそうな未来が、そこにはある。
エドワードとマスタングを囲むように地面に散らばった、白い書類の紙。
花吹雪にもなりやしない、こんなものは。それが花嫁衣裳なんてもっての他だ。自分は男で、マスタングも男で。そんなもの、着れるはずなどないというのに。
しゅくふくのねからはなれて
祝福の音から離れて
どこからか、小さな鐘の音が聞こえてきた。近場にある教会で、どこかの誰かが式でもあげているのだろう。
なんてタイミングだと、もう笑いさえ起きやしなかった。
エドワードの心と体を、置き去りにしたまま。
誰にも拾われることのなかったひとりぼっちの花はぽつんと、砕けた花瓶の欠片に囲まれていた。