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 優しい嘘なら許されますか、と。信仰心などありはしないというのに、ここぞとばかりに神へと問を投げかけてみる。

 

 

 当然ながら返答はないし、今この場に相応しいのは浅はかな疑問よりも偽りなき祝福の言葉なのだろう。けれど、どうしたって足元が揺らぐ。
 数日前に届いた葉書に記されていたのは、セントラル随一の巨大な教会で行われる結婚式の旨と、男女一組の名前。著名人がこぞって利用する教会なのだから、国軍大佐ともなればさぞかし盛大な挙式となるだろう。そういった類の情報に疎い俺でも認知しているくらいには収容人数が多いのだ。
 しかしながら一方の新婦の名前はファーストネームもラストネームもありきたり過ぎて、幾ら記憶を掘り起こそうとも合致しない。もしかしたら面と向かって顔を拝めば思い出すかもしれないと結論づけたのも束の間、よくよく考えてみたら実際そんな場面になったらまともに直視できない気もする。
 それはつまり、二人の関係性を突きつけられるということなのだから。


「へえ〜、大佐結婚するんだ!」


 暫く状況が飲み込めず葉書と睨めっこしていると、背後から覗き込んで内容を把握した弟がすんなりと耳元で現実を突き付けてくる。


「結婚(けっこん、英: marriage)とは、夫婦になること。類似概念に婚姻があり、社会的に承認された夫と妻の結合をいう。後述のように学術的には【結婚】はもっぱら配偶関係の締結を指し、【婚姻】は配偶関係の締結のほか配偶関係の状態をも含めて指している」
「兄さん何言ってんの、辞書じゃないんだから」


 説明しなくても分かるでしょ、と大袈裟なまでの溜息を吐かれ。分かっているさ、分かっているからこそ必死で現実逃避を試みているんじゃないかと内心発狂する。
 数ヶ月前、俺達兄弟はひっそりと人体錬成を成功させた。全身を取り戻した弟は当然ながら絶対安静だったし、その後のリハビリも考慮して故郷のリゼンブールへと帰郷。焼跡のままの実家には住めず、幼馴染の実家に腰を落ち着けることになったのだけれど、いきさつなどの詳細は身内以外には内密にしていたため、なんとなく肩身の狭い思いをしていた。
 だからだろうか、何も言わず帰郷したことがやけに気掛かりだったのは。取り敢えず、諸々が落ち着いたら多大な迷惑を掛けただろう上官のロイ・マスタング大佐にだけは直接報告をしなければ。そうして数日後いつもなら此方から連絡などしないのにきちんと正規ルートでアポイントを取った。だって、これが最後かもしれないから。
 それなのに。


「そうか、おめでとう」
「…………それだけ?」


 何度も何度も、話す順番や台詞や単語を取捨選択して、いかに簡潔に説明できるか纏めてきたというのに。わざわざ列車を乗り継いで何時間も掛けて報告に来たというのに。返ってきたのは、たったの一言だけ。
 呆気ないものだな、そう思ったら鼻の奥の方がツンとして目頭が熱くなる。泣くな、泣くな。こんな男のために、泣く必要なんて微塵もないのだから。
 もう国中を旅しなくてもいい、賢者の石の情報を血眼になって探さなくてもいい。禁忌を、犯さなくてもいい。生きる目的と言っても過言ではないくらいの、青春の大半を費やした生き様だった。それが今此処で、こんなにも容易く無価値に成り下がってしまうだなんて。
 だからこそ、委ねた。変化してしまった現状を目の当たりにしても、これまでと変わらない関係性なのか。けれど、顔を合わせる度に軽口を投げ合う戯れすら跡形もなく消えてしまった。
 賛辞を呈して欲しかったわけでも、軽口を返して欲しかったわけでもない。それならば一体、俺はこの男から何が欲しかったのだろう?


「……鋼の?」


 生身の右手で握り締めていた金属の塊がじっとりと湿り気を纏っている上、力の加減を間違えたからかギチリと音を立てる。そのまま銀時計を突き返してしまえばよかったのに、できなかった。これを返してしまったら本当に終わってしまう気がして。
 

「…………っ、」


 そのまま逃げるように執務室から退室し、脇目も振らず列車の切符を取った。引き止められもしなかったし、追いかけてくるわけでもない。リゼンブールに戻ってからも一切連絡はなかった。つまり、答えはそういうことなのだろう。
 どうせ、逃げ帰ったあの日から二度と接触するつもりはなかったし、今は弟の体調を一番に考えるべきだと思い至り、気持ちを切り替えることにした。忘れたふりは日常の一部に成り代わり、もう何の苦労もなくできるようになっている。だから、大丈夫。
 そんなこんなで一通り落ち着いたのが一ヶ月ほど前。弟の身体もだいぶ肉付きがよくなり、筋力も増し体力もそこそこついてきている。それでも日常生活には松葉杖が必須なので完治とはほど遠いのだけれど、ひとまずは安定した生活を送っている。
 そんな矢先の出来事だった。朝早く起きて、畑仕事をして。時には屋根の修理だったり力仕事を依頼されたり。若い男が不足した村では重宝される存在と自負できるようになった頃。ついこの前まで国家錬金術師として腕を奮っていたのだということを忘れてしまうくらいには一般人としての生活を満喫していたのに、たった一枚の葉書のせいで崩壊してしまった。
 結婚式になど、誰が行くものか。わざわざ他人の幸せの押し売りを受けに行くだなんて。そう思ったのだけれど、よくよく考えてみれば銀時計の返上を忘れていた。あの忌々しい場面を思い出すだけで吐き気がする。それを、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
 国家錬金術師の称号をどうすべきなのか考え倦ねていた時期はとうに過ぎ去り、月日が流れるにつれ顔を合わせるづらくなっているのだと思い知らされる。結果的に先延ばしにしていた銀時計の価値は、それこそ用済みな金属の塊にまで降格されているのだから早々に手放してしまわなければ。
 いっそ、全てを終わりにしてしまおうと思い立ったのが数日前の出来事。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 目の前の重厚な扉を開けば、きっとその先には他人の幸せが満ち溢れている。そして己にだけ、特別な絶望が与えられのだろう。残念ながら、本日の天気でさえ心とは正反対の雲ひとつない快晴だった。
 ゆっくりと一つ、深呼吸。目を閉じれば、すぐさま鐘の音とライスシャワーの組み合わせがチラつく。幸せそうな二人と、祝福する参列者達。そんな場所に居合わせたら一分も生き長らえないだろう。だから敢えて時間をずらした。僅かでも傷口を浅くしたくて。
 嘘偽りのない笑顔で祝辞を述べられるほど強くはないのだと、ほんの少しだけ大人になって気付いた。数年前までは早く大人になりたいと願っていたし、子供扱いされる度に激怒した。
 此方の軽口や暴力に動じない姿にやきもきしていたのにも拘らず、大人の理想像が大佐にすり替わってしまっていたのは、一体いつ頃からだったのだろう。それすら今では、遠い昔のように思える。
 年齢も立場も関係なく軽口を言い合えていたのは、紛れもなくそれ以上の何かがあったから。顔を合わせれば嫌悪を顕にして、挨拶代わりに軽口を投げつける。そんな子供じみた自衛はいとも簡単に侵略され、距離を詰められ、腰を引き寄せられ。吸い寄せられるように互いの意志で限りなくゼロに近くなる身長差。
 そうして触れるのは、唇まで。


「……やあ、鋼の」


 その唇が、いつしか馴染んでしまった銘を呼ぶ。今の姿には決して当て嵌まらない鋼という銘。手脚を取り戻したことで機械鎧は早々に不要になってしまったし、以前揶揄された宿願を見据える瞳や燃ゆる心だってもうとっくに持ち合わせてはいないというのに。それでも彼は、彼の中では、未だに鋼なのか。


「大遅刻だな。待ちくたびれたよ」
「何で、まだいるんだ」


 とっくに時間は過ぎているだろうと、震える声で問を投げ掛ける。やっとの思いで口にした台詞は、とてつもなく間抜けな単語の羅列に聞こえただろう。仕方がないじゃないか、これまでの人生の中で一番と言っていいほど混乱しているのだから。
 真っ白なタキシードを纏い、同色の薔薇の花束を手にしたこの男の装いの意味も、花言葉も。全て理解しているのにも拘らず、決して飲み込んでやるものかと頑なに拒んでいるのは、紛れもなく信じたくないからだ。神でも誰でもいい、全てが嘘偽りなのだと告げてくれとさえ願ってしまっている。
 そもそも、白薔薇の花言葉である、尊敬や純潔や約束を守るという語句をこの男が体現しているとは思えない。当て嵌まるわけがないじゃないか。年端もいかない少年の心を弄んだ、この男の何処が尊敬や純潔や約束を守るという意味に結びつくというのだろう。
 扉の前で二の足を踏んでいた時間が長かったらしく、いつの間にか陽が傾き橙色の西陽がステンドグラスを透過して光を乱反射させている。その中心にいるロイ・マスタングの、何処を信じろと?


「実を言うと、君に送った招待状はでっち上げだったんだ」
「…………は?」


 先程の衝撃と畳み掛けるように流れ込んできた台詞の所為で、どうやら脳の処理速度が追いつかないらしい。狼狽える俺を尻目に、ゆっくりと間合いを詰め此方に近付いてくる男との距離は、最早二メートルを切っている。これではまるで、いつも追い込まれていたあの頃のようだ。
 動揺は最小限に、決して悟られないように。バージンロードに撒かれた純白の花弁が真紅の絨毯に映えるな、だなんて。そんなどうでもいい思考で脳内を埋め尽くして。けれど、それでも気付いたら絡め取られている。いつだってそうだった。だから顔を合わせたくなかったのに。
 きっと今だって心の中で笑っているに決まっている。 


「その顔が見たかった」


 ほら、見事的中したじゃないか。相変わらず悪趣味な男だと内心悪態をつき、台詞の代わりに溜息を零す。けれど数秒後には言葉にしなかったことを後悔するだなんて思いもしなかった。


「だって君、今胸を撫で下ろしたろう?」


 なんで、この俺が。そう言い返そうとして顔を上げたら。言葉が、出なくなってしまった。すぐ傍に、手を伸ばせば届くほどの距離に彼が立っていたから。
 息が、できない。


「本当に渡したかったのはこれだ」


 片膝をつき、差し出された白薔薇の花束。ふわりと鼻先を擽る、甘く芳醇な香りに目眩がする。こんなシチュエーションで花束を贈る意味くらいは経験の少ない俺にだって理解できるが、まさか自分がその相手に選ばれるだなんて予想は過去を振り返っても一瞬たりともできないだろう。
 ブーケ・ブートニアの儀式。その昔、一人の青年が愛する女性にプロポーズするために十二本の花を集め花束を作り、その申し出を受けた彼女が花束から一本を抜き取り、彼の襟元に挿したという。
 十二本のバラには【感謝・誠実・幸福・信頼・希望・愛情・情熱・真実・尊敬・栄光・努力・永遠】という意味があり、ブーケには【これらの全てをあなたに誓います】という意味があるのだということも知っている。


「告白の意味が分からないとは言わせないぞ」
「いや、言わないけど」


 どうすればいいのだろう、と逡巡する。当然だろう、付き合ってもいなかったし、付き合いたいとも思っていなかった相手だ。数多いる恋人の中の一人にすらなれない、都合のいい相手に違いないと納得していた。そもそも、ただの暇潰しだったはず。それが一体どうして。いつから?
 絶対に、恋なんかしていなかったはずなのに。


「エドワード・エルリック。私と結婚してくれないか」


 俺と大佐が結婚だなんて馬鹿なことを言わないでほしい。というか、余りにも非現実的すぎて意味が分からなかったし、驚くほどに多種多様な感情が沸き起こり溢れて収拾がつかない。
 お互い白薔薇の花言葉とは似ても似つかない存在だろうに。それが、何故、今こんなことになっているのか。


「今までも、これからも。ずっと君だけだ」


 そんな素振り、一つも見せなかったくせに狡い。いつだって上手で、頭も切れるし計算高いし、悪知恵だって働く。他人の前では猫かぶりが得意だし、けれど涼しい顔で毒を吐く。それなのに、あざとさも兼ね備えているから狡い。何もかもが狡いこの男の何処に惹かれたのか理解できない。
 会えない時間がなんとやら、惚れた方の負け。世の中に出回っている言葉の羅列に翻弄されたくなくて、恋などしていないと暗示をかけるのに必死だった。好きになるまいと、なってたまるかと。ただの負けず嫌いが祟ったのかもしれないが、必死に無関心を装っていたのは事実。だから、嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだと延々と脳内で螺旋を作り上げていたのに。


「本当は、」


 いや、本当に。大嫌いだった。


「この花束全部突っ返してやりたいところだけど、」


 それが、正解なのに。


「ただ一つ送るとするなら、」


 大切に育てられ、高値で取引きされたのだろう真っ白で傷一つない薔薇の花束。美しく咲き誇るそれを一輪だけ引き抜いて、ブートニアとして彼のジャケット左胸のボタン穴へと差し込む。その一連の動作を無言で見つめる大佐の襟を引き寄せて、背伸びをして。
 触れるだけの、口吻けを。


「俺くらいしか、あげられねーだろ」


 あんたが今までもこれからも、と言うのなら。そう消え入るような声量で付け足して。
 これが現状精一杯の告白で、最善の選択。多少声が上擦ってしまったし、どもった気もするけれど仕方がない。どうせ情けない姿など見飽きたと言われるほどだし、この男みたいに歯の浮くような台詞を飄々と言ってのけるにはまだまだ経験不足。
 しかしながら、これ以上は己の心臓が保たない、というか既に限界突破している気もする。此方のぎこちない言動に対して、一体どのような反応を見せるのだろうか。好奇心で覗き見た表情は、過去一度たりとも目にしたことのない驚愕的なものだった。瞬時に、視界に入れたことを深く後悔する。
 口元を抑える右手、胸に刺した薔薇を優しく包み込む左手。微かに震える掌と、此方まで赤面しそうな皮膚の血色が全てを物語っていた。元々肌が白い所為もあるだろうが、多分、いや絶対全身同色で染まっているに違いない。


「気でも触れたか、鋼の」
「なっ、あんたが始めた茶番だろ!」
「いや私は至って真面目だったし、まさかこんなにあっさり承諾してくれるだなんて思いもしなかったんだ」


 額にうっすらかいた汗を拭いながら前髪を掻き上げる仕草にドキリとする。紅潮した頬で溜息混じりに此方を見つめられては居心地が悪くなる一方で。本来こういう所作を見せつけられたら、ただのいけ好かない男としか受け取れなかったのに、それが今ではこんなにも揺さぶられている。


「お、俺は取り消したって良いんだけど」
「それは困る」
「だったら、つべこべ言わずに喜べよ」


 未だに早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと必死で取り繕っても、結局は上手くいかず裏目に出る。きっとこれもいつもの軽口に過ぎないのだろうと見透かされているに違いない。
 昔から本音を口にするのは大の苦手だったし、相手が相手だけに此方側にはとてつもない努力が必要なのは明白。未だに勝敗に拘っていてはこれまでと何も変わらないじゃないか、そう思考が好転しかけた瞬間。


「これでもう、私からは逃げられないぞ」


 脅迫紛いの台詞と闇に溶け込む漆黒の瞳の所為で、世界が一時停止。からの、終止符。
 逃げ道が塞がれ、目を逸らすことすら許されないとばかりの眼差し。灼熱地獄から突き落とされた先にあったのは仄暗い底なし沼だった。
 言葉や態度で深く傷付けたのはお互い様だったとしても、存在意義を見失ったことで居た堪れず背を向けたのは紛れもなく己自身。だから釈明の余地はないし、責められても仕方がない。恐怖と幸福とがせめぎ合うこの現状を打破する術は、残念ながら持ち合わせていないのだ。
 喉元に添えられた親指がゆるりと顎のラインをなぞって、人差し指と挟まれた左耳朶が弄ばれる。あ、と逃走本能が働きかけたところで時既に遅し。彼の唇が、己の耳朶を食んでいる。自覚からの理解は一瞬で、口吻けられたことで伝わる熱と、水音と、吐息に脳が侵される。薄皮一枚しか隔たりがないのだから、耳朶だって鼓膜だって簡単に破られてしまいそうで。静寂に包まれた世界で唯一物音を立てているのは、悲しいかな己の喉元を通り抜ける生唾だった。


「元より、手放すつもりなど毛頭ないのだが」


 まるで、口腔内の水分が一気に蒸発してしまったかのように舌が上手く動かせない。またも察した彼の唇が己のそれに触れ、啄み、次第に深くなる口吻け。相手の濡れた舌先が歯列を割って侵入し、絡まり、砂漠にもたらされた通り雨の如く潤っていく様はなかなかに興味深い。いやいや、そんなことを考えている場合ではない。これは由々しき自体じゃないか。こんな神聖な場所で何をおっ始めるつもりだと背中を叩くと、一度唇を離して口角を厭らしく引き上げる。実に、腹立たしい。
 これまで噛み合わなかった二人が、まさかこんな風に肌を重ね合わせ、熱い視線を絡ませることになるだなんて。互いの腹の中を探り合うことなく、素直に触れられるとは夢にも思わなかった。
 沈みかけていた太陽はとっくに姿を消し、辺りは灯された蝋燭の明かりのみ。ほんのり照らされた彼の姿は、これまで以上に煌めいていて、途端にくらりと目眩がする。

 

 


「エドワード。誰よりも、愛している」

 

 

 


 今までの世界が嘘のように、全ては輝いていた。

​​​​​​​​​​​​薇に、づけを

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それすさんとあやさえさんに捧ぐ、ウエディングロイエド。

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