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助けたまえ、天使よ!

やってみよう、曲がれ、かたくななひざよ。

そして、鋼のような心よ。

生まれたての赤子のようにやわらかくなれ。

―――

ハムレット:三幕三場


「ああ!このあまりにも堅い肉体が溶け崩れ露と消えてはくれぬものかせめて自殺を罪として禁じたもう神の定めさえなければ!」
 

 


たまにおきるこの現象に、僕はまだ名前をつけていない。
 

 



「いきなりどうしたの、兄さん」

「なんでオレは人間なんだろ」
「はい?」

 

間発入れずに返ってきた言葉は、到底会話と呼べるものではなくて。
さりげなく隣にいる兄に視線を移すと、金色の真っ直ぐな視線とかち合った。


「なあ、なんでだと思う?」


――あ、やっぱり。いやな予感は的中だ。
僕は手にしていた本をそっと閉じると。兄の瞳をじっと見つめた。


「なあ、なんでだと思う?」

こてりと首を傾ける仕草は可愛らしい。

これでいて、普段は泣く子も黙るクソガ……もとい、大人顔まけの天才国家錬金術師なのだから、我が兄ながら恐ろしい。

「そりゃあ、人間から生まれたからじゃないのー」


適当に答えながら、閉じた本をぽんっと床に放り投げた。

いつもは兄が片っ端から読み漁った本を無造作に床に放り投げるものだから、弟である僕が「こら、投げないの」と

たしなめるのだが今日は逆だ。しかし兄は僕が本を投げたことに関しては何も言わない。どうでもいいらしい。


「ちなみに兄さんが人間じゃなかったら、僕も人間じゃなくなっちゃうよ。血が繋がってるんだから」

「違う、そうじゃなくて」


律儀に答えてさし上げた僕の言葉を遮り、兄は苛立ったように頭を掻いた。


「知りたいのは、なんでオレが人間として生まれたかについて、だ」

またわけのわからないことを。

僕の口から(正確には口ではないが)、自然とため息が漏れてしまうのは、仕方のないことだと思う。


「……自然の摂理?」
「適当に答えるのは許しません」

「えー、神様のいたずら?」


かなり面倒くさくなった僕は、これまたかなり投げやりに答えた。さっさと降参してしまいたい。

けれど兄は許してくれなかった。いつものことだ。

「弟よ、オレたちは化学者だ、そんな神だなんだとわけのわからん論議をするのは恥だぞ、恥」


もう一度溜息。半ば諦めながら、僕はしかめ面をする兄の前でかゆくもない後頭部を掻いてみた。

カツカツと、金属が擦れる音がする。

「かゆいのか?」

「別に。でも兄さん、兄さんだってさっき神だなんだと叫んでたじゃないか」


ああ神よーと、急に叫びだしたのは兄のほうだ。すると兄はふん、と鼻息を鳴らし、大きくふんぞり返った。

背もたれに使っていた積み上げられた本が、ばさばさと崩壊していく。


「ハムレットの劇の一節だ」
「ボンレスハム?」
「じゃねえよ。有名な悲劇だ、お前知らないのか?」
「いや知らないし、劇なんて見たことないし」

「アルフォンス君ったら、遅れてる」

「兄さん劇なんて見たことあるの」
「ねえよ」


ないのかよ。思わず突っ込みそうになったが、すんでのところで言葉を飲み込む。
まともに相手をしてしまったら負けだ。ここは一つ、僕のほうが大人にならなければ。


「とりあえず、なんでいきなりハムの話なの、どんな話?」

「ハムじゃねえけど、よくぞ聞いてくれた弟よ」

兄がごろりと起き上がり、勢いよく床を叩いた。しかも鋼の右手で。
みしっとした音。ここは二階だ。焦った僕は下の人に迷惑だよ、と兄をたしなめようとしたのだが。

見てくれ!と興奮気味に語りかけてきた兄にそれをやめた。


「これに書いてある」


兄がそこらへんに散乱していた本の一つを手にとって、こちらに投げてよこした。

反射的に手にとったそれに視線を移す。少し茶ばんだ本に、豪華な装飾。そして黒いタイトル。そこに書いてあったのは。


『ガリから学ぶ錬金術入門書〔復刻版〕』


ガリと言うのは、難解とされる錬金術をわかりやすく説明した本を出版した、有名な錬金術師の一人だ。

この本は錬金術の基礎を学べる本として錬金術初心者に人気があり、かくいう僕たちも初めて読んだ錬金術の本はこれだった。

この本の特徴は、基本的な錬金術の基礎が細かく丁寧に描かれてあることだ。

「なあアル、知らないだろうから教えてやる。ハムレットは復讐の話だ」

「復讐の話」

「そう、親を殺された王子が敵である叔父に復讐する話。ちなみにシェイクスピア作」

みせてみろ、と兄が手を伸ばしてきたので本を手渡す。兄はそれを床に置き、ページをペラペラとめくりだした。

「で、復讐しようとするんだけど。手元が狂って恋人の父親殺しちまったりして逆に命を狙われたりしてな、まあ最後は敵を討ってから自分も死んじまうんだけど」

「さすが悲劇」
「主人公のハムレットは、周りを欺くために狂人のふりをするんだ。そして、まあなんやかんやあって女性不振に陥って、恋人であった女の愛を拒む。てめえなんぞ娼館に行け!って喚き散らしてな」

「うわあ、最悪」

「ハムレットは考えすぎなんだよ。はたからみれば面倒くさい男さ」

僕は深くは聞かず、ふうんそうなんだ、とありきたりな言葉を返す。

「恋人はハムレットに裏切られた苦しみと、ハムレットに父を殺された心労がたたって頭おかしくなっちまって、最後は水死」

「悲劇だ…」

「そう、まさに人間のエゴだよな。ハムレットは恋人の兄、かつては友人だった男に父親と妹の敵として命を狙われることになる。復讐を誓った哀れな主人公が、物語の中で次々と新たな復讐を産んでいく。悲劇の主人公は悲劇の主人公のままじゃ終われないってことだ。一つのボタンの掛け違いで、被害者にも、加害者にもなる。人間は欲深い生き物だからな」

人間の、欲。7つの欲。今まさに僕たちが対峙している敵そのものだ。


「でも、おかしいよな」

「なにが?」

「そんな欲に塗れた人間を、神は愛するそうだ」


パラリと、兄がページをめくった。鋼の指先である部分を指さす。そこは空白だ。

「ここにも書いてあるだろ、神の愛は、無償の愛ってやつらしい」


ぽろぽろと溢れる言葉の砂を、本来ならば弟の僕が掬ってやらなければならないのだが。


「無償の愛……」


兄は、自分自身で語った言葉を反芻して、一瞬考え込んだ。
そして、母さんみたいなのかな?とぽつりと溢した。


「それはちょっと、違うんじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも母さんは、オレ達を愛して」

「兄さん」

紙に皺ができるほどに、力を込めている兄の指先を握りしめる。そしてそっと本から引きはがす。

「そろそろ昼食にしない?」

顔を覗き込もうとしたが、前髪が邪魔で兄の顔は見えなかった。

「なんだアル、腹へったのか?」

「僕は空いてないけど、兄さんは空いたんじゃない?」

「オレもまだ平気だ、それより、なあ」

握りしめた手を、やんわりと引きはがされる。兄は再びゆっくりと本のページをめくり始めた。

ほら見ろ、と動く兄の鉛の指先。開いたページに書かれているのは、簡略された化学式。


「ええとなんだ……人間とはなんと素晴らしい傑作だろうその理性の気高さ能力の限りなさ形と動きの適切さ、素晴らしさ行動は天使さながら理解力は神さながら」


すらすらと、兄が言葉を紡ぐ。

「兄さん」


一枚ページをめくる、鈍色の指先が化学式を追うように紙の上を彷徨う。

流れるように、縦横無尽に動き回る兄の手。難解な構築式を読み解くその指先に、僕はずっと憧れていた。

「やめてくれ、前兆なんか気にしてはいられない雀一羽落ちるにも天の摂理が働いている」

「兄さん」

ぺりっという静かな音がして、薄い紙が一枚、破けた。

「いま来るならあとには来ないあとで来ないならいま来るだろういま来なくてもいずれは来る。覚悟がすべてだ生き残した人生のことなど誰に何が」

兄がページを勢いよくめくる、擦る。そのたびに、紙が破れる。ぺりぺり、べりっと、小気味よい音を立てながら白の残骸が床にほろほろと崩れてゆく。感覚のない鋼の義手は不便だ。特に、こういう時には。

「そして―――あとは沈黙」

「兄さん」

「なんて終わりだ、結局復讐した後に待つのは主人公の死だ。この兄貴も兄貴だよ、憎いのはわかるけどやり方がえげつねえっていうか、ハムレットが憎いのは、わかるけどさ、でもこいつだって別に好きでやってきたわけじゃねえし、だってオレは母さんに愛して貰って、母さんと会いたかっただけなのにいつのまにこんな、やりたくて、やったわけじゃねえっつうのによ、だって死ぬんだ勝手に。オレは何もしてないのにどんどんさ。母さんは親父を見てた。オレを通して親父を。だからオレは母さんを、でも母さんじゃない母さんがいて、あそこに。オレは、知りたい、なんでオレは人として生まれたのか。オレは、人?人だ。アルは、アルも人。じゃあ母さんは。オレは人だ人だから人から生まれたはずなのに、じゃあ、オレが作ったのは人間で母さんで……でも人じゃなくて、人じゃないから」

「兄さん」
「ん?」
「そんな勢いよくめくったら破れちゃうよ」

「なにが?」
「紙が」

床に散らばった白の紙切れを指さしてみる。けれど、兄はこちらを見ない。
「そんなに強くめくってねえよ」

むっと語気を強めた兄が、苛立ったようにページをめくった。途端に、無残にも破ける二枚の紙。

「あっ」
「どうしたの」
「破けた」
「ほらみろ」

千切れた紙片が、辺り一面に散乱している。僕はただ静かに、それを見つめた。

目に見えて狼狽した兄が、むしり取ってしまった白い紙切れをぎゅっと握りしめていた。
「どうしようアル」
「それ図書館から借りたやつだよね」
「うん」

「治さなきゃね」

「うん」
「できなきゃ、弁償しなきゃね」
「うん……」

優しく諭しながら、兄の周りに置いてある本を気付かれないようにこっそりとどかす。慎重に。このままの状態じゃ何冊の本を犠牲にしてしまうかわからない。兄は国家錬金術師だから図書館の本などどうとでもなるだろうが、借りている本なのだ。良心の呵責が許さない。それに、兄が気が付いてしまったらこの惨状に目を剥くに違いない。後でこっそりと直しておこう。
「ねえ、兄さん」

「うん」

「なんか、今すごく疲れた、プラス眠い、ついでに頭も痛くて痛くて」

「えっ」

うなだれていた頭が、がばりと起き上がる。久しぶりに顔を上げた兄の金色の瞳が、ぐわりと見開かれていた。

「大丈夫か!」

強い力で腕を捕まれ前につんのめりそうになる。やはり、鋼の義手には感覚がないのだろう。どれほど強い力で僕を引っ張っているか兄は気が付かない。気が付けない。今は。

「ほらみろ、ふらふらじゃねえか!だってお前、昨日だって夜中ずっと起きてただろ。知ってるんだぜオレ、お前が眠れなくて夜中に外に出たりしてたの」
口を尖らせ眉間に皺をよせ、怒ったように僕に睨みあげる瞳は、優しい。

僕の大好きな兄さんの目だ。兄さんがどんな風になってたって、どんな瞬間だって、この真実は変わらない。変わらないんだ。
「やっぱりバレてた?ごめん、昨日はちょっと外の空気吸いたくなって」
「バレバレだっつうの。全く、お前は変わらないよな、昔からそういうところ。夜だけ活発になりやがって。そうやって夜更かしするから疲れやすいんだよ。さっきから頭も回ってねえだろ」
「うん。だからちょっと一緒に寝てくれる?」

「わっ」

捕まれていた腕を逆に引っ張る。極力軽い力になるように。

ふわっと、小さな体は羽のように簡単に僕の胸元に飛び込んできた。カツンと、鋼と金属がぶつかり合う。

「はい兄さん、ねんね」

「おい、アル。お前オレをいくつだと思ってんだ」

「えー、じゅうござい?」

「なんか言い方が腹立つな」

「ほーら」

さらに、ぐっと引き寄せる。兄は拒まなかった。ただ、引き寄せられる重みに体重を預けてくる。弟の甘えじみたわがままを聞くのは兄の役目だと思っているのかもしれない。

「まだ昼だっつうのに」

「いいじゃない、たまにはお昼寝も。ちょっと休憩しよう」

あっという間に、すっぽりと腕の中に納まった小さな体躯。僕の体は固い鎧だ。決して引っ付かれて気持ちいいものではないだろう。けれどこんな時兄とこうして腕の中に閉じ込めると、兄の心穏やかになることを僕は知っている。

 

 

『ある』

時々、夜中に。ふらりと起き上がる兄。

淡い月明かりを背後に、ずれた寝間着を直すこともせず、ただこちらを見つめる空洞のような金色。

『……兄さん』

おいで、と。ゆっくりと手を伸ばすと、なだれ込むように身を任せてくる小さな体。兄が幼い頃、よく母親に甘えてやっていた仕草。もちろん僕もだ。二人一緒になって、おいで、と手を伸ばす母親に抱き着いていた。あの頃は同じくらいの体型だったのに、今はこんなにも違う。

『ある』

『どうしたの、兄さん』

『ある……』

ぎゅうっと、冷たいだろうに、まるで柔らかなシーツにくるまるように。僕を小さな体で明一杯抱きしめてくる兄。

固い鎧の兜に顔を擦りつけてくる兄の姿は、兄のように慈愛に満ちていて。それでいて、赤子のように無防備で。

『大丈夫だよ兄さん、寝よう』

『でも、ある……あるだって……ねむいのに』

『大丈夫だよ、僕は眠くないから』

『だって、つかれてる…』

『疲れてもない。大丈夫だよ兄さん』

疲れたりはしないんだよ。その言葉を押し込んで、大丈夫、大丈夫と繰り返す。細い背中を一定のリズムで叩いてやりながら。なんどもなんども。しがみついてくる腕の力が弱まるまで。そして、すうっ……と聞こえてくる穏やかな呼吸に僕はやっと窓の外を仰ぐのだ。

綺麗なガラスの隙間を縫うように、差し込んでくる月の光。それは、いつもと変わらず穏やかで。

『……兄さん』

振動する声は、貴方の夢にぬくもりを与えているでしょうか。寝息をそっと包み込むように、何度も兄を呼ぶ。

兄さん、兄さん。僕は。

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕の腕、固いよね」

「固くねえよ、やわらけえ」

本当に柔らかいものに包まれているかのように、顔をほころばせる兄のまろい頬を撫ぜ、髪をはらってやる。鎧の指先についた水滴に気が付く。いつのまにか、兄は汗をかいていたらしい。そういえばどことなく顔も赤いような。もしかしたら熱があるのかもしれない。でもそれは、触れただけではわからない。あとで宿の女将さんから体温計を借りてこよう。今僕ができる、精一杯のことを。

「噓ばっかり」

「オレがやわらかいっていったらやわらかいんだ!」

「なんなのさ、そのオレ様発言」

「それに冷たいし、ひんやりしてて気持ちいい」

するりと胸元に頬を擦りつけてくる兄の姿は、兄のようで、兄ではない。子供のようで。それでもやはり、兄なのだ。

体を胎児のように丸め、僕の腕の中にすっぽり収まる兄は。やはり唯一の、兄なのだ。

「なあ」

「うーん?」

「ハムレットは、な、マザコンで、ファザコンなんだと」

「へえ、僕たちみたいだね」

「はあ?オレはファザコンじゃねえよ!」

「マザコンは認めるんだ」

「うっ……」

強く抱きしめれば、きっと傷つける。兄は痛くないというかもしれないが、打撲にだってなってしまうかもしれない。感覚がわからないから加減ができない。強く抱きしめることは、かなわない。だから、しがみついてくる兄にそっと体をよせる。

「……なあ、アル」

「なあに」

「オレは、狂人か」

ぎしりと、金属の擦れる音。視線を下げずとも、兄が僕の体のどこかを強く握りしめていることぐらいはわかる。

力をこめられない体の代わりに、声に全てを乗せる。

「違うよ兄さん」

強く、強く言い切る。

「兄さんは狂ってない」

たとえそれが、真実ではなかったとしても。

「兄さんは、狂ったふりをしているだけだよ」

憎しみに心打ち砕かれ、周りを哀しみの渦に巻き込んでいった、ハムレットのように。

「だから、大丈夫」

あなたの見えないあなたを守るのは、僕だから。

 

 

たまにおきるこの現象に、僕はまだ名前をつけていない。

名前をつけてはいけない気がした。つけてしまえば、それは一つの確かな事象になってしまうから。

けれどもハムレットについては、本当は知っている。

父の書斎で見つけた悲劇の本。何度も二人で読み漁った。綺麗な装飾が綺麗で、お気に入りの本だった。

 

「……助けたまえ、天使よ」

いつものように、背中を叩く。

「やってみよう、曲がれかたくななひざよ。そして鋼のような心よ」

 

とんとんと、静かな音を刻むように。

 

「生まれたての赤子のように、やわらかくなれ」

復讐を逡巡したハムレット。祈りの最中であった叔父を殺せず、迷った彼は心の奥底で、己の荒れ狂う言葉を聞いた。

 

きっと、兄はさきほどのやり取りを覚えてはいないだろう。

いつもそうだった。だからこれは、僕の中だけの秘密の逢瀬だ。

兄の心の奥底との、秘密の会話。

だれにも言わない。本人にも。兄さんは兄さんらしく、僕の前ではありたいだろうから。

 

 

兄はきっと、迷わない。少なくとも、僕の前では。

だから。兄さん。貴方の代わりに、僕が迷おう。

 

 

 

 

 

すぅすぅと聞こえ始めた寝息。ゆっくりと立ち上がり、すぐそばのベッドに歩を運ぶ。

兄はきっと夜まで起きないだろう。昨晩、まともに眠れていなかっただろうから。

 

 

 

 

だからどうか今は眠って、愛しい人よ。

生まれたての赤子のようにやわらかく。

 

 

 

 

 

僕たちが神に愛されているとすれば。

それはきっと、無償の愛とは程遠い。

 

苦渋の愛に、違いない。

 

 

 

 

 

無印設定で、スロウスと戦う前の兄弟の話。

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