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「ああ、もうやってらんない!」

「さっきから何?いまは仕事中よ。お静かに(Be quiet)!」

同僚の深いため息を目ざとく聞きつけ、私は机に突っ伏した同僚に冷たい視線を投げつけた。私の視線に慣れている彼女は、すっぱりと愚痴を切り捨てた私にそろりと視線をよこし、これ見よがしにくりと類を膨らませた。

異性から見ると可愛らしいが、同性から見れば嫉妬の対象となるような甘え方だ。ゆるやかなカーブを描いた長い金色の髪といい、きめ細やかな肌といい、街に出れば男の視線を独り占めする彼女は、外見通りの性格をしていた。好みのタイプの男であれば直ぐにモーションをかける。自分に言い寄る男は星の数ほどいると豪語する、男絶えのないいわゆる恋多き乙女だ。 優しく他人に気を配れるいい子だが、如何せん異性の友達は少ない。私は、そんな彼女の数少ないお友達だ。

しかし、最近の彼女は恋人も作らず、珍しく一人だ。そんな彼女の今の恋のお相手は。

「どうやったら大佐は落ちるのよ」

「あなたにしては長いわね~、いい加減諦めたら?」

「諦められるわけないでしょ、あんなでかい魚!逃がせないわ」

リリリリン、がばりと顔を上げ、鬼気迫る勢いで顔をぐいっと近づけてきた友人に軽く引きながら、鳴り響いた電話を取る。

軍の回線、公衆電話からだろう。繋いでくれと言われた先は、今話題に出ている彼の人だった。「マスタング大佐、お電話が」その言葉を目ざとく聞きつけて、同僚が目を輝かせて此方を見た。

忌々し気な視線に苦笑しつつ。無事に一仕事終えた受話器を力チンと置く。

「私が出ればよかった」

「はいはい」

「今の相手誰よ、女?」

「軍の回線に私用でかけてくるバカなんていないわよ」

「前にかかって来たわ」

「最近はめっきり少なくなったじゃない」

「そう、それも問題よ」

「……女遊びを止めた理由について?」

苦笑しつつ、唸る友人に肩を竦める。

「最近の彼、雰囲気がちょっと変わったわよね。夜の街で見かけなくなった」

「男だって、本気の恋をすれば変わるわ。女の私も」

「でもあなた、いつもディナーもランチも断られてるでしょ。望みないんじゃない?」

「そんなことないわよ!」

再び顔を寄せてきた同僚の目は血走っていた。まるで獲物を狩る前のハンターだ。

「この前大佐ね、私のこと綺麗だって言ってくれたのよ」

「知ってるわよ私もいたもの。あなたのこと褒めてたわね」

「でしょう?」

「でも、大佐が褒めたのはあなたの髪よ」

「髪だろうが何だろうが、男が女を褒める時はそういうことよ、わかる?」

「それはそうだけど、女性を褒めるなんてあの人息をするようにできるじゃない」

「んもー、見てたんならわかるでしょ!あの時の大佐、私のことすっごく愛おしそうに見つめてたのよ?」

「ああ、ええ、そうね。うーん……」

「絶対絶対、私に気があるはずよ。ええ、絶対ね」

その時の情景を思い出しているのか、とろけるように甘い瞳で宙を見つめる同僚の瞳。

恋は盲目とはよく言ったものだが、まるで初めての恋にやきもきする乙女のようだった。彼女にとってロイ・マスタング大佐という男は、これまで相手にしてきた男以上に見目麗しい男性なのだろう。東洋系の彼は白い肌に黒い髪、どこか少年めいた顔立ち、男でありながらもどこか女性的な色気もあって、男臭く汗臭く体格のいい男たちに見飽きた友人にとっては神秘的に映るのかもしれない。なるほど、彼女のようにマスタング大佐に憧れる女性は多い。

確かに、あの時大佐はこの同僚を見つめていた。コツコツと革靴を鳴らし開かれていた扉の前通ったマスタング大佐が、お疲れ様とこちらをねぎらった後、ふと何かに気が付いたかのように足を止めたのだ。 マスタング大佐は暫くじっ……と同僚を見つめた後、ふいに眦を緩めた

黒く紳士的な瞳に見つめられた同僚は、前から大佐に淡い恋心を抱いていたので恥じらうように顔を染めた。

 

『あ、あの、 何か』

『ああ、いや』

優し気な眼差しは、普段司令官として東方司令部を統括している軍師ともまた違う顔だちに見えた。若くして大佐の地位についている彼は気さくで女性への気配りが上手で、軍人にしては物腰が丁寧だが、有事の際には冷徹な瞳で、 いつも凛々しく廊下を堂々と歩く上官だった。そんな大佐の気が抜けたような顔に、少なからず私も驚いた。

 

『随分と、おしゃれな髪形をしているなと』

『えっ……あ、すみません』

横に流した金色の髪を、同僚はふわりと三つ編みにしていた。 長い髪は一つに束ねるか上げるかが暗黙のルール、基本となっている軍の内部で、その日の彼女の髪型はだいぶ顰蹙を買ったものだが(彼女の元々の性格も相まって)

 

『ああ、違う、咎めようとしたわけではないんだ、その』

上官はそんな同僚に苦言を呈すでもなく、珍しく言い淀み。

 

『愛らしいね……』

と、若干頬を赤らめ、頬を掻きながら照れたように小さく口走った。子猫のようだ、と赤らんだ眦と共に付け加えた上官の姿に、同僚は目を見開いてフリーズした。何事もなかったかのように表情を変え、妙なことを言ってすまなかったねと去って行った上官の背を見つめながら私も固まった。

普段、女性を甘いマスクで褒めちぎる上官ではあったが、こんな困惑したような顔で、愛らしい、ときたものだ。 自分でも身に余る甘酸っぱい感情を持て余しているような表情は、なんというかやけに。やけに……

 

 

 

 

「ねえ覚えてる!?愛らしいって言ったのよ!可愛いねでもなくて、愛らしいって!だから、絶対大佐は私を気にしてるはず。誘いに乗ってくれないのも、予定が合わなかっただけよ。あと疲れてるだけとか。そう言ってたし」

「でも、あれはあなたを気にしてるというより」

「あーわかった!嫉妬してるんでしょ、いやね~モテない女の僻みは」

「私は恋人いるっての!」

「いったあい! 叩かないでよ冗談なのに」

「そこまで言うんならさっさと落としなさいよ」

「やるわよ、今日こそ誘ってみせる。気合いれて化粧も、髪だっていつも以上に巻いてきたんだから。みてよ、この可憐な編み込み入りのハーフアップ。 私の髪に見惚れてた大佐ならこれで一撃よ。明日は休日、今夜は大佐の自宅にお呼ばれしてみせるわ。体も念入りに洗ったしね」

仕事場で、堂々とこのようなことを言えるのが彼女らしい。彼女の言う通り、この顔立ちと髪型ならどんな男であろうと目を惹かれ、食いつくだろう。それほどまでに可愛らしい。群がる男が多くてね、私ってばまるで生餌みたい、と言い放ち、自身の利点を最大限に生かした姿の彼女は、「今日の私なら、腹を空かしていない魚でも食いつくはず」と興奮気味にまくしたてている。幾度となく夕飯を断られ、さりげなく自宅がある場所を聞いてもさらりとかわされ続けたことを根に持っているらしい。

最も、大佐とかつて関係を持ったと噂される女性は誰一人として、大佐の自宅に呼ばれたことはなかったらしいが。

「そうねえ、また断られるに賭けるわ」

「いったわね」

勤務時間も終わりに近い、やいやい言い合っていた私たちはすっと窓際から顔を覗かせた上官に声をかけられて目をしばたたかせた。噂をすれば、だ。

「やあ、お疲れ様」

「大佐!」

「賭け事はほどほどにしたまえよ」

「あっいえ、これは冗談でして……!」

 どこから聞かれていたのか、足音がしなかったということは賭けがどうのこうのという部分のみだろうが、 気合を入れた髪型がさらさらとなびくように、慌てるように手をぶんぶんと振った同僚に大佐はいつもと同じ笑みを向けた。私にも向ける普段通りの笑みだ。

同僚の髪(同僚曰く同僚自身)を褒めた時とは明らかに異なる、女性相手に特化した青年の微笑。 同僚に、あんな少年のような表情を見せたのは、あれ一回きりだった。しかも、今日はどことなく気もそぞろ。何か別なことを気にしているような雰囲気だ。

それに気づいているのかいないのか、同僚は私に宣言した通り今日こそ大佐を誘おうと意気込んでいる。

「悪いが確認したいことがある。先ほど電話をしてきた彼は、ここを通ったかな」

「いえ、誰も通っていません」

「そうか」

僅かに陰りを見せた上官を見上げる。先ほどの電話の彼とは、ここの司令部、いやここどころではない程に有名な人物だ。 一般人でも一度は耳にしたことがあるであろう、下手をすればここにいるマスタング大佐よりも名が知れている人物。

「あっあの大佐、その……!」

同僚が、意を決して立ち上がった。今日こそは、と、恥ずかしがるように上向き加減で、目的の男をうるんだ瞳で見つめる。 しかし、大佐はそんな愛らしい同僚を見てはいなかった。それどころか。

「──鋼の」

ふわりと、とろけるように崩れた横顔。それは、あの時の比ではなかった。たった一言だけだったが、わかった。上官が、今噛みしめるように呼びかけた名を、とても大切にしていることに。

 

「ったく、急に呼び出しやがってよお」

ぶつくさと悪態を付きながら廊下を歩いてきたのは、先ほど上官がここを通らなかったかと尋ねた人物その人だった。つい先ほど私が大佐に電話を繋げさせた、マスタング大佐が推薦し、若干12歳で国家錬金術師の資格を取り各地を放浪しているという天才少年。エドワード・エルリックその人。金色の三つ編みが足に合わせてゆらゆら揺れている。

いつもここを通る時、ただの電話担当である私たちにも「こんにちはー」と元気よく挨拶をしてくれる子だ。どんな危険な旅をしているのか生傷をこさえている時もあるが、今日は普通の出で立ちだった。隣に、鎧をまとった弟君の姿はない。

「来てくれて嬉しいよ。今日は少し諦めていたんだ」

「アンタが来なきゃ口座閉めさせるとかまた妙な脅しかけてきたからだろうが!いっつもいっつもふざけやがって」

「そうでもしないと、君は捕まらないじゃないか」

天才錬金術師と謳われている少年だったが、口調は年頃の子供のように荒かった。

猫のように目を吊り上げ、ぎゃんぎゃんと吠えつつ近づいてきた子供を嗜めるでもなく、大佐は笑みを浮かべ比をほころばせた。

 張りのある肌に増える皺。そう、あの時同僚に向けたものと──いや、それ以上に甘く愛おし気なその視線。 ちらりと同僚を見やる。さすがは恋多き乙女だ、この一連の光景にやっと、色々と気づいてしまったことがあるのだろう。物の見事に、勢いよく開きかけた口はそのまま棒立ちになったまま固まっている。

「いい店があってね、どうしても君を連れていきたくて」

「またかよ、オレ明日には立つんだけど」

うんざりした、というように顔を歪めた少年。また、と少年は言った。その意味とは。

「おや、私の家の書庫を丸一日好きにしていいと提案しようと思っていたんだがなあ」

「ぐっ……きたねえ。っかー、アンタの家ってなんであんなに蔵書あるんだよ。何回も行ってるんのにまだ半分も読みおわんねえし」

「言っておくが、また増えたぞ」

「マジか」

「今晩はそのまま私の家に泊まるといい、アルフォンスには……」

軽く目を下げた上官に小さく敬礼し、窓から僅かに身を乗り出しこつこつと並んで歩く大人と子供の背を見つめる。 強張った動きで、同僚もおそるおそる廊下に顔を覗かせ、去り行く二人の背中を見つめた。

未だにぷりぷりと肩を怒らす小さな少年を見下ろしながら、会話をしている横顔は相変わらず見たことがないほどに優しい。

一見すると、親子か兄と弟ほど年の離れた子供に慈愛に満ちた親愛の情を抱いているともとれる表情なのだが、 ふいに大佐が、ずんずん歩く動きに合わせ揺れる少年の三つ編みの先を手にとった。前を向いている少年はそれに気づいていない。くいっと持ち上げられた長い金色の髪は、そのまま腰をかがめた大人の口元まで引っ張り上げられ。

「……うそ」

小さく声を漏らしたのは同僚の方だった。息を飲む音。衝撃とも、絶望ともとれるそれ。接触は、ほんの一瞬に見えた。しかし、私たちは確かに見てしまった。マスタング大佐がそっと、手に取った少年の髪に口づけたのを。

少年が振り向く前に、ぱっと大佐が手を離した。弧を描いて宙に落ちた三つ編みに、少年はやっと何かを仕掛けられたことに気が付いたのか後ろ手に髪を確かめた。

読唇術に長けているわけではないが、小さく動いた大佐の口元は『ゴミがね』と言っていた。少年はありがとうと言ったのだろうか、それとも勝手に触るなと言ったのだろうか。 前を向いているためそれはわからないが、困ったように、照れたように眉を下げた大佐の眼差しの熱さだけは、しっかりと捉えることができた。

──それは口づけ、とも呼べないようなものだったのかもしれない。

子供同士のキスよりも拙い。しかし、一瞬だけゆらめいた瞳は遠目から見ても、静かにきらめいたように見えた。ちり、と燃えた瞳。その焔の名は。

 

 

「……あーっと」

頭を掻きながら、同僚に視線を移す。極限まで見開かれた瞳は茫然と虚空を見つめていた。 必死に伸ばしてきたであろう腫毛はぶるぶると震え、あんぐりと開いた口はきっと全てを理解しているはずだ。なので、改めて何かを言う必要はないだろう。そっと、同僚があの時していた髪型を思い出す。そうか、つまりは。

 

金色の三つ編みが、愛らしかったのだろう。

 

まさかあんな子供にと、驚いたことには驚いたが、妙に納得もしていた。減った、一般女性からの電話。なくなったように見えた女遊び。子どもからの電話があったと電話線を繋げれば、繋いでくれ、と甘く低い声が耳に響いた。

たまに、電話越しの声が怒りに満ち溢れている時もあったが、その時に限ってここを通る少年の体には白い絆創膏や包帯がまかれ、傷だらけで満身創痍だった。あれは怒りとうよりも、心配か。

 

 

大切で大切な本気の恋のお相手が、怪我を負ったことに対しての。

明日は、一週間ぶりに恋人に会う。明日の予定を変更するつもりはないが、今晩だけは、ばっちりと決めた化粧と髪型が無意味と化してしまったこの哀れな女性のために、時間を割いてやろう。

私はそう心に決め、最悪の形で、ものの見事に失恋してしまった同僚の背を軽く叩いてやった。男女の恋愛とは、えてして失恋がつきものだ。壊れた玩具のように、細い首ががくんと垂れる。彼女を嫌う女性たちはいい気味、と笑うだろうが。彼女の数少ない友人である私はそんなことをするつもりはない。

だから、がばっと腰にしがみ付いてきた彼女にため息をつきながら一言だけ。

 

 

 

「残念でした、私の勝ち」

 

 

There are other fish in the sea.

​海にはたくさんの魚がいる。

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