
時にはむかしのはなしをしよう、
ねぇ、二人だけで。
「久しぶりだなあ大佐の部屋」
そう言いながら笑顔を見せる子ども。
「うわ、埃。きったね。アンタちゃんと掃除してんの?」
はしゃいだ様子で、部屋の中を歩き回る子ども。
「相変わらず殺風景だし!」
呆れたように肩をすくめる子ども。
その姿の一つ一つが、輝いて見えた。普段は大人顔負けの知識を見せる聡明な顔が、今この瞬間だけは12歳の子どもに戻る。
こんな子どもの姿を知っているのは、私だけだ。
「鋼の、あまり騒がないでくれ」
荷物をテーブルに置きながら、声をかける。
子どもは拗ねたようにプイとそっぽを向いた。
「なんだよケチくせぇ」
「あまりうるさくしてしまうと、近所に響く」
そこまで値段のはった家ではないのでね。そう言ってみると子どもは「嫌味かよ」とさらに口をとがらせた。ふくらんだ口元、小さな横顔。その幼い姿に、以前彼がここに来た時予想外に広い庭に興奮してはしゃいでいた光景を思い出す。
日が照りつける庭先。きらめく金色の光。健康的な肌を惜しげもなくさらしながら、花壇いじりを手伝ってくれた子どもは、ガーデニングなんかアンタらしくもない、と悪態をつきながらも、休む間もなく土を掘り返してくれていた。
そんな天邪鬼な子どもの素直さに、思わず笑みが零れたのもそう遠くない過去だ。
数か月前の出来事。しかし、もう随分と昔のような気もする。
「そんなに気にすることかよ」
「アルフォンスに、此処にいることがバレたらまずいんじゃないか」
重いコートをゆっくりと脱ぎ、ハンガーにかける。たかが数か月の間であったのに、季節はもうすっかり秋だ。今日は仕事がはやく終わったため定時で上がれたので、子どもに望まれるまま家に帰ってきた。司令部からどこにもよらず、小道で葉が落ち寒そうに立っている木を眺めながら、二人、並んで。
「今日はアルにちゃんと言ってきたぜ。大佐と真面目な話してくっからって。泊まってってもいいってさ。それに、子供の声なんか聞こえたってどうってことないだろ、大佐の隠し子疑惑が増すだけで。前だって思いっきり騒いだのになんにも言われなかっただろ?」
「……やめてくれ」
短く返せば子どもはにひひっと笑った。健康的な白い歯が覗いて、目にしみる。
「ずっと前に大佐の子供に間違えられた時は楽しかったな」
「そんなこと、あったか」
「覚えてねえの?今日だってここに来る途中『親子でいいですね~』とか言われたじゃん、笑っちまったよオレ、親子だなんてさ。アンタずっと険しい顔してたし」
うん、と気持ちよさそうに、子どもが伸びをして、くるりと此方を向いた。
「これから呼んでやろうか?パパって」
「やめてくれ……」
消沈した私の様子に腹を抱えて笑い出し、男一人暮らしにしては広いベッドにぼすんと倒れ込んだ子どもは本当に楽しそうで、普段の小生意気な態度からは考えられないほどに無防備だ。赤いコートが、白いシーツの上に広がる。
こんな彼の姿を知っているのは、私だけだ。私だけだ。
「お、シーツ変わってる。前来た時は違かったよな」
「よく、覚えてるな」
「あったり前だろ」
猫のように、ごろりと寝そべった子ども。絹のようなさらりとした金色が真っ白なシーツに零れた。黒い服の隙間からチラリとのぞく白い喉元が小さく上下する。そして、薄く開いた唇からのぞく、赤い色の舌先。
ダメだ。脳裏によぎった光景を振り切るように、瞼を閉じて視線を外す。
しかし、子どもはそんな大人の様子を見逃してくれなかったらしい。
「あ、なんだよ」
片眉だけ動かし、挑発するように此方を見つめる釣り上がった瞳。
「おい、今スケベな事考えただろアンタ」
「いいや」
視線を逸らしたまま、窓の外を見つめる。室内でも少し肌寒い。
もう、日も暮れそうだ。夜が近い。
「いーや、絶対考えてた。オレがシーツに寝そべっててアンタがいやらしい妄想をしないはずがない!」
声高々にビシッと指さされ、そんなことはないと、喉元まで出かかった言葉が唾となって身体の奥底に押し戻される。
「言い返せないんじゃねえか、うわ変態!」
「鋼の」
「いや~犯される~」
クスクスと、わざとらしく身体を隠すように笑う子どもの姿は、本当に幼くて。
「あ、違うな」
普段は大人顔負けの知識を見せる聡明な顔が、今この瞬間だけは12歳の子どもに戻る。
本来の子どもの姿。少し天邪鬼で、天真爛漫で、冷静で、温かくて、口が悪くて、態度も悪くて、それでも優しくて。はにかむような顔が可愛らしくて、愛おしくて。
こんな姿を知っているのは私だけだ。
―――私だけだった、はずなのに。
「もう、犯されてたんだった」
広い、大きなベッドに寝そべりながら、ぐりんと、此方に向けられた金色の瞳。
今度は、逸らせなかった。逸らす資格が、なかった。
「アンタに殴られて、鼻血も出て。それでそのままベッドに投げ飛ばされて、手足押さえつけられて犯された。ここで」
一言一言、区切るように、子どもが、エドワードが笑う。引き攣ったようにあげられる口角。
「懐かしいなァ」
言葉通りに、懐かしむように細められた目。光はない。大きな瞳は、昏い沼のように濁っていた。
「忘れられないよ、すごかったなあ、庭いじって泥まみれになって、シャワー浴びた後だったよな。必死で抵抗してんのに歯がたたなくて、機械鎧なのに。びっくりした。口も抑えられてさ。ケツなんて裂けてんのにお構いなしに突っ込んでくるんだもん。吐いちゃったよ。シーツ変えたのそのせい?真っ赤でゲロまみれで、もう使いたくないもんな」
ケタケタと、耳を塞ぎたくなるような言葉の羅列が、脳内に次々と滑り込んでいる。
全て事実だ。忘れもしない。数か月前の出来事。太陽の光が眩しい時期だった。
エドワードが好きだった。14も歳の離れた、子どもだけれど、エドワードの真っ直ぐな目が好きだった。年甲斐もない恋だと笑われようと、エドワードの全てが眩しかった。
家に来ないかと誘い、驚いたようにはにかみながら頷いたエドワードを招いた。休日で、アルフォンスは来られなかったから、彼一人。もしかして、気を使ったからなのかもしれない。エドワードが私に懐いていたことを知っていたから。自分がいない状況で、兄が存分に私に甘えられるように。
他意はなかった。ただ純粋に、一緒に穏やかな時間を過ごしせたらいいと。
いつも各地を飛び回っている彼のことだ、どうせイーストシティに来た時も文献を読み漁り休む暇もないのだろう。少しでもいい。彼に、穏やかで優しい時間を与えてあげられれば。撫でるように、慈しむように、愛おしむように。そう思って。
―――愛おしむように。
「オレ、アンタの子供だったらな」泥まみれになって、お互い交互にシャワーをあびて、夕飯の準備をしようと思った時だ。濡れた髪と、垂れる雫。湯気で湿った唇、赤く色ずいた頬。その全てが毒で、見ないようにと己の心を律して。一緒に夕飯の準備をしようかと、柔らかな誘いをかけようとした、矢先。
すっと傍によってきた幼い子ども、香る、石鹸の匂い。いつもの私の匂いに包まれたエドワードが照れたように発した、たった一言。
その、たった一言が理由だった。目の前から色が消えたのは。
懐かれては、いる。信頼されてもいる。しかし、それでも、恋愛感情を抱いて貰えていないことはわかっていた。それは、エドワードの態度をみても明らかだ。私も、エドワードに恋情を抱いてもらうなど夢のまた夢だと思っていた。だから、どうか今は側にいたかった。友人のように、優しい気持ちのままで、同じ目線にたって。年は離れてはいるけれど、慈しんで慈しんで、愛おしんで。けれども。
「父親」の変わりには、なれない。
いつかエドワードは恋をして、可愛らしい女性と付き合って、結婚するだろう。笑顔で、他の女を抱きしめるエドワードを祝福し、「父親」としてそれを見届けるだなんて。
―――夢の終わりは、よく見える場所にとはよく言ったものだ。幸せの色をまとった暗闇は、いつもそばにあった。ひとたび剥がれてしまえば、止まる術も、なく。
私がそれに気が付いたのは、全てが終わった後だった。
重い一撃に、緩んでいた小さな身体は簡単にふっとんだ。起き上がることもできない肢体を、すぐ傍にあった自室に引きずり込み、広く真っ白なシーツに幼い身体を投げ飛ばして。
ぼやけた思考に溢れんばかりに響いていた悲鳴を、追い出して。
気が付いた時には、ベッドの上でボロボロになったエドワードを見下ろしていた。
鼻血を出し、粘ついた白にまみれ、自分の吐しゃ物にまみれ、呻き声をあげながらシーツに沈む、エドワードの姿が。
「何時間してたっけ、ねぇ、覚えてる?」
エドワードが指を折って数える。いーち、にぃ、さーん、よん。よじかん。柔らかな幼い声に、目を閉じる。エドワードの苦悶に満ちた悲鳴も、未だに耳の奥に、ある。
「いっぱい中に出されてさァ、苦しくて、痛くて痛くて、もう」
響く。響く。エドワードの甲高い声が。警鐘のように。子どもだった。普段は大人顔負けの知識を見せる聡明な顔が、私の前だけでは12歳の子どもに戻って。子どもであるということは、知っていたのに。知っていたはずなのに。
響く、エドワードの悲鳴が、エドワードの―――狂ったような笑い声と、嬌声が。
「―――最高だった」
どうして正気でいられると思ったのか。
あんなことをされて、まともでいられるはずがないというのに。
たった12歳の、小さな子どもが。親の庇護から外れたばかりのほんの子どもが、おかしくならないはずが、ないのに。
「鋼の」
自分勝手な唇が、震える。
「私は、君に、何をすればいい」
心臓が痛いくらいに、戦慄く。それでも、口から零れ落ちるのは静かな声だ。
強く拳を握りしめ自分を押さえつけてでもいないと、今にも叫びだしてしまいそうだった。
「なんでもする」
「じゃあ、犯せ」
―――間発いれずに返ってきた声に、目を瞑った。
一瞬止まった呼吸。震える吐息を吐き出し、重い瞼を上げる。
恍惚とした表情で、エドワードが此方に、ゆっくりと手を伸ばすのが見えた。
混乱はしている、しかし、予想通りの答えに、眩暈がした。
白い指先。その指を押さえつけたのも、数か月前の出来事だ。
しかし、もう随分と昔のような気もする。遠い過去であってほしいと、願った愚かな自分が今ここにいる。狂った時は止まってくれない、やめてくれと何度願っても、進む。狂ったまま、進んでゆく。
これからも、きっと。
「はやく」
蛇のようにねばついた、柔らかな声。じっとりと、汗のように身体に絡みつく。背中から広がる、じわりとした冷たいもの。
「殴って、レイプして、大佐。痛くて気持ちいいこと、して」
逃げられないように、逃さないように。何よりも愛しい金の子どもが、歪むように赤く陰った、ああ、あの時と同じだ。思い出す。鼻血を出して、ねばついた白にまみれ、自分の吐しゃ物にまみれ、苦痛にうめき声をあげながらシーツに沈んでいたエドワードの姿を。
「鋼の」
次第に自ら腰をふり、身を切るような痛みと苦しみから逃れるために、死にもの狂いで快感を拾おうとしていた子どもは、確かにあの時こんな目をしていた。私が、そうさせた。そう、変えてしまった。
「アンタにされた事、忘れられないんだ。この半年間ずっと。なあ、あの時よりもっと酷くしてよ」
「鋼の、それは」
縋るように上げた声は、自分でも驚くくらいに小さく掠れて。
「それだけは」
「なに、いやだっていうつもり?」
濁った金色を拒むように口を閉ざせば、聞こえてくるのはせせら笑い。嘲るような、憐れむような、恋しがるような。悦楽の混じった表情は、質の悪い娼婦のようで。
こんな笑い方をするような子ではなかったのに。
哀しい声。重い鎖で締め付けられる胸は、決して自分だけのものでは、ない。
エドワードを犯しつくした後、やっと理性が戻った。なんてことをしてしまったのかと、傷だらけのエドワードの手当をして、謝り、断罪してくれと懇願した時、子どもは笑った。腫れ上がった頬が痙攣して、とてもつらそうだったけれど。
掠れて、一段と低い声を振り絞って、私に言った。
「やめろよ」
『やめろよ』
「アンタにできることなんて、これしかないだろ」
『オレに、アンタを訴えろって、なにそれ。アンタ何いってんの。オレに証言台にたって、大勢の前で何されたか言えって?押さえつけられて性器ぶちこまれましたって?何度も精液を中に出されましたって?ごめんだね、男に強姦されただなんて、死んでも口にしたくない。―――アルにも、他のみんなにも知られたく、ない。』
「今更だろ、怖気づくなよ」
『もし仮に、アンタが判決が下ったら、オレはどうすればいいの。他の後見人につけばいいの?アンタみたいに、秘密を守ってくれるとも限らないのに。それに、アンタがいなくなったらアンタの部下どうなんの。イシュバールの政策は?この国を根底から変えるんじゃなかったの?平和な国にするんじゃないの?アンタはオレにとったらえげつない大人だけど、他の人たちにとったら違うだろ。国の未来にとって必要な人材だろ。お前が余計な事言わなければ、大佐はまだ上を目指してたのにって思われるのはオレだぜ』
「オレをこんなのにしたのは、アンタだろ」
『針にむしろだ、そんなのは』
「アンタにできる贖罪は、黙ってオレを犯すことだ」
『アンタの自己満足な懺悔なんかに、付き合いたくない』
「今更善人ぶるな。アンタ、オレとセックスしたいんだろ」
『そんなことより、なぁ、さっきの、しようよ』
「オレの事犯して犯して、犯しつくしたいんだろ?」
『足りない、大佐、お腹の中、寂しい、殴って、なぁ、いれて』
過去の子どもの言葉と、今の子どもの声が重なる。
幼い子どもの無邪気な願い事のように、犯して、犯して、殴って、いれて、とただ繰り返す様は、恐ろしい光景だった。痛みでつらいはずなのに、普段は大人顔負けの知識を見せる聡明な顔が、目も虚ろに歪んでいる。息を切らしながら、垂れた涎を気にすることもせずしゃぶりつこうとするエドワードに、私の服を脱がそうとするエドワードに、血の気が引いた。
―――壊してしまった。少し天邪鬼で、天真爛漫で、冷静で、温かくて、口が悪くて、態度が悪くて、それでも優しくて。はにかむような顔が可愛らしくて、愛おしかった子どもを。私だけに見せてくれていたその優しい笑顔は、貼りつけた紙屑のように醜く歪んで。
その後すぐに気を失ってしまった彼の汚れを落とし、ベッドに寝かせた。アルには知られたくない。誰にも言わないで。熱で朦朧としながらそういって懇願するエドワードに、何も言えなかった。アルフォンスにはエドワードを一晩泊めると連絡をいれ、朝方、エドワードが部屋から出ていく音を聞いた。「帰る」と、ただ一言だけを呟き、いつもの服を着て、ふらふらになりながら玄関を開ける彼を、引き留めることはできなかった。
もう発ったと、部下から連絡を受けたのはその日司令部に入った時だ。それから、約半年が過ぎた。エドワードに会いたい。それでも、たとえ会ったとしても、何を言えばいいのかわからない。それにきっと、エドワードはそれを望んでいない。自分を理不尽に犯した男の姿など見たくもないだろう。自分の犯した罪を世に公表することも、できなかった。そんなことはやめてくれと、泣きそうな顔で笑ったエドワードの姿が頭から離れなかった。
途絶えた定期連絡。どこにいるのかさえわからない。ただ、わかっていたことは、あの子はもう自分に笑いかけてはくれないだろうという確信だけだった。それが、今日。
ひょっこりと司令部に顔を出したエドワードはいつもと同じ様子で。
久しぶり、だなんて部下と笑いあった子どもは、話したい事があるから家に行きたい、と。弟は置いてきたと、私の目を真っ直ぐに、見て。
何よりも望んでいて、望んでいなかった再会。
欲に濡れたエドワードの瞳に、来るべき時が来たと。
唇が渇く。空気は確かにあるのに、息がつまる。エドワードを見る。変わらず、子どもは私を見つめたままだ。
「オレのことめちゃくちゃにしたいって思ってんだろ。だからあの時、あんな事したんだろ、なあ」
「違、う」
「いいじゃん、やろうぜ。前だって大丈夫だっただろ、ここ」
犯した時、エドワードは何度も悲鳴をあげ、助けを呼んだ。
それでも助けはこなかった。中心部から少し離れた閑静な住宅街。少し値のはる家の、厚い壁に阻まれて。
畳み掛けるような、甘く苦い言葉。べったりと、体の奥底に塗りこめられてゆくそれに、胸やけしそうになるほどの嘔吐感に襲われる。しかし、あんなことをするつもりじゃなかった。君の安らげる唯一の場所になりたかった。そんな言い訳をいくら並べたところで現実はかわらない。私はエドワードをレイプした。押さえつけて、自分の欲望のままに身体を奪った。募る想いに負けて、エドワードを食らいつくした。それが事実だ。どうしても変えることのできない過去に、手で顔を覆う。
「違うんだ……」
時計がいくら音を奏でても、時は戻らない。そんなこと、わかっていたはずなのに。
は、と小さなため息が聞こえた。続いて、ベッドが軋む音。
「じゃあ、もういい」
いつも通りの声だ。ゆっくりと顔をあげる。ベッドから降りたエドワード。諦めてくれるのかと、わずかに灯った希望に縋りついた矢先。
「アンタがダメなら、行きずりの男に頼むから」
予想もしていなかった言葉に、固まった。
「ここんとこずっと、そういうことしようと思っててさ。でも、一応有名人じゃん、オレ。バレたらいろいろ面倒くせえなあって。だから、アンタに頼もうと思ってたんだけど。でも、ダメならいいや。いい店の情報知ってるし。違う奴に頼む」
なにを。
「殴って、吐くまで犯してって……」
なにを、言っている。
わずかに色づいた頬。昏く色づく瞳、本気の目だ。見せつけるように自分の襟元に指をはう姿。ゆっくりとなぞられる首すじ。私がつけた紫色の痕は、今は綺麗な白に戻っていて。
「慣らさないで突っ込んでって、切れても止めないでって。中にいっぱい入れてって、いろんな奴に輪されんのも、いいかもな、きもちいいかも」
まるで、さも名案を思い付いたかのように、奏でられる内容は。
誘うように揺れる舌。真っ赤なそれにがむしゃらに噛みつきむしゃぶりついた記憶が、苦い現実となって思考を染め上げる。『なんで』、『助けて』と、身を切るような悲痛な叫び声を上げた子どもは、今、目の前に。
「やめろ……」
「首絞めて、痣つけてって。噛みついて傷いっぱいつけてって。アンタにされたこと、全部、全部全部全部」
「―――やめてくれ!」
「だったらやれ!」
いきり立ったように、エドワードが声を荒げた。子どものように癇癪じみた、金切り声。
「犯せよ!殴れよ!その手で、血反吐はくくらいめちゃくちゃにしろよ!」
そうだ、子どもだ。哀れなほどに悲しい子どもが、そこにはいた。
「はやく、あの時みたいに!じゃないと……っ」
オレ、おかしくなる。切羽詰まったように、部屋から出ていこうとするエドワードの腕を掴んだ。コート越しでもわかる、細い左の腕。低い背丈。金色のつむじ。太陽の匂い。愛しい子どもの肢体を、そのままベッドに押し倒す。
広がる赤いコート。白いシーツに、その色はよく映えた。まるで血だ。あの時のような。それでもあの時と違うことは、下に組み敷いたエドワードの顔が、恐怖に染まっていないことだけだ。
獣のように荒い息をついて、エドワードを見下ろす。自分がどんな顔をしているのかはわからない。至近距離にある金色の瞳には何も映らない。気がつけば、辺りは静寂に包まれ、部屋は濃い夕の色に包まれようとしていた。
エドワードの身体が、昏く濁る。一度驚かれたように見開かれた瞳は、徐々に細まり。
―――とろけるような歪な笑みが、顔全体に広がった。
焦がれるように、興奮したように熱い吐息を吐き出すエドワードに向かって、ゆっくりと手を振り上げる。エドワードは目を閉じない。ただじっと、待ちわびるように私の一挙一動を見つめている。震える拳は宙で止まった。
わかっている。エドワードは、こんなことは望んでない。あの時、逃げることも、どうすることもできない激痛と絶望の中で、気が狂いそうになるほどの恐怖の中で、子どもに唯一できたことはただ一つだけ。
僅かに感じる、少しの快楽。それを死に物狂いで拾い集め、溺れようとしなければ。痛みを快感だと自分に言い聞かせなければ。自ら狂い、壊れなければ。エドワードは。
だから―――この子は。
「大佐……」
待ちきれないというようにエドワードが体を震わせる。子どもの姿とはほど遠いその姿に、心が、鈍い音をたてて軋む。
「大佐ぁ、はやく」
猫が喉を鳴らすような甘い声をあげながら、私の腕を一点に見つめる、うっとりと火照り、潤んだ瞳。焦がれて止まないその目が、愛しくて、哀しくて、苦しくて、痛くて、つらかった。すまない。そんな言葉をいくら羅列したところで、何も変わらない。エドワードは壊れてしまった。私のせいで。ひびの入った心は、もう元には戻らない。これからもずっと、壊れた歯車は、軋んだ音をたてて回り続けるだけ。
「エド」
子どもの名をよぶ。その名を呼ぶだけで、かつてはあんなにも心が安らいだのに。繭に包まれたような優しさと心地よさだけが、そこにはあったのに。今は。
「エド、ワード」
こんなにも、重い。その重さを受け止めるように、エドワードはそっと目を閉じた。
それが、合図だった。質のいい娼婦のように、愛しい人からの口づけを待つ少女のように。閉ざされた太陽。あるのは、静かに彼を照らす、井戸のような夕の明かりだけ。
―――ああ、これが。
震える唇を噛み締める。
―――私の、罰か。
自分を、父のように慕ってくれていた子どもに向かって。その、白い頬に向かって。
私は、冷たい拳を振りかぶった。
重い衝撃が素手に伝わった瞬間、じわりと濡れた下腹部に。
私は、エドワードが達した事を知った。
慣らさないで入れて。
その懇願通りに、すぼまったそこに膨張したそれを捩じ込んだ。
「あ、ぁあ!や、ぁ……ギっ」
喉の奥から絞り出すような悲鳴が耳をつんざく。悲痛な声。思わず動きが止まる。
痙攣したように、呼吸欲しさに大きく喘ぐ口。その姿は、無理矢理服を脱がし、手足を押さえつけ、凶器のようなそれを幼い臀部に突き入れた瞬間のエドワードの姿と重なった。
あの時と、まったく同じだ。身体にしみわたる、満たされたような快感も、全て。
ダメだ。ぎちぎちと受け入れてくるそこは信じられないほどに狭くて、とてもこれ以上無理に進められるような状態ではない。
無理だ。できない。自分ですらあまりのキツさに痛みを感じているというのに、エドワードの苦痛は計り知れない。
見ていられない。すぐに抜こうと腰を引いた途端。右腕をわし掴まれた。
「ぬ、かな……!」
赤黒く腫れたエドワードの頬が歪む。鼻血を流し、今にも泣き出しそうな表情とは裏腹に、掴んでくる機械鎧の力は強い。ギリギリと、縋りつく様なそれに、痛いと掴まれている部分が悲鳴をあげる。
「いれッ、て……」
子どもの苦しみをそのまま体現したような、痛み。きっと、痣になるだろう。
「鋼の、血が」
出ていると言おうとした口を、すぐ閉ざした。鋭い金色の光に射抜かれたせいだ。
「ぃい゛から、いれッ、ろ」
無理矢理挿入した部分は、まだ少しだけだというのに無惨にも傷ついた。赤い鮮血が、たらりとエドワードの下部を濡らし、白いシーツに染み込んだ。赤く薄暗い部屋の中でもその色だけが鮮明で。それが、その光景が、あの時と重なって。
「いれ、ろッ、あのとき、みたいに……!」
逃げるなと、雄弁に語る黄金。細くて、枝のように角張った脚に、ぐいと腰を引きよせられる。機械鎧の左脚が、ひやりと汗ばんだ背にからみつく。触れてもいないのに、エドワードのそれがピンと跳ねるのが見えた。
―――いやだ、いやだ。顔が歪む。こんなのは。身体全体が、エドワードを拒否している。あれほど焦がれた体だというのに。
「いれろ!はやく、―――はや、く!」
それでも。エドワードが二度と私を離さないことはわかっていた。哀しいほどに。
待ちきれないというように、なお一層、強く叫んだエドワードに、私は―――思い切り腰を突き入れた。
「イ、ャァァァッ!」
「……ゥ゛」
ずちゅんと、埋め込まれたそれ。半年ぶりの快楽に、思わず、つまった声が漏れた。
「ひぐっ……ぃた、い゛た゛っ……あァアア、あァッ―――!」
痛みと衝撃に、ビクビクと痙攣しながらエドワードが再び精をまき散らした。冷たい飛沫が皮膚に染み込んで、思わず幼い身体をかき抱いた。こんなエドワードの姿を見たくなかった。
二度目の放出に、天上を呆然と見つめている虚ろな瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。祈るような気持ちで、それに舌を這わす。エドワードは拒まなかった。それどころか、以前は恐怖し、必死に私から逃れようと突っぱねていた腕が、ぎゅっと背中にまわされる。あの時そうされていれば、喜びにうち震えただろうが、今は真逆だ。
離さないように。何かを、刻み付けるかのように回された二本の腕は、与えられるさらなる痛みを待っている。まだ呼吸も落ち着いていないのに、ついて、と。動いた渇いた唇。もう目を逸らすことはできなかった。
「あ、あ゛、ァ」
足を抱え治して、腰を動かす。エドワードの望む通りに。
「いぐっ、ぁ、ィッ、た゛い、」
『いたッ、い!いたッ、……たい、さ、痛いィッ、やめっ大、たィ、―――ィヤアアア!!』
――――すまない。
「きもちぃい、いい、よ…い゛た゛、ひぁあァあっ」
『あ、ぁアああ、い゛、いァ゛ァあああ!』
汗が、魚のようにのたうつエドワードの顔にかかり、玉のように額に張り付いた子どもの汗と重なり、滑り落ちる。何度も、何度も。大きな嬌声が響き渡る。
「やめ、なっで、きもちぃ、いい、ついて、いた゛ィ…つ゛いてぇ!」
『やめ、てぇ゛ええ!おねがっ、やァッ、つかっ、つかない、で、痛い、痛いょッ…ァ、ァァア!』
嬉しそうに、自分から、痛みを追うように腰を振る子ども。再びそそり起った幼いそれが、動きに合わせてゆらゆらと揺れる。それが、痛みから逃れるためにがむしゃらに抵抗していた過去のエドワードを消していく。見えなくなる、だんだんと。あの頃の、子どもの姿が。
「つィて、おく゛、ひぃァ、ほしっ、あァん、ついてついて゛え゛!」
『ァ、ア、たすけっ、いや、イヤッいや、い゛、アッ、ぅあアアッ!』
――――すまない。
鼻につく、鉄の臭い。それすらも性感になるのか、気持ちよさそうに鼻をひくつかせるエドワードの腰を抱え直し、激しく腰を打ち付ける。激しい水音。耳を塞いでしまいたい。しかし、それはできない。
「アッ、ァ、あッ、ヒぐッ、―――ひい!ははっ、たいさ、そこ゛っア、くるひ、ぁっきもちいい、いた、ィ、はっ、ァッ」
ずぷッ、ずぷッ、ずぷ、と、みっちり閉じたそこを、何度も犯す。粗相をした赤ん坊のように脚を大きく広げさせ、そそりたった肉の棒を、出しては、入れる。エドワードの脚が、痙攣する。
「ひ、ァ、痛い、いたッ、あ゛、おく、いたっ、も、もっと゛ォ゛、アッ、アッ!」
狂ったように上がる、悲鳴と嬌声が混ざりあったエドワードの声が、確かな痛みとなって胸の奥に突き刺さる。それでも、拒むように窄まっているそこが、とろけて熱い中が、自分の気持ちとは正反対の快楽を単純な肉体に伝えてくる。
脳髄を通して響く、痺れるような快感。
こんなこと望んでないはずなのに、エドワードを犯す喜びに、体は震えている。
「は、ふ、ゥ゛んッ、!」
エドワードが悲鳴と嬌声を挙げながら、自分の鼻から垂れた血を嬉しそうに舐めとった。
美味しそうに、子犬のように、何度も口回りを舐めとる。赤い舌がさらに赤く染まる。
――――すまない。
「は、……ッ」
零れた声は、自嘲ではなく快楽だ。そんな自分を愚かだと、罵ってくれる人は誰もいない。
この狭い部屋にいるのは、二人ぼっちの哀れな大人と子どもだけだった。
ふいに、首にかかっていた腕が外された。何をする気なのかと見れば、エドワードが自身の左腕を小さく振りかぶったのが見えた。
「あ゛、ィ」
どん、どん、どん。と、断続的に鳴る、鈍い音。見開いた私の目は、きっとエドワードには見えていない。必死に自身で自分の腹部を殴りだしたエドワードの瞳には、もう何も映っていない。
「はぁ、はぁ、ふ、あ゛、ぁぐ、ひ、ギッ、か、ふぅ゛、」
詰まった声。エドワードが噛みしめた唇の隙間から、零れ落ちる唾液にまじった、透明な赤。はふ、はふと獣のような呼気を零しながら、頭を振り、拳で自分を痛めつける子どもの姿。だんだんと赤く色づいていく、真っ白な腹。
たまらず、その腕を捻りあげた。
「や、ぁ、ぁッ、」
「止めてくれ」
「な、んて゛、はなし゛、て゛、ぇ」
「やめてくれ、鋼の」
「痛ィ、の゛、ほし、いたいの、ォ」
痛いのほしい、お腹、さみしい。ひどい、ほしいの、そう言いながら必死に私の腕から逃れようと暴れる子どもの腕をシーツに縫い付け、歪む視界のまま、腰を思い切り穿ってやる。
「ぁ、ンァアアアアッ―――!!」
衝撃に絶叫を上げたエドワードを押さえつけ、奥を抉る。遠慮など、もう捨てた。捨てなければ、いけなかった。エドワードが満足するためには。
「ァ―――、ァ゛、あァ゛、ひ、ォ゛、あか゛、んゥウ゛ッ!」
自分の下にすっぽりと収まる小さな子どもの身体を抱え込み、激しく中をかき回す。これ以上ないほどに、ぐちゃぐちゃと嬲る。薄い腹部が中からぼこぼこと波打つのが見える。目をこぼれんばかりに見開いて、首をシーツに押し付けて痛みに悶える姿は、もういつものエドワードではなかった。赤く血走った瞳は絶えず襲いくる苦痛に悦び、快楽を感じている。
―――どうして。子どもを激しく組み敷きながら震える唇を噛みしめる。
どうして。こんなところまで来てしまったのか。連れてきてしまったのか。
太陽から、奪ってきてしまったのか。
「は、っ、あ、び……」
はくはくと、エドワードが喉を震わせた。何かを訴えている。でも聞き取れない。あわてて耳をよせる。掠れた声は、しかし確かに聞こえた。
くび、しめて。
ぎゅっと強く、目を閉じる。
「たい、さァ。くび、しめッ、て」
瞼の裏に映るのは、苦しそうに私を見つめる子どもの姿だ。少ない酸素を求めながら、必死に喉を締め付けてくる手を引き剥がそうと、力の入らない指先が何度も大きな手の甲を掻き毟る。真っ赤になった目、そこに映るのは、まぎれもなく私の顔で。
「ちょ、だ、ィ゛」
後悔など意味がない。そんなことはわかっているはずなのに。
「くる、し……の、ほしっ……」
これ程までに、エドワードにしてしまったことを悔やんだ時は、ない。
「ん、ぐ、」
目を開く。首に、指をそえる。片手でもすっぽりと覆い被せてしまうほどの、細い首筋をゆっくりとなぞる。それだけは、と震える腕に、指先に、ぎり、と爪が立てられた。
はやくやれと雄弁に語るエドワードの爪先は、綺麗な紫の色で。
待ち望むかのように大きく上下した喉を手のひらで感じ、諦めたように、力をこめる。
じわじわと、確実に、エドワードの喉は簡単にしまった。
「ん、ぅううう゛う゛、ぐ」
「鋼、の」
苦しそうに唸りながら、きゅうと窄まるそこ。全てを持っていかれそうな感覚。もっと、と、乞うように揺らされた臀部に一度かぶりをふってから、最奥を突く。
「あ、ぐ、ゥ」
ぱんぱん、と激しく肉がぶつかる。エドワードの指先が、シーツを掻き毟る。血の臭いがます。湿った音が響く。エドワードの汗がとびちる。エドワードが首を振る。あがる甘い声。エドワードの身体がガクガクと痙攣する。エドワードが身を捩る。エドワードが私を求めて悶える。エドワードの顔が、情欲に染まる。エドワードの唾液がシーツに溜まる。エドワードが痛いと泣く。エドワードが気持ちよさそうに喘ぐ。
「は、きも、ひ、ぐぅ、はは、はは、ァ、は」
エドワードが苦しそうに、幸せそうに笑った。ひィ、ひィ、と少ない呼気を震わせながら。
腫れあがった瞼。溢れ出た鼻血が、涎と混じって。
その歪な笑顔がとても、とても悲しくて。
「づい、て、ォ、おく゛、だし、てぇ……!」
―――ああ。
最後に足を大きく開かせて、ずん、と腰を深く押し付ける。
エドワードの笑い声が身体の奥底にダイレクトに響いて、下腹部に溜まった熱が脈打った。
私は子どもの首を絞めながら、身体の奥底から湧き上がるどうすることもできない苦い快感を。
エドワードの最奥に、放った。
助けて。
エドワードからの三度目の熱を感じながら、耳に届いた小さな声は。
きっと、聞き間違いなどではないのだろう。
「昔の話、しよう」
からからに枯れた声。それでも随分としっかりとした声色で、シーツにくるまった小さな身体がごろりとこちらを向いた。あっという間に昏い闇に支配された部屋。充満する臭いには、もう慣れてしまった。
「昔の、話」
「うん」
しかし、そう言ったままエドワードは黙った。口を閉ざしたまま、じっとこちらを見つめてくる。静かに響く時計の音。穏やかな時間が、ゆっくりと進んでゆく。
「……アルフォンスに」
逸らされない視線に耐えかねて、重い腕を動かし、そっとエドワードの頬に触れる。びくりと跳ねたのは、痛みのせいだけではないのだろう。
「なんて、言うつもりだ」
痛々しい頬は、誰にもごまかしようがないほどにぽっこりと膨らんでいる。そして、熱い。きっと熱も出ているはずだ。かさかさに乾いた鼻血が、欠片となってエドワードの頬を汚していた。腹の色も、少し紫じみていて。それもそうだろう、鋼の左手で、何度も殴っていたのだから。
「……チンピラに」
少しだけ、長い時間を置いて、エドワードがゆっくりと口を開いた。
「絡まれたって、言う。前にもそう言って、誤魔化した」
前。それはきっと、あの日の事だろう。
「だから、アンタも合わせて、よ」
静かに頷く。子どもは、にっと笑った。健康的な白い歯は、わずかに赤く色づいていて、赤黒い。
エドワードが小さく震えた。笑った瞬間頬が痛んだのだろう。そっと、小さな身体の側による。エドワードは拒まない。
ゆっくりと、抱きしめる。すっぽりと腕の中に納まった身体は、やはり、熱い。
わずかに鼻を掠めるのは鉄の臭い。あたたかな太陽の匂いは、もうしない。
「な、ぁ」
腕の中で、ぽつりと落とされた言葉。
「ずっと前に、大佐の子どもに間違えられた時、あったな」
温かな息が、胸元にかかる。
「そんなこと、あったか」
「あった、よ」
子どもの頭越しに見える窓の外には、うっすらと陰った月が悠然とあった。
季節はもうすっかり秋だ。今日は小道で葉が落ち寒そうに立っている木を眺めながら、二人一緒に帰ってきた。隣に並んで。たった、数時間前の出来事だ。
「今日だって、ここに来る途中、親子でいいですね、とか言われたじゃん」
「……ああ」
友人のように、優しい気持ちのままで、同じ目線にたって。年は離れてはいるけれど、慈しんで慈しんで、愛おしんでいた頃が、もう嘘のように、遠い。遠すぎた。
さらりと波打つ絹のような金色の髪。その隙間から、青紫色の痣が覗く。細い首筋。次にこの身体に触れるのはいつになるのだろうか。この痣が消えた時か、それとも、その前なのだろうか。
「オレ達、親子に、見えるのかな」
答えられずに口を閉ざす。
「なぁ」
「……」
「髪の色も、違うのに」
「見えるのかも、しれんな」
「はは」
パパってよんでやろうか。そんな言葉、エドワードはもう言わない。
静かに響く時計の音。月だけに見つめられた二人だけの時間が、ゆっくりと進んでゆく。
「あの頃」
ぽつり。
「楽しかった、ね」
ぽつり、ぽつり。
「アンタの子供に間違えられて、馬鹿みたいに、騒いで、アンタと笑って、楽しかった」
ぽつりと、落ちるエドワードの言葉の切れ端を。
「楽しかったのに、なぁ……」
拾ってやることは、もうできない。
たまらず、大きく震え始めた子どもの身体を、強くかき抱く。こんなものは自己満足だ。なんのためにもならない。そんなことはわかっていた。それでも、抱きしめられずにはいられなかった。
どうして。
「オレ、オレ……」
しゃくりあげ始めた背中を、何度も、何度も撫ぜる。
「アル、のでかい指に、さ。かき回されたらきっとっ……、痛くて、きもちいいだろうなってッ……!」
胸元に落ちる冷たい雫は、直ぐにシーツに吸い込まれていくだろう。
身を切るような叫びも、きっと。
「思って、オレ……!」
「ああ」
「そんな、気持ち悪いこと……思って!」
「ああ」
ひょっこりと、司令部に顔を出したエドワードはいつもと同じ様子で。
久しぶり、だなんて部下と笑いあった彼は、話したい事があるから家に行きたい、と。弟は置いてきたと、私の目を真っ直ぐに見て。その目は確かに。
―――助けてと、叫んでいた。
「あんなに、いやだったのに……!痛かったのに……!」
「うん」
「オレ、ここままじゃ、アルに変なこと言っちまいそうでッ……」
「うん」
「オレ、オレ……ッ!」
ぎり、と掴まれた腕。子どもの苦しみをそのまま体現したような鋭い痛みは、もう痣になっていて。
「オレ、おかしくなっちゃったぁ……ッ」
―――どうして。こんなところまで来てしまったのだろう。
本来の子どもの姿。少し天邪鬼で、天真爛漫で、冷静で、温かくて、口が悪くて、態度も悪くて、それでも優しくて。はにかむような顔が可愛らしくて、愛おしくて。
そんな子どもが、声を殺して、泣いている。
こんな姿を知っているのは私だけだ。私だけに、なってしまった。
私が、この太陽のような子を、陥れ、そして。
どうすることもできないところまで、堕としてしまった。
昔の話をしよう。二人きりで。
「おかしくなんかない」
進んでしまった時は、もう戻らないから。
「君は、おかしくなんかない。壊れてなんかいない。君は、何も変わらない」
何度も、何度でも、同じ言葉を重ねよう。
例えそれが、真実とは遠い、哀しい言葉だったとしても。
重ね続けるたび、痛みに苦しめられるだけだとしても。
「寝なさい、鋼の」
未だにしゃくりあげる身体を擦りあげる。背中を、腰を、肩を、首裏を。冷たい冷たい身体を温めるように。
助けて、助けてくれと泣く子どもの髪に、額に、犬のように口付ける。
普段は大人顔負けの知識を見せる聡明な顔が、紙のようにくしゃりと歪んでいる。
「大丈夫、大丈夫だから、君は、何も」
日が照りつける庭先。きらめく金色の光。健康的な肌を惜しげもなくさらしながら、花壇いじりを手伝ってくれた子どもは、ガーデニングなんかアンタらしくもない、と悪態をつきながらも、休む間もなく土を掘り返してくれていた。
そんな天邪鬼な子どもの素直さに、思わず笑みが零れたのもそう遠くない過去だ。
数か月前の出来事。戻らない時。過去は、過去のまま。何度も、懐かしかった過去を、口に乗せる。
美しくて、太陽のように輝いていた、昔の話を。
「何も、変わっていないから……!」
壊れた時間は、進み始めた。もう、止まらない、止まれない。
昔の話は、これで終わった。
大人は子どもを裏切り、子どもは大人を失った。
後は、変えることのできない現実が、凍える小さな部屋に残るだけ。
だから。
だから、時にはむかしのはなしをしよう。
かつてあった、幸せだった、昔の話を。二人だけで。
月の暗がりに照らされたこの部屋に、もう夕の光はないけれど。
軋む広いベッドの真ん中で、二人だけで。身を寄せ合いながら。
あやすように、身体を撫で続ける。震えているのは、一体どちらなのだろうか。
す、と、気を失うように、エドワードの身体から力が抜けた。
だんだんと、聞こえ始める寝息。それは決して優しいものではない。
吸い込んだ息の合間に、はねるように痙攣する子ども。もしかしたら、吐くのかもしれない。
苦しそうな吐息が、呼吸が、ベッドに沈む。
未だに熱い身体はきっと、もっと熱くなるのだろう。
昔の話は、これで終わった。
大人は子どもを裏切り、子どもは大人を失った。
後は、変えることのできない現実が、世界から取り残された小さな部屋に、残るだけ。
壊れた心と身体は、きっと最後まで壊れたまま。
だから。
時にはむかしのはなしをしよう、
何度も、何度でも、同じ言葉を重ねよう。
例えそれが、真実とは遠い、哀しい言葉だったとしても。
重ね続けるたび、痛みに苦しめられるだけだとしても。
二人だけで、
ねぇ。
「…………おとぅ、さん」
もしも戻れるのならば、あの夏の日に。
明るい陽射しの中で君が笑っていた、あの暖かな夏の日に。
父親になれなかった私を、どうか。
大好きだよ、ねぇ、パパ
兄さんが両性具有の設定だったり、します。