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恋の海に溺れた子

「     」

 


何度も言おうと思って言えなかった言葉を口にする。

やっとだ。思いの外、それはするりと口からでた。

此処に来る前に何度も練習をし、決意も新たに覚悟を決めてきた。

とはいえ、肝心の本人を目の前にして言えるのかが不安だったが杞憂に終わった。

言葉を口にしたところで、そこまで感情が波立たない。それが哀しくもあり、嬉しくもあった。

泥に包まれ淀んでいた世界の中で、やっと息が吸えたような。

どうやらエドワードが自覚する前に、エドワードの中で、全ては終わっていたらしい。拍子抜けだ。

浮上するにはまだかかるが、透明で静かな水面は、頭上にあった。

 

まったく顔色をかえることなく、いつも通り唇を吊り上げたマスタングは、手にしていた書類から目を離さなかった。

今回ばかりはその表情も崩れるかと思ったが、それはエドワードの思い上がりだった。

こんな時まで、飄々とした態度を崩さないとは。

彼にとって自分は、そこまで情を割くべき人間ではなかったということだろう。ただの事実だ。

そのただの事実に、痛み過ぎた胸はやはりざわめかない。

ただ、凪いだ空気と時間だけが、エドワードを支配していた。
 

「        ?」

 

書類をめくる音。その隙間を縫うように放たれた声。耳の奥まで染み透る、深いバリトン。

好きだった。どうしようもないくらいに好きだった。これは変えようのない事実だ。

マスタングの全てが愛しいと、盲目的に慕っていたあの頃を、マスタングも知っている。

エドワードがどれほどマスタングの事を好きだったか、いつもその背を追い駆けていたのだから。でも。

 

両想いだと思っていたのはエドワードだけで、マスタングは違かった。

マスタングにはエドワードの他に恋人が多くいた。

想いを告げ、簡単に頷かれて浮かれ舞い上がっていた時、町で見かけたマスタングが別の恋人と逢瀬をかわしている光景は衝撃的だった。

 

なぜ。なぜ。身体が震えるほどのショックは怒りに変わった。

感情のままつめ寄れば、マスタングは悪びれもせず、むしろ言い聞かせるようにエドワードを見下ろして、言った。

 

───君を一番にはできない。すまない。

 

 

冷水を浴びたように、頭の中がしんと冷えた。

言い返すことができなかったのは、それがエドワードなどが覆すことのできない事実であったからだ。

エドワードは、彼の一番にはなれない。エドワードは田舎育ちの男で、しかも子供だ。生意気で、口も態度も悪い。魅力的とは程遠い。マスタングが関係を持つ、華やかな女達と比べることすらおこがましい。

マスタングはエドワードの恋人の男である前に、上官だった。

彼は野望を持ち、この国の民のためにと上を目指す男だ。

恋人の他に、情報収集に長けた情人もいるのだろう。仕事としての付き合いだ。

エドワードたち兄弟の秘密を守り抜き、旅が円満に進んで行くように配慮をし、数多くの仕事をこなし、時には理不尽な上の命令にも従う。そんな彼をとやかく言う権利は、エドワードにはない。

自分だけを見てくれだなんて、それこそが酷なことだ。

そう納得すれば、身を蝕んでいた怒りは急速に掻き消えた。

ただ、胸の奥に広がった空虚のような穴に、恋心だけがぽつんと取り残されて痛んだ。

 

 

ペラペラと紙をめくる音が止んだ。やっとマスタングが顔を上げてこちらをみた。

ぎしりと、椅子に背中を預ける姿は様になっており、相変わらず頬は上がっているままだ。

深い沼の底を彷彿とさせる黒い瞳。この目に何度吸い込まれそうになったことだろう。

 

二人でいる時であっても、別の恋人に呼ばれれば、彼は躊躇なく其方に向かった。

まるで子供をあやすように、君はここまでだ、すまないねと、エドワードの頭にぽんと手をおき、去って行った。

エドワードを一人残して。

それでも、エドワードは彼から離れなかった。

いつか振り向いてほしいだなんて、そんなことを考えてるわけでもなかった。

それはあり得ないことだとわかっていた。ただ、彼の側に居たかった。

軍人としての権威など関係なく、エドワードを絶望から引っ張りあげ、怒りを剥き出しにエドワードを奮い立たせてくれた、ただのロイ・マスタングが好きだった。

 

だから、仕事で疲れている彼のために書類をまとめたりもした。

エドワードの膝に頭を預け、無防備に瞼を閉じ疲れを癒す彼が、好きだった。

時々、甘えるように摺り寄せてくれる頬が、愛しかった。


けれど、限界はきた。いつものように、マスタングが恋人とそれ専用のホテルから出てきたところを目撃し、ずっと言えなかった事をつい口にしてしまったのだ。

嫌がられるだろうな、と、ずっと黙っていたあの言葉を。

 

───オレとはああいう事、しないの。

 

キスは、した。しかし、体の関係はなかった。

そこまでセックスという行為に憧れを抱いていたわけではなかったけれど、その日はなぜか、いいなと思った。

マスタングに好んで抱かれている彼女たちが、純粋に羨ましかった。

 

エドワードの問いに対するマスタングの返答は、至極明快でわかりやすく、淡々としたものだった。

君もそんな年頃か。興味があるのなら、あと腐れのない女を紹介してやろう、と。

 


その言葉に、何かが終わった。

 

一番にすることはできない。けれども、情はある。それが恋愛感情であれ、そうでなくとも。

だから、手元に置いている。自分がそれだけの存在であることは、十二分に理解していた。

それでも、好きだから、少しでも役に立つことをしたかった。

好きだから、見返りは求めなかった。ただただ、マスタングに恋をしていたから。

エドワードが唯一肌を重ねたいと思ったのはマスタングだけであって、他の女でも男でもない。

しかし、マスタングは違かった。

 

エドワードが誰と寝ても構いやしないのだ。エドワードは彼にとって、その他大勢の一人にしか過ぎないのだから。

マスタングは、エドワードに優しかった。

けれども、誰かと肌を重ねるのには、こと足りてる。別にエドワードがいなくともいいのだ。

 

終わってしまった何かは、恋心だったのかもしれない。

まだ恋をしていると思い込んでいた、自分であったのかもしれない。

まだ恋をしていたいと、みっともなく足掻く自分だったのかもしれない。

そのどれかはわからないが、盲目的な恋は静かに終わりを告げた。終わりたかった。

終らせなければ、ならなかった。

そうであれば、エドワードがするべきことは、ただ一つだ。

 

「  、     」

 

小さく頷き、同じ言葉をもう一度口にする。

 

マスタングは表情を崩さない。

だてに数年間付き合ってきたわけじゃないというのに、マスタングの考えていることがわからない。

驚いているのか、納得しているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、喜んでいるのか、どうでもいいのか。

 

そうか、一人減ったな。

 

マスタングの唇は少しも動いていないというのに、聞こえてもいない彼の言葉が耳朶にじくりと響いてくる。

幻聴だ。しかし、マスタングの本心かもしれない。

それを判断する術も、関係も、エドワードにはない。

マスタングが書類をデスクに置き、転がっていたペンを手にとって、インクボトルの中に入れた。

たったそれだけの動作ですら、洗練されていた。思わず目で追う。その指は、強張ってすらもいない。

 

きっと、なにもかわらない。エドワードが必死に繋ぎとめていた関係を、エドワード自身が断ったとしても、なにもかわらない。なにも、始まってなどいなかったのだから。

これからもマスタングはエドワードの上官であるし、エドワードはマスタングの部下だ。

これで、最後だ。

エドワードは小さく息を吸った。

 

 

「    、     」

 

過去形だ。だというのに、今日初めて、マスタングが柔らかく微笑んだ。

なんて嬉しそうな笑みなのか。眦の下がった、子供みたいな顔、初めてみた。

エドワードの言葉に、少しでも、心を動かされただろうか。

その他大勢のうちの、一人でも。

だからもう、それだけで、いいような気がした。

今にも届きそうな水面から目を背けたくなる前に、エドワードは踵を返した。

扉を開けた時に聞こえた言葉にも、足を止めなかった。

 

「鋼の」

 

いつものように、柔らかく。包み込むようなあたたかさで。

 

「ありがとう」

扉を閉める。顔を仰ぐ。天井は白かった。

 

 

 

 

「よろしかったのですか」

静まり返った部屋に、ノックと共に入ってきた副官の第一声はそれだった。

「ああ」

沈痛な面持ちで去って行った子供と、すれ違ったという。

「喜ばしいことだ。これ以上ないほどに」

インクボトルから再び取り出したペンを走らせる。指先の振動に、じわりと滲むそれに力がこもる。

「あの子が、私の一番になる前に、離れてくれた」

一番は作らない。自分自身に架していたその決まり事を、破らずにすんだ。

 

「……やっと、逃がせた」

 

 

優秀な副官は、ぬるくなったコーヒーをそっとデスクに置いた。

揺れた茶黒の水面を、じっと見つめ続ける上官に。

先ほどすれ違ったあの子と同じ顔をしてますよと、柔らかなため息をつきながら。

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