「真っ暗じゃん、なんだよここ」
狭い室内は、闇に包まれていた。エドワードは手探りで壁に手を這わした。じとりと、吸い付くような石の冷たさに手のひらが微かに震える。空気も妙に湿っていてどこか息苦しい。本当にここが、上官の言っていた部屋なのだろうか。こんな辺境の森の奥にこんな奇妙な屋敷があること自体変な話だが、連れて来られたのならばどんなに薄気味悪くとも調べなければならない。それが仕事だ。だが、松明すらないので確認のしようがなかった。
「なあ、本当にこの部屋?」
後ろにいるはずの上官からは、何故か返事がない。
「なんか変じゃね?とりあえず明かり付けてよ」
エドワードは、背後にぴたりと寄り添う男を見上げるために首をひね──ろうとした。が、それは何かに阻まれた。
「ん、──ッ」
目を見開く。口を押さえつけられていた。条件反射で体を捩じって逃れようとするも、口を塞ぐ逞しい腕がそれを許してくれなかった。まさかと思ったが、それは確かに青い軍服だった。確かに、見覚えのある上官の腕だ。鼻をも圧迫されているため、じわじわと息ができなくなる。苦しい。なんとかして引き剥がそうと渾身の力で掴んだり叩いたりするがビクともしない。暗闇の中、耳元に上官の荒い吐息がかかる。
「鋼の」
掠れた吐息が、耳たぶを犯す。
「鋼の、かわいい」
低い、とても低い声だった。台詞もさることながら、その冷たい温度にぞっとした。身体を拘束する力が強くなる。耳に触れていた上官の唇がつ、と耳の形をなぞり始める。擦りつけるように、何度も何度も。興奮しているようだった。そして耳の中をぬるりとした熱いものでひと舐めされた時、混乱は瞬時におぞましい悪寒に変わった。
「──ッ」
咄嗟に合わせようとした両手が、男の手によって遮られる。その代わり口元を覆っていた腕は離れたが、男の手を振り払う暇もなく今度は足を払われ、エドワードは顔面から地面に突っ込んだ。
「ふぐっ」
したたか鼻を打ち、痛みに悶絶する。その間にエドワードの背には上官が跨り、身体はいとも簡単に床に拘束されてしまった。左腕はマスタングの左膝によって床に縫い付けられ、機械鎧の右腕は、先ほどよりも強い力で後ろに捻りあげられる。
「いっ…!」
ギリ、と金属の腕が唸る。生身の腕であったら完全に骨が折られていた。それ程の力だった。
「暴れないでくれ、怪我をさせたいわけではないんだ」
静かな声とは不釣り合いなほどの力技に、一瞬のうちにして全ての抵抗を塞がれる。
「……っい、いきなり、何すんだ……」
目まぐるしく混乱する頭を振りかぶり、力の限り声を張り上げる。普段であれば張りを持つ自分の声は、らしくなく掠れ、裏返っていた。
「ふざ、ふざけんな、離せよ!冗談にも程があんだろ!」
動かすことのできない体をなんと捻り上官を睨みつけようとするも、頭を乱暴にわし掴まれ、床に押さえつけられてしまう。固い地面に擦れた額が痛い。どうしてこんなことをされているのか皆目見当もつかない。もしかしてこの部屋に入り込んだ時、何か彼の逆鱗に触れるようなことをしてしまったのだろうか。いやでも、上官の様子は怒っているどころかいつもとなんら変わりがなかった。というよりも、むしろ上機嫌のように見えた。そうだ、上官は此処に来るまでずっと薄い笑みを浮かべていた。嬉しそうに、まるで、これから始まる何かを期待しているかのように。
──嬉しいこと?
鋼の、かわいい。先ほど耳に囁かれた台詞が、震える悪寒を伴って脳裏に蘇る。考えろ、だめだ、考えるな。相反する感情と戦いながら、恐る恐るエドワードは自分に圧し掛かっている上官の名を、呼んだ。
「大佐……?」
激しい動きに熱気を帯びていた肌は、既に冷たい床に熱を奪われ冷え切っていた。
「どうだろう、今から君にしようと思っていることを君に教えるべきか。痛みに強いとは言え、ショック死することだってあると聞く」
「……え」
「用意はしてあるんだ。首輪も手錠も足枷も。トイレだって清潔で、ベッドも広い。私と君で、二人で一つだ。人目のつかない辺境の屋鋪の地下とはいえ、かなり快適な部類に入るはずだ。ただし窓はないけどね」
未だ力を緩めぬまま、いつも通りエドワードに話しかけるロイの姿。いや、話しかけているというよりは独り言なのかもしれない。だが、その内容はあまりにも理解の及ばぬ領域過ぎて。
「震えている、こわいか?でもこうするより他がないんだ。君を手に入れるためにはこの方法しか。すまないね」
耳たぶに生ぬるい吐息が吹きかけられる。湿った舌が再びゆっくりと耳の穴に差し込まれ、浅い部分から奥までを思う存分堪能される。静止の声は出なかった。喉が凍っていた。ちゅくちゅくと脳髄に直接響く濡れた音に、足のつま先から一気に背筋までが凍りつき、首の裏がざわめく。
「ずっとこうしたかった」
「あ……ぅあ、ひ」
「鋼の、私は君に初めてあった時から……ずっと前から、ね」
ちゅ、と、吸い付きながら離れていく。耳の中が冷たかった。
「この機械鎧が邪魔だと思っていたんだ」
「たいさ」
「ここには私と君しかいない、大丈夫だ。安心して声を出すといい。外すよ」
「待って、たい」
「私のかわいいエドワード、耐えてくれ」
さ、と、言い終える前に、エドワードの機械鎧の腕が、ごきりと鈍い音を立てて肩口から曲がった。
堪えきれず腹の底から迸った自分の悲鳴が、暗闇の中でびりびりと反響し続ける。それでもロイは止めない。皮膚に接合された部分すらも、力の限り引き剥がされた。必死に繋いだ神経が、ぶちぶちぶちと一本一本引き抜かれていく激痛に汗が噴き出た。気絶する暇もなかった。身体全体がガクガク震え、感覚が抜けていく。たった一瞬で、意識がこんなに遠くに。
「苦しませてすまない、君が好きなんだ、好きなんだ……好きだ」
意識を失う寸前に聞こえてきた声は、透明さと憂いに満ち、いっそ切なくすらあって。
がらん、と、乱雑に床に投げ飛ばされた闇を孕んだ鈍色が視界に入ってきた。いい子だ、と労わるように頬に口づけられた感触に、エドワードの思考は耐え切れずぶつりと途切れた。