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「君の心臓になりたい」
やけに胸元がぬるぬるすると思ったらそこには大人の頭部があった。
点滅する瞼の裏と、荒い呼吸と、痙攣する自分の体をどうにかすることで精一杯で気が付かなかった。重い。頭、どけろよ、なんて言葉も出てこない。
「音がすごいな」
「アンタも、だろ」
「はは」
今日初めて大人が笑い声を上げた。きっと顔は笑んではいないだろうけど。
今までずっと、言葉もなく、ただ空中に霧散している酸素を短く吸っては吐く。その繰り返しだったのに。
ぴっちりと、隙間なく抱き合っていれば、相手の心音も体に響く。どくどく、どくどくと。一か所に凝縮して弾けた血液が、今は体中にいきわたっている最中。それは大人も同じだった。
「……なんで今日、機嫌、悪かったわけ」
「普通さ」
「どこかだ」
急に押し倒しやがって、と髪を引っ張れば、大人はまた笑った。乾いた声だった。
「君の心臓になりたい」
「だから、なんで」
「他の臓器は困る。心臓がいい」
「なんで」
「そうすれば君の命は私の手の内」
ぬるり、と這う生暖かなもの。大人の大きな掌が、汗ばんだ胸元を撫でる。快楽の残党が胸先を掠めて、声を上げそうになったが耐えた。
「私の気持ち一つで、燃えて、きゅっと止まる。私が。君の命が」
今細い声をあげたら負けだ。大人が勘違いする。怯えなんて、微塵たりともあるわけがない」
「これほど幸福なことが、他にあるものか」
漂う匂いは、青臭さと強いアルコホル。まったく飲みすぎだ。馬鹿め。
「アンタがオレの心臓なら、アンタの命もオレの手の内だな」
ゆっくりと、大人が顔を上げた。今日初めて、目があった。どろりと溶けた黒い瞳は、本物の酒のようだ。しかも相当、粘度の高い。
「オレの気持ち一つだ。アンタも、オレも」
カシャリと、力の入らぬ右腕を大人の頭にのせ、撫ぜる。絡みつく質感を感じられないのが残念だが、今この瞬間、この手で大人に触れることに意味があった。 鈍い銀の指先。これを、鋭い切っ先に変えることなどいつでもできる。 願わくば、その瞬間がまだ先であることを。

けれども。

知っている、オレは。
オレのたった一つの心臓を貫く日が近いことを、知っている。
大人も同じだ。大人がたった一つの心臓を燃やす日が、すぐそばまで来ていることを知っている。抱き合っていればわかる。一つの呼吸のタイミングの違い、目の色の違い。言葉の違い。思いの違い。全部わかる、お互いに。終りが近いことぐらい。

『君が、私の行く末の邪魔になるようなことがあれば、私は君を裏切る』

そう言い切った大人の目を忘れてはいない。本気だった。そして、つい昨日、自らが犯した罪が、上にバレたことも。
大人が上から追及を受け、その責任を逃れるために、きっとこれからするであろうことも。
軍人として、上を目指すものとして。大人が選ぶ未来は一つだ。
勝算はある。この男とて人だ。今すぐに、この腕をナイフに変え、横一文字に引けばいい。手も塞がれていない。それなのに。
「んっ……」
食らいつくすようなキスを、拒めない。大人の手が、ぬるりと自分の首めがけて這ってくるのにも気がついた。強いアルコホルの匂いが口内を通して鼻を犯す。それでも、やはり拒めない。オレは随分、毒されてしまった。この昏く、青い、燃えるような心臓を持つ男に。
「鋼の──あいしてるよ」
お互いの濡れた唇が、至近距離で震える。ねばついた唾液が、零れ落ちる。
飲みすぎだ、馬鹿め。
わずかに震える体を落ち着かせるために、しんと冷たくなってしまった大きな背をさすってやる。汗はもう、引いていた。薄い瞼に口づける。首にひやりと、10本の指が、触れる。
「バカ、心臓はそこじゃねえよ」
見上げる大人の、泣き笑いにも似た表情。やっと、表情が変わった。
それだけで、心臓がきゅっと引き締まる。もうとっくに殺されてる。この男に。
ああ、本当に。今この瞬間、二つが一つに、交わればいいのに。生まれ変わったらアンタの心臓になりたいだなんて、そんなこと言える機会も、もうないな。言ってやる気もない。口に出せば、負けだ。


なあ、だけど大佐。 オレね、オレはね。



オレは、アンタの心臓に生まれたかったよ。

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