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「ここに立て」

冷たい命令に怖気づいたことは悟らせたくなかった。けれども、きっとバレているのだろう。

「立てと言っている、早くしろ」

地を這うような重い声に、乾いた唾を飲み込む。昨晩自分を包み込んでいたあたたかな腕が降り上げられるのを、目を逸らさずに見つめる。右頬を打ち据えられた衝撃は重かった。唇を噛みしめても、苦痛の声は漏れてしまった。

「ぐっ……ぎ」

間髪入れずに、左頬にもう一発。重さが増して、身体を支えきれずぐらりと傾むく。

いつもであれば直ぐに差し伸べられる手は惰性に従い中に浮いたままだ。生白い手の平を視界の端に捕らえながら地面に片膝をつく。ガクガクと痙攣する脚と、眩暈がしそうなほどじくじくと膿み始めた頬。ふる、と頭を振り頭蓋骨にまで響く反響をやり過ごし、口の端についた血を袖で拭った。

唇から垂れていく鉄の味を、いつものように勝ち気に吐き出すことはできない。これは自分の罰だ。目の前で地面に縫い付けられたように動かない黒い革靴も。その先にある光景も。

「立て、目を逸らすな」

変わらず、冷たい声が降ってきた。耳になじんだ声のはずなのに、普段の蕩けるような甘さは微塵も感じられない。拳を握りしめ、立ち上がる。

ふらりと傾きそうになるのを堪え、ぐっと首と眦に力を込め顔をあげる。自分を見下ろす上官の瞳と目があった。

氷のように冷淡な黒い瞳が僅かに細められた。視線は逸らさない。ずきずきと裂けた内頬の痛みが増す。再び伸ばされた腕に次の衝撃を予想し、奥歯をぐっと噛みしめる。受け入れない理由はなかった。

が、それが頬にぶつけられることはもうなかった。変わりに、固い軍服が頬に擦れる。目の前には青。自分を憤怒を込めて痛めつけた逞しい腕は首の後ろ。肩にのしかかるのは彼の頭部の重さ。数時間ぶりの腕の中は普段と同じぐらいあたたかかった。

鼻腔を掠める濃い汗の匂いがツンとして、急に目じりが熱くなった。いつも彼に抱かれている時は、大人の男として洗練された匂いがする。けれども今は違かった。

どれほど急いで、ここまで駆けつけて来てくれたのだろう。

確かな熱に、安堵してしまった自分が嫌だった。

「心配を……」

少しだけ震えた語尾の先に、目頭さえも痛みだした。今ここで、他でもない彼の前で、涙なんて流したくないのに。そんな資格も、ありはしないというのに。

「かけさせるな……!」

絞り出すように、叩きつけられた激情。軍ではよくある叱責の光景だと、バラバラに散っていた下士官たちの数名が、驚いたように此方を見た。

押し殺していたであろう吐息が波打ちながら落ちてくる。肩を掴んで来た手も震えている。恐る恐る片手だけを背に回しきゅっと握りしめれば、その瞬間もっと引きよせられて世界が彼いっぱいになった。隙間がなくなる。受け止められた体重。瓦礫が崩れるこの場所で、一瞬で許されてしまった距離。どうして彼はいつも人のことばかり。今にも倒れてしまいそうなのは、彼の方だろうに。

ごめんと、目の前にある厚い胸元に向かって囁く。盛大に切れて痺れていた口内のせいで、老婆のように掠れてしまった。大きな身体が僅かに引き攣ったのを服越しに感じたが、いつものように彼の胸に鼻を摺り寄せることはできなかった。

もう一度、ごめんと呟く。柔らかくて気持ちがいいねと、目じりを緩めた彼がよく触れていた自分の頬を、上官として力の限り打ち据えた彼の手のひら。こんな自分のために、手袋をわざわざ外してくれなくてもよかったのに。こんな公の場でさえも痛みを分かち合おうとしてくれる大人の姿に、堪えきれず瞼を閉じた。零れてしまった身勝手な一滴ですら、吸い込んでくれる彼の青。これもきっと優しさの内。軍人としての彼に余計なものまで背負わせてしまった自分の未熟さが、痛かった。

ごめん、ごめん、ごめんなさい。

目を逸らすなと彼は言った。その代わり、彼も目を逸らさないはずだ。青紫に腫れあがり、固くなっていくエドワードの両頬からも。

冷淡な仮面の下で、自分が与えた痛みに苦しむ恋人をエドワードは憂いた。

運び出されていく担架が減っていく。それでも、自分の勝手な行動のせいで怪我を負わせてしまった人たちの呻き声は、途切れることなく続いていた。

彼の背後にある惨状が、目に焼き付いて離れない。

 

 

半壊した片腕はぶらりと垂れ下がったまま、最後まで、重かった。

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