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​あまおと

 

 

 

 


「あの日も、雨だったよな」
頷くことはできなかった。ただじっと、目の前の子供を見つめる。
「アンタは、オレを軍に勧誘した…」
震える指先はきっと冷えているだろう。けれども、いつものように包み込んで、温めてやることなどできない。もう私は、彼に触れられない。
「なのに……どうして……」
ぽつりと落とされた言葉は雨音にかき消えた。濁流となったそれは雨水と共に地面に流れ落ちる。けれども続く言葉は、確かに私の耳に届いた。
彼の声はいつだって鮮明に輝いて、私の耳朶から消えてくれない。たとえそれが、耳を塞ぎたくなるような痛みに満ちた言葉であったとしても。
「黙ってんなよ……」
向けられた銃口から目を逸らすことができたのなら、どんなに幸せだっただろう。
そんな簡単な事でさえ今はできない。できないほどに、彼に囚われてしまっていた。
後戻りできる道はもうない。私は彼に、出会ってしまった。
「答えろよ…!」
カタカタと震えるそれは、しっかりと私の方を向いている。
「上の、命令だった」
どうして。
「彼らは再三の忠告を無視し、敵を治療していた」
どうして、アンタが。
「このままでは敵が増え続ける。元凶となる根は排除しなければならなかった」
「そんな理由で……!」
ぶわ、と。降り注ぐ雨すら蒸発させてしまうほどの熱い怒りが、彼の背後に立ち昇った。
あの小さな背を最後に抱きしめたのは、いつだったか。
もう彼は、私に背を預けてくれることさえない。それどころか、その瞳に深い憎悪をたぎらせて私を睨みあげている。視線で人が殺せるというのならば、私はすでに息絶えていたに違いない。他でもない、私の唯一によって。
「そんな理由で……あの人たちを……ッ!」
ガチリと、何かが外れる音。銃をろくに持つことのできぬ私とは対照的に、彼の手にはしっかりとそれが握りしめられていた。震える銃口。初めて手にしたであろうそれは少しも狙いを外さず、今もなお静かな鼓動を刻み私の生命活動の全てをつかさどる一つの塊へと向けられていた。
「どうして、アンタだったんだ……」
その声は、今度は雨音にかき消されることはなかった。噛み締めるようなそれはどこか自嘲的で、彼が自分自身に問いかけているようでさえあった。

どうして、アンタが。どうして、貴方でなければならなかった。
そんな身を切るような声なき慟哭が、水滴とまじりあって軍服にしみ込んでゆく。
自らが望んで身にまとった青は、雨粒をはじくことなく貪欲に。おもく、おもく。
たったの一歩も、踏み出せないほどに。
「答えろ、大佐……ッ」
「鋼の、銃を降ろせ」
ギリ、と彼は歯を食いしばった。雨をはじく金色の一房に、場違いにも触れたいと思ってしまう自分は、正真正銘の馬鹿者なのだろう。そうだ、愚かな男なのだ私は。なんとかして足を踏み出して、彼の望むがままに裁きを下させてやることは簡単だ。けれどもそれをしないのは私のわがままだ。この青い服をまとった人間としての責任なんてたいそれた事を考えるフリをしながら、今脳裏を占めているのは、彼の幼馴染でも、手を下したその両親でもない、ただ一人、目の前にいるこの金色の子供だけだ。彼の、ぐっと寄せられた眉に、今彼が感じているだろう苦痛を想像し憂いている私は、本当に自分勝手でどうしようもない人間だ。過去も、あの時も、そして、これからも。
「聞こえなかったのか?銃を降ろせ」
でも、だからこそ。今はこの重たい体を悟らせはしない。
「……て、めぇ……っ」
何があったとしても、絶対にだ。
「急に何かと思えば。軍属である君に言えた義理ではないだろう」
はっと、顔を上げた少年の前で、ポケットに入れていた右手を抜く。
「君は、自らの欲を叶えるために軍に籍を置いた。責任をもって。いつか国家錬金術師として戦場に駆り出され、虐殺に手を染めることになっても叶わないと」
寒さでかじかむ指先を、静かに擦りあわせる。この雨であっても、この手袋に染みついた臭いが消えることはない。私は、彼が銃を向けていい相手ではない。
「それ、は」
ゆっくりと、彼の足から力が抜けていく。ふらりと、凶器の標準がずれる。
「違うとでも?君はいつか手にかけるかもしれない人間の家族を、失意の底に落としても構わないと覚悟を決めたからこそ、今、私の前にいるのではないのかね。国家錬金術師として」
「……違う!」
「どこが違う」
「違う、オレは……!」
「……まだ上官に銃を向ける気か、馬鹿者め」
降り続く水滴を切り裂くような叱責に、子供はびくりと体を震わせた。私は彼と似ている。その幼い姿は、きっと私自身だ。しかし、彼は私ではない。
「上官命令だ、鋼の錬金術師。銃を降ろせ。このままこの状態が続くのであれば、人通りも少ないこの場所であっても、そのうち気づかれる。君は弟の体を元に戻してやることもできずに、上官殺しとして銃殺刑にでもなりたいのかね」
彼は、私に銃を向けていい人間ではない。そんなこと、あってはらない。
彼は、この金色の子供は、私のような愚かな人間の血を浴びていい人間ではないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


どのくらいの時間がたったのか、振り続ける雨はあたりに水たまりを作り、ばしゃばしゃと激しい音を奏でている。水に霞む視界で、私はじっと子供を見下ろしていた。視線は外さない。
降り続ける雨に流された時間はもう戻らない。子供は鋭かった視線を大きく歪ませ、ひゅっと呼気を飲み込んだ。ぐっと噛み締められる唇。傷がついてしまうよという前に、彼は震える腕をゆっくりと降ろした。鈍い現色の先端を伝った水滴が、ぽつりと濡れた地面に波紋を広がらせる。伏せられた視線、その金色の瞳に私が映る事は、もうないのだろう。大佐、と。照れたように私を呼んでくれた彼はもういない。私が彼の気持ちを殺した。最初からわかっていたのだ。いつか彼を踏み躙ることになると。彼の心を殺すことをわかっていながら、その手を離す事ができなかった当然の報いを、今受けている。

彼の唇から、ひっそりと赤が零れ落ちた。暗い空から降りしきる雨水に、すぐに洗い流されてゆくその色の痛みを、私は決して忘れはしない。
「……それを、こちらへ」
渾身の力でもって、カツンと歩を鳴らす。
あまりにも重い服に潰されてしまいそうになる体を支え。できるだけ、静かに。
子供は下を向いたまま動かない。すぐ目の前に立つ。少し前まではその肩に触れそっと抱き寄せていた指で、固く握りしめられている鋼の指先を解かせてゆく。真白い手袋の下で、カチャンと擦れる金属。この手にも触れてきた。風が差し込む司令室のソファで寝こけている彼にバレないよう、何度も何度も口づけてきた。
指を全て外させ、銃を手に取る。きっと最後になるであろう触れ合いは、一瞬のうちに終わってしまった。名残惜しさを喉奥に飲み込み、くるりと足先を変える。

ひと時の慈しむような夢の時間は、この雨に流されてしまった。下水管へと落ちてゆくそれは、そのまま腐り沈んでゆくだけ。

「君に、しばらくの謹慎を命じる。沙汰は追って出す。宿に、戻りなさい」
顔をわずかに子供に向け、つむじを見下ろしながら背を向ける。たったそれだけの動作ですら、鉛を着込んだように重い。

「ああ鋼の、最後に一つだけ忠告だ」

カツンと、革靴を地面にしみ込ませる。カツン、カツン。ゆっくりと離れていく。背中に視線は感じない
「先ほどの構え方では、私の心臓には到底当たらない。君に、銃は向いていないな」

じっと、下を向いたまま動かぬ小さな姿。ちっぽけな人間なんだと、かつて叫んだ彼は今度は空を仰がない。それでいい。こんな大人の背など切って捨ててくれ。降りしきる雨の中で願う。どうか、君だけは。
「もう、持つな」
未来の私のように、ならないでくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

「大佐」
「ああ、車を出してくれ」
「エドワード君は」
バタンと、支給された軍の車に乗り込む。一気に体を襲った脱力感に逆らえぬまま、固いイスに体重を預けた。ぼやける窓の外に、地面に座り込んだ赤が見える。雨を顔で受け止め空を見上げる姿に、聞こえない嘆きが聞こえた気がした。
「どうしますか」
「放っておけ、そのうち帰るだろう。弟の元へ」
彼は帰る。宿に残した弟を独りにはしない。そんな彼だからこそ、私は。
カタカタと細かな音が聞こえた。視線を降ろすと、彼から奪った凶器を握りしめている手が震えていた。久しぶりに銃を手にしたが、いまだにこれだ。脳裏に、銃口から逃れようと部屋の隅に逃げ、体を寄せ合う二人の男女が映る。青い瞳に、金色の髪。引き金を引いた瞬間の二人の顔を、忘れることなどできない。先にこの手で撃ち抜いたのは、男性の方だった。
瞼を降ろす。髪を一つに束ね、彼の傍に寄り添う少女が笑う。震えが大きくなる。明るい笑顔は生の象徴だ。右手を左手で抑えるが、小刻みな震えは左手にも伝染した。この震えが、彼にバレなくて本当によかったと思う。
悔いても悔いても尽きる事のない懺悔など、独りですればいい。そこに、あの子を巻き込んではならない。差し伸べる腕などない。私にあるのは、同じ人間をこの手で焼き尽くした、外道へと墜ちた醜い手だけだ。
雨音が、大きくなった。赤いコートは、まだその場にとどまったまま。

「風邪を、ひく……」

誰に聞かせるでもない言葉を、拾ってくれたのは副官の女性だった。

「だからこそ、謹慎を命じたのでしょう」

「……君は、私を買いかぶりすぎだ」

「そうでしょうか」

ふっと、笑んだ気配、いつものように釣られるように口角を上げようとするも、失敗した。雨をはじく窓に、色のない顔をひきつらせた、無表情の男が映っていた。

「―――未来に」
「え?」
「未来に、希望を持つことは、愚かなことだろうか」
ざあざあと窓にたたきつける窓を見つめる。赤いコートがふらりと立ち上がるのが、霞んだガラス越しに見えた。
「……いい。独り言だ」
雨の霧の中に、赤いコートが溶け込んでゆく。見えなくなる、だんだんと。眩しかった赤と金色の太陽が
暗がりに霞んでゆく。

「そうですね」
きっぱりとした声。視線を窓の外からはずすことはせず、耳を傾ける。
「愚かとは思いませんが、私たちが未来に希望を持つのは傲慢というものです」
運転席にいる女性は淡々とした声は、しかし淀みなかった。彼女には見えているのだろうか。フロントガラス越しに見える、ざあざあと降りしきる雨。そこに蠢く、奪ってきた命がの欠片が。

「でも、願わずにはいられません。私が愚かな人間ですから……私も、貴方も、そして、―――あの子も」
小さな赤が、ふっと、闇に溶けた。
「お気になさらず、独り言です」

「……いや」
コツリと、窓に頭を乗せる。

「いい、君の言う通りだ」

人間であるからこそ、願わずにはいられない、彼と、彼の大切な者が未来に向かって歩いて行けるようにと。どれほど傷を負ってもいい、道を、造り続けていけたらと。

「……出してくれ」

一瞬の沈黙ののち、アクセルがぐっと踏まれた。進んでゆく車体。焦がれた光は、もう見えない。

 

はやくやめばいいと望んだ雨は、この日、一晩中振り続けた。

​一期設定です。

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