「今、動いたぞ……」
恐る恐る、呟いた男を見下ろす。ふっくりと膨らんだ腹部に手をそえこちらを見上げる男の姿は、どこか子供のようでこそばゆい。
「動いたな」
「動いたぞ」
「まぬけ面」
照れ隠しも含めた精一杯の皮肉にも、男は動じない。というか、聞こえていないようだ。
この世に降りてきた天使の羽にでも触れるように、興味深く、しかし壊れ物を触るように腹部に触れ、見つめてくる。穴が開きそうだ。
くすぐったさがとてつもなくて、あまり見るな、と言ってやりたかったが喉で飲み込む。
いつもは冷静に部下に指示を下し、指揮官としても申し分ない彼が子供のように目を見開いている姿が、新鮮だった。
「実感が、わかなかったんだ」
まろい腹部に頬をそえてくる大人。ここから見えるつむじも、新鮮だ。
「実感?」
「ああ、妊娠しているのは君だし、この子をここに宿しているのも君だ。だから、膨らんでいくここを見ても、あまり実感が。怒るかい?」
「いんや?ただでさえ男が妊娠するだなんて面白可笑しいことだったしな、そんなもんだろ」
「ああ」
ふっと頬をほころばせた大人。あの時の衝撃を噛み締めているらしい。でも、それは自分も同じだ。
なんだか体調が悪くて酸っぱいものが食べたくなって、嘔吐の連続。あれだけ中に出したんだから妊娠しててもおかしくないな、なんて冗談めかした男に笑われて、クソ野郎と悪態をつきながら、心配だからと一緒についてきてくれた病院。
妊娠してます。異次元の出来事に、医者も困惑していた。でも一番驚愕していたのは――。
「いるんだな、ここに」
ほかでもない、自分の恋人、もとい、夫だ。
『え?』
『おめでとうございます、4か月です』
『え?』
『妊娠しています』
『おいてめえこのヤブ医者!ふざけてんじゃ…!』
『動かないでください!子供に触りますよ!』
老体に鞭をうち、鋭い眼差しで一括してきた医者に驚いた。その瞳に冗談や揶揄は一切ない。
あるとしたら、困惑だ。え、マジ?え?なに?妊娠?え?ぐるぐると駆け巡った思考は、存外はやく正常値に戻った。
『人類の神秘に立ち合えて光栄に思っています』
と、本気なんだか怯えているのかイライラしているのかわからない様子の医者に、さすがのエドワードもマジだ、と身なりをただした。
けれども、病名発表として部屋に呼ばれエドワードと共に驚愕の大発表を聞いていた男は。
『──大佐?』
面白いぐらいに口をかぱりとあけたまま、硬直していた。
「……ははっ」
「なんだ、急に」
「いや、あんときのアンタ思い出してさ」
「しょうがないじゃないか、誰だって驚くだろう」
「まあね、でも、さすがにあんなに挙動不審になるとは。アンタの部下にはみせらんねえよな」
「君はよく冷静だったな」
「そりゃ、母親になったんだし?」
「う……」
あの時の夫は、酷いものだった。何を話しかけても聞こえていないのか、医者に謎の妊娠メカニズムを説明されている時も対応をする声が上ずって。
普段、大きな事態が起こった時にはあんなに頼りになる大人の男だというのに。ちょっと冷静に話し合ってください、とあきれた医者に二人きりにされた時、夫は座りこんだ。それはもう、へなへなと。
それだけでもみっともないというのに、よりにもよってその後の言葉が傑作だった。
「『だ、出しすぎた…!』」
「やめてくれ」
「ははっロイ、よりにもよって『出しすぎた!』って……ははっ」
「混乱していたんだ」
子供のようにエドワードを見上げたまま、頭をかかえて。あれがこの国を担う国軍大佐だとは、誰も信じまい。
「オレが女だったら最低の言葉だぞ」
「だから、すまなかったと……」
あの時の夫の顔は一生忘れることはできないだろう。混乱したまま、置き去りにされたような泣きそうな顔で。ひくひくと痙攣する口角。あれでは、どちらが子供かわかったもんじゃない。病院にいくまでは『妙な病気でなければ、今夜も愛し合えるね?』『沢山注いであげたいな、ここに』なんてキザったらしくエドワードの腹を艶っぽく撫でていた男が。
みっともないガキみたいに。右手と右足が同時に出る人間なんて初めて見た。
まあひとしきり混乱状態が終わった後、土下座する勢いで産んでくれ!!と頼んできた男に速攻で頷いたのだが。
「許してやるから、もっとしっかりしろって」
「しているつもりなんだが」
「どこが」
妊娠が発覚してからというもの、過保護になった夫は、それはもうすさまじかった。
周りの目も気にしないで、エドワードに付きっきりで。歩くな走るなと些細なことでも騒ぎ立てて。
どこを歩くにもお姫様抱っこをされそうになった時は思い切りひっぱたいてしまった。本人は大まじめにやっているのだから手におえない。
さらには、エドワードが少しでも体調が悪くなるとすぐにわたわたするし、弟でさえすぐに立ち直ったというのに。
おっかなびっくりの夫婦生活で、妊娠生活。それも、少し慣れてきた。
朝目覚めれば、傍にロイがいて、お腹に優しく触れている。
「もっと、父親らしくなれるよう頑張るから」
「本当だな」
「本当だとも、だから見捨てないでくれ」
「どうしようかな……おっ、また動いた」
「お、おお…!」
盛大にびくついた夫が、狼狽える。どうしたいいのか宙に浮いた手。それがやっぱり面白くて、エドワードは子供みたいな大人の頭を撫ぜた。
陣痛が始まったら、この男は卒倒するのではないだろうか。でも、それもまた見ものだろう。完全に遊ばれている風な大人は少しだけ悔しそうにエドワードを見上げた。赤らんだ顔にまた吹きだしてしまう。
「頑張ってくれよ、パパ。見捨てねえから」
にっこりとほほ笑む。
「……任せたまえ」
愛おし気に腹部にキスを落とされて、少しだけお腹の子に嫉妬してしまったのはエドワードだけの秘密だ。