
「で、散々大佐から逃げ回った挙句やっと会った感想は?ついに告白されたか、好きだって」
想像もしていなかった台詞が耳に飛び込んできてエドワードは弾けるように顔をあげた。相変わらず。目の前の軍人は飄々としたままだ。
「え、え、なんで」
「図星かあ」
「なんで、少尉」
「いやいや、俺以外全員知ってるからな。大佐が大将に惚れてるのなんて。なのに大佐、頑張って父親らしく振舞ってたからな。大将は大将で甘え方が息子のそれだし。まあいつかは拗れるだろうなって予測できてたっつーか」
「……なんで言ってくれなかったんだよ!」
さらりと爆弾発言を落としてきたハボックにエドワードは詰め寄った。が、ハボックに衝動をさらりと受け流される。つんと突かれた額を抑える。
「だって大将知りたがってなかっただろ、大佐の気持ち。大佐を親父さん代わりにしてたじゃん」
唖然とした。まさか他でもない他人に気づかれていただなんて。自分だってついさっき気がついたばかりだというのに。前にハボックに大佐はオレの父さんだからさと語ったことがあった。もしかしてその時からずっと知っていたのだろうか、自分のこの卑怯な想いを。苦笑を浮かべエドワードの話を頷きながら聞いてくれていたのは、もしかしなくともそれが理由だったのか。
「あ、なんかまた深みにはまってんな?落ち着けって。大将は頭いいクセにいろいろ拗らせてそうだもんなあ、で、どうした?経験豊富な俺に話してみるか」
よいしょ、と手にしていた書類を低い壁に置き、話を聞いてくれる体制に入ったハボックの瞳は柔らかかった。気が付けばエドワードは吸い込まれるように、ぽつぽつとこれまであった出来事を話していた。父親になると約束し、その証に指切りをしたこと。ずっと父親として振舞っていてくれたこと。ずっと息子でいられていたこと──今日までは。
「なーるほど、大佐やべえ女とヤッちまったなあ。本当に金髪なら誰でもよかったっつーか、相当煮詰まってたっぽいな」
あの人がそこまで振り回されるなんて大将やるな、なんて言われても、今のエドワードに気の利いた返答ができるはずもなかった。ハボックの台詞で本当にロイにとって自分はそういった対象だったのだと思い知るだけだ。
「で、大将は何悩んでるって?」
「……嘘、だったんだ。オレの父さんになってくれるっていうのも、全部。大佐がそういったんだ。オレを」
「騙すために?」
ぐっと唇を引き結ぶ。違う、本当はエドワードだってわかってる。3年前に話があると呼び出された時、ロイが父親になりたいと提案してきたのは十中八九エドワードが原因だろう。エドワードが、自分に向けられる肉欲に激しい嫌悪感を抱いていたから。本当は、ロイはあの時エドワードに好きだと告白するつもりだったのかもしれない。エドワードだってこの3年間ロイに自分の理想を押し付けた。ハボックが拗らせていると言ったのもその通りだ。だが、エドワードの父親になりたいと先に言い出したのは他の誰でもないロイ自身だ。
「でも最初から父親になる気なんてなかったんだ。オレは、裏切られた」
「裏切った、ねえ」
ため息のように、ふうと、いつのまにか取り出していた煙草をハボックはふかした。
「最初は、たしかに嘘だったかもな」
上へ上へと昇って行く煙をエドワードは見つめた。青い空だった。ロイの軍服みたいに。それを脱いで私服でくつろぐ大佐の背に背を預け、一緒に本を読むのが好きだった。無理に会話をしようともせず、静かに流れる時間は気心しれた家族のようで。
「でも、嘘をついた理由はお前のためだろ。自分の欲よりお前を守りたいって大佐は判断したんじゃねえの」
うとうとと睡魔に負けそうになれば、そのまま苦笑したロイに抱えあげられて体が浮いてベッドに寝かされたことだってある。普段はできなくとも寝ぼけた状態であればどんな甘え方だってできた。おやすみと、優しく頭を撫でてくれた大きな手を覚えている。
「そ、んなの」
「つうか、父親と息子つったってどうせ擬似だろ?だったらそのまま恋人になっちまえばいいんじゃねえの?」
「そんな簡単な話じゃねえよ」
何を言い出すのかとエドワードは低く唸った。そんな生半可な関係じゃないのだ、エドワードとロイは。そんな簡単に事がうまくいくのであれば最初からこんなことにはなっていない。
「なんで」
けれどもエドワードの悩みを軽快に追い抜くように、とても自然なハボックの声に拍子抜けした。それは道理のわからぬ子どもを諭すようでもなく、純粋な疑問を投げかけているような台詞だった。
「なんで、って」
言葉に詰まり心の中で自問する。なんでだろう。
「そこで答えられないってところなんだけどな」
「どういう、意味」
「大将はここぞという時にヘタレだって話。どこぞの大佐殿とそっくりだ、似た者同士なんだろうな」
「そ、」
「なあ、大将」
畳みかけるようなそれとは裏腹に、ハボックの声色はとても静かだった。
「大佐を、気持ち悪いと思ったか?」
「え?」
「別の質問。大佐は、大将が見てきた最低な大人たちと同じか」
エドワードが叩きのめしてきた低俗な大人たちを思い返す。触らせてくれだの、舐めさせてくれだの、愛人にならないかだの、最悪な台詞をばかりを吐き捨て体を撫でまわしてきた大人たちだ。そして挙句の果てには薬を盛られて、服を脱がされた。まさかそんなことまでされるとは思っていなかったから相当焦った。アルフォンスが駆けつけてこなかったらどうなっていたか。物のように性的に搾取されるおぞましさ。もちろん盛られた薬のせいもあっただろうが、底冷えするような悪寒と吐きそうになるほどの気持ち悪さのせいでまともに動くこともできなかった。そんな恐怖を、気持ち悪さを、ロイから感じたことはあっただろうか。
『君の恋人に、なりたい……』
切ない響きにショックを覚えた。哀しくもあった、けれども嫌悪感なんてなかった。気持ち悪くもなかった。これまで相手にしてきた大人たちとロイは違う。比べるまでもない。
「大佐は、お前に不埒な行為を働いたか?権力でどうこうすることだってできたはずだ。でも大佐はそうしたか?」
していない。エドワードに不埒な行為をしたいとは言っていたが、それはエドワードが詰問したからであってされたことなど今までで一度もない。エドワードの寝顔を見て堪えきれず、慰めるほどだったというのに。ロイはこの3年間エドワードにはそんな気配を一切見せずに、全てを飲み込んで接してくれていた。エドワードが望む父親像を、顔に張り付けて。
「確かに、お前のこと好きだったろうよ。もちろん恋愛的な意味でな。でもそれだけじゃないと思うぜ。大佐、アルのことだって大切にしてただろ」
そうだ、ロイは弟も大事にしてくれた。アルの鎧を磨くのだって手伝ってくれた。オイルまみれになってアルも交えて3人で笑ったことだってある。寝たふりをしたオレを横目に、寝ることができないアルの話相手にすらなってくれていた。
「お前はあれも打算だったって思うのか。お前を落とすための」
「思わない」
きっぱりとした声に、自分でも驚いた。だがこれがエドワードの本心だった。
「思わない、思わねえよ」
ロイのアルを見あげる瞳は、確かにアルを慈しんでいた。慮っていた、心配していた。エドワードの弟だからだろうか。いや違う。きっとロイはその通りだと認めるのだろうが、ロイだからだ。ロイ・マスタングという男が、そういう人間だからだ。
『いつか丸め込んでヤッてやろうとかそんなこと思ってたんだろ!』
違う。くしゃりと顔を潰す。彼はそんな人間じゃない。今日まで関わってきたロイは、エドワードの父親である以上に優しい人間だった。何かあれば守ってくれた。馬鹿な行動を起こせば冷静に叱ってくれた。あんな酷い言葉を吐き捨てても、ロイはエドワードに対して怒鳴りも、殴りつけもしない男だった。軍人として上を目指す一方で、エドワードやエドワードの周囲を大事にしてくれていた。だから、エドワードは道を違えずにここまでこれた。彼がいたから。
「なんの落ち度もない子どもに、望んでない情報を与えることは大人がすることじゃねえよ。そんなのはただのエゴだ。大佐は、エゴをお前に押し付けたか?」
頑張って抑え込んでたように見えたけどな、大将のために。苦々しく言い放ったハボックは、エドワードに怒りをぶちまけた女性に対して明確な怒りを持っているようだった。ロイの気持ちを知ったのはあの女性の一言が原因だった。『エドワード、って君でしょ?』と、せせら笑いを含めて言い放った女性は悪意に満ちていた。なんであんな人ととは思うが、ハボックの言う通りそんな女性にすら手を出してしまうほどロイが追い詰められていたとすれば。エドワードが、恋しかったのだとすれば。
拳を握りしめる。ロイは、エドワードに悟らせようとはしなかった。この3年間一度だって。本当ならばエドワードが詰め寄った時素知らぬ顔ではぐらかすことだってできたはずだ。しかしロイはそれをしなかった。全てを馬鹿正直にエドワードに話した。
嘘をついた、 裏切った、約束を破った、すまなかった。
全ての台詞において一切弁解もしなかった。 二人の密やかな約束を壊したのはロイからではない。エドワードが故意に壊した。それをロイは真っ正直に受け入れただけだ。もしエドワードが約束の綻びを無理に広げようとしていなければ、彼は自分の想いをエドワードに吐露することもなかっただろう。沈黙を貫いていたはずだ。
他でもないエドワードのために。エドワードを傷つけないために。エドワードの安寧を、守るために。
触るなとエドワードが拒んだ時、無理やりにでも抑え込むのでもなく、君の望むようにと彼は言った。悪いのは自分だ、だから君は悪くない、自分こそが悪だと、恨んでいいのだとロイは言った。きっとエドワードが望むとおりに全てを終わらせるつもりだったのだ。エドワードに嫌われる覚悟で。もう二度と笑顔を向けては貰えないだろうと理解していながら。
『君の恋人に、なりたい……』
あの台詞を口にするのに、どれほど勇気がいったのだろうか。父親として君を守るという約束を、エドワードが暴くまで守ろうとしてくれた──それを優しさではなくてなんと呼ぶのか。エドワードはこんなにも、ロイに慈しまれていたのに。
「少、尉」
「ん?」
「少尉、オレさ」
それ以上言葉が続かなかったが、ぽんと頭に乗せられた手に続きを促される。
「わかんねえんだ。大佐を、どう思ってんのか、自分でもわかんねえ。酷いこともいっちまったし、ずっと父親だと思ってたから」
ロイよりも大きな手にわしわしと頭を撫でられても、やあ、と出合い頭に頭を撫でてくれたロイの姿を思い出し目の奥が痺れてきた。本当に優しかった。だけど。
「大佐に、大佐と同じ気持ちを返せるのか、が、わかんない」
「同じ気持ち、か」
「そりゃ大佐に恋人がいるって知った時、もやっとしたけど、これは」
「もやっとしたね。じゃ、てっとりばやく会ってみればいい。たぶん今の気持ちのまま会えば、全部わかると思うぜ」
「全部……?」
にっとハボックが笑った。
「ああ。今日まで大佐の気持ちから逃げてたってことにも気づかなかったんだろ?だったら、まだ気づいてない感情があるかもしんねえだろ」
大佐はオレの、父さんだからさ。って大将が話してた時の顔を、大将自身に見せられたら一発なんだけどな。煙草を咥えながらもごもごと呟いたハボックの台詞を、エドワードは正確に聞き取れなかった。
「え?今なんて」
「なーんでも。こういうのは自分で気づかねえとダメだからな。とりあえず、いってこい」
優しく頭を撫でてくれていた手が、ぱあんと背中にぶち当てられてエドワードはつんのめった。
「いって!」
「大佐の気持ちも、大将自身の気持ちも、全部わかってスッキリしてこいよ」
ほら、と背中をぐいぐいと押される。ハボックの青い瞳からは、上官であるロイへの深い想いが見て取れた。尊敬しているのだろう。一歩進んでみる。しっかり歩けた。カフェから東方司令部まで駆け出した時と、気持ちの持ちようが全く違かった。
「少尉」
「ん?」
「あんがと」
ふっと笑ったハボックが手を振ったのを確かめて、エドワードは司令部の玄関へと走り出した。
「……見守るつもりだったんですけどね。どっちも不器用なんでお手伝いしちゃいましたけど」
「それが、貴方のいいところだと思うわ」
ふっと背後から近づいてきた金髪の女性に、ハボックは苦笑した。
「いつからいたんスか」
「少尉がエドワード君に話しかけた時からかしら」
「最初からじゃないですか!」
「でも、私が話しかけるまでもなかったみたいだから」
言外に褒められたのだろうかと、ハボックが顔を向ければホークアイは目じりをほころばせていた。目線の先には赤いコートの背中。
「ほんと、さっさと落ち着いてくれないと困りますよね」
「そうね、こう何度も外の仕事を命じられると業務に支障がでるわ」
あの子どもを可愛がっているのは何もここの司令官だけではない。ハボックはもはや吸い殻となってしまった煙草の煙を、大きく吸い込んで吐き出した。ゆっくりと空を見上げる。
「あー、これで俺のお給金あがりませんかねえ、中尉」
「それは、エドワード君次第じゃないかしら」
「……空、青いっすねぇ」
***
執務室の扉の前でエドワードは大きく深呼吸をした。そして小さくノックをする。「入れ」と固いロイの声が返されドキリとした。少し低くて張りのある仕事用の声だ。けれども相手がエドワードであるとわかれば必ず仕事の手を止め、目尻を緩めて微笑んでくれた。
今回の旅は長かったじゃないか、おかえりと言ってくれた。エドワードの旅の出来事を頷きながら聞いてくれた。もう一度深呼吸をしてドアノブに手をかける。先ほどと同じ席にロイは座っていた。丁寧なノックに部下の一人だと思っているのだろうか、目線はあげない。真剣に積み上がった書類にサインをしている。
いつもロイは忙しそうだった。軍人としていつも軍務に追われているというのに、エドワードに対しては嫌な顔一つせず相手をしてくれていた。家に泊まりに行った時だって終わらない仕事を持ち帰っている日もあった。挙句の果てにはエドワードが寝落ちた後に机で仕事の続きをしていたこともある。
それなのにエドワードよりも早く起きて朝食も作って用意してくれていた。他人相手にここまでするだろうか。騙していつか性的に丸め込もうとしている相手にここまで丁寧に時間を割くだろうか。打算であったわけがない。そうであるならば適当な言葉で慰めたりすればいいだけだ。ロイはいつだって真剣に、できうる範囲で一生懸命、心を込めてエドワードに向き合ってくれていた。
「すまないがもう少しで終わる、追加分はそこに置いていてくれ」
今になって、どれだけ自分が大切にされていたのかがわかる。
もう遅いのだろうか。自分の勝手な都合で父親像を大佐に無理矢理押し付けていた。そんなエドワードに嫌な顔一つしなかった。エドワードに詰め寄られた時逃げずにエドワードは一つも悪くないとエドワードの精神を守ってくれた。それどころかエドワードを騙してきたという罪を自ら背負い、エドワードを騙してきた自分がとるべき道だと覚悟を決めた顔をしていた。エドワードの代わりに他の人間と関係を持ってしまうぐらい、エドワードが恋しくてたまらないくせに。
『悪いが、君の父親になる気はない』
淡々とした声色の奥には渋い苦みがあった。触れたいという欲求を抑え込んで約束を守ろうとしてくれていた優しい人をずっと傷つけてきた代償はとても、重い。親子の情ではないからなんだというのだ。嘘つきだなんてよくもそんな酷い言葉を言えたものだ。あれは嘘つきの約束なんかではない、彼なりの、とても優しい約束だったのに。エドワードはそれに気が付かなくて。
「どうした、はやくここに───」
ロイの言葉が途切れた。怪訝そうに顔をあげた彼と目があう。
「……鋼の」
先に声をかけるべきはエドワードの方だというのに、こんな時までロイはエドワードの気持ちを慮り憂う。
「どうして、戻って」
『どうせ笑ってたんだろ、オレがアンタにどんどん懐いていくの見ながら』
『いつか丸め込んで、ヤッてやろうと』
──ああ、どうしてあんなことを言ってしまったんだろうか。傷ついた顔を一瞬で押し殺して、約束を破ってすまなかったと心を込めてエドワードに背を向けてくれたあたたかい人だったのに。ロイの驚いている表情に、先ほどまでには感じられなかった感情の波が打ち寄せてくる。痛んだ目頭は既に限界に来ていた。しゃくりあげそうになる喉を抑え込む。
「鋼の、泣いているのか?」
「……泣いてねえ」
「だが」
突っ立ったままのエドワードにロイが席を立った。手にしていたペンなんて構っていられないとデスクに放り投げ、焦りに満ちた顔でエドワードに近づいてくる。
「大丈夫か、どこか」
いつものように、いやいつもよりも慌てて肩に触れてこようとするロイの手をぼうっと見つめる。嫌悪感なんて感じなかった。が、触れる直前ぴたりと彼の手が止まった。黒い視線が、エドワードの目線より下に落とされる。固まった指先が暫くうろうろと彷徨い、そのままぎこちなく下に落りていった。いつもだったら触ってくれるのに。子ども扱いすんな!と怒るふりをしても笑ってやめてくれないくせに。──と、そこまで考えてから、自分自身の言葉を思い出してしまった。
触るなと。そんな汚い手で触るなと、先に拒んだのはエドワードの方だ。
「……どうした、何か、あったのか?」
エドワードから数歩離れた距離でロイは立ち尽くした。ぶらりと垂れた両手をエドワードに伸ばさぬようきつく戒めている。これが、今のロイとの距離。エドワードが作り出してしまった距離。
「いや、何かしたのは私だな」
そんな風に、自分自身を嘲笑わないでほしい。
「鋼の、どうした。私は君を傷つけたが、君が転属願いを届け出ない限り、君の上司であり君の後見人でもある。先ほども言った通り、これまで通り援助は惜しまない。苦しいことがあれば直ぐに相談すればいい……もちろん私と話すのが嫌なのであれば、私の部下を介してでも」
淡々と、敢えて事務的な言葉をかけてくれる。全てはエドワードが気負わないようにするためだ。そうやっていつもいつもエドワードのことばかり。外に出ている部下の一人を呼ぼうとしたのか、ロイは再び背を向けた。広くて大きな背だ。朝起きた時寒くて近くにあったこの背にぺたりと両手を添えてみたこともあった。眠りにおちる寸前に見えたロイの緩く笑んだ口元が好きだった。思い出す記憶はどれも優しくて、恐ろしくて気持ちが悪くて嫌なことなど一つもなかった。
「また、大佐に相談してもいいのか」
少しだけ此方を向いた横顔から表情はうかがえない。
「ああ。できうる限りの手助けはすると」
君が嫌ではなければと、後に続いた言葉も平坦だった。
「じゃあ」
どこまでも、自分のことは後回しでエドワードを最優先させるロイに溢れてくるものがあった。ロイに父親になりたいと言われた時と似ているようで、また少し違う感情。なんだろうかこれは、自分でもわからない。けれどもはやく、いつものようにその大きな手で包み込んでほしいと思った。
「触れてくれ……」
ぴたりと動きを止め、怪訝そうな顔をした大人に数歩近づく。
「触れて、くれ」
酷いことを言ってしまった。ロイの手は、全然汚れてなんかいないのに。
「大佐に触って、ほしい、前みたいに」
通じるだろうか、どうか通じてほしい。これが恋愛感情だとか、ただの親愛だとか、そんな細かいことはわからない。ただ、目の前の大人に対する大きな感情があることだけは確かだ。すんと鼻をすすり、見上げる。何とも言えない表情が近くにあった。余計に胸が苦しくなる。ロイが困惑したように眉を下げた。動く気配のない大人相手に、自分から手を伸ばし青い袖を掴んでみた。子どものような自分の仕草に、この人の前だとどうしても幼くなっちまう、と内心でごちる。
目に見えて緊張した大きな体に、ゆっくりと手を添える。垂れさがっている手のひらを掴み、自らの頬にぴたりとくっつけた。ロイが息を飲んだが、もうエドワードにとってはそんなのどうでもよかった。頬から伝わる熱に心の底から安堵して、しっかりと頬を寄せる。ほうっと息が零れた。
エドワードの行動に驚いたのか口を半開きにしていたロイが、吸い寄せられるように片方の手をあげた。今度は自分からは寄らない。そうしなくとももう一つの手の平は直ぐにエドワードの頬に添えられた。
「な」
黒い瞳いっぱいにエドワードの顔が映ったのを確認して、そこで初めてまともに息が吸えた。
「泣かないで、くれ」
彼らしくない台詞だった。いつものキザったらしい雰囲気は鳴りを潜め、どこか慌てた、困り果てている口調にエドワードはだから泣いてねえと訂正を入れる代わりにロイの胸に飛び込んでみた。彼にはエドワードが泣いているように見えているのだろうが、それならそれでいい。ドン、と硬い胸に頭を押し付けた拍子にいつもならびくともしない大きな体が少しだけよろけた。そこにロイの混乱が垣間見えて、鼻を鳴らしながら少しだけ笑ってしまった。
「鋼、の」
「なんだよ」
「ダメだ、こんなことは」
「なんで」
「君に、嫌な気分をさせたくないんだ」
鼻腔いっぱいに広がっている大人の匂いを吸い込む。
「大佐、オレさ」
「すまなかった」
きっぱりと言葉を遮られてここで初めてエドワードは気づいた。彼の口調が淡々としているのは、ロイも怖がっているからだ。エドワードの返答が恐ろしくて、聞きたくないのだろう。なんだと肩の力が抜ける。いい大人と子どもが、二人して相手に怯えていただけじゃないか。
「君を騙した。 君に嫌われるのが怖くて気持ちを隠した」
「違う大佐、それは」
「聞いてくれ、父親になりたいといったのは、君に好きになってもらいたい一心だったんだ。だから君を騙した。君の父親なんて、なれる権利がない。私は身勝手で、意地汚い人間だ。君が好きなくせに、君との約束を破ってきた。子どもにこんな感情を抱く大人は気持ち悪いだろう。この気持ちが、君を苦しめ、て」
やっと、ロイの声が喉に詰まった。先ほどまでの平坦さがかき消える。顔をあげれば、今にも泣きそうなほど顔を歪めた大人がそこにはいた。
「すまなかった、恐ろしい想いをさせて、しまって」
ロイがエドワードの頬から手を離し、指先だけで柔らかく額を撫でてきた。エドワードを見つめる真っすぐな瞳に緊張する。そんな顔をされてしまったら、彼がしようとしていることがわかってしまう。
「戻ってきてくれて、有難う。君はこんな時でも優しいな」
静かに、大佐の手が離れていく。目線だけで追いかける。
「もう帰りさない、私は大丈夫だから」
わかる。彼はエドワードを諦めようとしている───違う、してほしいことはそれじゃない。
「大佐の傍にいて、怖い想いなんざしたことねえよ!」
引きかけた手を強く掴んで声を荒げる。再び掴まれた腕にロイは一瞬だけ目を見張ったが、諦めたように苦笑した。
「無理をしなくていい。気持ち悪いだろう、私は──」
「無理なんかしてねえよ!無理だったら、戻ってきてない!オレは、オレは!」
これはエドワードがまいた種だ。どうすればいい。どう言えば通じる。
酷いことを言ってごめんなさい?
気持ち悪くなんてない、裏切られてなんかない?
違う、そんな言葉じゃ通じない。彼ともう一度話がしたいとここに戻ってきたのは、哀れみでも優しさでもなんでもない。自分の想いを伝えなければ。
「約束、守ってくれてたじゃねえか、大佐は……!」
指切りげんまんなどという子ども騙しな約束を3年間も。引き寄せた手のひらを握る。どうしてこんなに温かい手を、汚いだなんて思ったんだろう。
「オレが言わなきゃ、ずっと、守ってくれるつもりだったんだろ?」
「それはわからない、いつか君を襲っていたかもしれない」
「大佐はそんな人間じゃない」
「買い被り過ぎだ。きっと私はいつか、君を」
「それは3年間アンタの傍にいたオレが、一番よくわかってる!」
「違う。君は、恋愛というものをわかっていない。いっただろう?私は君が好きなんだ。君を抱きしめて服を剝いて、その下にある君の裸体を想像して、君の肌にキスをして愛撫をして、君の体を手に入れたいと思っていたんだ。あわよくば」
もうわかった。敢えて赤裸々に気持ちを吐露する理由は、エドワードを遠ざけるためだ。ぶちりと、頭の片隅で何かが弾けた。そんなことを言いながら、二人しかいないこの執務室でエドワードに乱暴を働いたり、手を出すそぶりさえ見せないくせに。
「──うるせえな!だったらなんだよ!!」
掴んでいた手を力の限り引き寄せて、勢いをつけてロイの胸倉を掴みあげる。こうするのは二度目だが、違うのは気持ちだ。渾身の力で詰め寄って彼をデスクに押し付けた。
「、鋼の」
「オレのこと好きだったら、なんだよ!抱きたい、とか、思うからなんなんだよ!!そんなの当たり前だろ!好きな奴に触れたいって思うことの、何が恥だっていうんだ!!」
「そ」
「わかってるよ!アンタの気持ちを最初に否定したのはオレだ!わかってんだよ、でも」
「それは私が悪いんだ」
「違う、悪いとか悪くないの問題じゃない」
「いっただろう、君の寝顔を見ながら、私は」
「だったらなんだよ、オレは全然気づかなかった、だからいい!」
「私は、君の代わりを求めて代用品を探した!」
「オレだって代用品にしてた!アンタを──自分の父親の代わりにしてた!」
ロイの大声に負けぬ力で感情を叩きつければ、ひゅっとロイが息を飲んだ。エドワードがロイを自分勝手に身代わりにしていたことに彼はやはり気づいていた。気づいた上で合わせてくれていたのだ。
「理想の父親像を押し付けた!」
「鋼の、それは違う」
「違くねえよ!何も、違くねえだろ……!大佐が約束破ったって謝るなら、オレだって、大佐に謝らなくちゃなんねえこと、山ほどある!だからこれは、どっちが悪いとかじゃないんだ!そうじゃなくて、オレは、オレが言いたいのは──」
もう片方の手でも、ロイの胸倉を掴んで引き寄せる。長い睫毛に整った顔、そして声を張り上げたことで少しだけ赤らんだロイの白い肌、自分で傍に寄ったというのにロイの顔があまりにも間近にあって一瞬呆けてしまった。だからだったのか、何も考えずに口に出した言葉は頭に浮かんですらいなかった台詞だった。
「アンタに好きだって、恋人になりたいって言って貰えて、オレは……嬉しかったんだよ!!」
だから、叫んでみてから、自分でとても驚いてしまった。
「……あ?」
勢いをつけて吐き出した台詞をゆっくりと反芻する。嬉しかった。何度かそれを繰り返しながら、追い討ちをかけるようにぽつぽつと喉まで溢れて来た台詞を唖然とした気持ちで口に乗せる。ロイもエドワードの突然の告白に、これまで以上に驚いた顔をしていた。
「裏切、られた、だとか。哀しい、とか、寂しいとか、そんなんばっかかき集めて、気持ちに蓋して、見ないようにしてた……自分で隠してたんだ、オレは、オレはさ、大佐」
ガツンと、自分自身の隠された思考に衝撃を受けたのは二度目だ。性的に見られていた、裏切られたと、傷ついたのも事実。怒りを覚えたのも事実。二人の関係が変わってしまうような気がして恐ろしかったのも事実。だがそれは感情の一端であって大部分じゃない。父親の不在を寂しく思っているという事実を突きつけられたことよりももっと深い何かだ。真実はその奥にあったのだ。ついさっき、単純な話ではないとハボックに言い訳していたけれどいざ蓋を開けてみれば単純な話だった。しかも酷く明快だ。どうして今まで気が付かなかったのだろうか。
そうだ。エドワードはロイから恋情を向けられていたことを知ったあの時。
『まだ気づいてない感情があるかもしれないだろ』
──本当にそうだ、ハボック少尉。馬鹿はオレだ。
「嬉し、かったんだ」
嬉しいという気持ちを理解できないほど驚いてしまっていたから、今まで気づけなかったけど。
「大佐、なんだオレ、嬉しかったんだ……」
確かな感情にぶち当たって心が喜びに満たされた。嬉しくてつい、顔がほころんでいく。
「酷いこと言って、気づかなくてごめん。オレ、アンタに気持ちを伝えて貰えて、嬉しい……凄く嬉しかった」
エドワードの独り言のような独白を聞いていたロイは、エドワードの言葉を噛みしめるように飲み込んで、エドワードと同じく呆けたような面持ちでエドワードの顔を覗き込んできた。
「それは、本当か」
「嘘、だと思うか?」
「わからない、な」
「だ、だよな。オレも、今気づいてびっくりしたっていうか」
ロイの襟首をつかんでいた手を外し、ゆっくりとその下の、ロイの胸元に手を添えてみる。とくんとくんと響く心音にほっとして、エドワードはやっと頷くことができた。嬉しい。ぎこちなかった笑みが自然になる。そんなエドワードの安堵の表情にロイも今の言葉が本当であると確信したらしかった。
「そ、うか……」
ずるずると床に座り込んだロイにつられて、エドワードもそれに続く。二人して床に座り込んだ。
「嬉しかった、か。そうか……それは」
ロイが自分の前髪をくしゃりと掴み、何度か細いため息をついた。肩が僅かだが震えている。それは喜びだろうか、それとも衝撃か。どちらにしたって、今のロイはエドワードよりも小さい子どもみたいだった。
「うん、嬉しかった。ちなみに大佐、オレ、これからもアンタの傍にいたいみたい」
「みたい、とは」
エドワードが背負っていた謝罪も罪悪感も、一瞬で全部どこかに消えてしまった。きっとロイもそうだろう。複雑そうに絡み合っていた答えのシンプルさに、エドワードは胸の奥がじんわりと温かくなっているのを感じていた。
「しょーがねえだろ、今気づいたんだから。自分の気持ちに」
「それは、本当か」
同じ言葉しか繰り返さないロイに、エドワードは眦を緩めた。
「本当だってば、嬉しかった。正直言うと、大佐を恋愛対象として見てるかって聞かれると答えられない。アンタと同じ気持ちを返せるかはわかんねえ……けど」
ロイはまだ顔を手のひらで覆っている。今、無性にその顔が見たいと思った。
「大佐の傍にいたい」
「傍にいても、平気なのか」
「うん」
「いやじゃないのか」
「いやじゃねえよ。だから傍にいてくれよ」
ふ、と。手のひらの中でロイがやっと笑った気がした。座り込んだロイの膝に手を添える。
「……耐えられるかな」
「何に?」
「君に手を出さないようにすることだ」
「これまで耐えてきたんだろ、頑張れよ」
「そうだな、頑張る……頑張ろう」
「なんか大佐、小さい子どもみたい」
そっと、これまでロイがしてくれていたように黒い髪を撫でてみる。こんなことをしたのは初めてだったが、固い感触に心地よさを覚えた。よしよしとあやすように、何度も短い髪を撫ぜる。
「君がお父さんで、私が息子のようだ」
「アンタといくつ年離れてると思ってんだよ、オレ生まれてねえし」
「そうだな」
「こうされんの、イヤじゃねえ?」
「ああ、もちろん」
「マジ?」
「ああ、マジだ」
「はは、お許しが出て安心した」
懐かしい台詞の掛け合いに、少しだけ吹き出してしまったのはエドワードの方だったが、見ればロイも喉を震わせている。あれだけ言い合いをしていたというのに、こうして二人して仕事場の床に座り込んで、バカみたいだ。
「なんだ、アンタも結構可愛い男だったんだな」
「キャラが変わってないか」
「うるせえなぁ、オレ今、なんだかすっごくアンタを守りたいって思ってんだから。あ、あと、殴って悪かった」
「大したことじゃない、掠めだだけだ。それに、右腕じゃなかったから腫れてない」
「あったり前だろ、こっちの手なんかで殴れるかよ」
「……君の、そういうところだ」
「は?」
意味のわからない返答に疑問を投げても、ロイは目線を伏せただけだった。そうは言うが、エドワードの手で叩いてしまった頬は僅かに赤くなってしまっている。反射的に振り払ってしまったとはいえ申し訳なさが募った。エドワードはするりとロイの髪から手を離した。
「大佐、指切りしねえ?」
「え?」
やっとロイがエドワードに視線を向けた。虚を突かれたような顔がやはり面白くて、ずいっと小指を差し出してみる。ロイが、エドワードの指とエドワードの顔を交互に見つめた。
「もっかいやり直そうぜ、父親と子どもって役職決めたりしないでさ」
もう一度ここから始めるっていう約束。そう言えば、眩しそうにロイが目を細めた。
「いいの、だろうか」
「いいよ」
ん、ともう一度指を振れば、ロイが指を伸ばしてきた。
「……君を、守りたいと思うよ」
差し出されたそれにゆっくりと小指を絡めてみる。指の長さと太さも、3年前に比べれば少しだけ成長した。身体は成長するのだから、心だってこれからも変わっていくことは出来るはずだ。
「約束だ、君に恋をしている人間として、君を守るよ」
そんな大真面目な顔で言わんでも、とむずむずする背にエドワードは照れてしまった。もっと直接的な台詞は言われているはずなのにどうしてか今の台詞が一番恥ずかしかった。
「おれも恋とかはまだわかんねえけど、傍にいるから。オレだって、アンタを守りたいって、思ってるし」
「指切りげんまんだな」
「な、なんか恥ずかしいな、やっぱり」
「君から言い出したことじゃないか」
今、エドワードはロイと同じ目線上にいた。あの時はロイがエドワードのために屈んでくれたが、今は座り込んだロイの目線に合うようにエドワードの方ががしゃがんでいる。そういうことができる年になった。
「大佐、アンタこれからもオレに恋してろよ。オレもう逃げねえから」
真っすぐにロイを見つめ、ぶんぶんと指を振る。ロイが眩しいものを見るかのように目を細めた。これからはロイの気持ちを理解した上で行動していかねばならないだろうが不思議と重くはなかった。それどころかどこか楽しい気分にすらなる。不思議な感覚だった。ロイに感じていた鬱屈した感情はもう綺麗さっぱりない。
「鋼の、どうしようか」
「なにが」
「嬉しくて、指を離すことができない」
「あのな……」
宣言通り、指切りが終わってもロイはエドワードの指を解放しなかった。振り払う気は毛頭起きなくてそのままにしていたのだが、触れた部分から浸透してくる熱い感覚に首を捻る。ロイの指が熱いわけではない。なんだろうかこの感触は。不快ではないし、それどころかもっと彼に触れていて欲しいとさえ──触れて、いたい?
「まだまだ謝らなければいけないことは、沢山あるのに」
エドワードは既に、絡めた指から目が離せなくなっていた。低くて、エドワードを包み込んでくれるような甘さを伴うその深い声に身体が引き寄せられる。なんだか首の後ろもむずむずしてきた。熱でも出てきたのだろうか。激しくなってきた心臓の音が耳に響いて煩い。今になって、ロイの足の間にちょこんと膝を抱え向かい合っている自分の姿が恥ずかしくなってきた。これではあまりにも、互いの体が近いような。
「君が、あまりにもいい男すぎて」
ロイが、絡めたエドワードの小指を口元に持っていこうとするのを、エドワードはただ眺めることしかできなかった。それどころか無意識にロイの誘導に合わせて自分から指を動かしてしまう始末だ。本当にどうしたのだろうか自分は、らしくない。
スローモーションのように、エドワードの小指が大佐の唇の引き寄せられる。そして。
ちゅ、と。小さな小さな音を立ててロイの薄い唇がエドワードの小指に吸い付いて、直ぐに離れた。その間、ものの数秒足らず。こんな軽い羽のようなキスなどエドワードだって見慣れている。挨拶にすらならない。それなのにどうしてか、眩しそうにエドワードを見つめるロイの熱っぽく濡れた瞳に、吸い込まれそうになる。
「また、惚れた」
どんと、拳で胸を叩かれたような衝撃だった。確かな鋭さは雷にも近かった。
掠れた甘い声が耳に届き脳内に浸透し、さらりと揺れたロイの髪が彼の白い頬を淡く染め上げ──ぶわりと、唇が触れた所から溶けてしまいそうな激しい何かに思考が真っ白になる。エドワードの中で膨らんだ何かが頭の中で弾けて、空の高いところまで飛んでいってしまいそうな衝撃だった。
「──っわぁ!」
思わず、ロイの手を振り払って万歳した。エドワードの奇行に驚いたロイと目が合う。
「……ど、どうした」
「え、は?うそ、うそうそ、え!?」
呂律が回らない。あ、あれ なんだ。心臓がばくばく脈打っている。しかもとてつもない早さだ。慌てて口づけられた小指を抑えるが熱が引かない。金属の手で冷やしているのにどうして。それどころか増しているような気がする。なぜだ。なんだこれは、なんで。
「……すまない、私はまた君に」
「違う!違う違うんだ!違う、ただ、なんか、なんかおかしくなって!」
「おかしい?」
彼の手を強く振り払ってしまったのは二度目だが、たぶん一度目とは違う顔をしていたのだろう。これは嫌悪で起こした行動ではないとロイの沈んだ瞳が純粋に心配の色になる。
「鋼の、顔が赤いぞ。どうした、熱でも」
「……ぎゃあっ」
困惑したまま手を伸ばしてきたロイの手から、エドワードはずざっと後ずさり尻もちをついてしまった。ロイはぽかんとしていたが、エドワードはそれどころじゃなかった。
「え、え、え」
たった今、この瞬間。エドワードはとある真実に気づいてしまったのだ。わたわたと自らロイから逃げているのに、彼の一挙一動から目が離せなかった。薄く開かれた唇から覗く舌に、喉の奥までがかっと熱くなってくる。ぶんぶんと頭を振る。
「ええ、大佐、え」
「鋼の、なんだ、落ち着……」
「わー!ダメだやめろ、ま、まってくれ!いまその顔で見つめないでくれ頼むから、やばいんだって!」
「は?」
やばい、とエドワードはさらに心の中で絶叫した。「また、惚れた」とロイに囁かれた瞬間、その台詞がエドワードの脳内、いや体のあちこちで暴れだしたのだ。自分を見つめるロイの視線に爆発した想いは、とんでもないものだった。間違えるはずはない。だって、ロイの瞳に映ったエドワードの瞳は、さっきのロイと同じ色をしていたからだ。今直ぐどこかに隠れたいという気持ちが先走って前髪で顔を覆う。それでも目線はロイを見つめてしまうから厄介だった。
『気づいてない感情があるかもしんねえだろ』
それは、告白されたことの喜びだとばかり思っていた。そう思い込んでいた。しかしこれはもしかしなくても、いや間違いなく。
『大佐はオレの、父さんだからさ。って大将が話してた時の顔を、大将自身に見せられたら一発なんだけどな』
そういえば、ハボック少尉はそんなことを言ってはいなかっただろうか。今ならわかる。きっとエドワードが今している表情は、ハボック少尉や中尉にロイのことを話していた時の自分とまったく同じであるに違いない。
「マジ、かよ」
「鋼の、どうしたんだ本当に」
「どうしたもこうも」
「君、泣いてるのか」
「だから、泣いてっ……!」
心配そうに首を傾げた大人の姿に、エドワードはたまらず口を押さえた。泣いてない、こんなことで泣くわけがない。けれども視界は勝手に潤んでくる。自分の口から零れる吐息すら熱い気がする。自覚してしまえば全てが変わった。今自分を見つめるロイの瞳に、本当にエドワードのことが好きなのだと自覚して体全部が震えた。普段と変わりはないはずなのに、ロイの顔がいつも以上に輝いて見える。光に濡れた黒い髪は夜の月のようにさらさらで、白い肌が透明で、切れ長の目が綺麗で、無骨ではあるが軍人にしては細い指先が美しく見えて。触りたいのに触れない。この指に何度も頭を撫でられて、頬に触れられていただなんて信じられない。前にロイの家で階段から落ちそうになった時、強い眼差しで抱き留められたことすらも思い出して耳まで熱くなる。あの時の胸の厚みを、男らしい匂いを、汗ばんだ逞しい肢体を、思い出すだけで足から崩れてしまいそうだった。
どうして今まで、こんな壮絶な男となんら恥ずかしがることなく同じベッドで寝こけていられたのか。ちかちかと、彼をまとう執務室の埃すらも光って見える。ここまでくればもう自覚するしかなかった。 一体いつから、もしや初めから?
ロイもエドワードを見つめている時こんな気持ちだったのだろうか。胸が苦しくってドキドキして、目の前の人のこと以外考えられなくなって。
エドワードはごきゅっと喉を鳴らして、口を覆った指の隙間からか細い声でロイに告げた。足の先を強く丸めながら。
「ご、めん大佐、オレも大佐に嘘、ついてた、かも」
本当に馬鹿だ。嘘つきはロイだけじゃなかった。指切りげんまん、嘘ついたら針を千本飲ます。針を千本飲むべきなのは、ロイではなく他でもない自分だった。
ああどうしよう。泣いてないけど、なんだか今ものすごく、涙が出そうだ。
オレ、大佐に恋してたみたい。
ウソツキティヤム
【ティヤム/TIÁM】はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。